ほとんど一か月ぶりの更新と相成りました、ええ。
2月はちょっとやることがあってほとんど劇場に足を運べず、おかげで何本か映画を見逃してしまいました。しかし、これは逃すまいと観てきましたよ、パンフがない映画を。
劇場でパンフの販売がなかったのは「海底47m」くらいで、あれはまあ理由はわかるのですがシャマラン映画でなぜ?
それはともかく、相変わらず変なんだけど面白い映画を撮る人ではある。カメラワークも今回は特に独特だし(これはシャマランというより撮影のマイケル・ジオラキスの仕事かな)。
この映画のラストは
???「世界が暴かれた!?」
です。はい。
いや、今更あんなアニメの話をしようとは思わないんですが(放送中はその不出来さを肴に楽しんでいましたが)、「ミスターガラス」のラストはそういうことであるのではないかと。
ともすると、あのラスト、三人が手をつないで世界が暴かれる瞬間(劇中では、ある人物が叔父通り世界を隠蔽しようとしていたわけで)のシーンは、カメラがどんどん引いていくように観客のココロも離れていってポカーンとしてしまうかもしれない。
というか、自分も正直に言えば野暮だとは分かっていても「あの程度の動画の編集なんて今じゃアマチュアでもできることだろうし、いったいどれだけの人が彼ら「スーパーヒーロー」の存在を信じるのだろうか」と思わなくもない。
けれど、その疑問こそが「ミスターガラス」の問いかけている者でもある。
超常たる存在、ひいてはファンタジーを、それこそシャマラン本人的には自らに宿る世界を変える力を肯定し信じぬくことができるのか、と。
そういう意味では、シャマランの思想は「惑星のさみだれ」における東雲兄に近いと言えるかも。「(天才としての自分の才能の)絶対的工程」として。
「天才とは!!無限の肯定!!“ラッキーパンチを千回決めるすげー自分“の直感を!!
ありえねーと否定せずそれもアリだと千回肯定する者!!
直感を肯定するうちラッキーパンチを千回実現するすげー自分!!
それが天才!!技なんてオマケ!!おれすげーの瞬間を!!すげーおれの存在を!!
肯定し肯定し肯定に肯定を重ねろ!!
考えるな!!直感し続け肯定し続け確定し続けろ!!」
ということなのでせう。(どうでもいいことなんですけど、サブカル的名言集Wikiなるものがあるんですね・・・今回初めて知りました。)
シャマランの唯我独尊ぷりはこの精神に非常に近いと私は思うのですよ。で、それを観客自身にも問いかけているのがこの「ミスターガラス」なわけで。まあ、この思想を問いかけるのではなく押し付ける形になってしまったパターンが「トゥモロー・ランド」なのでしょうな。
しかし自己肯定感という側面から考えると「スプリット」の虐待を受けたマカヴォイが自己肯定感を揺さぶられるというのは面白いつくりである。面白いというか、符節が合うというか。
それを示すように、劇中で超人たる三人がまさに自身の超人性を否定されロジカルに説き伏せられそうになるわけだけれど、それによって観客も同じ心理状態になるわけです。彼らは本当に超人などではなく、単なる力の強い/頭脳に秀でた人間でしかないのだと。
そうやってシャマランは一度自らが作り上げったファンタジーを自ら(観客にそうなるよう)揺さぶってくる。超人などいないのではないか、と。
しかし、ミスターガラス・群れ・監視者のそれぞれの再度キックたる相棒たちがコミック(あるいはその言辞の引用によって)彼らの存在を肯定するように観客にもチャンスが与えられている。
確かに超人の死によって始まる物語ではあるけれど、ヒーローとかヴィラんとか、そういう矮小な二元論などではなく双方を呑み込むもっと大きな、枠を超える存在の審議を問いかける映画だ。映画それ自体が、というよりも映画で表現されるものによって問いかけられる、と書いた方がいいかも。
この映画を観た人は己のファンタジーへの信心深さと相対しなければならない、一種の踏み絵的映画でもある。
だから、この映画を観て口あんぐりになる人がいたっておかしくはない。そういう人は単にファンタジーに耽溺するよりも現実を見つめる怜悧な視点を持っているにすぎないから。ただ、もしもあの三人と三人の境遇に涙しその存在を信じぬき肯定することができたのなら、きっとこの映画は素晴らしいものであると感じられるでしょう。
そんな自分は疑念を挟みつつも肯定派である。
あとまあ、マカヴォイの演技の凄まじさだったりテイラー・ジョイの相変わらずの両目の離れ具合とか胸元のきわどい衣装だったりとかブルース・ウィルスのちょうどいい風体とか役者のポイントも高いですな。ブルースの息子役のあの人もすっかり大きくなっててねぇ。音楽も結構良かったし。
あと一つ。原語だとSuperHeroって言ってるんですけど字幕だと時数の制限なのでしょうが「ヒーロー」と訳されている部分が結構あって、ただそうするとこの映画はやはり「スーパー」な存在の真偽と疑義を扱う話でもあるので、そこはぜひ意識して観た方がいいかな、と。
人間を超えるからこそ、現実を超克するからこそ「超(スーパー)」なわけですし。