dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

グリッドマンユニバース

原作の特撮ドラマ『電光超人グリッドマン』もそれをベースにしたアニメ「SSSS.GRIDMAN」も知らんまま観に行ってきたのですが、春休みで劇場は賑わってる一方でこの種のアニメ作品の割に子ども一人もいなかったし箱も半分も埋まってなかったのでイマイチ想定客層とか人気のほどがわからん。
嘘です、なんとなく分かってます。自分も人のこと言える立場の年齢ではないのだが、ほとんどおっさんだけだった。ほとんど、というかおっさんしかいなかった気が。いうても深夜アニメの劇場版だし、まして「ダイナゼノン」との合の子な時点で一般層はかなりふるいにかけられているだろうから、さもありなん。

そもそもこの手の映画がうちの近所のシネコンでやるとは思っていなかったので、イオンまで行かないとやってないだろうという想定に反して(ほかに大作がかぶっている、なので箱が小さい&一つだけでスクリーンもそこまで大きいのじゃない、というのはあるが)普通にかかっていたので、その辺もまた想定観客というか興収見込みがあるのか、この映画の立ち位置がよくわからん。昨今のアニメ隆盛の時流に乗っかってみた感じなのだろうか。あるいは、なんだかんだ円谷だからだろうか。

グリッドマンについてはほぼノータッチである一方で、「ダイナゼノン」はなぜか全話リアルタイムで視聴していたりするのだが、「グリッドマン」観てないとイマイチよくわからんのではないだろうか。まあ、ご丁寧に劇中劇のためにテレビシリーズで起きたことの説明はされるので一見さんでも話を追うこと自体はできるのですが。
と、書いてて思い出したのだが、よく考えたらグリッドマンのアニメの1話だけは観ていたことを思い出した。その後、トリガー特有の(というかその前身でもあるガイナックスからだが)の悪い意味でオタクくさい、いわゆるネットスラング的「ニチャァ」というほくそえみが透けて見えるムーブ&ファンがそれに乗っかってキャッキャとする様が鼻について視聴をやめた、と記憶している。今もそういう気持ちがないわけではないが、当時ほどではないので気が向いたら見てもいいかな、という気もする。

というのも、この映画はまあ当然と言えば当然なのだが、「グリッドマン」(と「ダイナゼノン」)のファンディスクみたいなものなので、正直「ダイナゼノン」全話視聴した程度では片手落ちなのですな。何なら「ダイナゼノン」のラストもまあまあ忘れてるし、その程度での思い入れでしかないので自分で書いていて苦笑してすらいる。どちらかと言えば観るべきは「グリッドマン」の方だっただろうに。「エウレカ」のときもそうだが、こういう変な視聴をするよりはまっさらな状態で観た方が素直に楽しめたんだじゃないかという気も。
今回この映画を観ようと思った動機が「どうでもいい映画観るかぁ」という色々と雑というか極めて怠惰な内的要請であったため、なおさら。


前置きが長くなったが、そんなファンディスク映画に「ちょっと知ってる」程度の自分はどういう風に観ていたのか。

まあ、普通に楽しんだ……気もする。もやもやする部分もかなりあるのだけれど、それはそれとして楽しんでいたような気もする。
なんだかんだで怪獣バトルは好物だし、学園青春パートも「ビューティフルドリーマー」ぽい空気感(を自分の脳内で「悪の教典」的惨劇になったりしてとほくそえんだり)で、少しセンチになった気がするし。といっても、これは「ダイナゼノン」のときから思っていたのだけれど、ゼロ年代以降のティーンの「リアル」演出としての倦怠感とその落差としての感情の熱が結局は恋愛に終始してしまうことのドラマの薄さなどは、サブキャラがメインの回でカバーしていたものの「なんだかなぁ」ともやもやしていたものを感じていた。そのサブキャラーー具体的には暦やちせだがーーにしても、ヒロインのユメにしても、今やるには時代錯誤である重苦しいトラウマを周到に回避しつつも、作品全体に充満する気怠さを反動形性的に合体ロボットによる怪獣の討伐≒世界の救済が派手派手なカタルシスをもたらすという構成(最後の方で精神世界に干渉する怪獣から主人公がメンバーを救い出すというベタも含め)も理解しつつ、そういう方法でしかロボットや巨人を描けないことの乏しさが、自分がそこまで乗れなかった理由の一つなのかもしれない。その意味ではやはり最近のウルトラマンシリーズの方が実直ではあると思う。まあ主流であるウルトラマンがそうであるからこそ、傍流であるグリッドマンがそういうことをできるというのもあるのでしょうが。「シン・ウルトラマン」は……よくわからん。庵野秀明のインディ映画でしかないので、結局は。

またTRIGGERのアニメというのは往々にしてハードSF作品からスペキュレイティブ部分を排して壮大な見かけ上の設定を持ってきてバカアニメ然とした佇まいに居直り、熱量でごり押ししてくる感じ(「プロメア」しかり「キルラキル」しかし「グレンラガン」はまあガイナックス時代だが)が「いつまでそれやってんだよ」と感じて辟易してしまうというのも個人的には無きにしも非ず。それでもまあ「シン・仮面ライダー」よりははるかに良かった、とだけは付記しておきます。名誉のために(なんのだ)。

そもそもがアマチュア集団からの発展であるガイナックスというスタジオの特色を受け継いでいる以上、その「オタクイメージング」な露悪さとは発露こと違えど「臭さ」が脱臭しきれないのは仕方ないのかもしれず、それ自体は程度はあれど好き嫌いの領域の話でもあるので単に肌に合わないだけとも言える。型月とかもそういう感じで好きになれないんですよね~今は(流れ弾)

アニメーション的には本作内ですらマンネリ化してしまった戦闘シーンよりも響が世界の異常に気づいて学校の廊下を駆けていく表現主義的シーンが一番良かった、とか言うと逆張りが過ぎるかもしれないが、しかしこの映画を見に来る観客のほとんどが望み・そして評価するであろう戦闘シーンは雑では、いくらなんでも。
画作りが雑だとか作画がダメとかそういうことではなくて、特撮的巨大感を演出したいがために数回ある怪獣バトルでのアングルがほぼ同じだし、へたすりゃモーションも使いまわしてんじゃないのかと思う(ベイのトランスフォーマーじゃあるまいし)ほど体技が一緒。CGであることを生かしたダイナミックなカメラワークもあるにはあるけれど、それがほとんどケレンに繋がっていない。個人的には同じくどうかと思う怪獣映画(実写だけど)の「パシフィック・リム:アップライジング」「ゴジラVSコング」ですら「ここ!」という一点突破の爆発力があるカットはあったが、本作に関してはせっかくの大見得を切るシーンも段取り的にしか見えなかった。
グリッドマンとグリッドナイトがフル装備で並び立って戦う中盤戦などは、両者があまりにごちゃごちゃしている上に怪獣の方までケバケバしいデザインのせいで見づらい。ていうか同じ展開二回やってるし。
いやまあ、そうはいいつつもあれだけの怪獣・ロボットバトルのつるべ打ち絨毯爆撃を喰らえば退屈はしませんでしたけどね。ただ、すでに書いたようにマンネリなので。戦闘シーンの引き出しが少ないせいで怪獣バトルシーンの「うおおおお!」という興奮が馴化・逓減してくんですよ。そこを物量と熱量でなんとかしようとし、それを下支えするため「だけ」にあるスペクタクルな設定でごり押ししていくというのが本作の戦略であるわけですが、にしてももう少しやりようがあったのではないかと。雨宮さん、映画監督としては本作がデビュー作らしいのでその辺は仕方ないのかもしれまへんが、テレビシリーズでは気にならなかった部分が一本の映画として劇場でかけるには悪手でせう。

あとこれはテレビアニメの方の「グリッドマン」を知らないので何とも言えないのですが、実写パートはなんなんだあれ。いや、なんとなくそういうネタを仕込んでたというのは放送当時一瞬だけ話題になって風聞で知ってはいたのですが、なんか原作の特撮ドラマの方と関係があるのかしら? 

それとは関係なくて、虚構としてのアニメ(劇中でも言及されるが)をメタ的にかつ肯定するために導入された演出にすぎないのだろうか。冒頭のTRIGGERだったかTOHOだったかのロゴの丸い部分にイルミナティよろしく実写の目があったので一瞬「こわっ!」と思ったのだけれど、とりあえずその理由が判明したので妙なもやもやを抱えずに済んだこと自体はよかったけど。

ぶっちゃけ、実写とアニメーションを、ある種の実写優位のメタ視点から同一映画内で描かれていること(決して同じ位相に同居しているわけではないが。少なくとも本作に限っては)に対して言及すること――その土俵に乗ることは、庵野秀明がそうするようなそれ自体が話題を呼ぶためのある種の呼び水としての側面を持つことは否めないので――ましてTRIGGER作品だし、ガイナの『パンスト』ですら「大天使」を実写で描くことをやってるわけで――あまり望むところではないのだが、しかし庵野を筆頭とする特撮オタクのアニメ監督がアニメにおいて特撮的ダイナミズムを描こうとし、であるにもかかわらず実写表現を持ち込むのかということは一考の余地はあるのかもしれない。湯浅監督の「マインドゲーム」のようにアニメーションの発展・回帰としてのああいう実写表現とも違うし。
アニメーションの歴史から考えれば、アニメーションとはある時点において実写に肉薄しようという試みであり、他方では実写ではできない領域の表現を確立していくものであり、それは実写における生身の身体がもつ「人体」というヒューマンな側面と、時に「スター(=天体)」と呼ばれるようにノンヒューマンな側面が映画というメディウム上で現出するのと同じように、アニメーションにおける身体は人体との写真的類似は前提とされていないがゆえのノンヒューマンな性質とは逆の「生身の人体」への参照が重要であることは、ロトスコープがその歴史の初期において用いられたことからも明白だろう。

恐ろしく読みづらい文章になったが、要するにアニメにおける身体も実写における身体も、実のところはその切り分けというのは非常に困難であるということだ。それは、今やCGにおいて生身の身体を表現できてしまう(少なくとも視覚認識上は)ことにも通じる。だからこそ、というわけではないが比較的近年において実写とアニメを画面上に全面展開・同居させた「トムとジェリー」があり(もちろんそれ以前からある表現手法だが)、その混在がもたらす両者の境界の明瞭さと同時に現出する曖昧さの倒錯が緊張関係をCGと実写の境目がなくなった現代において再提出した意義は大きかったのに対し、本作では(作り手が意図したかどうかとは別に)そういった大胆な投げかけをしたのとは対照的に、徹底的に両者の間に境界線を引いてしまっている。

それを象徴するのが新条アカネというキャラクター。彼女は二つの身体を持ちながら、それがスクリーン上では断絶している(というと、もしかすると語弊があるのかもしれない。というのも、実写パートでの声も上田麗奈が担当しているっぽいので。ただ私には区別がつかなかったので、そういう体で進めるが)ために、やはり二つの身体の同居は拒絶されてしまい、実写パートは神として=観客としての視点を獲得しているがゆえにアニメ的身体との並置を揚棄の特撮ドラマ『電光超人グリッドマン』もそれをベースにしたアニメ「SSSS.GRIDMAN」も知らんまま観に行ってきたのですが、春休みで劇場は賑わってる一方でこの種のアニメ作品の割に子ども一人もいなかったし箱も半分も埋まってなかったのでイマイチ想定客層とか人気のほどがわからん。
嘘です、なんとなく分かってます。自分も人のこと言える立場の年齢ではないのだが、ほとんどおっさんだけだった。ほとんど、というかおっさんしかいなかった気が。いうても深夜アニメの劇場版だし、まして「ダイナゼノン」との合の子な時点で一般層はかなりふるいにかけられているだろうから、さもありなん。

そもそもこの手の映画がうちの近所のシネコンでやるとは思っていなかったので、イオンまで行かないとやってないだろうという想定に反して(ほかに大作がかぶっている、なので箱が小さい&一つだけでスクリーンもそこまで大きいのじゃない、というのはあるが)普通にかかっていたので、その辺もまた想定観客というか興収見込みがあるのか、この映画の立ち位置がよくわからん。昨今のアニメ隆盛の時流に乗っかってみた感じなのだろうか。あるいは、なんだかんだ円谷だからだろうか。

グリッドマンについてはほぼノータッチである一方で、「ダイナゼノン」はなぜか全話リアルタイムで視聴していたりするのだが、「グリッドマン」観てないとイマイチよくわからんのではないだろうか。まあ、ご丁寧に劇中劇のためにテレビシリーズで起きたことの説明はされるので一見さんでも話を追うこと自体はできるのですが。
と、書いてて思い出したのだが、よく考えたらグリッドマンのアニメの1話だけは観ていたことを思い出した。その後、トリガー特有の(というかその前身でもあるガイナックスからだが)の悪い意味でオタクくさい、いわゆるネットスラング的「ニチャァ」というほくそえみが透けて見えるムーブ&ファンがそれに乗っかってキャッキャとする様が鼻について視聴をやめた、と記憶している。今もそういう気持ちがないわけではないが、当時ほどではないので気が向いたら見てもいいかな、という気もする。

というのも、この映画はまあ当然と言えば当然なのだが、「グリッドマン」(と「ダイナゼノン」)のファンディスクみたいなものなので、正直「ダイナゼノン」全話視聴した程度では片手落ちなのですな。何なら「ダイナゼノン」のラストもまあまあ忘れてるし、その程度での思い入れでしかないので自分で書いていて苦笑してすらいる。どちらかと言えば観るべきは「グリッドマン」の方だっただろうに。「エウレカ」のときもそうだが、こういう変な視聴をするよりはまっさらな状態で観た方が素直に楽しめたんだじゃないかという気も。
今回この映画を観ようと思った動機が「どうでもいい映画観るかぁ」という色々と雑というか極めて怠惰な内的要請であったため、なおさら。


前置きが長くなったが、そんなファンディスク映画に「ちょっと知ってる」程度の自分はどういう風に観ていたのか。

まあ、普通に楽しんだ……気もする。もやもやする部分もかなりあるのだけれど、それはそれとして楽しんでいたような気もする。
なんだかんだで怪獣バトルは好物だし、学園青春パートも「ビューティフルドリーマー」ぽい空気感(を自分の脳内で「悪の教典」的惨劇になったりしてとほくそえんだり)で、少しセンチになった気がするし。といっても、これは「ダイナゼノン」のときから思っていたのだけれど、ゼロ年代以降のティーンの「リアル」演出としての倦怠感とその落差としての感情の熱が結局は恋愛に終始してしまうことのドラマの薄さなどは、サブキャラがメインの回でカバーしていたものの「なんだかなぁ」ともやもやしていたものを感じていた。そのサブキャラーー具体的には暦やちせだがーーにしても、ヒロインのユメにしても、今やるには時代錯誤である重苦しいトラウマを周到に回避しつつも、作品全体に充満する気怠さを反動形性的に合体ロボットによる怪獣の討伐≒世界の救済が派手派手なカタルシスをもたらすという構成(最後の方で精神世界に干渉する怪獣から主人公がメンバーを救い出すというベタも含め)も理解しつつ、そういう方法でしかロボットや巨人を描けないことの乏しさが、自分がそこまで乗れなかった理由の一つなのかもしれない。その意味ではやはり最近のウルトラマンシリーズの方が実直ではあると思う。まあ主流であるウルトラマンがそうであるからこそ、傍流であるグリッドマンがそういうことをできるというのもあるのでしょうが。「シン・ウルトラマン」は……よくわからん。庵野秀明のインディ映画でしかないので、結局は。

またTRIGGERのアニメというのは往々にしてハードSF作品からスペキュレイティブ部分を排して壮大な見かけ上の設定を持ってきてバカアニメ然とした佇まいに居直り、熱量でごり押ししてくる感じ(「プロメア」しかり「キルラキル」しかし「グレンラガン」はまあガイナックス時代だが)が「いつまでそれやってんだよ」と感じて辟易してしまうというのも個人的には無きにしも非ず。それでもまあ「シン・仮面ライダー」よりははるかに良かった、とだけは付記しておきます。名誉のために(なんのだ)。

そもそもがアマチュア集団からの発展であるガイナックスというスタジオの特色を受け継いでいる以上、その「オタクイメージング」な露悪さとは発露こと違えど「臭さ」が脱臭しきれないのは仕方ないのかもしれず、それ自体は程度はあれど好き嫌いの領域の話でもあるので単に肌に合わないだけとも言える。型月とかもそういう感じで好きになれないんですよね~今は(流れ弾)

アニメーション的には本作内ですらマンネリ化してしまった戦闘シーンよりも響が世界の異常に気づいて学校の廊下を駆けていく表現主義的シーンが一番良かった、とか言うと逆張りが過ぎるかもしれないが、しかしこの映画を見に来る観客のほとんどが望み・そして評価するであろう戦闘シーンは雑では、いくらなんでも。
画作りが雑だとか作画がダメとかそういうことではなくて、特撮的巨大感を演出したいがために数回ある怪獣バトルでのアングルがほぼ同じだし、へたすりゃモーションも使いまわしてんじゃないのかと思う(ベイのトランスフォーマーじゃあるまいし)ほど体技が一緒。CGであることを生かしたダイナミックなカメラワークもあるにはあるけれど、それがほとんどケレンに繋がっていない。個人的には同じくどうかと思う怪獣映画(実写だけど)の「パシフィック・リム:アップライジング」「ゴジラVSコング」ですら「ここ!」という一点突破の爆発力があるカットはあったが、本作に関してはせっかくの大見得を切るシーンも段取り的にしか見えなかった。
グリッドマンとグリッドナイトがフル装備で並び立って戦う中盤戦などは、両者があまりにごちゃごちゃしている上に怪獣の方までケバケバしいデザインのせいで見づらい。ていうか同じ展開二回やってるし。
いやまあ、そうはいいつつもあれだけの怪獣・ロボットバトルのつるべ打ち絨毯爆撃を喰らえば退屈はしませんでしたけどね。ただ、すでに書いたようにマンネリなので。戦闘シーンの引き出しが少ないせいで怪獣バトルシーンの「うおおおお!」という興奮が馴化・逓減してくんですよ。そこを物量と熱量でなんとかしようとし、それを下支えするため「だけ」にあるスペクタクルな設定でごり押ししていくというのが本作の戦略であるわけですが、にしてももう少しやりようがあったのではないかと。雨宮さん、映画監督としては本作がデビュー作らしいのでその辺は仕方ないのかもしれまへんが、テレビシリーズでは気にならなかった部分が一本の映画として劇場でかけるには悪手でせう。

あとこれはテレビアニメの方の「グリッドマン」を知らないので何とも言えないのですが、実写パートはなんなんだあれ。いや、なんとなくそういうネタを仕込んでたというのは放送当時一瞬だけ話題になって風聞で知ってはいたのですが、なんか原作の特撮ドラマの方と関係があるのかしら? 

それとは関係なくて、虚構としてのアニメ(劇中でも言及されるが)をメタ的にかつ肯定するために導入された演出にすぎないのだろうか。冒頭のTRIGGERだったかTOHOだったかのロゴの丸い部分にイルミナティよろしく実写の目があったので一瞬「こわっ!」と思ったのだけれど、とりあえずその理由が判明したので妙なもやもやを抱えずに済んだこと自体はよかったけど。

ぶっちゃけ、実写とアニメーションを、ある種の実写優位のメタ視点から同一映画内で描かれていること(決して同じ位相に同居しているわけではないが。少なくとも本作に限っては)に対して言及すること――その土俵に乗ることは、庵野秀明がそうするようなそれ自体が話題を呼ぶためのある種の呼び水としての側面を持つことは否めないので――ましてTRIGGER作品だし、ガイナの『パンスト』ですら「大天使」を実写で描くことをやってるわけで――あまり望むところではないのだが、しかし庵野を筆頭とする特撮オタクのアニメ監督がアニメにおいて特撮的ダイナミズムを描こうとし、であるにもかかわらず実写表現を持ち込むのかということは一考の余地はあるのかもしれない。湯浅監督の「マインドゲーム」のようにアニメーションの発展・回帰としてのああいう実写表現とも違うし。
アニメーションの歴史から考えれば、アニメーションとはある時点において実写に肉薄しようという試みであり、他方では実写ではできない領域の表現を確立していくものであり、それは実写における生身の身体がもつ「人体」というヒューマンな側面と、時に「スター(=天体)」と呼ばれるようにノンヒューマンな側面が映画というメディウム上で現出するのと同じように、アニメーションにおける身体は人体との写真的類似は前提とされていないがゆえのノンヒューマンな性質とは逆の「生身の人体」への参照が重要であることは、ロトスコープがその歴史の初期において用いられたことからも明白だろう。

恐ろしく読みづらい文章になったが、要するにアニメにおける身体も実写における身体も、実のところはその切り分けというのは非常に困難であるということだ。それは、今やCGにおいて生身の身体を表現できてしまう(少なくとも視覚認識上は)ことにも通じる。だからこそ、というわけではないが比較的近年において実写とアニメを画面上に全面展開・同居させた「トムとジェリー」があり(もちろんそれ以前からある表現手法だが)、その混在がもたらす両者の境界の明瞭さと同時に現出する曖昧さの倒錯が緊張関係をCGと実写の境目がなくなった現代において再提出した意義は大きかったのに対し、本作では(作り手が意図したかどうかとは別に)そういった大胆な投げかけをしたのとは対照的に、徹底的に両者の間に境界線を引いてしまっている。

それを象徴するのが新条アカネというキャラクター。彼女は二つの身体を持ちながら、それがスクリーン上では断絶している(というと、もしかすると語弊があるのかもしれない。というのも、実写パートでの声も上田麗奈が担当しているっぽいので。ただ私には区別がつかなかったので、そういう体で進めるが)ために、やはり二つの身体の同居は拒絶されてしまい、実写パートは神として=観客としての視点を獲得しているがゆえにアニメ的身体との同居、それによって在り得た揚棄を回避してしまっている。
いわゆる特撮映画が、アニメ畑の人々と親和性が高いのはどちらともに「虚構的な存在者」に注意を向けているからに他ならず、アニメとはそれ自体が「虚構的」であり、特撮における怪獣も巨人もロボットもそうだからだが、アニメ身体の新条アカネが魔法少女よろしく変身するのに対し、実写身体の新条アカネが徹底してリアルの軛にはめ込まれているのも(彼女が女子高生として画面上は存在し、制服を着ているということのジェンダー表象の被搾取側にいるということも、現実世界の社会構造に照らすと結果的にリアルに対しての緊縛性を高めてしまっているようにも見える)その遠因であるかもしれない。あるいは彼女が、彼女こそが特撮的存在として描かれれば、また別だったのかもしれないが、2代目(眼鏡の女)なるキャラクターでああいうふざけた遊びしかできない程度の本作に、それを求めるのは酷であろう。

まとまりを欠いてきたので私が言いたいことだけはっきり書くと、「特撮を原作としたアニメ」で「実写パートを導入した」という点から、そういった両者の身体性を、特撮というノードから何かしら考えることのできる材料を提示してくれると、実写パートが出てきたときは少し期待したということです。そもそも作り手にそんな意識はなかったのかもしれないが。
まあ結果としては「メタ視点を持ち込む」ことで俯瞰的に自分の好きなものを愛でるという自己慰撫的なブンドドに留まってしまったわけですが。それはそれで私にとっても同調可能なものであるし、決してつまらないというわけではないのですが、もっとやりようあっただろ。


どうでもいいですけど、新しいグリッドマンの姿はまんまウルトラマンノアで、復活から続く戦闘シーンはほぼVSダークザギとのそれのオマージュになっているっぽくて、ちょっと笑いました。私が知らないだけで、そこかしこにそういうのがあるんだろうなぁ。

公平を期すために言い訳がましく書き逃げしておくと、私のような輩はそもそもの想定観客に組み込まれていないと思われ、テレビシリーズをそれなりに楽しめた人にとっては後夜祭的などんちゃん騒ぎの楽しいお祭り映画であることは間違いないので、ファンの人は必見なんじゃないだろうか。