dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2023/8

青いパパイヤの香り

話も映像もジメジメしていてこの時期に見るとすげぇげんなりする。

「そこでそんな音ならすか?」という描写もあったりなんか全体的に変なバランス。

手と足を映すことにやたらと拘りが見える(というか使用人を描くと畢竟こうなるのだろう)が、自分の琴線に触れないのは手元を映すことに作為的すぎるからなのだろう。

あと役者の表情が画一的で、機微をかなり読み取ろうとしないとこぼれ落ちそうなものが多い。

これがドキュメンタリーだったらなぁと思わないでもないのだが、50年代頭のベトナムが舞台じゃ厳しいかもしれない。

 

「聖杯たちの騎士」

映像は美麗なのだが、完全に今の自分のモードとはそぐわない映画でした。なんだかなぁ、という気はするんだけど村上春樹っぽいのかな。

 

シンドラーのリスト

久々に見た。改めて観るとやばいこれ。スピルバーグの真骨頂は感動云々とかではなく、やはりこの人体を物質として捉える才覚なのだと実感。

 

「MEMORIES」

三本の短編のオムニバスということなのですが、個人的には岡村天斉監督の「最臭兵器」が一番面白かった。CGを実験的に使うというのはこの「MEMORIES」の一つの方向性だったと思うのですが、「~兵器」にはそこまで目立った使い方がなかったけど。

やっぱりこの人はギャグセンスと動きのコミカルさが抜群なので変にシリアス方面に依らない方が良いと思うんですよね。あと煙の動きとかね。まあ原作は大友ですが。

逆に一本目の「彼女の想いで」は脚本・設定だけじゃなくて絶対に作画に参加してるだろ今敏!と思うような今敏あじが強い。ソラリスがやりたかったのかなぁ、という気も。

それで言うと「大砲の街」は一番実験的であると言える。ワンカット風の絵本(大友曰く絵巻物)というは、線の強さと流線はどことなくロシアアニメーションを思わせる。

まあ短編じゃないとこういうことは出来まいしな、という感じで観ていて面白くはありましたな。片渕さんが地味にメインで参加していたりする。

 

「ミトヤマネ」

オンライン試写にて。

この映画の美点:上映時間が短い(80分未満)

以上。

これマジで「大和(カリフォルニア)」とか「VIDEOPHOBIA」の宮崎監督の映画か?と思うほどキツかったです。自慢じゃありませんが「VIDEOPHOBIA」とか私CFに金出したんですけど。

久々にこのレベルの映画を観た気がする。普段午後ローやらBSやらで観てる映画にケチをつけたりしてますが(もちろん良い映画もたくさんある)がいかに面白い映画なのかということを思い知らされる。

サブイボ映画、観てるこっちが恥ずかしくなってくる映画。いやほんとオンライン試写で一人で観れたから「うわー」「きつい」とか声出してリアクション取れたから耐えられたものの、映画館で観てたら溢死していたかもしれん。

そもそも、上映時間が短いとは書いたけど編集のテンポ悪すぎ(特に会話)るし脚本も甘すぎて冗長が過ぎる。マネージャーが王城ティナの家に来て案件の説明をするシーンなど、直後に妹ちゃんが帰宅して彼女に対してもほぼ同じ説明を繰り返すという二度手間すぎる場面などは正気を疑いましたよ。

 

黒沢清の助監督も務めたことがあるからある意味で師事していたということもできるのでしょうが、ドライビングシーンのスクリーンプロセスの使い方とかディープフェイクが白い空間にでかでかと額縁入りスクリーンで展示されてるのとか、表現主義と言えば聞こえはいいのかもですが……クラブでのシーンである種の「逆転」が行われたというのは分かるのだけれど(そういう意味で妹ちゃんの髪型の変化とか絵的に見せることを放棄してるわけではないのだが)、おじいさんのデモシーン(?)とかそこに突っかかる女性とか、あのシーンもすっげぇ上辺をなぞっただけの薄っぺらいイデオローグをたらたらと撮り続けるのとか観客のことバカにしてるんじゃないかとすら思いましたよ。

というか、割と本気で手抜きで撮ったんじゃないかしらこれ。「PLASTIC」の方に注力してこっちは片手間なんじゃないのかしら?と思うくらいペラペラですよ。

長編映画として出すために無理に引き延ばしてるんじゃないですか、マジで。それでも80分切ってますからね、ランニングタイム。

早稲田の政経出てるから私なんかよりよっぽどインテリなはずなのに、なんでこうも頭悪い人にダメだしされてるような映画になるんですか。

もっとちゃんとやってください。

 

「サイダーのように言葉が湧き上がる」

光堕ちした「悪の華」とでも言うべきか。

細かい部分は違うけど、どちらも群馬県が舞台というのも共通しているしクライマックスが祭りのやぐらで「未成年の主張」というのも共通している。まあ、「舞台」だし使い方としては正しいのかもしれないけれど、意地悪な言い方をするとありきたりではある。で、私がこういう意地悪な言い方をするのは、久々にある種の力関係を想起してしまったからなのだが、それは後述する。

 

まずアニメということで絵そのものに関して言及するのであれば、本作は背景とキャラクターが均質化している部分に特徴がある。光冠まで、というのは結構インパクトがあるが、それは背景をある種簡略化することによる、同化による異化ともいえる効果をもたらしているのかもしれない。もっとも、それ自体はもっと手間のかかる方法で「かぐや姫の物語」が先んじている。というかあれはほとんどアート映画の部類な気がするので、比べるべくもないかもしれないんだけど。

某映画ライターは「シンプソンズ」を引き合いに出し、むしろアメリカのカートゥーンに見られるように動画(ここでいえばアニメートされたキャラクターのことだろうが)と背景がマッチして記号と感じさせないことで豊かさを獲得しているとしていることや、日本のアニメにおける美麗な背景は、リッチであるほど、演劇における記号的な“書き割り”と同じものに過ぎないと無意識に感じさせてしまう、ということを述べている。

よく考えればクレヨンしんちゃんサザエさんとか(特に冒頭の動きなど顕著にそれを思わせたのだが)もそういう作り方ではなかったか。だとするとそれは単に超長期にわたるテレビアニメ制作上の必然なのでは。

ただ私に言わせれば、背景はむしろ動く方が不自然ではなかろうか。なぜなら背景というのはキャラクターを包含する世界そのものであり、特にここで言及される背景=空はあらゆる意味においてキャラクターとはスケール自体が違う以上、動的(に見える)である方がおかしい。そもそも人は背景=世界(自然とか宇宙とか、そういう抽象的なもの)を記号として以外に捉えようがないと思うのだが。

もちろん、背景というのはもっとスケールの小さい建物とかそういったものもあるわけで、それらすべてをひっくるめてのことだというのはわかるし、その場合はキャラクターと近似したスケールではあるのだろう。だから背景の一部分がセルで描かれたものであることもあるわけで。

でも、第一、アニメを観るときってそれを「記号である」と承知した上で観るものじゃないのかしら? たとえば特撮(特に巨人・怪獣など人外スケールのもの)の着ぐるみを見るとき、我々はそれを「着ぐるみ(=記号)」と分かったうえで怪獣として認識しているはず。どれだけリアルなCGで作ってみたところで、というかそれこそアニメと同じわけで。そこに身体性を持ち込むことでアニメの記号性を揶揄することは(今は難しいかもだが)可能でしょうが、「記号的に見えてしまう」というのはなんだか妙な話で、その言動にはある種の実写偏重の眼差しがあるように見える。

そも、シンプソンズの背景、こと空(特に夜空や夕暮れ)の背景描写はグラデーションをかなり流麗にかけていて、キャラクターと部分的な背景の一致は絶妙に崩されていることが少なくない(もっとも、デジタルに移行してからのシンプソンズはほとんど観てないので現状どうなっているのか分からないんだけど)。

また、わたせせいぞうを引き合いに出していたけれど、私自身は少路を思い浮かべた。というのも本作のザ・田舎な田園風景は冒頭のタイトルバックでぐーんと動くカメラに捉えられるのだが、その中心には巨大なショッピングモールが鎮座しており、その屋上と思しき場所でチェリーらが話し込んでいる風景などは、色味の強い色彩設計も相まって田園やそれを取り囲む山や空を相対化しているように思える。

宅内では開放的なデザインのスマイルの家も、団地の一部屋でありこじんまりとしたチェリーの家も、すべてフラットに描かれることでスケールを同質にして、部屋・建物といったそれらの閉塞した空間こそがむしろ魅力的に映る。私には。ていうか空とか山とかよりも廃墟含め建物観てる方が楽しいでしょ(暴論)。

 

絵そのもの以外にも特徴的なものがある。それは何気なくかつここぞというときに使われるスプリットスクリーン。

スプリットスクリーンの使い方はそれこそ「500日のサマー」のようで、別の場所にいながら二人が同じ挙動をする空間越境的ダイナミズムは普通に良かったし、それをクライマックスに持ってくるのも気が利いてる。端的に世界から二人だけが切り取られ、やぐらの上とその下、という空間的な上下の隔たりをこのスプリットスクリーンの演出によって同じ地平に立たせるのも良い。

(余談だが実写版「ちはやふる(の上の句だったはず)」で不満だったポイントも、この演出を使えば良かったのだなと、振り返って思う)

で、実質的に二人の一対一のコミュニケーションになっている(スマイル側に祭り客がいるのだが、全員花火の方を向いているのでチェリーの方に意識が向いていない)がゆえに、チェリーは俳句を詠むことができたのだ、という理屈をつけることも可能。だが、まあそこは普通に彼が頑張ったからということで手を打つのがよろしいのだろう。無粋だしね。

でもまあ、「歯」と「葉」の部分は「は」にした方が良かったのではないだろうか。

という感じでロマンス、青春グラフィティとしては楽しかった気もするのだが、それとは別の位相で腹立たしいことがある。それが冒頭の意地悪な物言いに繋がる。

 

それはコンプレックスの問題だ。

「竜とそばかすの姫」でも感じたが、というか多くの創作でそうなのだろうが、キャラクターの抱える容姿のコンプレックスはそれが裏返されチャームとして踏み台にされるものとしてしか描かれない。チェリーに関しても、お前それ葉くんの前でも言えんの、という。

これは私が都度都度主張しているのだが、醜を美に回収すること、弱さを強さと言い換える欺瞞・強者の理論がルッキズムやマチヅモを温存させるんじゃないか。

痘痕も靨じゃねえ。痘痕があっていいじゃんか。いやそれが困難だってことは身に染みてわかってるけども。

 

そういう既存の「そうある」ことに乗っかることの偽物の無謬性は、スマイルの求める「カワイイ」に代表される。「カワイイ」は「KAWAII」に直結し、グローバルに敷衍されるその概念は「カワイイ」もの以外を捨象する。それは今時の、というか今昔の若者(とりわけ女子高生)のリアルなのだろうが、それはスマホを通して世界を認識するバーチャルなリアルでしかない。だからこそ最後に意味があるともいえるのだが、それはしょせん「やまざくら かくしたその歯 ぼくはすき」という他者に肯定されることでしか解消されえない。

「ぼくはすき」じゃねえ。お前に好きだと言われるからなんだというのか。誰かに肯定されないと出っ歯は存在してはならないのか? 

まあ、アニメはデザインされたキャラクター=記号であるため、本質的にこの問いに対して答えることは不可能なんじゃないか(肉体としての身体性の不在)という気もするのだが。

 

今回はちょっと野蛮な物言いが自分でも抑えきれてないのだが、別にこれはこの映画に限ったことではない、それこそ自分の中のコンプレックスによるところが大きいので共感なんてされないし、して欲しいとも思ってないが(そもそも共感原則を疑ってるし)、見るタイミングによってはそんなこと思ってなかったかもしれない。

俳句を詠むという婉曲表現(つってもかなり直截的だが)それ自体は肯定したいが、そのふわふわした感じが私が指摘する問題にもつながっているような気がするので煩悶とする。

 

とはいえ、やっぱり最初に書いたように青春映画としては面白いしテクい部分もあるので私のようなこじらせ人間じゃない人はストレートに楽しめるはず。

 

あとCV山寺の擬態力すげぇっす。途中まで気づかんかった。それと、すごいどうでもいいんだけどSNSで親と相互フォローとか地獄では。

 

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

これをNHKが8/31に放送する文脈も含めてあまり好きではない。原作をほぼなぞった感じだが、そもそもとして私は押見修造があまり好きではない。特に自分自身の最近のモードがそう感じさせる。

で、原作ほぼそのままのこの映画だが、マンガと違って音がつくことでその分の迫真さは獲得できているとは思う。その意味で実写化に意味はあったとは思う。