dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

アリスとテレスとお前はおかん

というわけで試写会で「アリスとテレスのまぼろし工場」を観てきた。

これタイトルがいまいちしっくりこないんですけどね、未だに。アリストテレス要素はキャラクターが「ある哲学者が”希望とは、目覚めている人間が見る夢である”と言った(意訳)」てなことを発したくらいで、アリスが出てくるわけでも(百歩譲ってあるキャラクターが別の世界に迷い込んでくるという部分にフォーカスすれば不思議の国のアリスとして見れなくもないけど)、ましてテレスというキャラクターが出てくるわけでもないので。まぼろし工場はまあわかるけど。

 

という余談はさておき。

わたくしはマリーを熱心にフォローしているわけではないのですが、ある程度深夜アニメに触れていると彼女がメイン脚本だったりシリーズ構成を担当していた作品を必然的にいくつか観ていて、最近でもBSで再放送されてる「とらドラ!」とか「ウィクロス」とか今や話題にすらならない「M3」とか、劇場作品でも確か「ここさけ」は観た気がする(けど記憶にあまりない)。ほかにもいくつか知っているのがちらほらあって、まあ売れっ子脚本家であることは違いない。

で、愚者なりに経験則から感じるのはなんとなくこの人の脚本て(特にオリジナルの場合)人間関係がドロドロしていることが多い気がするということだ。昼ドラみたいな展開を思春期のガールズ&ボーイズにやらせたり、親子の間(あるいは親同士)の間で問題を抱えていたりとか。そして、そういったティーンの視点から見た性に対する関心が見える。どこかむっつりっぽいというか興味津々というか。本作にもそれらの特徴は見られる。とはいえ、レファレンス乏しすぎて片手落ちな印象論でしかないのですが。

ただ私にとって岡田麿里というのはそういう作家と認識してはいるくらいに作家性なるものがあるタイプだと思っている。

前述のように脚本家としては知っていたのですが、監督作については知らず、てっきりこれが初監督作品だと思ってたのですが5年前にすでに長編アニメ監督デビューしていたのですな(無知)。とまあ、このことからも分かるようにマリーに関してはそれくらいの熱量でしかなく、特に過度な期待も不安もせず比較的フラットに見れたと思うのだけれど、結構面白いアニメだと思いましたですよ。

 

個人的に特にツボだったのは廃墟というか廃工場(…ではないのか、一応)。冒頭の出来事から点検などはされていたようだが稼働はしていなかったっぽくて、まあでも普通に廃工場な見た目なので廃工場でいいと思うのだが、そこのディテールが良い。全体図が見えるような鳥瞰視点とかあればなお良かったのだけれど。bingの画面で観たことあるようなのとかあったし。おそらく明確な参照元があると思われるのだけれど、パンフが出たら載ってたりするのかしらん。

で、そこが山間部っぽい田舎というのも良い。「田舎はクソ系」の映画として閉塞的な空気感(というかマジで世界ごと閉鎖されるんですが)と廃工場の寂れ具合がマッチしておる。これ本当かどうか知らないんですが、もしかしたら小説の方に書いてあるのかもですが、舞台が1991年らしくそうなるとマリーがちょうど中学生の時期であり彼女が秩父というド田舎出身であることを考えるとかなりプライベートなものが入り込んでいるんじゃなかろうかと勘繰りたくなる。

じゃあこれは私小説なのかというと別にそんなことは多分なくて、むしろこの映画で描かれる少年少女たち(厳密にはそう言い切れないのだが)の在り様を見ていると、それはむしろ今を生きる若者に対する「両論併記」の訴えに思えるわけです。厳密には若者だけではないというか、むしろこの映画でいえば大人こそがそのような在り様を率先しているわけですが。

では何を訴えているのかというと「安定志向、現状維持」の(非)永続性、あるいは不安定性であり、その対としての「変化」を並置させようということ。

「安定志向」とは、とりわけ日本の今の若者に見られる傾向であることは都度指摘されることで、リスクを避けチャレンジ精神が少なくコスパを重視するという。あくまで相対的な見方でしかないと思うが、少なくとも去年から一昨年あたりまでの若者の自民党への投票率などがそれを示す一つの指標として持ち出されることを考えるとあながち間違いでもあるまい。

その在り方は劇中の中学生たちに表象され、しかしそれは当初否定的な世界観として描かれる。主人公たちが否応なしに住まわざるを得なくなった「まぼろし」世界の季節が冬のままであること、冬とはつまるところ生命の育たない季節であり、まさに時間の止まった、停止した=永遠の=無痛の=死の世界なのであるということに他ならない。同時にそこはバーチャルな世界でもある。

 

それに対して劇中で描かれる「現実」の世界の季節は夏=生命に溢れ=動的で=有限な世界であり、「まぼろし」世界で経過した分の時間がはっきりと表れている。要するに冒頭の事象によって停止した世界とそのまま進み続けた世界とに分岐した、ある種のマルチバース的なものだと考えるのが昨今の流れを考えると理解しやすいだろうか。

生=変化=現実であり、生命=熱を帯びた季節として現実世界が夏であるのだが、しかしこの映画の言辞を借りるなら現実にこっちの世界が侵食されるとはまさにこのことで、よりにもよって世界新記録の暑さを記録した今夏は、その暑さによって死人が多発したことを考えると、やはり現実はクソでありバーチャルな「まぼろし」世界の方がいいじゃねえか(そうしたのは他ならぬ人類なのだが)と言ってしまいたくなる。

まあ、バーチャルはバーチャルで痛いものに溢れているし、実際に心の痛みと体の痛みは脳内では同じ処理をされるということを考えると決していいもんでもないと思いますが(経験則)

 

けれど「まぼろし」世界の永続性というのは極めて脆いものであり、何度も世界に亀裂が生じてしまう。その上世界そのものがその場その場で修復されようとも、そこに住む人々は大きく心が動かされてしまうと当人に亀裂が生じ、世界の修正力=神機狼(どうみても龍だろオイ)に飲み込まれ事実上の死を迎えてしまう。

その心の動きとは恋慕だったり将来の夢だったりするのだが、それ自体というよりもむしろその喪失(失恋、夢が実現しない現実による絶望)によってこそ心は大きく動かされ、それが世界の働きによって「修正」されてしまう。恋愛リアリティショーも真っ青な、恋愛に敗北した者は死ぬという容赦のなさはちょっとぶっ飛びすぎて笑ってしまいましたが。

ここがマリーのダークな部分だと思うのだが、失恋によって「修正」されるキャラクターとは別に、主人公二人を覗いて恋愛が成就するキャラクターがいるのだけれど彼女たちは「修正」されないのだすな。このことは、「正」の情動よりもむしろ「負」の情動の方が世界に(そしてセカイ)に与える影響が大きいということだ。少なくともマリーの中ではそういうことになっていると考えられる。だからドロドロしたものばっか書いてるのだろうか(偏見)。

 

で、ひたすら「変わらず」「現状維持」を固持しようとする「まぼろし」世界の人々に揺さぶりをかけてくるのが「現実」世界から迷い込んだ少女(というか当初は幼女)の五実なのだが……ぶっちゃけどうなの、このキャラ?

狼少年(野生児)と神機狼を照合させたいのはまあ、それ意味あるのかどうかは置いておいて言葉遊び的なアレなのねというのは分かる(というか睦実の義父がそこからこじつけたのだろうが、設定的には)。わざわざ正宗に「サルというより狼みたい」と言わせたり。

そういうイノセントな属性を持ったキャラクター(大体白のワンピース着てる)の扱いはさておき、この五実がかなり厄介なキャラクターで、「現実」世界の正宗と睦実の娘で、かくかくしかじかで「まぼろし」世界の中学生で時間停止した正宗に恋をしてしまい、あげく正宗と睦実の濃厚キスシーンを目撃してしまいその心の揺らぎで「まぼろし」世界にでっかい亀裂が入るという面白場面を導く存在として描かれるのですな。

(余談だが、マリーは「荒ぶる季節の乙女どもよ。」でも幼馴染のオナニーを目撃するという場面を描いていて、単なるギミックとしてよりも何かそういうのに対するオブセッションでもあるんじゃないかと思うのだが)

BTTFの近親相姦ネタに両親のセックスシーンを見てしまったイノセントな娘という性癖爆発シーンで思わず噴き出したのですが、これのために五実は無垢性を帯びさせられたのではないかと勘繰ってしまうほどです。いやもちろん物語的に巫女をこじつけられてしまうので無垢性が必要だったためにああいう描き方をされたのだというのは理解しているけれど。もっとも、その無垢性というのはある意味で本質的なものではなく「イノセントな存在であれ」という家父長制の欲望によって虚偽的に作り出されたものなのでちと違うのだが。

でも睦実はあれだけ長い間世話をしていたのだから言葉を覚えさせることはできたのではないだろうか、とか色々思っちゃうんですよねぇ。少なくとも10年は経過してんだから言葉は教えられたろ。あと惚れさせたくなかったなら男連れてくなよ!とか。だから正宗の外見の女性性を強調してたんだろうけど、これもこれで疑似百合的なシーンを描きたかっただけなのではとか邪推してしまう。最初はヤングケアラー的な在れかと思ったけど別にそんなことなかったZE。

 

色々あって五実を現実世界に返そうとする派とそれを拒もうとする派による対立が生じて、この辺の一連のアクションシーンがシリアスな笑いが結構あってその意味でも必見なんですが、中学生の身体のまま少なくとも精神的には(主義に反するが心身相関をこのさい度外視して)成人している正宗たちのカーチェイスが文字通り車で行われるというのは一考の余地がある。

それは「キッズ・リターン」であの二人が自転車を乗っていたことの裏返しだからだ。あの映画において自転車とは若さ・未熟さ(=脆さ、儚さ)の象徴としてあった。

翻って本作では中学生連中が手繰るのは自動車だ。それは本来、大人が使うものだが、停止した「まぼろし」世界においては青春は無限に延長されその刹那性を予め封殺されている。だから最後まで自動車なのだろうと思うとやるせない。

正直、クライマックスはいろいろとなあなあになって感が否めないのだけれど、「好きな人と一緒にいたい」というあるキャラクターの永遠への願望は、正宗と睦実がそちらに傾斜することの布石ではあるし、二人がそちらを選択し、一方で五実を「現実」世界に返したことで「トイストーリー4」的な両論併記に持って行ったこと自体はアリだとは思う。

まあ「その選択って悪役と進む道が同じなんだけど」とか「正宗の叔父がセカイ系主人公と化してるんだけど(だから兄貴に負けんだよおめーはよぉ)」とか、土壇場で実の娘にマウンティングして勝利宣言する母親=睦実とか、どうかと思う部分はあるのだけれど、それも含めてこういうねじくれた感じは大歓迎。笑えるし。どうでもいいが親父と叔父の声優が瀬戸康史林遣都って、趣味が出てませんかね。特に叔父がああいう役回りっていうのが。

 

そういう楽しい部分はさして気にならないし、映画にドライブできるのでいいんだけど、普通に気になる部分もある。

 

たとえば設定として時間が止まっている(劇中的に言えば「季節が止まっている」)ので、長期的スパンの時間経過がすごい分かりづらく、そのせいで登場人物の関係性も分かりづらい。特に睦実と園部の関係性はいじめとはいかないが陰湿な行為を双方向的に行うものであったけれど、睦実自身は園部のことをかなり近しい友人だと思っていたように描かれる。しかし、いかんせん二人の間柄、さらに言えば正宗と園部に関してもちょと飲み込みづらいかなと思う。

ただ好きになった理由というのはそもそも明確に描くべきかどうかというのは私自身も疑問には思っていて(それこそがむしろ作為的過ぎるので)、やっぱりこれに関しては自分確認票も含めて、セリフでなくてもいいのでもうちょっと明示的に無限反復であることを示した方が良かったのではないかと。「中学生が車を運転している」という絵面がある意味で説明ではあるんだけど。

まあこの辺は細かくつつきだすと本当にドツボなので(身体の恒常性がどの程度なのかとか)この辺にしておきますが。

 

あと細かい部分だけどカーチェイスパートの、カット割ったら一瞬で平然とバンに乗せられてる五実とかは、もっと編集の仕方あったでしょう。アニメだと作画作業増えるのでおいそれと編集でどうにかできないのかもだけど。

 

まったくの余談2だが、「AIの遺電子」で恋愛感情を捨てたいヒューマノイドの話が出てきたりして(レズビアンという設定なのでこちらとはちょっと外装が違うんだけど)、恋愛感情の排斥というのが効率化のいきつく果てなのかと思うと荒涼とした未来しか見えない。その荒涼とした風景とトー横界隈の、恋愛よりも先に性交を経験するということの問題系を投影することも可能だろうと思う。

 

色々書き綴ってきたし思想的に相いれない部分も結構あるのだけれど、なんだかんだで勢いで持って行ってくれる映画ではあると思うし是か非で言えば割と是よりでございます。