dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2021/10月

「カクテル」

題材というものはなんでもいいのだろう、というのがはっきりしたところはある。

要するに、カクテル作るだけの映画でなぜここまで盛り上がるのかというと人間ドラマだからだということだ。テレビで観たのでカットされたシーンがかなりあると思われるが。

とはいえやや古めの映画ではあるので彼女が妊娠→責任取って結婚というのが当然とされる価値観などは思い切りが良いと言えばいいのだけれど。

 

「御法度」

ようやく見れた。にしても面白い。たしかにこの松田龍平はヤヴァイですな。あの浮世離れした妖艶さはちょっとすさまじいものがある。あの人って今でも常識離れしたというか、少し世間から外れてたり侵略者だったりといった役を演じていたりするから観る前から逆算的に「あ~確かに」と思うところはあったんですけど、想像以上でござんした。ワダエミ新選組衣装もバリクソかっこいいし、音楽のどことなくノイジーでありながらも主張しすぎずに雰囲気に徹底する坂本龍一の手腕もさすが。殺陣も(たけしのとこはややカット割りが相対的に多かったけれど)長回しなのにダレることなく緊張感を保ちつつ、剣を振る隊士たちの動きにシンクロして捉え続ける。いや、これ本当に単純に観ていて楽しいです。トミーズ雅も笑えるし、まあとにかく惹きつけられる映画であると言ってよろしいでしょう。

ただ、いわゆるやおい的な映画ではありつつも最近のエモーション・感情移入を優先するような映画とは違って恋愛に寄り添ったりはせず、極めて怜悧な視線=土方の観照的態度によってのみ描かれます。というとまあ言い過ぎかもしれませんが、心の声によって松田龍平を取り巻く衆道関係を観察していくわけで。

とはいえ土方も近藤も得体の知れない雰囲気を纏っており、はっきり言って誰一人として気を許して感情移入できるような人間はいない。映画全体の空気がそうさせているというのもあるのでしょうが。

つまり、この緊張感とは組織という人情的視線を立ち入らせない(しかしそれによって変容する)システムの無機質さ、それが衆道によって瓦解していくゴシップ的な面白さ。これ、よく考えると「アウトレイジ」っぽいなーと今見ると思う。「仁義なき~」ほどに感情的でもないという点でも。

 

機動警察パトレイバー the Movie

初見、なのだけれど巷間の評価に違わない面白い映画だった。戦闘シーンや街並みのカットやレイアウトはそのまま攻殻に繋がっていて、あの奇妙な東京の街並みにといい異化されたバーチャル世界が素晴らしい。

にしても帆場の存在である。彼が冒頭に自殺したことにより全ての歯車が動き出すわけだけれど、ある種の劇場型犯罪でありながらその犯罪により混乱をきたす世界を睥睨することすらしない徹底したエゴイスト。己の才気を確信し世界がそうあるように仕向けることそれ自体を目的とする社会の外にある悪役。

なればこそ社会を俯瞰し、かような計略を企だてることができるのだろう。

なるほど稀有な悪役、と言われるだけはある。

唐突な連続ヒッチコックパロは正直吹いたけど、ぶらどらぶみたいな露骨なことってこの頃からしてたんですな。

 

「3時10分、決断の時」

さすがジェームズマン・ゴールドといったところでしょうか。この映画、そのまま「フォードVSフェラーリ」(include「グラン・プリ」)に直結する話でしたな。そういう意味では「ボルグ/マッケンロー」も横に並べて良さそうです。

つまり、ある景色を共有した男もとい漢の美学の話であると。

個人的に、この映画のメインの漢は三人いると思う。ベンとダンは言うまでもなく、もう一人はチャーリー。まあ、先生を含めれば四人か。…………いや、やっぱりチャーリーは違うかなぁ。ちょっと微妙かもしれない。

 

ともかく、ベンは悪党である。それは彼が自称する通りなわけで略奪も人殺しも実行することにためらいがない。しかしそこには美学がある。その美学は、極めて抽象的に言えばそれは美しさだろう。いや、これはさすがに抽象的すぎるというか説明になっていないのですが。

しかし例えば酒場の女性とのやりとりからもわかるように、美への理解がある。そして、彼の眼差しは外見だけではなくその内面にこそ注がれている。彼にとっての写生とは、つまりその内面の美しさを描きだそうとする行為にほかならない。

ゆえに、ベンは終盤においてダンを写生し、そして彼のその実直で誠実な魂の美しさに敬意を示し自ずから列車の檻に入っていくのである。

思えば、ダンにお金を渡そうとするシーンなどからも、彼は悪党でこそあれ根性のひん曲がった性悪ではなかった。その意味でダンの息子ウィリアムの言葉は間違ってはいない。

ベンは美しいものを愛でる。それを奪う者こそが敵である。ゆえに彼は自分を助けに来た手下たちを撃ち殺す。

ダンについては言うまでもないだろう。損得を越えた己の魂への誓い(それは他者との約束でもあり、己の信じる正義の貫徹でもある)。無論、家族のことを思えばダンの言う通りにするべきだった。けれども彼はそうしない。そういった打算や、己にとっての悪=ベンからの甘言を受け入れることは己への背信にほかならない。そんな男であったならば、ベンは彼を写し取ろうなどとはしなかっただろう。

汚い金を受け取り、生き延びたダンの姿を見て、息子は、妻は、家族はどうなるだろうか。それよりも、己の芯を貫き通して死した父の姿を目の当たりにした息子が帰還してこそ、家族は建て直されるのではないか。

 

最後にチャーリーですが、彼の最期はそこに至るまでの献身ぶりを考えると同情したくなる。忠誠心のようなものはあり、単なる憧憬を越えたものを持っていた(だからベンが自分を撃ち殺そうとしたことを理解した)のだが、しかし二人に比べるとその純度は著しく低い。それは、チャーリーの美学は己ではなくベンに依拠したものであったからだ。ありていに言ってしまえば自分がないのだ。

そう考えると、やっぱりチャーリーは違うかもしれない。むしろ、二人の美学の純化のために相対させられた当て馬に近いかもしれない。悲しいかな。

 

 

ソードアートオンライン オーディナルスケール

原作もテレビアニメシリーズも観てないのだけれど、なんかすごいなこれ。いや、一応ミーム的には♰キリト♰とか、なんとなく知ってはいましたけれど、これを直視できるいわゆるアニオタ的な人ってどんな精神してるんだ。

 

なんというかこう、セカイ系的なにおいを充満させたオタクの願望の開陳したものというか。これ10年代後半の作品てマジなのですか。いや、ゼロ年代ならまだ有効だったのかもしれませんが、これを今観て楽しめるオタクって相当なもんじゃないだろうか。まあ「HELLO WORLD」の監督なのである意味では納得するのですが…。

確かに「HELLO~」は演出レベルではブラッシュアップされているのはわかる世界の位相の違いとしてのCGの使い分けは、確かにこの「オーディナル~」ではVRとARの違いがかなり分かりづらく、たとえばEijiは一種のチートというか管理者権限的な支援を受けているとはいえ、明らかに現実世界の物理法則を下敷きにしたAR世界の動きを無視しているし。まあ最後のVRラスボス戦は派手派手にしてはいたので何となくはVRとARの違いは分からなくはなかったけれど。

あと全くシリーズを知らないからあのサイズが可変式の黒髪の妖精が謎なんですが。主人公とヒロインのことをパパとかママとか呼んでいるの、すげーキモイ(直球)んだけど。まあおそらく二人のパーソナルデータか何かを参照したプログラムか何かだとは思うのだけれど、そういう疑似的な子どもの存在を見立て疑似家族もとい家族ごっこ(だって子どもって言っても明らかにマスコットキャラ的立ち位置だし)を形成し、ひたすらゲームの世界に拘泥する。

バイク、というのも少し引っかかる点ではある。あるいは大学というワード。それらが示すものは日本アニメにおける「高校生」という概念の持つ永遠性というか終わりなきモラトリアムから、その先を意識しているのだろうか。

否。だと思う。そんなものは、結局のところオタクの背伸びに過ぎない。大学の講義で主人公がする質問の拙さ(周りの受講者が「おぉ~」というのを見て本質的になろう系であるのがわかる)、ギルドという疑似社会の、しかし結局は子宮的な微温しか持たない似非社会っぷりも含め本質的に社会は存在しない。

大人(=社会化された存在としての人間)の不在を描くのにゲーム世界、それも身体性(老いの反映と言ってもいいかもしれない)が如実に反映されるARが持ち出されたというのもうなずける。

あとですね、アニオタ的な恋愛()の終着点がセックスというのは(あーあの妖精ってもしかして前作か何かで二人はセックスしていて、その結果としてのメタファー的なあれなのか?)いい加減にして欲しいというかね。セックスがアニオタに神聖化されてるのって、それこそ宮台的に言う性の後退なのではなかろうか。

 

要するに肥大した自意識がひたすら閉塞しているばかりで世界が狭い。それは客観的視点の欠如(というか意図的に廃しているのだろう)からも見られる。ARというのならば、その下敷きは現実世界にあるわけで、ゲームに参加していない一般人からプレイヤーを見た場合、ひたすら虚空に向かって叫んだり蹴ったり殴ったりしている阿保らしい風景が現出するはずなのである。

実際、翌年に公開されたスピルバーグの「レディ・プレイヤー1」は、そういったシーンを都度都度見せていた。そこに客観性が存在し、バカバカしさへの視線が持ち込まれている。いやまあ、あれもあれで「結局かわいい女の子じゃねーかよ!」というツッコミは有効なのですが。

 

というか基本的なお話もなんか古臭いんですよね。死んだ娘をプレイヤーの記憶から再現って…それ普通にSAOサバイバーに事情を話せば協力してくれたんじゃないですかね。

あと22年の高校生がケータイって言うのかね。知り合いの高校生がケータイって言ってるとこ聞いたことないんだすが。

あーでも恵比寿ガーデンプレイスは以前はよく通っていたところなのであそこのシーンは好きでした。