「ヴェラクルス」
ベン×ジョー。
西部劇って今見返すと表現として危ういものが結構あると思うんですけど、これはまあそういうのを抜きにしてベンとジョーの関係性に耽溺できていい。オチも併せて尊い。
監督がロバート・アルドリッチということで私なんかは「何がジェーンに起こったか?」を想起してしまうんですよね、二人の関係性。
「初恋のきた道」
轍で始まり轍で終わる。
チャンツィーの素朴な可愛さがここまで全面展開されるのもそうないのでは。
「マッキー」
ハエ男。クローネンバーグではなく。序盤の展開からまさかの転生。しかもハエに。しかも異世界ではなく。
超カラフル。いや、いつもと違うテレビで観たから、というのもあるのかもしれませんが。あと後から調べてわかったんですけど、ラージャマウリ監督だったんですね。初のインド映画が「ロボット」だったので、インド映画というのは大体ぶっとんでいるものなのかと思っていたんですけど、特にラージャマウリ監督のはそれが強いかも。
率直に言って面白い。いやぁ面白すぎる。なんというか、日本の恋愛映画もこれくらいぶっ飛んでくれた方がいいよ、ほんと。
大体、主人公もそのライバルも本質的にはストーカーであって、何故スディープではないとだめなのかという明確な理由とかも特にないため、恋愛模様を真面目に見ていられるかというとそういうわけではない。
えーこれはなんというか、一種のシミュレーション映画として捉えた方がむしろいいのでは。要するにハエ+人間の自我÷リベンジ。といっても、そこまで綿密なシミュレートではなく、ある程度、というかかなりのレベルで戯画化されてはいますが、むしろだからこそフォークロア的なグロテスクさを持っているともいえる。
たとえばハエのCG、あれを雑なCGと捉えるよりはむしろこのバカバカしい内容にピッタリな塩梅と捉える方がいい。第一、こんな話で作り込まれたグロいハエを見せられても困るわけで。
にしても、やっぱりコミカルに描いているのにしっかりと流血していたり、肉をかみちぎるシーンをてらいなく描いていたり、やっぱりどこかおかしい。
ノイローゼになるよ、あんなの。事故らされてるし。グロいし。普通にホラーでしょ。
「ヒトラー暗殺 13分の誤算」
やるせない話だった。
これが実話ベースというところがまた、小説のようにはいかないのだなぁという感慨が。だからこそ「イングロリアス・バスターズ」みたいに痛快無比な作品が生まれもするのだろうけど。
「ガンカタ」
もといリベリオン。
中二病全開で大変よろしい。カルト映画とはこういう突き抜けたものである、ということの証左である。
みんなそろいもそろって感情むき出しなあたりの隙だらけっぷりなど、ガンカタの前には些事なのである。
「ザ・トーナメント」
全然ノーマークだったんですけど面白い。バトロワのパクリ、ジョン・ウィックの成り損ないとか、揶揄しようと思えば揶揄できましょうが。
ライライ可愛いし、アクションもかなり気合入ってますよね、これ。何気に予算もあるみたいだし。セバスチャンのパルクールアクションなんかかなり見ごたえありますし。
午後ローでやってたらかなり当たりの部類でしょう。
「ウォーターワールド」
これがコケたというのが前々から不思議ではあったんですが、決してつまらないわけではない。と言い切れないところもまた何かモヤモヤするのですが、そう考えるとなんだかんだでほぼヒットさせているマイケル・ベイというのは何やつなのだろうか・・・。
マッドマックスとインディジョーンズと、あとなんだろう。
午後ローでおなじみのあのテーマ曲は上がりますけど。
「タバコ・ロード」
23歳の年増というワードがあまりにも悍ましすぎてびっくり。いや、あくまでコメディなので本気なのかどうか判断しかねるのですが。
貧すれば鈍する。ではありませんが、テンションと勢いだけで笑わせてくれるカーアクションが最高でした。
なんというか、白痴的といえばいいのだろうか。
そろいもそろってテンションが高くて整合性のあるボーボボを観ているようですらある。
くそリアリズムのカリカチュアとしてもかなり嫌な後味。
「ぼくが消えないうちに」を大人の視点から再解釈した映画といえばいいのでしょうか。
吹き替えで観たのですが、堺雅人をキャスティングしたのはやっぱりクライマックスの展開の「倍返し」感のせいなのだろうか。
「何もしないをする」というのは実はシャーマンキングにおける葉くんのスタンスと同じで、(VSアイスメン戦で)アンナが「葉は何もしないをした」的な発言をしていたのにも通じる。まあ、あっちとはニュアンスは異なるんですけれど。
そういう意味で、何か新しい発見があったというわけではない。プーさんが「僕は何もしないをするよ」と発言したときは「お?」と思ったのですが、よく言えば「現実と上手く折り合いをつけた」という決着ではあります。ところがぎっちょんてれすくてん、逆に言えば「現実には勝てなかったよ・・・」という敗北宣言でもある。
そりゃそうです。娘も妻も家庭も仕事も、結局はどうしようもない現実であるわけで。もちろん仕事と家族を同列に語るのは大間違いですが、結局のところは会社に留まるという帰結はやはり回収とも受け取れる。まあ、部下をコミカルに描いていたことからも会社をほっぽり捨てるという選択は劇映画的に在り得ないとは覚悟していましたが。
名前は知っていましたけど、こうして何か彼に関連するものを読んだり観たりするのは初めてだったんですが、ユーモアのある人だったんですね。握手のくだりなんかは思わず吹き出してしまいました。
それと裁判に関しては、やっぱりなぁと思う反面「A3」の読後ということも相まってオウム関連の裁判の写し鏡として見ていたり。
「降霊」
大学時代、レポートのために黒沢清関連の資料をちょっとだけ漁ったことがあったのだけれど、そういえばと思いだして観る。
段ボールをはねていく車のシーンも、そういうアクションとして機能させようとしていることを考える。
それはそうと面白い。黒沢清の映画を観てると、画面に奥行きがあるだけでもう不安になってくる。カットを割らないで決定的な瞬間を捉える。
哀川翔のちょい役(約2分)というのも、色々と笑える。草薙君も出番は少ないのですが、黒沢映画には結構合っているテンション。
面白いのは霊が何か決定的な干渉をしてくるわけではないということ。ただ「いる」というそれだけで、生者を追い込むには事足りるのでしょう。もちろん、そこにはしっかりとした因果があるわけですが。
そういう意味で、これはホラー映画というよりは心霊映画と言える。や、演出はホラーですけお。
「彼女をHにする方法 ダメ男のために恋愛マニュアル」
「セックスなんてスポーツみたいなもんだと思ってた」と矢野くんはおっしゃっていましたっけ。いや、逆説の論法なのでそのあとに「神聖なものだったんだ」というわけですが。
セックスをコミュニケーションだとするならば(よく考えるとこの辺って壮大な矛盾をはらんでいるような気もするのですが)、この映画は一種のマニュアルにはなる。
ドイツ人らしい生真面目な映画であるんですけれど、ちゃんと笑える部分がある(そこがまた生真面目というか)。
まあでもあそこまでセックスに真面目になれるというだけでうらやましいというか、ヒッキー・キモオタな自分からすると恋人がいることがまるで所与のようにして描かれるこの映画には相容れぬのでござる(血涙)
「デイズ・オブ・サンダー」
トップ・ガンだこれー!
GotGでおなじみの若きマイケル・ルーカ―が地味に新鮮。
「女優霊」
三宅SDが言うところの心霊映画ではなかろうか。生理的に悄然させられるのですが、しかしこの類のオブセッションというのはいつごろから植え付けられたのかがわからない、という極めてジャパニーズ風俗というか文化レベルで根付いているもののような気がする。
ラストの引き込むところで、ドアを開けると煙が出てくるというのはやりすぎではなかろうかとも思うのだけれど。
「じゃあ自分が観たアレは何だったのか」という、過去に遡って恐怖を抉り出されるという因果は、一見すると不条理とは対極にるようにも思える。が、しかしよく考えたらその遭遇そのものが事故的であり不条理そのものであるわけで、女優に関しても転落死は不条理以外のなにものでもない。
Jホラーの恐怖というのは、何か派手に死ぬところにあるのではなく、むしろ唐突に平然と死ぬ、そういう現実の不条理の体現みたいなところにあるような気がする。
だから、女優霊の最後だったり、あるいはリング以降のJホラーのサービス精神のようなものというのは、一種のわかりやすさのような気もする。
「セルラー」
若きクリス・エバンスが出ているので観たんですが、このころからキャプテンな素養があったのですなぁ。
混線してしまうくだりとか、そもそもセルフォン自体が懐かしいんですけど、2004年にしては90年代な趣がある。
前半のけん引力は中々なんですけど、刑事が絡んでくるあたりからちょっと無理しすぎているような気もしますが。それにしてもすでに「スナッチ」や「トランスポーター」などで大物メインを務めはじめていた時期にもかかわらずどさんぴんな悪役をやるというのは結構好感触。
午後ロー感を強めた「ダイ・ハード」的、というか。
「オズの魔法使い」
授業とか資料とかでちょいちょい観てたことはあるんですが、通しで全部観たのは初めてですた。
豪奢なセットは、豪華な学芸会を観ているようですらある。言ってしまえば「セット」であることに臆面がないのですね、今の目で見ると。
別にそれが悪いというわけではないのです、決して。その異界感を楽しめるかどうかがこの映画のキモなわけで。
ドロシーが扉を開けてオズの世界に入る瞬間の映像。あそこは本当に鳥肌が立つ勢いでした。色あせた世界から千紫万紅の世界へと至る、あの高揚感。
夢みたい、というのはこういうことなのかも。
「顔のない天使」
ちょうど伊藤のメル・ギブ論(というかどこが好きかという話)を読んでいて、彼の求めているメルとは真逆のメルが本作で描かれるわけですが、いやこういうのも全然アリだと思いますよ。
チャックが誰かに似てるなぁ、T3のコナー君だ。と思った本当にニック・スタールだった。T3で落ちぶれたコナー君を演じていましたが、どうもウィキを読む限りだと私生活でもドラッグ漬けらしく、実はT3での犬用の薬を飲むくだりとかはガチだったのではと思いなおしたり。
本作ではカルキンにも似た愛嬌のある顔ではあるものの、やはりその転落を予感させるようなアへアへな顔を披露してくれてもいる。
機能不全、とまではいかないもののやはり平均的な家庭に比べると問題を多く抱えるチャックの家。そこで描かれる姉弟妹のやりとりが「20th century~」に勝るとも劣らないリアリティで笑う。
役者としてはともかく、こういう心温まる(笑)タイプの映画をメルギブが監督しているとは思いませんでした。とはいえ、ラストに至る以外では人間関係や町とマクフライの関わりなど割と苦汁をなめるような展開も続くのですが。
あのロケーションの自然が多い感じも含めて、恐ろしいほどストレートな物語。王道ってこういうものなんだろうなぁ、と思いつつも現代でこういう物語がどこまで通用するのか(回顧以外で)気になるところではある。
原作は読んでないので「トゥー・フェイス」のくだりがオリジナルなのかどうかわかりませぬが、あそこはナイス。
「テス」
この時すでにテスを演じたナスターシャ・キンスキーに手を出していたことを考えると、なんだかよこしまなことを考えてしまう。
あるいは、それが罪と知りながらそれでもなお愛を貫こうとする話は彼自身の性的倒錯に通じてしまうように思えてならない。
テスは徹底して被害者であって、クレアとの結婚あたりのいざこざはほとんどクレア自身の個人的な問題だ。まあそういう価値観は今も蔓延しているのだろうけど、最終的にアレックスを殺して彼女が処刑されるにいたることを考えると、彼の葛藤というものが陳腐に映る。それまで画面にはテスの苦境が描かれ続けたわけだし。
赦し赦されるというのは、クレアの苦悩を描いて初めて成立するトレードだと思うんですけど、まあこれ以上長くなっても困るわけで。
結果的にクレアの「あの男が死なないと~」という発言をテスは有言実行してしまうわけですが、徹底してクレアは何もしないんですよね。まあ彼自身のドグマと葛藤していたというのは、彼の親との対立が描かれているからわかるんですけどね。
これを良い映画、と言い切ってしまうと女性に対してあまりにも不健全な気もするのですが、「それでも好きだ!(大林一郎)」な倒錯したメンタリティは嫌いではないのです。
ストーンヘンジの隙間から太陽が昇ってくるカットの徳の在りそうなシーンとか好きですし。
「The EYR アイ」
中華ホラー。
霊能力者の目を移植したら見えるようになっちゃった; (ゝ∀・*);
という映画。
「インファナルアフェア」でも少し思ったんだけど、ジャンルに限らず安っぽいモーションブラーを使うのはちょっと。
あーでも、黒い影のCGはかなり良かった。いや、発想それ自体はかなりクリシェというか「本当にあった怖い話」とか「答えてチョーだい」とかのシリーズで腐るほど見飽きたーイメージではあるのですが、その質感が黒沢清というか「ALWAYS」の背景に映りこむCGの人みたいで結構怖いです。
「雨あがる」
犬HK、徴収やくざ、偏向報道などなどのそしりを受けながら良心を見せるBSプレミアム。
黒澤明が構想してたVerよりも終わり方は本編Verの方が良い。
三沢伊兵衛を演じる寺尾さんが最高。最近は映画にあまり出演しておらずドラマでの活躍が多いためあまり見かけなかったのですが(「キャシャーン」とか「博士の愛した~」以来じゃなかろうか)、やっぱりいいですな。
初めて意識したのはキムタクの「CHANGE」での黒幕だったので「悪い人だなー」という印象があったのですが、この「雨あがる」ではむしろ真逆のキャラクターなんですな。
元々の顔つきはどちらかというと温和な感じなので、こっちの方がストレートといえばストレートな適役ともいえるわけで。
あと三沢たよを演じる宮崎美子の佇まいも、今のクイズおばさんからするとちょっと驚くんですが。一歩引きつつ、しかし揺るがない芯を持ったキャラクターで素晴らしい。
それと辻月丹を演じる仲代達也がですね、一瞬本当に三船かと思うような顔と声の張り方でですね、びっくらしました。いや、普通にしゃべるときはそんなになんですけど、力のこもった発声をするときの声が結構三船に似ているんですよね。
ていうか、その辺はやっぱり狙っているんじゃないかなぁと。
この映画で描かれているような人としての振る舞いというのが今こそ必要なのではないかと。
ことに「慣習」というものに対してディスを放り込んでくるこの映画の在り方、伊兵衛という人間の立ち振る舞いの美徳。
伊兵衛の素晴らしいところは、人の厚意を受け入れることはあっても決して権威に固執したりはしないところです。藩主とのかかわりの中で彼はその人柄と剣の才覚を発揮し、その気質を気に入られ上下の関係ではなく個人と個人の合意によって指南役に任命される。だからこそ慣習や通念的なモラルというものが否定されるのでせう。
賭け試合自体も、本質はそれそのものではなく理由こそが本質にある。あるいはそれを義理人情とか呼んでもいい、ともすれば古臭く青臭い価値観のだろうけれど、ソーシャルジャスティスを振りかざす現代に蔓延する空気を穿つために必要なものなのかもしれない。
ともかく寺尾聰のいい顔が観れるというだけでも観れて良かったどす。