dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

フリーガイ

観てきた。「スーサイド~」とかほかにも観たいものはあったのだけれど、夏休みもあってか平日にもかかわらず人が結構いたので連続で観るのは止めておきました。

というか、座席数が半減しているので朝に座席を確認した時点でほとんど埋まっていただけなのですが。

知らなかったんですけど、これディズニー映画なのですね。アベンジャーズのネタの部分はそれかーと納得。でもディズニーが権利持ってるコンテンツのギャグを使ったところで、という気はしなくもない。シンプソンズにおけるFOX批判とかディズニーディスならともかく。

てかパンフレット作ってないんかい!あと観てないけど「竜とそばかすの姫」とも見比べたら面白いことになるのかなーと思ったり。観てないけど。

 

本題。予告編だけだと、どうも手垢まみれの内容なんじゃないかと邪推し、「ピクセル」みたいにダダ滑りするようなアレじゃないのかと思っていたのですが、思っていたよりは面白かったような気もする。どうでもいいことに気を取られすぎて楽しみ切れなかったような気もしますが。

まあ仮想世界のNPC(モブキャラ・・・モブキャラ?)が自分の存在とセカイそのものへの真実に気づく、というフォーマットや仮想世界(≒電脳世界)内の一存在である(でしかない)という設定自体はそれこそ「マトリックス」とか、近年でいえばアニメだけど日本でも「Hello World」とか色々あるわけですが、個人的にはそういった類のSF映画より、もっとこの映画に近く、かつ決定的に違っている映画として「トゥルーマン・ショー」があるのではないかと思ったりします。

それは「孤島を囲う海を渡る」というクライマックスシーンの共通点だとか、前述したSF映画のようなSF的知的好奇心をそそるセンス・オブ・ワンダーがあるわけではないから、というのもあるかもしれません。実際、「GUY」のAIに関するプログラミングに関するディテールは一切語られませんし(この映画においてそこは必要ないから)、細かい部分を気にしだすとキリがありませんし(どうでもいいけど「シムシティ」とかあるし自生するのを観察するゲームというのは普通に需要あるよね)。それこそ世界五分前仮説だとか、涼宮ハルヒ的な世界観を想起してしまうようなこともあるやもしれないですが、ぶっちゃけそういう話ではないわけで。

 

ただ、この映画の持つある種の楽観主義的(といいつつ、主人公のGUYはこの世界が偽物であるということに気づいてショックを受けて、作劇的には一瞬ですが自暴自棄になりかける過程はある)と言ってもいいような身体性への無言及は、イーガン的というかブロムガンプ的なような気もして、なんとなく存在論的な悲観とかがまったくないし、即自存在・対自存在への越境となるきっかけも、はっきり言ってしまえばキーズによる仕込みであるわけで(というかこの辺はスキンの問題なのか?)すが、ある意味では彼のデザイナーベイビーでもあるはずの「GUY」から彼への直接的な応答はなく、むしろ最後にはキーズとミリーのブリッジャーと化しているようにもみえる。にもかかわらず、「GUY」はあっけらかんとしているし、悪く言えばなあなあになっている。「GUY」自身がモロトフ・ガール(ミリー)との色恋に耽溺しない、というのはむしろ好ましいことである。キーズの存在がなければ。

そう、問題はキーズである。彼とミリーの恋愛は「GUY」とモロトフ・ガールのそれと重ねられている部分がある。それは演出だけでなく物語的な根幹にも関わっている。

それは言ってしまえば、「外部」の排除であるともいえる。その点において、この映画はセカイ系的であり、極めて人工知能的な世界観の(まあ主人公がAIなので正しいのでしょうが)映画でもあるといえるかもしれない。

ここでいう「外部」とは「真の世界」としての外界ではありませぬ。というよりはむしろ、絶対他者としての「外部」、「三体問題」における三つ目の天体、といった方がいいでしょうか。為念。

ラスボス(といっていいかどうか不明)がああいう姿だったのも、「Hello World」もそうだけれど、極めて納得のいく形であったと言える。

変転への兆しがキーズでなければなぁ・・・。

 

トゥルーマン・ショー」と違う点はそこだろう。「トゥルーマン・ショー」にとっての外部は、「フリーガイ」や、あるいはそういった電脳・仮想空間の外部としての現実世界ではないために、そこに神や真理といった期待・祈りを見出すことは事実上不可能なのです。無論、統御された現実という意味でシーヘブンを(MGS2的な)仮想現実と見なすことは可能でしょうが、繋がりつつも隔絶している=宙ぶらりんであるという点で、「フリーガイ」とそれに類する完全に分かたれている世界としての外部を描く作品群とは異なっている。

だからこそ様々な点で共通点を見出すことができるものの(海を渡るモチーフ、観る/観られる関係、メタフィクション構造など)、その結末が異なり、かたや実存主義を語るのではなく、かたや徹底して実存主義的な映画になっているのでせう。

 

ルーティーンを逸脱しようとするとほかのNPC被写界深度の浅い背景の戦車まで砲身を向けてくるシーンとか、ワイティティの韻を踏んだ喋りをする痛いおやじ(字幕だと全然ライミング拾えてませんが)とか、連続で二回轢かれるところとか、ふふっと笑えるシーンは結構ありましたし、「ゼイリブ」的な眼鏡使いとか、全体的には楽しめましたかね。