dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

新生自殺部隊

「ザ・スーサイドスクワッド」(以下「ザ」観てきた。前作(というかリブート前)やハーレクイン単体の映画とのつながりはどうなっているのか、とか考えだすより先に映画にドライブさせてくれた時点この映画の勝ちである、ということは言っておいた方がいいかもしれない。

実際、この「ザ」は今挙げたようなマーゴット・ロビーasハーレクイン映画のように、いわゆる(キャラクター)を前面に押し出すつくりの映画にはなっていない。冒頭のDIEジェストを観てもらえばわかるように、むしろそれらの(キャラクター)を前面に押し出し喧伝するような映画に対する悪意的とも取れるようなアバンをジェームズ・ガンは披露してくる。

ジェームズ・ガンはそもそも、キャラクターを立てるのにキャラクターを個として独立的に=記号として描くような作劇はしない。むしろ、各キャラクターを引き合わせることでこそ、それぞれのキャラクターの内面(とか書くとアレだけど)を引き出しキャラ立ちさせる。

 

だから、「ザ」のハーレクインとこれまでのハーレクインとのつながりだとかいうのはどうだっていいのだ。この映画に出てくるキャラクターは彼女も含め全員がそのやり取りの中で十全にキャラクターを発揮できているのだから。冷静に考えてみればわかると思うけれど、今回の「ザ」の部隊にははっきりとした異能的な能力を持っているのはポルカドットマン(以下「泡男」)とラットキャッチャー、見た目としてはっきりわかるナナウエ以外にはいない。

残りの四人に関しては徒手・刃物と銃と、そのスタイルがもろ被りしているのである。もちろん、細かい部分に差異はあるし、だからこそそれぞれのキャラクターが立つというものではあるけれど、雷が出たり魔術が使えたりとかそういう、花形の能力を持った奴らはいない。ルック自体はカラフルであっても、決して泡男の能力は「あんなこといいな、できたらいいな」とはならないし、ナナウエですら(あの見た目だからこそ)派手な能力を持ち合わせていたりはしない。ただ丸のみするのみ。多分、ナナウエが見た目に反してほかの連中よりもキャラが薄い(と感じた)のはほかのキャラクターとのやり取りが少なく、また自身のそのキャラクター設定的な部分にコミュニケーションが取りづらいというのもあるのだろう。言うまでもなく、彼が抱えるディスコミュニケーション性それ自体が彼の孤独を引き出させキャラ立ちさせてはいるのだけれど。

まあ、言ってしまえば、ジェームズ・ガンはそういった「異能」を他愛のないものだと感じている(GotG2)。けれど、そういった「異能」がどうでもいいものだからこそジェームズ・ガンはそういった輝かしい異能者も他愛のない異能者も、ヒーローもフリークスもないまぜにして、つまはじきにされるような外れ者を魅力的に描き出そうと腐心する。主にグロとゴアによって。

そういうのと、彼の中にあるコミカルな悪意が抽出されたのが「ブライト・バーン」だったのだと思う。あれはあれで結構好きだったんだけど、あまり当たらなかったのかその後の情報が出てこないのが惜しい。

 

前置きが長くなったが、この映画が素晴らしかったのは何もキャラクターが優れているからではない。いや、もちろんそれも一つの理由ではあるのだけれど、それも含めて「楽しく」て「正しい」からだと思う。ここでいう「正しい」というのは、ポリティカリーコレクトネスなんてものじゃない。為念。

この手の映画でちゃんと観ていて楽しいというのは、まずもって大事なことだと思う。ジェームズ・ガンはとにかく色彩豊かでドラッギーな描写をしてくれるし(ハーレクインの無双シーンにおける出血、泡男の能力それ自体、スターロなどなど)、大爆笑するような爆発力はないけれど、つい噴き出してしまうような場面はいくつもあってギャグセンスも高い。GotG2がくどく感じたのは、ゴア(による笑い)描写などを抑えられていたからだったりするのかもしれない。人があっけなく物体と化す可笑しみ、というのは確実にあるわけだし、それによるばかばかしさ(を反転して描くと反戦映画になったりするのだろう)というのもあるはずだ。

あるいは、これがヒーロー映画ではないからこそできるブラックジョーク。単なる勘違いで反政府組織の、味方を救ってくれた人たちを強襲してほぼ全滅させてしまうシーンなど、そもそもあそこまで周到に殺害シーンを描くことすらディズニー下では無理だっただろうし。

 

にもかかわらず、この映画の佇まいは「正しく」、それでいてイヤミったらしくもなく、だからといってド直球ストレートすぎるわけでもない。それはおそらく、これがヒーロー映画ではないことからくる、「なのだから」という押し付けがましい気負い(ヒーローの規範、と言っても過言ではないかもしれない)がなく、なればこそ「あの決断」が輝くのだと。

なんというか、ヒーロー(として形象される者)がヒーロー的な行動をすることの退屈さに対するアンチ、とでも言えばいいのだろうか。

ゼロ年代は、ヒーローのヒーロー的行動への問いかけというか、ポストヒーローともいえるような空気が漂っていた。それは理詰めによって「善意」や「良心」が無効化される世界観をノーランの「ダークナイト」が呼び起こし(マイケル・サンデルの『「これからの「正義」の話をしよう』がトロッコ問題を引き合いに出したのもそれだろう)、「ウォッチメン」もそれに追従するような形となった。それらがフランク・ミラーアラン・ムーアという80年代に起こったヒーロ―に対する問いかけ(闇への誘因)をした作家たちの原作を下敷きにしているのは偶然ではありますまい。出来栄えはともかく。これが両方ともDCコミックであり、「ザ」もそうだ、というのを考えるに、マーベルの示す方向性はやはり明確に異なっているように思える。

 

ゼロ年代のヒーローとは、「ダークナイト」のバットマン的なうしろめたさを抱えていたはず。しかしそれに対してマーベルは「アイアンマン」を筆頭とする陽気を放つ、「ヒーロー映画」群を作り「アベンジャーズ」においてそれをより肥大化させるに至った。この流れを、誰とは言わんが特定の映画ファンたちは称揚した。曰く、「ヒーローは人を助けてなんぼ(意訳)」、「DCはじめじめしすぎている(意訳)」などなど。ゆえに彼らは「スーパーマン リターンズ」には肯定的だ。

しかしProjectが、当の「スーパーマン リターンズ」に対して9.11以後のこの世界でスーパーマンを描くことは実質的に無理な話であると喝破したうえで、しかしジョン・ウィリアムスのあの曲をかけることによってのみ(その暴力的なまでの音楽の力によって)スーパーマンを顕現させた、と言ったように、本来はマーベルのようなヒーロー像(嚆矢であるアイアンマン筆頭)というのは、それが希望であるということは承知しつつも、やはりどこか欺瞞的ではあった。そもそも、「アイアンマン」公開当時からしてその欺瞞性(トニー・スタークのマッチポンプ、ひいてはつい最近のアフガニスタンの件におけるアメリカの立場にも直結するだろうし、「ヴェノム」すらあの体たらくだった)は指摘されてはいたわけで。

たしかにザック・スナイダーの一連のヒーロー映画はどうかと思うし、というか本質的にはあの人は絵面重視の人だと思うので、ああいう形になってしまったのではないかと思うけれど、かといってそれぞれのマーベル映画を、マーベルの放つ映画として全肯定することは、今振り返ると難しい。

 

だからこそヒーローではない存在として、ヒーローによって定義されるヴィランの映画である「ザ」は素晴らしい。

実際、ヒーロー映画がヒーロー映画たるためには、そのフォーマットにおいてヴィランが登場しなくては成り立たない。だが、ヴィランヴィランであるためにはヒーローは必要ないのではないか。現に、この映画にヒーローは登場しない。

これは、かなりラディカルに見える。なぜなら、この映画はとりもなおさず、ヒーローとは必ずしも必要ではないのではないか、ということを示しうるからだ。ヒーローなどいなくとも、それが人間の悪性=ヴィランであっても善良を引き出しうるのだと。

枢要なのは、スーサイドスクワッドがヒーローではなく、そして(喧伝のされ方がどうであれ)これがヒーロー映画ではないということだ。無論、前提としてのヒーローの存在は必要だったのだろうけれど。

ただそもそもからして、スーサイドスクワッドの面々が着任したのは善意のためではなく自分の命あるいは身内の命が惜しいからだ。もっとも、それ自体はきっかけに過ぎず、各々に行動の動機はあるのだけれど。

ともかく、ヒーローが「ヒーローであるから」と「必然的」に、宿痾がごとき規範、半ば機械的脳死的に行動を起こすのとは違う。

ヴィラン、ひいては人間は、その行動のために不断に思考し続け、一方で内発的な動機・レスポンシビリティーに応じなければならず、その葛藤の中にこそ真に善良なることを見出さなければならないのだと思う。

かたや、ヒーローとはヒーローである時点でそういった葛藤が生まれるより前に定義されてしまっている。ヒーローがヒーロー的な行動をとることの退屈さとは、そういうことだ。そのくびきに囚われないのは、マーベル映画の中では親愛なる隣人であるスパイダーマンだろうけど、「エンドゲーム」で没人格化した気がして、そのあとの「ファーフロムホーム」にはあまり乗れなかったのだけれど。そういう意味では「アメスパ2」は、エレクトロの誕生経緯なども含めてかなり自覚的だった気がするが・・・まあ続編が作られることはないだろうから仕方ない。

 

泡男が死んだ理由、なぜクライマックスのとどめがラットの大群だったのか。それもこれも、ヒーローに対するアンチにほかならない。と思う。

そもそもなぜラットだったのか。ラットという存在は、大量の日陰者、サイレントマジョリティーの周縁者の表象として機能する(翻って数の暴力にもなることは忘れてはならないだろう)。つまり有象無象。それがラットであり、それを統べる(というと語弊があるけど)人物にタイカ・ワイティティという大物を持ってきたのだろう。とはいえ、その配役に関しては「万引き家族」の池松壮亮の使い方に似た拒否感もなくはないのだけれど、ともかくその狙いは果たされている。と思う。

「エンドゲーム」のヒーロー大集結に対する一つのアンサーとして見てもいいかもしれない。

こう書くとティム・バートン的なフリークス愛の称揚というか、「ダークナイト以後」で「それはちょっと・・・」と思いかねないのだけれど、かといって、バートンのようなフリークス愛(それは自己愛に容易に転化しうる)に戯れるだけではない。

それを示すのが泡男の末路だ。彼はなぜ、あそこまで来て死んでしまったのか。それは「仮面ライダー竜騎」における東條悟の死に方(その直前のゾルダとのやりとり含め)の対極なのだ、といえばいいだろうか。

泡男は自分をヒーローだと、そう喜び勇んで自称した次の瞬間にあっけなく死んでしまった。さもありなん。この映画にヒーローはいらない。ヒーローとは欺瞞であり、そのようなものを排除し、それでもなお人は人として「正しさ」を成しうるのだと示さなければならにのだから。

 

「ヒーロー」という大きすぎる希望(それが虚構であれ)を拠り所にしてしまうと、人々はそれなしでは生きていけないのだと思い込んでしまう。その意味で、「ヒーロー」という概念はドラッグに近いのかもしれない。

だから、「ウィンターソルジャー」におけるキャップの演説=扇動によってシールドの面々が決起する場面のように、絶対強者=ヒーローの存在を必要とせず、バックヤードの住人がただ「胸糞悪い」という理由で上司の悪行(=政府の意志)を食い止める。

そのヒーロー不要の「正しさ」がこの映画にあり、それゆえにこのシーンにウルっと来てしまった。

 

こんなにふざけていて、かっこつけていないのに、こんなに楽しいのにラディカルで、かつ正しい映画というのは、なかなかないのではないだろうか。

 

どうでもいいけれど、ウィーゼルの挙動とかそもそものスタイルとかシェーンが演じてそうだなーと思ったら案の定で笑う。しかし、このウィーゼルが子どもを27人も襲って殺したという逸話やハーレクインと大統領の会話の「子ども」に対する「地雷発言」のことなどは、ジェームズ・ガンの例の一件の後と考えると妙に告解めいて聞こえてしまうのだけれど。どうなんだ、ジェームズ・ガン!?

あとマイケル・ルーカ―ほんとに好きだな!?