dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

クロパン2

眠気をこらえて「ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー」観てきた。IMAX3Dで。

金曜日とはいえ平日の昼間なのにハコがすごい埋まっててびっくらしました。まあ、予想はしていたので三日前に座席取っていたんですけどね。平日の昼間、三時間近くある、それもIMAX3Dなのに7~8割の座席は埋まってたのではないだろうか。なんだよみんな金持ちじゃん(感覚マヒ)。普通の上映型式の方もかなり入ってたので、マーベルブランドがかなり人口に膾炙したのを実感するとともに、チャドウィック・ボーズマンの件も少なからず動員に拍車をかけているのではないかと思う。自分は割とその口で、わざわざIMAX3Dの初回を観に行ったのはなんとなくチャドウィックの顔が浮かんだからというのはある。なんなら泣きに行っていたといっても過言ではない。じゃあ「21ブリッジ」観に行けよ(未観賞)という話なのですが、だからこそ「MARVEL」というブランドの力を実感しているわけでもあるのですね。

キャラクターと役者の紐づけに関しては「スパイダーマンNWH」や「ドクターストレンジMVoM」の方でも少し触れたのですが、キャラクターの強度を補強する装置としての役者の身体ガーとか、役者の「死」によってキャラクターと役者が同一化されることでもたらされるエモーションうんぬんかんぬん……ということは考えたりもしたけれど、基本的にはそういう面倒な屁理屈をこねくり回さずストレートに楽しんでいた。このランニングタイムでしかもお眠の状態で観て退屈せず見続けられたので。情動で引っ張られているという部分は大いにあると思うのだけれど。

ま、観客云々は「すずめの戸締り」に圧迫されて上映回数絞られてるから一回に集中しているというのが主な理由だと思いますが。

 

で、本題。

元々チャドウィック続投で進めていた(はず)のパート2で、そもそも彼を出演させることができない状況でどんな形でお出しされるのか、というのは誰しも気になるところだったと思うのですが、話の展開としてはハッキリと無難であると言えましょう。「スターウォーズ」におけるキャリー・フィッシャーや「ワイルドスピード」におけるポール・ウォーカーのように撮影の途中で亡くなったわけでもないのでフッテージを使うというわけにもいかない中でできるだけのことはやったと思うし、ティ・チャラ=チャドウィックという前提を共有している観客からすれば冒頭の祭儀からのおなじみマーベルロゴ(の特殊Verは、まあスタン・リーのこともあったので予想はできてましたが、なんならここで泣く準備もできてましたが、かなりしっとりとしていて思った以上に涙腺ゆるゆるに)の演出で泣かずにいられようか。

ここで力技で観客を説き伏せて映画を進めていくわけですが、「ブラックパンサーWF」は最後まで弔い映画として存在を主張し続ける(それによってちょっとした違和感も生じるのだが)。

画面がほぼ暗い色調で占められているのも、本作がラストに至ってようやくシュリ(を通して観客)が喪に服すことができるからではないか。

もちろん舞台が海底世界であるからというのもあるが、前作のセルフオマージュのカーチェイスシーン前後の夜の風景にしても色調が抑えられていることを考えると(だってIMAXでも暗いと感じるくらいでしたよ)、どうしてもそう思わずにはいられない。画面が明確に明るいシーンで繰り広げられることといえば、タロカンによるワカンダ侵攻シーンですからね。どうしたって画面から受ける印象は暗いものになりがちで、終盤にいたるまですっきりするシーンがない。

今までさんざんDCは暗いと言われてましたけど、「アクアマン」と比べたらむしろこっちの方がめちゃくちゃ暗いですからね。

ちなみにすっきりしないというのは、アイアンハートのDIYシーンも含めてのことである。というか、あのDIYシーン……もといアイアンハートシーンは丸々削っても話の整合性をつけようと思えば付けられるし、あのキャラのせいでランニングタイム伸びてないかというのもあるので、正直今作に限って言えばアイアンハートはいらない。「シビル・ウォー」におけるスパイダーマンに近いものがあるとはいえ、あっちに比べればうまく落とし込んでいるけれど、やはり色々な意味で「キャラクター」が弱いと言わざるをえない。

第一シビルウォー方式でニューフェイスを投入させる必要あったかな。ドラマやるならそっちで単独のオリジンやればいいでしょうに、本編の前にちょっと顔出しって平成ライダーじゃないんだから。

中途半端に「アイアンマン」オマージュシーンを盛り込むのも、そもそも原作を知っている人じゃないとそんなことされたってMCUでは(今のところ)トニーとのつながりはないんだし意味不明では。8月に邦訳コミック出てるようですが、そもそも邦訳コミック買うような層はそういう前提知っているうえで買うのだろうし。しかし「アイアンマン」オマージュが分かるという時点でアイアンハートの原作設定を知っているのだろうから、という製作の思惑にまんまと乗せられている気もする。

にしても、というのは否めない。空中戦もミッドナイト・エンジェルズいるから戦闘における必要性もそこまで感じないし。ていうか彼女らも最初から前線に配置させておけばいいのに。戦力の逐次投入は愚策ですよ。

デザインは嫌いじゃないんだけど、こと「ブラックパンサー」においてはノイズとまでは言わないまでももやもやするものが残る。

閑話休題

本作は弔い映画としての主張があまりにも強すぎるがゆえに、ぶっちゃけ観ている間はあまり意識していなかったのだけれど、弔い映画ということの他にもう一つ、マイノリティ側のリベンジ(はアベンジ足り得るか)の正当性を巡るものがこの映画にはあるという気がしてきた。

現実空間ではないとはいえ、重要な局面でキルモンガーが登場することから――ていうかネイモアの目的や行動の動機の段階で明らかですが――本作が一作目のラストがもたらした結果のバッドルートの一端であり、なおかつ前作のテーマの反復であることは明らか。

ただ絶妙に位相が違うというかひねりが加えられているのが、前作が「マイノリティの中におけるマイノリティの葛藤」の話だったのに対し、本作は「あるマイノリティと別のマイノリティの葛藤」の話であるということ。縦ではなく横の葛藤なのですよね。

それゆえに、前作よりもある種フラットな語り口になっているとはいえる。前作は、まあ、はっきり言って先代ワカンダ王たちがクソだった上に(MCU恒例のクソおやじシリーズ)、白人への復讐という正義を持ち、またジョーダン・B・ピールの演技もあってキルモンガー側にかなり感情移入してしまう(なにせティ・チャラですら非を認めるわけで)構造になっていて、キルモンガーを殺してしまうには惜しいヴィランだと思った人も少なくないはず。

しかし今回は同じく被侵略側でありながら異なる文化であり、同じくヴィヴラニウムを持つ国という設定であることから、立場は拮抗しており、ある意味でどちらにも正当性がある戦いなのでせう。

 

本作のヴィランと前作のヴィランはダブルでありながら絶妙にずらされており、そこにティ・チャラに代わってブラックパンサーとなるシュリが「前作の」ヴィランに近接するという構造になっている。要するに主人公が闇落ち一歩手前であり、彼女がブラックパンサーになる契機というのもその復讐心からくるものなのである。前述したくらいものが残る・すっきりしないというのは、このような物語展開も含めてのことだ。

これ自体はむしろ個人的には良いと思う。今までのヴィランは、少なくとも10年代序盤のフェーズ1(どこからどこまでがどのフェーズなのか正確に覚えてないけど)までは主人公=ヒーローの可能性としてのダークサイドであり、分かりやすい「コミック的な」悪役であり、それを打ち倒すことで自らの正義の正当性を担保していた。しかし、そこには自らの正義を疑うという葛藤はなかった。今振り返ると、初期アベンジャーズはロス長官を除いて全員が全員白人であることに苦笑してしまうのだけれど、つまるところ白人であり男性であるという絶対的な正義に疑義を呈する空気というのがあまりにも希薄だった。

それから10年が経ってこの「ブラックパンサーWF」において、女性であり黒人であるシュリは当然のごとく葛藤し、あまつさえ前作で打ち倒したヴィランに近接してしまう。その意味で本作のブラックパンサーの誕生シーンは、ヒーローの誕生ではなく厳密に言えばヴィランの誕生シーンと言える。であるとすれば、これは「ヴィランはいかにしてヒーローになれるのか」という話であると同時に「ヒーローはなぜヴィランではないのか」と読み替えることもできる。

というのも、ネイモアとシュリの行動の動機というのは、前作のティ・チャラとキルモンガーのそれと相似形であり、しかもそれがあるレベルでは逆転しているからだ。

述べたように、シュリはキルモンガーと同様にリベンジをその動機としている。一方で、ネイモアは確かに好戦的でありながらもキルモンガーほどの私怨ではなく、むしろ王としての民を思う公的正義に基づく精神=アベンジが協力な動機としてあり、このアベンジ精神こそがキルモンガーとネイモアの生死を分かつ部分の一つではあるはずだ。なぜなら、最後にシュリが復讐心(=リベンジ)を捨てたのも、自分のためではない母のため=利他性にあるのだから。このシーンでラモンダだけではなくタロカン側のフエン王女までもが回想されることからもわかるように(母性のムゲン性の称揚っぽくてちょっとアレなのだけれど)、彼女にはリベンジャーではなくアベンジャーとしての兆しが生じている。

だからこそ葛藤が必要だったのだろう。己への疑いなき正義=アベンジでは、10年前のそれに退行してしまう。葛藤し、不断に自らの正義を顧みなければアベンジャーたりえない。それが「ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー」が示した、現在地点の正義の語り口なのではなかろうか。

「どっちも悪」だとか「勝った方が正義」だとか、それっぽい言葉に踊らされるだけで思考放棄してるシニシストになってはならない。

 

そんなわけで概ね満足してはいるのだけれど、ちょっと気になるところも。

もはや宇宙規模での脅威はMCU世界では共通認識としてあるはずなので、地球上の種族での争いが描かれると大局的に観れば「お前らまた内輪もめやってんのか…」というしょうもなさが。まあそういう愚かしさというのはある意味リアルではあるのだろうけれど。

 

それと最後の最後にちょっとズレが生じるんですよね、映画と現実に。というのも、シュリは最後のシーンで「ブラックパンサー」のティ・チャラ=チャドウィックとのかけ合いのシーンを追想するのですよ。それ自体は良い。泣きましたよ、ええ。

しかし、である。「ワカンダフォーエバー」劇中においては、死んだのはティ・チャラだけでなく彼女の母親のラモンダもそうだったはずだ(もちろん役者であるアンジェラ・バセットは存命)。であるならば、ティ・チャラだけでなく彼女もいっしょに思い出さないと、チャドウィック・ボーズマン追悼映画としては満点でも「ブラックパンサー/ワカンダフォーエバー」としてはなんだかバランスが悪い気がする。いや、一応はご先祖空間で対面してはいるけれど。ちょっとだけ。

てなことを書くとまた役者とキャラクターの問題が浮上してくるのでこの辺で切り上げますが。

 

ちょいちょい背景の合成浮いてるのとかはもはやご愛敬ということでそこまで気になりませんし、「これ誰だっけ?」とか「なにそれ知らん…」という風になったりしない親切設計なのと、チャドウィック映画だからなのか今後の方針なのかわからないけれどポストエンドロールもなくしんみりとかつ本編以外のことを余計に気にしないでいいので、MCU映画としては久々にバースを気にしないで「ブラックパンサー」のことだけに集中できました。少なくとも本編だけを観れば。