「黄昏」
さっすがは名匠ウィリアム・ワイラー。
社会的正義や道徳、あるいは、というかそれを含めた結婚という制度を巡る映画と言ってもよござんしょ。フェミニズムの観点から結婚という制度がいかにセクシズムの上に成り立っているのか、ということは再三指摘されている通りだが、この映画ではそれを世間体(住まいの隣人たちからの評価が描かれる)という、システマティックではない空気のようなものによって浸透してしまっている様を描いている。この世間体というやつは、より広義に、ある価値観に基づいた「評価」を、その人の背景事情などを置き去りにしてしまうということでもある。だからハーストウッドの誠実な愛や結果的に盗みという形になってしまった事情を斟酌できる観客とは乖離して、劇中の人物たちは彼に盗人という評価を下し職につけないようにしてしまう。
また彼自身も「この年で定職についていない男はダメだ」というようなことを口にしており、そういった「○○はこうあるべき」という価値観を内面化している。
愛という情念と、それを上記のような社会の中にあって貫き通せるか否かというのが、この映画のエンディングにつながってくるのだろう。
愛が与えるものであるとするならば、「自分は何も与えられない」と思い込んでしまった人間はどうなるのか。
「アオラレ」
「激突!」じゃないですかヤダー。
まあラッセル・クロウはこういうことしそうだよな、という意味で適役ではある。見え透いた伏線もまあ、主人公のキャラクター性と結びついているのでそこまで気にはならないですし、テレビの音声でさりげなくラッセル・クロウのキャラクターの背景がわかるというのもまあわかる。わかるのだが、ロードレイジの割に頭が回りすぎるというか、頭に血が上ってという感じじゃないのがなんか違和感。
「ニック・オブ・タイム」
なんというかこう全体的にがばがばすぎて。夢のシーンとかも「いるかそれ?」だし、ウォーケン演じる男のイライラがこの映画そのものに対するストレスのようにすら感じられてきて、そういうウォーケンを観るという意味ではまあ。いやだめか。
「ボーダー・ライン」
前々から気にはなっていましたがようやく観る機会があったんで観る。ドゥニっぽさ全開で非常によろしい。何となくSF大作のイメージ大きいけれど、本作は「プリズナーズ」とかの方に近いかもしれない。ヨハン・ヨハンソンのアンビエントなBGMも相変わらずでよい。亡くなったのが非常に惜しい。
観る前はてっきりジェシカ・チャスティン案件な映画なのかと思ったのだけれど、むしろ彼女は狂言回しであり(劇中でもそのための役割を担わされていたことが明言される)、真の主役はベネチオ・デルトロであったという。ドゥニの撮り方は時間的にも空間的にも間を取ることが多く、ともすれば昨今の速さ(早さ)=正義みたいな風潮とは真っ向から反しており、しかしアメリカ(メキシコ)の広大で綺麗な空と狭苦しい街の対比や長々と車列を俯瞰で時間をかけて撮っていく様など、むしろ大胆と言ってもいいかもしれない。
ライティングにしても明暗がはっきりしつつ、ベネチオ・デルトロ周りの影の使い方の巧みさなど特に際立っている。
というか普通に面白い映画ですな。続編は脚本家は同じで監督は違うようですがあちらも割と評価が高かったような気がするのでそっちもいつか見たい。
「竜とそばかすの姫」
サブいぼ立ちっぱなしでした。これ細田守の映画の中で一番ひどいんじゃないでしょうか。奥寺佐渡子が脚本から離れて以降、細田作品の脚本の粗が指摘され続けてきたけれど、今回は頭からちょっと度し難い。モブのあまりにも説明的なセリフ回しに代表されるような、脚本段階からブラッシュアップしたのか怪しいセリフの数々に、主人公の人となりがまったく未知な段階での悲しき過去の回想。そしてこの回想=母親の死がトラウマである、というのはわかるのだけれどうまく物語・すずの心情とリンクしているように見えない。
「未来のミライ」まではそこまでひどいとは思わなかったのだけれど、今回はちょっとどうかと思いますさすがに。私は比較的に脚本のひどさとか気にならない(というか気づかない)くらい鈍感なんですけど、それでも今回はちょっと…。
クラスのマドンナ的なキャラクターの配置の意図はわかるのだけれど、ユーとアズの設計思想を含めそもそも何のための電脳空間なのかわからない。いわゆるメタバース的に機能させるにしても、なんでそこいらで戦闘可能なのだよ、と。GTA的な無法地帯なんでしょうかあれ。おばさん合唱の恋バナのくだり、オハイオ州に留学に行ってた、ってとこいる?どうみても自慢です本当にありがとうございました。とかまあ細かいとこが本当に気になってかなりノイズ。ただ美女と野獣オマージュシーンでCGでの1コマ打ちをしていたっぽいのですが、そこは絵コンテのうまさというか、キャラクターモデルに寄りすぎていないことによる作用か違和感なく観れました。ここは良かった。
まあ美女と野獣オマージュをやるのはいいけどルッキズムについての思慮が圧倒的に足りてないし、そもそも主人公側がやってることと匿名多数のモブ(このモブの描き方も書き割りすぎ)にやられてることが本質的に同じであるにもかかわらず、それに対して主人公側は無批判。そもそもアンベイルに至る描写が限りなくアウティングのそれ。
「パラサイト 半地下の家族」と同じく、坂による上下階層のモチーフを取り入れるのはいいのですが、あちらは一貫したテーマと描写が完全に整合していたがゆえの素晴らしさなので、あそこだけ切り取られて使われてもうーん…。あとなんですずちゃん一人で行かせた?みんなで行けばいいじゃないですか。
そもそもAdoやクラリスみたいに、歌姫が実は女子高生でした~とか、キャラ立ちまくりでしょそれ、と。「レディープレイヤー1」でもちょっと思ったんですが、すずちゃんが汚いおっさんとかおばさんとか、そういう風にしないとまったくもって妥当でしかない。
あとこれ、多分一部の邦画を除いてでもあるのだろうけど、特に日本のアニメの場合に顕著にみられるのだけれど、社会問題に触れるのはいいけど本質的に興味・関心がないのが観客にはわかるので、無理に触れるくらいならノータッチでいいです本当に。
まあ細田さんくらいのビッグネームになるとそういうのを意識しなきゃいけなくなるのだろうけれど、「サマーウォーズ」から「未来のミライ」までは極めて個人的な家族関係に留まっていたからこそ問題となっていなかったことが、それを社会にまで押し広げてしまったことでいよいよ破綻してしまったという印象。
劇場で観たらまた印象も違うかもしれないと思わせる程度には絵の力はあったけれど、それでも脚本上のノイズ、電脳空間の描写の稚拙さを補って余りあるほどとは思えませんでした。
全体の空気感は前作と同じではあるのですが、前作がCIA側が完全に制圧する側であることが透徹している。その意味でプロの完璧な仕事を描いたストレスフリーな映画であった。そしてその快哉具合に反してダーティでダークな雰囲気と後味の悪さこそが魅力であった。
しかしそれは、(政治的)情勢、パワーゲームによっていとも簡単に覆ってしまうこと、あるいは僅かなズレによってアレハンドロですら致命的な状況へと追いやられてしまうことをパート2では描く。前作が熱を抑えたアンビエントな演出によってその完璧な仕事ぶりにある種のリアリティを与えていたのを、盤上そのものをひっくり返すことでその完璧な仕事ぶりなるものが決して完全なものではないことが暴かれてしまう。だから、前作のようなものを期待していたら肩透かしを食らうだろう。実際、自分も前作の印象が強烈だったために「え、これでいいの?」と思ったのは事実だ。
一年後、というあの重要なプロセスを一足飛びにカットしてしまうテロップに面くらいはしたし、CIA側の顛末を描かなくていいのかとも思ったのだけれど、よくよく考えてみれば本作はミゲルの物語だったな、ということを思いなおし、ないものねだりであったことを自省した。あの作戦自体が中止になったことは語られている。それでもマットがあの後どうなったかというのはやはり気になるところではあるのだけれど。
ま、これはスターウォーズでいえばオビワンがアレハンドロであり、ミゲルがアナキンと考えればわかりやすい。いや、アレハンドロはむしろシディアスか。