dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

無垢者たち

各所で「童夢じゃねーか」「童夢だこれ」というのを聞いて公開終了前に観てきた。

いうほど童夢かな?と思いつつ明らかに狙ったカットがあって「童夢だコレー!」となったりしたのは事実だ。

みなさんはもうお忘れかもしれないが今から10年前(!?)に当時新進気鋭(と言われたかは知らんが)のジョシュ・トランクが監督した「クロニクル」という映画があった。彼のその後のキャリアは惨憺たる…というとさすがにアレだが、ともかくあれも「AKIRA」だと言われていたのを思い出す。

しかしあそこまで派手でもなければ、思春期の自意識を巡る葛藤のようなものが描かれることもない。超能力を扱う人物がティーン未満(わざわざ9~11歳と設定していることからもかなり意図的)の少年少女であるゆえ、もっと幼稚で単純な感情を動機としている。これがメリケンと北欧の違いなのだろう。マコーレ・カルキンの「危険な遊び」みたいな即物的な方面のサイコスリラーに行きがちだし。

どことなく「ハート・ストーン」を思い出したりはしたんだけど、あれはアイスランドでしたか。あっちはあっちで別に超能力とかないしティーンの自覚を持ち始めた少年の話だから違うんだけど、やっぱ土地柄的なものもあるんだろうなぁ。

閑話休題

劇中で超能力を使う子どもたちは皆、何かしらの傷――という言い方は確実に不適切に思えるというかそれだとアンナが疎外されるのでここでは「聖痕」と書くけれど――を持っている。それによって適切なコミュニケーションを取ることができず、そうであるがゆえに超能力というコミュニケーション手段を得たのだと思う。

けれど、そうだとするとアンナが生き残ったのは、彼女の超能力がアイシャやベンのように「傷」を根拠にしていないからなのではないかと逆説的に思えてくる。アイシャとベンの超能力の発露の仕方というのは、共感とケア・支配と強制という方向性の違いは明確にあるけれど、どちらも孤独と疎外感の埋め合わせとしてあるように見える。そうでなければああいう家庭環境の描き方にはならない。

翻って、アンナはそういうものに依らない。きっかけがアイシャであれ、彼女の佇まいは生来のものであるはずで、超能力によって(防衛目的や純粋な遊び以外で)他者をどうこうしようとはしない。ある種の「開かれた」状態にある。

四人の中でもっとも俗っぽく超能力を持たない一般人代表イーダが最も観客に近しい存在で、無垢であるがゆえに善悪に偏らないのではなくどちらにも傾斜しうる存在としてのアイシャとベンの代わりにそのどちらの偏りを行ったり来たりする。

そんな彼女が最後に覚醒し、姉のアンナと手をつなぎ共闘する場面は、スペクタクルもなければそんな熱いバトルマンガじみたものでもないのにやはりアガるものがある。

あと「真打登場だぜ」みたいな、マンガだったら「ドン★」みたいな効果音ついてそうな登場シーンとかあって、ギャップに思わず吹き出しつつもこういうのをてらいなくやってくれるのはグッとくるので好印象。

 

ロケに関してはノルウェーの住宅事情がどういうものなのかわからないので、「童夢」がそうであったように日本における団地という空間が持つ特殊性(ホラーやスリラーで選ばれやすい理由)と直結させるのは難しいが、少なくともこの映画においては団地の各部屋の同一規格性というものが「超能力を使った」描写をより分かりやすくしているというのはある。

別々の空間にいながら間取りが同じであることで、片方の部屋の台所で起きた出来事をもう片方の部屋の超能力者が同じく(何もない)台所を確かめるなど、空間の超越を分かりやすく描いている。

色調含め撮影も巧みで、ベンが幻覚を見せているパート以外はそこまで極端にすることもなく、ノルウェーは日が落ちるのが22時ということもあって常に一定の明るさを持っていて、その明るさのスペクトラムが良い。

派手さはないものの子どもに寄り添ったカメラと団地+森の中で捉える際の引いたカメラ、超能力殺人によるサスペンスや音(音楽だけでなく。ベンの嘱託殺人パートなど)の使い方も上手く、飽きさせることはない。

ただスラッシャー映画などと違って怪我や痛みの描写が生々しくて結構エグいのでその辺は耐性がないとちょっと気分が悪くなるかも。猫好きの人はかなり気分悪くなるだろうし。

 

あとこれは難癖なのだが、キャスティングについては思うところがある。この映画についてというよりも社会全体の認識と現実問題としてのギャップについてなのだけれど、要するにある設定(というか属性)を持ったキャラクターを登場させるにあたって、その設定を実際に持つ当事者に演じさせるべきだという問題。

それ自体についてはまあわかるのだけれど、ジェンダーや身体障碍については考慮される割に、精神障害についてはそもそもあまり俎上に上がらない気がする。だから、それを議論するにあたって、法律用語で「心神喪失」なんてものがあるように、そもそもメンタル系の人は役を演じられるのかという、それこそ今回のように自閉症という状態の当事者に演じさせることは可能かという別のフレームの問題にぶちあたるわけだが、しかし前述の属性を付与された人に比べるとここはそもそも顕在化すらしていないような気がする、というのを監督のインタビューを読んでいてふと思ったのだった。