dadalizerの映画雑文

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バリーの物語

いやーMCUが失速ぎみとかなんとか色々言われてるけれど、だからといったアメコミ原作映画が不振というわけではまったくないのだな、というのを「アクロス・ザ・スパイダーバース」に続いて「ザ・フラッシュ」を観て思った。

それにしてもこの二つの映画、日本では同日公開でありアメコミ二大巨頭の双璧であり、アニメーションと実写であり、同じようなテーマをかかげながらアプローチが好対照であるというのはなんかもうそれだけでお腹いっぱいなのですが、それはともかくこの映画単品としてももちろん楽しい。

自分はマーベル以上にDCについてはほとんど知らないのだが(もちろんMCU勃興以降の基礎的な知識としては理解しているけれど、ニコケイの没ネタとか一番最初のスーパーマンとか出されても今の観客は分かるのか?)、とりあえず既存のDCEUは観ておかないと置いてけぼりくらう感じはなくもないのだが、しかしそれはそれとしてしっかり「いまここ」のバリー・アレンの物語として一つに収まっていて良かった。大小さまざまなくすぐり要素はあるのだけれど、それはそれとして普通に楽しかった。ヒーロー側に死者は出るし親しい者の死の受容という重苦しテーマではあるものの、シリアスに固め過ぎずに最後のオチとしてのアレも(シューマッカ―が存命だったら喜んだだろうか)良い。

みんないい顔しているのだが、やはりエズラ・ミラーは良い役者だなぁ。彼の繊細さと陽気さのおかげで成り立っている映画であり、それは多分アニメーションとしてあのような選択をした「アクロス~」と異なりながらも説得力を持たせることができたのはやはり彼の身体によって立つところがあるからではないだろうか。

アニメーションとは、「描けばそこに(どんなものでも)在る」ことを可能にすることができるメディアであるがゆえに、無限並列に存在する数多のスパイダーマンの中のワンオブゼムとして、それはカットごとに変容するマイルスを筆頭としたキャラクターの無限性・無際限性が「すべて」を救うことへの希望を見出させる。それはある意味で無限のサルの話に近い。

一方で「ザ・フラッシュ」においては(もちろんCGは多用されているが)は役者の身体、その唯一性によって映画が担保されている。そう、だからこそ「過去があるから今の自分がある」という言葉には、その役者の重ねてきた年輪が刻まれており、それが演じるキャラクターに重ね合わされることで説得力を与えるのであり、瞬間瞬間(カットはおろか中割という単位ですら)で断絶を起こしているアニメーションという絵とは異なる強度を持っているのだ。

そう考えると実写映画「ザ・フラッシュ」における運命の受容とアニメーション映画「アクロス・ザ・スパイダーバース」における運命の打倒という、キャラクターなる概念を考えるうえでたどり着いた帰結の違いはそこにあるのだと思う。

どちらも、表現の手法とテーゼに沿った実に卓抜したヒーロー映画でございました。

こんな好対照な映画を同時代どころか同日に観ることができるというのは何気すごいことだと思いますよ。

「アクロス・ザ・スパイダーバース」とはまた異なる傑作として「ザ・フラッシュ」はある。