dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

犬(人)>人

これ主演ハリソン・フォードじゃなくてバックでしたね。いや本当に。

後半はダブル主人公な立ち位置ですけど、中盤までほとんど出番ないですしハリソン。

 

にしても、原作全く知らなかったのですが、リアル路線かとばかり思っていたので(モーションキャプチャーなのは知ってましたが)、しょっぱなから犬の描き方の擬人化度合いが完全にファンタジーのそれだったのでちょっと面喰らいました。

まあだからこそ今再びライブアクションとして映画化されたのでしょうけど。

ていうか監督のクリス・サンダースがアニメ畑の人だったんですね。「リロ&スティッチ」や「ヒックとドラゴン」の監督というのを見てあの犬たちのモーションも妙に納得というか。劇半も「ヒックとドラゴン」のジョン・パウエルですし、今回、劇半がいい意味でBGMとして機能していて、かなり端折ったりよく考えると気になる部分もあるのですが曲と映像の勢いでもっていってくれるのも、その辺のマッチング具合のなせる業でしょうか。

それとどことなく西部劇っぽいところがあったりするのは製作にジェームズ・マンゴールドがいるからだろうか。

 

冒頭に書いたようにこの映画はハリソンではなくバックが主役なのですが(日本版ウィキのキャスト欄にバックとテリー・ノートリーの項目がない。執筆者はやりなおすように)、じゃあ犬の映画なのかというとまったくそうではない。ちょっと調べたところだと、犬は一切使っていないようですし。

要するにこれ、人間を超えた犬を描くために人間の身体を依り代にしているわけですね。超人ならぬ超犬とでもいうべきでしょうか。

ヒトが犬をヒトよりも優れた存在として描き出すことは多分、無理なのです。だからヒトを超越した動物を描くために、人間の身体に犬を憑依させることでそれを達成したわけです。まあ、これはCGに限らず着ぐるみの時代からも行ってきたことではあるのでしょうが。

 

だからというべきか、この映画では人間のキャラクターはほとんどクリシェ的ですらあり、反対に半分「虚構」である犬こそが生き生きとしているのであります。どちらかといえば人間こそが添え物であり、それはハリソンも例外ではない。いや、良い演技してるんですけどね、ハリソン。金を掬っている皿に魚が置かれた時の笑い顔とか超萌えますし。

実際、劇中では犬が人間を助けてばかりいますし、オマール・シーが「バックがボスだ」と言うくらい(冗談半分だけど)犬がすべてを先導する。犬だけのシーンがかなり多いのも、それだけ超犬への自信が脚本家と監督にあったからでしょう。「これ人間なしでもいけますわ」みたいな。

超実写と言われた「ライオンキング」の例もありますし。

ただこっちは見逃していたりするのですが・・・。どうもディズニーは「ジャングル・ブック」あたりから動物の実写表現への注力ぶりが伺えるのですが、映画におけるテクノロジーを導入し続けるその指向性と資本力はさすがというか。

屋外ロケも一度もしていないというくらいなので、はっきり言ってしまえばこの映画のすべて、人間以外は作り物なわけです。

それはほとんどアニメーションである。

そう考えると、常にアニメーションの可能性をどこよりも誰よりも不断に模索し続けてきたディズニーは、実写映画化という手法すらアニメーションのテクノロジーに寄与させるための踏み台なのではないかとすら思えるほどです。

評論家の廣瀬さんがトークショーで「トイ・ストーリー4のウッディの顔に、私たちは(肉体を持った役者の顔に見出すように)見出すわけですよね(意訳&うろ覚え)」と言っていたように、ディズニーの実写に対するアニメーションの無限の敗北(project談)の歴史はここにきて異なる様相を呈しているのではないだろうか。

ただ、「ハウルの動く城」でもアニメーションでは不可能なことをある程度達成している、と氏は指摘していたりするのですが。

 

アニメーションはすべてが虚構である。それはまあ、ネットスラングの「絵じゃん」という突っ込みが適用されるように意識せずとも理解されているところではあると思う。が、ディズニーはそのアニメという「絵じゃん」という記号をテクノロジーによって超えようとしているのではないだろうか。

そう。だからあの時代に黒人がああいう職業に就いていることも、ポリティカリーコレクトネス的な云々ということではなく、「全部虚構なんだからいいじゃん。虚構の方が実物よりいいじゃん」というある種の開き直り、というか虚構の力で押し切れると踏んだのかもしれない。

いや、実際の歴史的にそういうこともありえたのかもしれませんが。

 

これ、ちょっとディズニー映画を実写とアニメーションの両方を全部追いきれてないのでわからないのですが、ディズニーはアニメーションによる実写映画への下克上を果たそうとしているのではないだろうか。

そう考えると劇中で示される「電報」という技術の誕生により犬ぞりで手紙を届けるという仕事自体が淘汰されてしまうことが示されるのですが、あれもなんだか意味深な気がする。

 

正直物語的には言いたいことは色々なくもないのですが、それもパウエルの劇半でそこまで違和感なく仕立て上げられてますし、許容範囲ではあります。

 

みんなが「ライオンキング」を観ていたときに思ったのはこういうことなのだろうか。たしかに、ここ一連の作品はかなり実験的ではある気がします。

 

その実験の先にディズニーが見出すのは、アニメーションによるライブアクションへの侵襲なのではなかろうか。

そこに到達したときに映画というメディアの在り方がどうなるのか。多分それは、死者をCGで再現することへの倫理問題とも合わさってくるのだろうけれど、実写映画における役者の不在、なんていうのも現実味を帯びてきている気がする。

 

余談ですがテリー・ノートリーさんは元々シルクドソレイユのパフォーマーだったんですね。そこから「グリンチ」や「猿の惑星」や「アバター」などにかかわってきたというちょっと異色な感じ。