dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

主演:NTR

てなわけでRRR。公開日を忘れていて、テレビで今日公開というのを見かけ「これ今日の内に観ないと絶対劇場に行かないだろうな」という直感が働いた。「バーフバリ」の監督ということで情報が出た当初から気になってはいたのだけれど、「バーフバリ」が都心のシネコンでしかかかっておらず、近所の映画館になかったので今回もそんな感じかと思っていたんですけど、

や っ て た。

というわけですぐに予約して観てきた。三時間の映画なので普段の私なら躊躇するのだけれどインド映画なんてどれも大体そんくらいのラニングタイムだし、監督が監督だから面白さは担保されてるようなもんだし、今までインド映画で劇場で観て退屈した記憶がないので、退屈しないかどうかは問題にしていなかった。懸念としては夜勤明けかつ寒くなってくると腰が露骨に痛み始める(仕事中などは特に)ので、三時間も座りっぱなしなのが気にはなっていた。

が、やっぱり面白さでそんなの杞憂に終わりました。などと言いつつタイトルが出る数分前あたりまではウトウトしてたのだけれど。

というのも、この映画アバンがめちゃくちゃ長いのですよ。タイトルの「RRR」が出るまでがそれぞれのRの意味を示す3つのチャプターに分かれているのですが、それが長い。30~40分は使っていたのではないだろうか。そもそも、3つのRの意味がチャプタータイトルの「STO『R』Y」「FI『R』E」「WATE『R』」から取ったものなのだけれど、頭文字でもないところに無理やりアナグラムをこじつけてるのはどうなのだ、と思ったらパンフレットのプロダクションノート読むと主演二人と監督の頭文字(Ram・CharanとNTR JrとRajamouli)からとったものを仮題としていた(エンディングのダンスのラスト付近で出張ってきたなぞのおっさんはたしか監督だったと思うが、なるほど)のがそのまま本題名となったとか。なお英語では蜂起・咆哮・反乱(Rise/Roar/Revolt)の頭文字を取ってるらしいが、テルグ語タミル語カンナダ語・マラヤ―ラム語では「怒り」「戦争」「血」を意味するRの入ったそれぞれの単語をRRRのサブタイとしているとか。しかしNTRってすごい略称ですな…特殊性辟のジャンル名と同じじゃないですか。州の首相も務めたことがあるらしいのでそちらの手腕もあるぽいですが。

というか本編のチャプター名もそれでよかったんじゃ……? 

火と水というのは主人公二人に対応させているのと、「怒り」~とかだと最初からクライマックス感出てしまうのでアバンでいきなりそんなんだされても、という気はする。

 

今作は「バーフバリ」のような叙事詩的壮大な話ではなく、1920年第イギリス植民地時代のインドが舞台で実在した独立運動の英雄を主人公にしたという話なので、あそこまでエピックなスケールが出せるのかと思っていたのだけれど、いやほんと、全然問題ないですね。関係ないんですもん、そんなことこの映画の発散するパワーの前では。

アクションシーンは、少なくとも「バーフバリ」と違って超人・神話的なバックボーンがないはずなのにやってることは「バーフバリ」と同じでバカバカしい(誉め言葉)アクションで、観たこともないバカバカしい(誉めてる)絵面が連発する。また画面上の空間の広がりというか画面いっぱいを使ってくれる絵としてのスケールが素晴らしいので変にこじんまりした話になってないのも良い。

そんなわけで最初から最後までケレン味全開で退屈しない。退屈はしないのだけれど、一つ一つのシークエンスとシーンが長い。なので長尺になる。ご老人が3回くらいトイレ行ってましたよ。狼→虎の場面のケレンとか物語上は別に必要ではないわけですが、NTRの肉体美を見せ、そのためだけに虎が暴れたり罠が上手く機能しなかったり、とにかくそんなんばっかです(誉めてる)。まあこの辺はインド映画のご愛敬ということで全然問題ないところではあるのですが、しかしハリウッド大作に比べてそういうのが愛嬌としてとらえてしまうのはなぜなのか、というのは自分でもよくわからない。一つには多分、ともかく楽しませようとするサービス精神によるところではあるのだろうけれど。

また、そういったケレン味にふさわしく(?)地味にバイオレンス描写にも躊躇いがない。だって始まって五分でいきなり太い木の枝で村民の女性がぶん殴られるのですよ。しかもそこ、アングルで少し抑え目にしてはいたけれど殴られる瞬間は地味にカット割ってないんですよ、確か。ほかにも面白殺害描写(放たれたや矢が刺さったと思えば木の幹に防がれて紙一重で助かった、と思いきや蹴りで幹を貫通させて殺されるモブとか)があり、全体的に陽気な雰囲気ではあるものの、よく考えるとゴアっぽい描写はある。面白殺人シーンはギャグになるけれど、獣に食われたり突き出た木に刺さるところとか、鞭もあったなそういえば……とにかく比較的ライトでラフではありつつも残酷な描写もかなりあるのでそっちの需要も満たせませう。この映画を観に来る人にどれだけそのような趣向があるのかわかりませぬが。

 

そんなわけで、この映画に関しては細かいことは気にしないに尽きるし、細かいことを気にさせるような映画ではなくパワーでごり押ししてくれるので問題ない。「お前足怪我してたのにちょっと薬草塗ったらめちゃくちゃ動き回るじゃんか」とか、そもそもその脚の負傷自体が肩車アクション(発想が天才のそれ)のための取って付けたようなものだし(あんなフィジカル持ってるやつがそんなことで足怪我するかいな)。まあダブル主人公として立てるならそっちのシーンを先に持ってきた方がよくない?と構造的な部分に気になることもなくもないのだけれど。

一方でおなじみのダンスシーンについては、劇中のダンス(バトル)は物語の流れとしては珍しく唐突ではなく違和感のないダンスへの導入になっている。このナートゥダンスのキレがすさまじい。また、それがエスニックな文化による、「侮蔑された者がその者たちの独自性によって跳ね返す」カタルシスに繋がっているので、単純に観ていて楽しいのもあるのだけれど、そういうエモーションもありさらにグッとくるのである。

インド映画におけるダンスって主に集団で繰り広げることが多いと思うのだけれど、その集団によるフィジカルの凝集の運動によって彼我越境をしていくダイナミズムこそがほかには見られないものなのではないかと思ったり。

だから、鼻持ちならないイギリス人ですらその土俵に巻き込んでしまう。しかもごく自然と。まあ、一応はダンス対決の様相を呈するのですが、それはダンスの質による勝負ではなく疲れて踊れなくなった方がの負け、という体力=純化された身体性に根付いており、テクニカルな要素でないもっと原初的な何かであるというところに凄みがある、と思う。ちなみにこのダンスシーンは2021年にウクライナの首都キーウで撮影されたんだとか。それとこの映画の「戦って自由を勝ち取る」というスピリットが奇妙なシンクロニシティをみせるな、と。

ところで似たような感触を受けた映画を、その映画を観て以来、このダンスシーンを観ていて思い出したのだ。ルーマニアの「ハートビート」という映画のバイオリン対決シーンがそれなのだけれど、どちらも音楽と身体の、テクニックというよりもその動きのダイナミズムそのものによるある種の超越がもたらされているということなのだろうか。

 

過去回想シーンが過去編並みの尺だったり、よく考えたらヒロインの扱いなんかセクシズムとレイシズムに近接していないかそれと思うような、西洋的価値観の内面化ではないかと思わなくもないのだけれど、むしろ彼女に関してはヒロインとは思えないぞんざいな扱い(後半はほぼ出番皆無で、すべて片が付いた後にビームのそばにいつの間にかいるという)なのだけれど、それを言ってしまうとこの映画の物語はアンチイギリスでもあるのである意味でそれに則っているというか。エンディングのダンスでチラッと出るが。エンディングといえば、背後に連続して出てくるいろんな偉人の人の解説もパンフに載っていましたが、基本的には独立・あるいはコロニアリズムに対して抗った人たちという理解でよろしいかと思います。

 

あと特筆すべきはブロマンスね。一応、ラーマの許嫁のシータはビームにあてがわれた定型的すぎるイギリスブロンド美女とは違い後半はちゃんとヒロインムーブしているのだけど、どうひいき目に見ても完全にヒロイン二人はラーマとビームのブロマンスへの当て馬である。「あの子に声かけろよ(意訳)」とか、本妻(夫)としての絶対的な余裕からくるセリフでしょう。

アクションに関しては言わずもがなですかね。まあともかくおバカ(誉め言葉)な絵面が満載なんですけど、そういう超人じみたアクションだけでなく連続した動きの中でのマーシャルアーツというか関節技などの組み合わせが他ではあまり見ないのでここは結構新鮮でした。また前述した肩車アクションシーンもヤバイです。すわ山田風太郎の剣鬼喇嘛仏かと思わせる一心同体いや二身同体の垂涎ものアクションでござい。特に二人で織りなす銃の装填のカッコよさは「ターミネーター2」スピンコック以来ではなかろうか。

ただ、スローの演出などはガイリッチーとかマシューヴォーンとか――ザックスナイダーも含めていいとも受けれどーーを思い起こさせる。イギリス植民地反転攻勢映画のアクション表現がイギリスの映画作家を想起させるのは倒錯した感じがして興味深いというか。

 

ラストはまあ、よく考えると武装蜂起なので無条件の全面肯定はちょっと難しい(まあ仕方ないし、現実としてそれ以外に手だてがないのだろうけど)のですが、これって「ブラック・パンサー」におけるキルモンガールートの前夜で終わり、ということなのですよね。なんかそう考えると肯定せざるをえないというか、「ブラック・パンサー」の正しさの裏返しとして考えると、こういう在り方もあっていいよな、と思えるのだ。