dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

描写に容赦なし

大味な娯楽映画だと思っていたら荒肝を拉がれた。エメリッヒの「ホワイトハウス・ダウン」と同時期に公開された「エンド・オブ・ホワイトハウス」なのですが、ダウンの方は見ていないのでちょっとこっちも見てみたかったりする。で、エンドオブ~の方なんですけど、これが予想外に面白かった。まあ誰が監督をやっていたのか知らなかったので見くびっていたというのもあるんですが。見る直前に監督名を確認したとき時点でつまらなくはならんだろうというのは確信していましたが。本作の監督、アントワン・フークアの作品は「トレーニングデイ」と「マグニフィセント7」のみの鑑賞経歴ですが、両作品とも良質な一品であったので、そういう意味で期待通りでした。

 まーお話としてはホワイトハウスが選挙されて大統領が人質に取られて、アメリカの保有する核兵器でアメリカがピンチって話なんで、特に目新しさはないんですが。まずひとつにアクションがすごく見やすい。カット割りとかも適切でベイのようにわけわからないということにはならない(ベイを基準に語るのもアレなんですが)し、問答無用の殺戮描写ははっきり言ってエンタメ作品としてのバランスではないです。上空からの掃射でシークレットサービスどころか一般人まで体に穴があいていく。しかも尋常ならざる人数が。そこからは主人公の元シークレットサービスホワイトハウスに入っていって救出していくって感じ。

朝鮮系のテロリストっていうのが中々興味深い部分ではあったのですが、今のアメリカの現状とかこれまでやってきたことを考えるとどこの国からテロを起こされてもおかしくはない気がする。それこそアメリカ人からすら狙われてもおかしくないんじゃないかしらしらしら。あと自分たちの保有する核兵器でピンチになるっていうのは溜飲が下がる展開です。最後の解除コードを入力するあたりとかあっさりしすぎてるきらいがあるんですが、間違いなく面白い作品なり。ホワイトハウス・ダウンは午後ローでやったらしいですし、こっちもやってくれていいんじゃないの。

戦場が変われば描かれるものも変わる

なんていいつつ、描かれるものは基本的に同じ。どちらも、当然といえば当然なんですが。しかし久々に見ている途中で少しお腹が重くなる映画でした。ええ、ハクソー・リッジです。

 良くも悪くも色々と目立つメル・ギブソンが監督としてはおよそ10年の作品ということで各所で話題になっている本作。俳優としてはリーサル・ウェポンとか最近だとブラッド・ファーザーを観ていたりはするんですが、実はわたくし、メルの監督作品はこれがファーストコンタクトだったりします。とはいえ、監督としてもアカデミー賞を取っていたりするので、監督としての腕前が確かなことは知っていたので、不安などはなかったのですが十分わたしの期待に応えてくれる作品でした。

 やはりというべきか、プライベート・ライアン以降の戦争映画を描こうとするとき、監督は「意識してしまう」という宿命から逃れ難いのではないでしょう。実際、つい最近になってようやくライアンを観賞した自分でさえその衝撃は凄まじいものでしたから、戦争映画を撮ろうとする監督は、それが相当な力量のある監督であればあるほど脳裏をかすめてしまうのではないでしょうか。戦争映画、とりわけ本作のように史実に基づいたもので半自伝的な物語では、どれだけのリアリティが出せるかということがやはり重要なファクターになってくるはずですから。そしてその点において、このハクソー・リッジは確かにライアンに比肩する戦争映画であると言っても過言ではないでしょう。そして、沖縄での戦いということで、どうしても日本人である我々は意識せざるを得ないという点で、わたしもライアン以上にこの作品に思い入れてしまいました。

 なんて書くと、日本人で日本が舞台になっているから~と思われがち(完全否定はできませんが)ですが、実際のところは主人公デズモンドのあり方に胸を打たれたからっていうことなんですけどね。

 ガーフィールドはサイレンスでも殉教者を演じていましたが、本当にこの人は表情の機微で人間の内面を描くのが上手くて、見てるだけでどことなく人間性が垣間見えてくるのですよ。強さと弱さを持ち合わせている等身大の人間を演じさせたらピカイチです。そう考えるとスパイダーマンという配役も今思えばかなり合っていたのだと思ふ。

 あとヒューゴ・ウィービングのオヤジのやるせなさ。メガトロンの声優として私の中でお馴染み、マトリックスのエージェント、あるいは指輪物語にも参加してしましたしそれなりに追っかけているつもりだったのですが、もう60近いんですねぇ。

 あと大佐役の人、声がすっごいかっこい。

 予告では「武器を持たず~」という言葉で簡単に言っていますが、実際に本作を見ていると武器を持たずに線上を駆け回ることの驚怖と異常さ、そしてその決意の強さが尋常ならざるものであることを思い知ります。こればっかりは、映像を観ないと実感できないことでしょう。

 プライベート・ライアンみたいに前編まるごと戦争を描いているわけではなく、前半はデズモンドが衛生兵になるまでの過程、なぜそうまでして人を殺すことを忌避するようになったのか、そしてなぜ戦場で救うことを望むようになったのかということが丁寧に描かれます。ベルトとレンガに託された表裏性など、演出のきめ細やかさはわたしのイメージするメルという人物からはかけ離れた繊細で、感嘆するばかりでした。

そうそう、これは今までの戦争映画であまり見たことがない描写として「敵としての日本兵の恐ろしさ」があります。日本兵の自爆。それを敵軍から観たときの鬼気迫る表情と驚怖というものを味わうことができました。同じ日本人ながら、ここで少し泣きそうになってしまいました。そこまでしてなんの意味があるんだろうと。それと白兵戦が執拗に描かれていたのも中々面白かったです。これもライアンにはない部分でしたし、戦場が違えば描かれるものも違うということを如実に表すものなのだなと。

あと特殊効果がすごいことに、今回の爆発はCGじゃなくて飛び散っても危なくないものを使ったりして本当に爆発させてるらしいです。なんだか質感が違うなーと思ってはいたんです(違和感があるという意味ではなく)が、ガチ爆発だったことに驚きました。

 うん、これすごい面白いです。

フィフティシェイズオブグレイとトランスフォーマーから見えた内面の醜悪さ

なんて書いておきながら「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ(面倒なので以下50と略す)」の方は見たことがないという。曰く、成人女性向けの「トワイライト」シリーズであるとか。まあトワイライトシリーズも見たことがないんですが、両者がどういう作品なのかは「the honest trailer」で知っている程度なのですが、まあその程度で十分でしょう(オイオイ)。

 じゃあなんで「50」なのかっていうと、GyaOで「ナインハーフ」を観たからなんですよね。「ナインハーフ」を観ていて「うわーこれ50っぽいなー」などと「50」を未見にもかかわらず思ったのですが、どうやら「50」の監督は「ナインハーフ」を参考にした部分もあるらしいので見当違いではなかったという。「ナインハーフ」自体はミッキー・ロークの若さに驚いたり官能的なシーンだったり色々と楽しめないこともない作品ではありました。ここまで突き抜けて楽しまれたらそりゃ見てるこっちも「楽しそうだなー」とちょっとした多幸感を味わえますよ。あと音楽と官能シーンの組み合わせがなんとなく「フットルース」っぽいなと思う部分があったり。まあ、そんな程度です。

 で、ようやくタイトルの内容にうつるんです。50の原作は本国のみならず世界で大ヒットしたネット小説らしいのですが、聞いたところによると(そんでhonest trailerも)内容やクオリティも含め「恋空」のようであるとのこと。横書きなとこまで恋空と一緒らしです(すっとぼけ)。まあ、端的に言ってしまうといわゆる「なろう系」のアメリカ成人女性版なのでしょう。そんでもって映画の内容も原作そのものということもあってか、ラジー賞を5部門さらっていったようなのですが、興行収入に関しては5億ドル超えとかなりのもの。日本でも続編がこの間公開しました。映画としての評価が低く、自分を含めた映画好き()や男性諸兄から失笑を買いながらも大多数の女性の心を掴んで離さない。はてさて、この構図どこかで見たような気がします。

 そう、「トランスフォーマー」です。わたしの劇場映画の原体験であり3桁はディスクで観ているであろうこの作品とまったく同じ構図なのです。普段は映画に対して思ったことを素直にぶちまけ、つまらないと思ったらつまらないと言いますが、ことトランスフォーマーに関しては「別にいいんだよ、爆発とロボットの戦いがありゃ十分だろがい」というダブスタを発揮いたします。まあそれでもロストエイジに関してはさすがにつまらなすぎたわけです。作家性は全面に出ていましたが。わたしは「なろう系」と呼ばれるものや粗製濫造される深夜アニメ、少し前まで溢れていた酷すぎる邦画に対して批判的であり、それに甘んじる制作側や消費物と欲望処理装置としてのみ作品を享受する受け手を蔑んでいます。

内面の醜さとは、この二律背反にあります。はたして、トランスフォーマーに対する自分のスタンスは自分が嫌うこの連中とどう違うのだろうかと。もちろん、「トランスフォーマー」という作品が当時としては革新的であり少なからずボンクラの映画として物語を綴っていたことや、そもそも原作の持つ楽しさは粗製濫造のそれらとは異なっているというのは贔屓目に見ても確かではあります。でも、抽象化して類推したとき、自分が嫌っていたはずの大きな流れの一部であることに違いはないのです。

ダメ映画でありながらも多数の客の需要を満たすこの構図は共依存です。制作側も観客側も物語ではなく欲望を満たし合うだけという堕落した関係なのです。物語を語る真っ当な映画とそれを真っ当に批評するような、お互いに高め合う切磋琢磨の関係と真逆です。

 伊藤計劃が「キャシャーン」に対して抱いていたアンビバレント(でもないか…?)な思いと似ているのかも。もちろん、「キャシャーン」と「トランスフォーマー」シリーズに関してはバジェットやCGといったもの以外に、監督としての技量や製作総指揮といった各種のスタッフ力が雲泥の差ですから、単純に横に並べるのは双方にとって失礼なんですが(インディー系でしがらみなくやりたいことをやった桐谷と、爆発があるといえどある程度のハズブロからの制約があって縛りのあるベイとじゃ作品の方向性が違う)。

 まあ事実の理論負荷性からして、完全な客観性なんてものは存在しないのですが、最近はあまりにそういう風潮があるような気がしてならないので、自分を戒めるためにもアウトプットした所存なり。

 「バチェロレッテ」とか「8 1/2」とか「ヘルタースケルター」とか「ブレードランナー」とか、最近観た映画の感想もないこともないんですが、こんなところでしょう。

笑って泣けて、最後には感動が待っている

なんて書くと安っぽい宣伝文句みたいになってしまう。思うに、こういう考えられていないキャッチコピーってある種の言葉狩りなのではないだろうか。ある文脈上で特定の言葉を使うことで、言葉そのものがひどく希薄になってしまう気がして。そういう意味では、ジブリのキャッチコピーってやはり優秀なのだなーと、製作過程を見るに思ったりする。

 まあ、なんでこんなことを書くのかといえば「ブライズ・メイズ~史上最悪のウェディングプラン~」を観た感想を一言に押し込んでしまうと、まさにタイトルとおりになってしまうからなのです。正確には「笑えるのに同時に胸が締め付けられるような映画」という感じですが。

 ポール・フェイグ監督作品とのファーストコンタクトは昨年の「ゴースト・バスターズ」だったこともあり、そこまで注目していたとかそういうわけではないんですが、ハゲがラジオで割と推していたのでBSでやっていたのを録画して見たのが「ブライズ・メイズ」でした。まーともかく面白い。下ネタもバンバン投入してくるんだけれど、馬鹿らしいものから割と笑えないものまでたくさん。アメリカではマスターベーションにテッシュを使わずベッドなり靴下なりにそのまま射精するという文化は以前から知っていたので、「シーツが割れた」という下ネタは思わず吹き出しました。出てくるキャラクターが全員魅力に溢れているのがよろしいのです。ケーキ屋の看板の名前いじりとか小学生レベルの下ネタも、クリスティン・ウィグ演じるアニーの置かれた状況があまりにどん底であるがために笑うに笑えない、けどやっぱ笑っちゃう。低俗でありながらも奥深い(なんて書くといかにも浅い感じがするのだが)、そんな絶妙なバランスが心地よい。

 「人生から逃げるな」。これをコメディ色の強い作品で、しかも重みを持って登場人物に違和感なく言わせることができるって、もう相当な力量でしょう。親友とも喧嘩してしまい、いっときはいい感じになったポリスとも険悪になり、ナンバーワンのベッドバディでもなかったことを知らされるところとか、笑えますけどはっきりいって状況としてはかなり悲惨。悲惨だからこそ、笑いとばせというメタな視点もあるのかもしれない。

 そしてそのキャラクターたちを見事に成立させている役者たちのアンサンブルとでもいいますか。クリスティン・ウィグはゴーストバスターズでようやく意識し始めた程度だったんですが「宇宙人ポール」とか「オデッセイ」にも出ていたのに気づきませんでした。マーヤ・ルドルフもどっかで観た顔だなーと思ったら「26世紀青年」でした。あれもインパクトの強い作品なんですが、やりたい邦題のせいで割食ってる感じがしないでもないんですよね。あとはメリッサ・マッカーシーですか。この人のキャラがもうともかく色々と下品で最高。洗面台で脱糞するところとかもう色々とひどい。この人の役、途中までは本筋に直接絡まない我が道を往くギャグ要素でしかないと思っていたんですが、実はそれこそがクリスティン・ウィグにとって重要なことであったりするんですね。

 何気ない演出も上手い。アニーがメールを送ってそれぞれの女性から電話で返信をもらうシーンで、メリッサ・マッカーシーだけよくわからない機器に囲まれた空間から電話をしているのが映し出されるんですが、それが後の展開に繋がってくるという。まあここはぶっちゃけ本筋とはそこまで関係ないといえばないんですが、やっぱりメーガンという人物造形の根拠になっているわけで、そういう伏線がうまく生きていたりもする。

ほかにもヘレンの娘の反応とかも最高なんですよね。画面にアップになって「so ausome」と口にする前からニマニマしているのとか。

コメディ映画と侮れない、観ていて目を背けたくなるような部分もありながらやっぱり笑える。人生に背を向けているような自分に後ろ指をさすような、素晴らしい作品だった。

こどもつかい

春日太一が邦画に対して指摘していたことがそのまんま当てはまる作品だった、と。退屈であくびが出まくってしまった。頑張れば寝れたかもしれないけれど、守銭奴なわたしはどうにか耐え忍んだ。

なんて書くとつまらない作品だと思われるだろう。実際、そこまで面白い作品ではないのだけれど、清水崇のフォロワーではない自分にとって呪怨しかまともに知らないので、どうしても相対化したくなってしまうのである。もちろん同じ監督で同じジャンル映画を撮っているのだから、比較してしまうのも仕方のないことなのだけれど、やはり呪怨に対して面白くない。デジタルで撮っているのだろうけど、画面の質感がどうにも作風とマッチしていない気がする。というか、ホラーに関しては(作品にもよるとはいえ、特にJホラーは)アナログ撮影のほうが適しているのではないかと思う。

ところどころの演出はやはりというか、上手いところも見受けられる。同じ画面の中に二つの異なる世界を同居させる演出や、異界表現として画面そのものではなくカメラを傾けることで表現している部分などは感心しました。また、門脇さんのオーバーアクトはともかくとして、中野遥斗が演じる連くんの肩の根性焼きに対する過剰な反応も、後々の回想で裏付けされますし、そういう細かい部分の演出はすごい良かったんですよ。直美が掴んだドアノブの向こうで起きていたことは……っていうのも観客の想像力をかきたてますしね。まージャンル映画的なサービスのつもりなのか知りませんが、実際にその画面を見せてしまうのはいかがなものかと思いますが。「アイアムアヒーロー」くらい徹底して描くならともかく。

ただ話運びが退屈すぎる。冒頭で書いた、春日太一の指摘していたことというのは「人間を描きすぎてつまらない」ということなんですよね。その点においてこの映画、主人公である直美、タッキー演じるこどもつかい、それどころか後半に登場するキーマンのじーさんまで描く始末。直美は話を回す役割を背負っているので、むしろ描かなければならないのでそれ自体はともかく、回想しすぎ。確か、押入れに閉じ込められる幼少の回想場面が3回はあったと思うんですが、後のことを考えても2回にまで減らせるはず。あとあと、おそらくは「虐待された子どもは、親になるとその子どもに虐待する傾向にある」ということを示したかったのでしょうが、その割に直美のお腹の中の子どもについての話はどこいったのか行方知れず。あとこどもつかいも中途半端に時間を割いたせいでむしろキャラクターに寸止め感を催します。子どもの味方という点はすごい好きなんですけれど、じゃあどうして変態おじさんの父を裏切ってまで子どもを救いたがったのか、という部分に関してはもっと描くべきだったと思うのです。ほかにも殺されるためだけに登場する人もいるわけで(引張るほどのこともでないのにさっさと死なない)やっぱりあくびが出てくるんですよね。記者であること意外の情報が皆無の有岡くんを見習って欲しいものです。こいつもこいつで記者なのに仕事してないんですが。

さっきは演出のことを褒めましたが、逆にどうしてこんなくどい演出するのかと思う部分も何箇所もありました。最後にタッキーが落とされるスロー演出(カット割って真横からのアングルもいれるし)。悪い意味でヒーロー特撮を観ているような感じになりました。

あと全体的に子役の子役感が拭いきれてないのが少々気になる。ジャンル映画ではあるので下手に達者な子役を持ってこられてもほかの演者が演技的演技をしているのが際立ってしまいますし、それはそれで困るんですけど。「君はいい子」で自然な演技を見せていた中野遥斗が若干とはいえ作りすぎている感じがしたのも、おそらくは監督の意図的な部分なのかもしれませんし。

題材からして子どもを話から外すわけにはいきませんし、中野遥斗はジャンル演技とでもいうべき仕事をこなしているので、まあわたしのホラー映画に対するリテラシー問題という部分もありますし、そこまで気になる部分でもないんですよね。実際、ほとんど子どもは喋りませんし。

 全体的に描くべきところを描かず、描かなくてもよい部分を描きすぎているような印象を受けました。ホラー映画のお約束的なものはいくつか散りばめられていますので、全編に渡って退屈、ということではないんですけど海外のホラー映画が進化を続けているのでもうちょっとJホラーの代表作家として頑張って欲しかったなーというところ。なんだかすごい上から目線になってるんですけど、一人の観客としての率直な意見なので仕方ないでしょう、うん。こんなことなら雨女見ておくべきだったなぁ。

絵本や童話のような話ではあるので、バランス次第でもっと面白くなったきがします

アメリカン・ハッスル

なにこれ超楽しい。

GyaOってたまーに特集みたいなので過去の名作とか無料で放出してくれるんであなどりがたし。

で、動画漁ってたら「アメリカン・ハッスル」なるものがあったので視聴。全然知らないノーマークの映画だったんですけど、メチャクチャ面白かった。まあ自分が知らなかっただけで役者陣とか監督とかトマトの評価からするに公開当初は話題だったんでしょうな。日本公開も本国から一ヶ月遅れって感じでしたし。

まーともかく役者の演技が最高でっしゃろ。チャンベールのデブ腹ってガチなんでしょうかね。あまりに腹が出てるもんでびっくりしたんですが、チャンベだしガチなのでしょうね。ブラッドリー・クーパーエイミー・アダムスもよろしい。ジェレミー・レナーもカツラみたいな髪型でイイやつ演技ハマってるのがすごい。この人ってアベンジャーズシリーズのホークアイ(あんま好きじゃないんですがこのキャラ)とか「S.W.A.T.」のイメージが強いので、素直にイイやつ(ってわけでもないけど)の役がハマるとは思わなんだ。まあ繊細な表情とか上手いですし「メッセージ」でもエイミーと一緒に真面目な役もやってますしね。

「世界に一つのプレイブック」から続投のクーパーとジェニファー・ローレンスもいい。「同情はできるがウゼー女」をやらせたらピカイチですね、ローレンス。顔とか全然好みじゃないし女優としても全然好きじゃないんですけど女優としての力はやっぱりあるのですね。「世界に一つの〜」も「パッセンジャー」もそうでしたし。あー「X-MEN」もそうですね、そういえば。ていうか26歳なんですね、ローレンス。若いなー、もう30近いのかと思ったけど(四捨五入したらそうですが)早熟ですの。外国の人って年齢わからん。

マフィアだからって本当にちょっとしか出番のない役にデニーロ使ってたりして笑いますし、マイケル・ペーニャもチョイ役なのに美味しい役だったり、ともかく俳優陣の演技が面白い。あと話も面白いです。血の匂いがなくて笑いどころの多い「ディパーテッド」のハッピーエンドというか。

 

ともかく面白い

あえてこう呼ぼう、司馬宙と

この題名で観た映画がわかる人はどれくらいいるのだろうか。「皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ」を観てきたんですが、その前に観てきた「ブラッド・ファーザー」についても軽く触れておこうかしらしらしら。出所したばかりのメル・ギブソンの元にカルテルだったかマフィアだったかの男と交際していた放蕩娘(勉強はできるっぽい)が殺人(未遂)を起こして泣きついてくるんですが、これが面白いんですね。ジャンルとしてはありふれてるんですが、アル中なところとか野蛮なところかメルギブまんまで笑っちゃいます。ところどころで笑いもあります。午後ローとかでやってそうな映画なんですが、その中でも割とレベルの高い午後ローですね。ていうか午後ローでやってくれ。吹き替えで観たいんで。あーほかにもGyaOで観た「バグダット・カフェ」とかもちょっと感想書きたい気もするんですけどね。

とまあ「ブラッド・ファーザー」はこの辺にしておいて「皆は~」について書いていきましょうか。

最初に言っておきたいのですが、多分これは「ヒーロー映画」ではないのだと思う。もちろん、監督のインタビュー記事や寄稿、宣伝文句的に「ヒーロー映画」という言葉が引用されるのは無理からぬ話ではあります。しかし「ヒーロー映画」と同様に「時代劇」や「西部劇」といったカテゴライズされた枠組みの中では、もはや「ヒーロー」や「侍」といったものの真髄を描くのは難しいのです。なぜなら、そこには決して振り払うことのできない打算や商業主義がまとわりつくからでもありますし、単純に陳腐化されてしまうからです。ファイナルウォーズ以前の平成ゴジラが「怪獣映画」ひいては「ゴジラ」という一つのジャンルになり下がり、そのジャンルに寄りかかり、おんぶにだっこの惰性と怠慢で粗製濫造された結果として当然の結果を迎えました(それでもゴジラという怪獣の力が持つポテンシャルによってギャレゴジやシンゴジのようなものも出てくるわけですが)。スピルバーグが「ヒーロー映画」のバブルははじけると言ったのも、至極当然の話なのでしょう。

そう考えると、やはりこれは「ヒーロー映画」ではなく「ヒーローの映画」なのです。言葉遊びのようですが、自分の中でこれら二つの定義は異なります。

主人公のエンツォが超人的能力を得る過程はあまりにくだらない上に、盗人の末路としては至極当然という意味で笑えるのですが、本人が深刻で音楽もアンビエントな感じなので笑っていいのか笑っちゃだめなのかわからなくなってきます。笑いといえば、この映画は随所に笑いが仕込まれていますが、日本的なあざとい笑いじゃないのもポイントが高いです。グロ笑いは北野映画っぽくもありますね。

あまりに寒々しく薄汚れたアパートに住み、ヨーグルトだけしか食べず、やることと言ったらアダルトビデオを観るだけ。盗んだものを安値で買い取ってもらい、たまに麻薬運びを手伝う日々。圧倒的童貞臭といい、超人的能力を得てやることがATMを破壊するという短絡的行動など、中学生並みの発想です。ていうかマジで童貞なんじゃないかと思えるのですよね、試着室での半分強姦に近い行為を見ると。しかしエンツォを演じるクラウディオさんのすごく野卑な薄汚さは素晴らしいですね。ウォッチメンロールシャッハはザックのコミック指向な画作りも相まって現実感は乏しい(これが悪いというわけではなく)ので、それとは正反対でしょう。

卑近で卑俗なエンツォの佇まいに、それだけで共感してしまいます。どうしてそんな彼がヒーロー足り得るのか、それはもう簡単に言い表すことができるでしょう。「愛する女が望んだから」たったそれだけです。そう、人がヒーローになるためにはそれだけの理由で十分なんです。超人的な能力は、あくまできっかけに過ぎません。実際、アレッシアと触れ合う前は、彼のやっていることはヒーローと正反対というか、普通に犯罪ですから。それもまた、エンツォの人間味にプラスされているのですね。アレッシア役のイレニアさんは口元がフィフィに似ていて、素直に美人とは言い切れないのですが、そこがまた現実的で素晴らしい。地に足付いた顔で、おっぱいがでかい。イレニアさんは本作で乳首をモロ出しにするのですが、彼女の乳首は乳輪のサイズ感とか色合いとかすごい絶妙な気がします。

そしてそして、本作のヴィランを担うジンガロ役のルカさん。こいつが素晴らしい。小物で虚栄心と承認欲求の塊で、馬鹿なくせになまじ権力を握ってしまっているがためにさらに増長する。もうこいつも最高に最低なんですが、でも人間の本質ってそういうものじゃないでしょうか。そういう意味で、このジンガロさんはポールバーホーベン的でもあると言えるかもしれません。ともかくこのジンガロが出てくるシーンはあますことなく最高ですね、笑えますし。ナポリの殺害動画のシーンは少し「キングスマン」のあのシーンぽくもありつつ、あそこまでスタイリッシュではない部分がまた卑俗的でたまらんのです。

ようやくエンツォがヒーローになるのは物語の中盤か、あるいはラストのラストと言ってもいいでしょう。ですが、それはまた、アレッシアの呪いでもあるのかもしれません。それでもエンツォは、ジーグのマスクを被って飛び立ちます。

この映画を完璧な映画だと思ったりはしません。ですが、とても純粋で紳士な映画であることに疑いの余地はないと、それだけは断言できます。はっきり言って、「茶化し」という皮をかぶり滑稽に見せる中で逆説的にしか純粋さを描けなかった「デッドプール」の先をいったのではないかと思っています。

この映画のタイトルでもある「皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ」というのは、本編の後のことを表しているのかもしれません。たしかに、アメコミヒーローには欠けているものがあります。

制作費2億円ほどのこの素晴らしい映画。はたして、日本の映画でこれだけの新解釈のヒーロー映画を作ることができるでしょうか。漫画やアニメを映画化するということの真髄を、まざまざと見せつけられました。