長野から帰宅して録画していた「キングコング」を観ましたですよ。
テレビで観ているとアス比の違いが露骨で、画面両サイドの黒い長方形のスペースに対して「テレ東だったらここに番組の広告入れるんだろうなぁ」なんて思ったり、まあ過去の作品を観ていると色々と作品とは別の部分に考えを巡らせることがあったりするわけですな。
それはさておき、テクノロジーの発達した現代において、このオリジナルの「キングコング」を観るのはなぜか、という疑問を抱いた。まあ、「キングコング」に限らず昔の映画をCGに慣れたり撮影技術が発達した今の目で見て面白いと思えるのか・フィクションを信じ切れるのか、と不安に駆られることはある。友人も、昔の映画を誉めそやす人は少なからずノスタルジーがあるのだろうということを言っていたし、自分もそこに一理ある。かといって、半世紀以上前の映画だからといってつまらないかというとそういうわけでもないし。自分としては一つの出会いのようなものであるから、言うなれば昔の映画を観るということは高齢の人と接して価値観の違いとかを痛感したりする、コミュニケーションのようなものだと思ってはいる。
しかし「キングコング」のように、当時としての最高峰のテクノロジーを導入した映画という、リアルタイムで鑑賞することことこそが最大の映画体験であるような作品と接するときは、やっぱり真摯に向き合うというよりは「愛でる」ように観ている自分が居ることも確かだったりする。まあ、悪く言うと「侮っている」と曲解できなくもないかな。
そりゃあ、そもそもストップモーションという作業が大変なことであることは知識としては知っているし、毛を動かしていることに「芸コマだぁ」と関心することはあるけれど、「クボ」を観た今となってはやはり物足りなさを覚えないわけではない。
ストップモーションという技巧を使うことの制約としてカットを割れないことで、むしろ緊張感が出たりとか、まあそういうことはある。
というか、オリジナル「キングコング」が語られる場合の大抵はストップモーションのオリジネイターとしての側面が大きい気がする。
しかし、わたしは特撮映画や怪獣映画としてではなく、むしろこれはフリークの恋の物語として悲哀ある映画として見るべきではないかと思う。まあ、わざわざ自分が宣言するまでもなくそういう見方をしている人が多いとは思うけれど。
楽園たる島から見世物として捉えられたコング。初めて外界としての金髪美女に触れ合うことで恋をするコング。しかし、奇形者として都会人とのディスコミュニケーションによって理解されないコング。
ただ好きなものに触れたいだけなのに、理解されない悲しさ。ストーカーとすら呼べないほど、金髪美女とコングとの間には隔絶したものがある。だから、コミュニケーション不能なニンゲンとコングの間で軋轢が生じるのは当然のことで、あのラストはもっとも妥当な決着でもある。
ただ、94分あたりでコングが見せる涙を拭うような仕草に、どうしようもなくニンゲン側であるわたしはウルッとしてしまった。この、どうしようもなさに。
ラストにある人物が「美女に殺された」と言って幕を閉じるあたり、この社会がどれだけの病理を抱えているのか、とかちょっと笑ってしまったのだけれど。
あ、すごくどうでもいいことですが、長野のロキシーに行ってきたので写真を撮ってきたです。日本で最も古い映画館のうちの一つということらしいので、記念に。