dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

身体、権力、ポルノグラフ

元々、日本ではポルノ映画として紹介されていたんですね、これ。
サロン・キティって本当にある場所だったというのがまたナチスの何でもありな感じを際立たせてくれる。

 
それにしても、ここまで虚しく切ない、そして切実で誠実に娼婦のーー人間のーー交接を描いた映画もそうないのではないだろうか。

しかもフォーマットとしては勧善懲悪(ってわけでもないんですけど)リベンジものでもあり、普通に楽しいという。というよりも、ディストピア映画のフォーマットでしょうか。

これ控えめに言って傑作。 

ポルノ映画としても違和感のないほどのポルノシーンが多々あり、そしてこれが重要なのだけれど、そのポルノに対してもう一つ重要なモチーフとしてナチス・・・というか権力があって、それがとてもうまく機能している。

ポルノは制度や倫理ひいてはそれらを敷く権力への抵抗であり、それらによって隠蔽される「性」を、肉体を暴き出す。FEMENなどの抗議活動はまさにその典型だろうし、そういう共通理解は今も昔も変わらないと思う。 

で、この映画で「性」を描きだす舞台となるのは娼館である。いかにもである。

ポルノ(を用いた)映画というのは、ポルノを描写するという営為自体がすでにからして反権力的な意味合いを持つということは言えると思うのだけれど、この映画においてはそこにもう一つのファクターが代入される。それはナチスの親衛隊という権力。要するにわざわざ真正面からケンカを売るわけである。

そして、それによって一つのねじれた構造が現出する。

本来なら体制に対するカウンターとして機能するはずのポルノが、しかしこの映画の前半ではその体制の権力によって接収されポルノとしての機能が抑圧されてしまう。

そのため、冒頭でキティがあしゅら男爵な衣装で歌うシーンがあるのだけれど、振り返ってみると面白いことにここが前半部の絶頂であるように見えるのですね。

というのも、このシーンの後はすぐにナチス側の描写になり、そこでは娼婦の親衛隊を育成し裏切り者を炙り出し、そのための娼館が必要とされることが示されるから。

そのためまだキティの手中にあった=肉体に対する誠実さが優位にあった娼館の酒池肉林の営みに影が差しているからこそ、冒頭の影を知らない観客としてあの純粋な歌を楽しむことができるのでせう。

そして案の定、そこにゲシュタポの手が入り「性」を解放するための娼館が体制の権力下に置かれるというねじれが生じる。

そのねじれた構造は、しかしマルガリータのセックス=身体の解放に逆転することになる。

当初は国家社会主義への忠誠を誓っていたマルガリータだけれど、しかし客として訪れたハンスとのセックス=一糸まとわぬ肉体を通じたコミュニケーションを通じ(同時に衣をまとったバレンベルクへの口淫=ディスコミュニケーションを経て)決定的に逆転し恋に目覚め彼を愛するようになる。

が、亡命を企てていたハンスは処刑されてしまい二人の愛はご破算となる。

そう、これは愛の物語だったのですね。キティが歌っていたとおり、これはロミオとジュリエットの話でありアダムとイブの話であり、引き裂かれた二人の愛の話なのです。

いずれも権力によって引き裂かれたように、ハンスとマルガリータも同じ末路をたどる。

ところでハンスとバレンベルクのマルガリータとの交わり方の違いというのがすごく露骨に違うんですね。
ハンスの方とは裸の付き合いであるのに対して、バレンベルクは常に何かを全身に纏っている。それも征服だけでなくマフラーやマントといった小物まで身にまといそれを強調し決して素肌を見せようとせず、マルガリータとの性的な交わりの際においてまで身に纏う。それは彼が権力を纏うことしかできない空虚な男だからだ。

だからマントを脱ぐとすぐに化けの皮が剥がれる(んが、もちろん全裸になる=ナチの権力を少しでも手放すのを恐れる小物なので彼が果てるときは毎度制服に包まれたまま。しかもなんかオーガズムに達するときの姿が情けなくて笑える)。

そして、ハンスを殺されたことを知ったマルガリータはキティとともに、復讐を画策する。ここから展開される復讐劇も、もちろん彼女の肉体にコミットしたもの。まあいわゆるハニートラップなのですけれど、それは必然でしょう。

なぜハニートラップが有効なのかといえば、それはもう言うまでもなく極めて肉体的な作用であるからです。エロいものを見せると判断力が低下するというのは過去の実験が示していますし、つまるところ肉体の生理を利用したものだからに他ならない。 

肉体VS権力の戦いは、すでに勧善懲悪と書いたような終わり方を迎えるわけですが、ただここもちょっと面白いのが、バレンベルクを直接的に殺すのが彼の部下であるナチスの党員であるということなんですよね。

これは一見すると権力の相克作用に見えるのですけれど、実際は同じ親衛隊同士であっても微妙にレイヤーがずれているように見えるんですね。

というのも、バレンベルクがよりどころとするものは本当にただの権力なんですよ。そこにはイデオロギーや信奉するものなどもない、きわめて野卑な権力崇拝思想のみ。

一方で、彼を殺すことになる部下は、描写は少ないのだけれど実は彼には信奉するものがある(=ナチスへの忠誠)ような描写がさいしょからされているんですよね。
それをあるいは愛と呼んでもいいのかもしれない。
 
要するに最後に愛は勝つってことです、はい。


いや、なんか雑にまとめちゃいましたけど性と権力の構造のねじれを生み出してそれをさらに逆転させる(元にただす)という巧みさとか、細かい描写(娼婦がその仕事を遂行するとき、必ず三面鏡があって、「ブリッジオブスパイ」においてスピルバーグがある人物の内面を表現したのに通じるあれとか)もあったり、かなり良い映画だと思いますですよ。


ただですね、自分が観たバージョンだと明らかに無理やりカットされて前後の繋がりが意味不明になっているシーンが少なくとも2か所あったし、モザイクがでかすぎでノイズになっていたりでモヤモヤしたものがあるんですよね。
んで、そのカットが入ったところがレズビアンな同性愛的描写だったりしたので、それがカットされているというのはこの映画的には敗北を意味してしまっているので、かなり残念なポイント。まあ完全版はふつうに出回っているようなので機会があればそっちを観たいのですが。
 

しかしマルガリータ、最初は野暮ったい顔だなーと思って観てたのに化粧であそこまで美しく見えるものなんですな。すごい。


これ今年観た中で一番良かったかも。