dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

ピアースと不快な家族たち

なんか前も似たような記事タイトルをつけたような気がします。ボキャ貧は本当に辛い。

BSで録画していた「ミルドレッド・ピアース」を観る。

最近はBSっていうかテレビで観た映画に関しては、やはり劇場で観るときとの姿勢が違いますし新しい生活が始まって時間もなくなってきているので、「まとめ」の方で簡素に済ませるようにしていたのですが、個人的に思うところがあるような映画に関しては1つの記事として扱おうかなーと。

そんなわけで色々と考えることの多い「ミルドレッド・ピアース」は単一記事として

監督は「カサブランカ」のマイケル・カーティス。とか書いておきながら「カサブランカ」は観ていないんですが。「郵便配達員は二度ベルを鳴らす」の原作者の同名小説「ミルドレッド・ピアース」の映画化ということらしい。ウィッキーさんによると日本では劇場公開してなくて、DVDが出たのも2013年なんだとか。

 

それはさておき、これはジャンルとしては犯罪ミステリーの映画なわけでありますが、今観ると家族の不協和だったりフェミニズムの側面が強く浮き上がっているように思える。もちろん、市原悦子古畑任三郎を引き合いに出すまでもなくこのジャンルにおいては「殺人に至った動機」というものの比重が大きいわけですが、それにしてもちょっと苦々しい。

主役のミルドレッドを演じるのがジョーン・クロフォード。いわゆる強い女の印象が強かったのですが、今回はそういった自立した女性としての強さを持ちながらも部分部分で自律できない(そしてそれゆえに悲劇に繋がっていく)弱さもしっかりと表出できていて、素直に称賛しますです。顔なんかも、ちょっと原節子に似てる気がするのですが。

家族のゴタゴタという部分では「幼子われらに生まれ」にちょっと通ずる部分もあるかなーなんて思ったりもしました。あっちとこっちでは設定も役柄も違うんですけれど、娘が事態の中心にいるという点と、その娘という繋がりがキーになっている部分が。家族っていう、誰にも変えることのできない繋がりの、呪いとしての側面を強く強調したのが「ミルドレッド・ピアース」なのではないか、と。

田中家の方は思春期の子どもの面倒くささと血縁のなさという肉体的な繋がりの断絶が一つのディスコミュニケーションになっているわけですが、ピアースの場合はその逆というのがまた悲しい。二人の娘がいて、幼い方が病死してしまったことが「娘」という呪いをより強固にしてしまうわけですが、結末まで見てもイマイチやりきれない。

ここで生物学ガーとか遺伝子ガーというのが無粋だとは承知の上で、しかしそこまでして娘との繋がりを重要視することへの一つのアプローチとしてはやはり有用なのではないかと思ったり。

「自分がお腹を痛めて産んだのだから」という実の子との繋がりを強調する定型句がありますよね。やっぱり、その行為(ていうか現象かな)は体験しないと理解できないだろうし、かといって自分の子を愛せないような親もいるし、そう考えると家族って何なんだろう。当たり前のように一緒に住んでいるこの人たちは自分のことをどう思っているのだろう、とか考える。

呪いとしての家族(娘)もさることながら、ミルドレッドを取り巻く男も最低な野郎ばかりで本当に困り果てますね。

自立を邪魔する夫、娘をたぶらかす没落貴族や不動産屋。ミルドレッドが自立しようとすると尽く彼女の自立を妨げようとしてくる。だからというべきなのかどうか、正直なところ因果関係が逆な部分もありそうなのだけれど、ミルドレッドも自分の美貌を使って独立まで持ち込むわけで。使える手札は全て使うという強さでもあるんですけれど、男根主義のシステムが彼女にそうせざるを得ない状況にも追い込んでいるというふうにも受け取れる。そういう意味で、男尊女卑の世界の臭いもするのである。

 アイダとのウーマンス(というにはややドライですが)部分がミルドレッドにとっての休息なのかも、と考えると萌える。

あと黒人のメイドさんを演じるバタフライ・ マックイーン。この人の声がめちゃくちゃ可愛いのなんの! この人が事件とは関係のないところでいつも可愛い声で明るく自然に振舞ってくれていて萌える、ていうか癒される。

 

 

 

敵の敵は味方

ペンタゴン・ペーパーズ」観てきました。

 

すごくタイムリーな内容でもあり、実はかなり燃える映画でもあるという意外さ。意外でもないか。オタクとしてのスピルバーグの映画は役者が動きまくるので万人が退屈せずに最後まで見ることができると思うのですが、「ブリッジ・オブ・スパイ」なんかでは人体の動きとしてのアクションが少ないために巧みな演出で魅せていく手法を使っていたのですが、今回の「ペンタゴン・ペーパーズ」もそっちより。それ自体は予想できていたのですが、ちょっと演出に驚いた。というのも、1つのカットが長い上にカメラがすごい動くんです。

ただ、朝早かったということもあって少し眠かったのです。基本的に喋ってるだけの映画ではありますから。無論、そこはスピルバーグ。前述したように何気ない、本当に何気ないただオフィスを十数歩歩くだけのシーンに動きを持たせることで画面を停滞させない。

 文書偽造とか検閲とか、この映画ではそういう政治的側面で語られるのが普通ではあるわけですが、しかしまあ、よく考えるとそれがなぜ面白いのかという話になるわけで。それはつまるところ正しき者の下克上であるからなのでは、と思う。ストレートにカタルシスを得やすい話というか。大統領という悪の最高権力者vs真実を追求する新聞社という構図はわかりやすいだろうし、そこに来てポストとタイムズという本来であれば競合他社である両者が敵の敵は味方理論において大統領に立ち向かうという図式ができあがるのですから、面白くないわけがない。

 

あと女性のパワーという点でもかなり意識的ではあると思う。メリル・ストリープが新聞側の実質的な最高意思決定者であるわけですし、所々で女性である彼女が男性社会において抑圧されているような描写も散見されましたし。ただ、メリス・ストリープは躊躇みたいなものを見せても屈服や服従したりはしないというのが、逆に被抑圧者の立場であることをわかりづらくさせているのかな。いや、それが悪いということではなく。

 

それと、ミリオタ・・・というかメカオタとしての成分がきっちり滲み出ており、輪転機を回す描写のテクニカルにメカニカルな演出がすごいかっこいい。輪転機をここまでかっこよく描いた映画というのもかなり珍しいのではないでしょうか。上がるところでしっかりとジョン・ウィリアムズの上がる音楽が鳴りますし。

 

ラストにウォーターゲートを匂わせる終わり方をするあたり、スピルバーグは油断できない。

 

あ、それとエンドロール後にノーラ・エフロンに捧ぐという文字が出ますが、これは映画監督のノーラ・エフロンのことだそうな。ニューヨーク・ポストで記者として働いてたこともあって、劇中に当時の彼女が出てきているそうですよ。彼女の作品では「ユー・ガット・メール」をこのブログでも扱いましたっけ。

スピルバーグは「レディ・プレイヤー・1」も控えていますし、インディジョーンズにもがっつり関わるみたいですし、これからもじゃんじゃん撮って行って欲しいですねぇ。

クソ野郎の感想

そういうわけで告知(?)していた「クソ野郎と美しき世界」の感想を書こうと思うのですが、その間に「ペンタゴン・ペーパーズ」観に行ったり別でやることがあったりしたり高畑勲関連のツイートをリツイートしまくって感傷に浸ったりしていて、ちょっと整理できていない状態なのですが、まあBSで観たやつもまだ下書き状態だったりして、これ以上溜め込むと進研ゼミ状態になりかねないので無理やり書く。

いつもよりかなり雑になるやも。

 

これといってスマップに思い入れがあるわけではないのですが、2週間限定上映という売り文句に惹かれてまんまと観に行ってきました。THXで観たんですけど、イマイチ違いがわからんかったです。箱はでかかったけど。

まあ園子温とか好きではないですが気にはなりますし、爆笑問題太田光のラジオは好きだしこの人の撮る映画ってどんなんだろうと思ってはいたので当初から観るつもりではいたのですが、ということは付け加えておきますか。えー本編とは関係ない部分ですが、わたくしが観たところではアス比の調整がミスっていたのか時々出る字幕が読めなかったです。文字の上部しか画面上に出ていなかったり逆に下の部分が埋もれていたり・・・イオンシネマさん、しっかりしてださい。

 

で、本編。
オムニバスだし監督も4人いるのでそれぞれについて綴っていこうとは思うのですが、一つ通底しているのは間違いなくスマップ・・・もとい新しい地図の(アイドル)映画ではあるということ。もっとも、はっきり言って万人に向けたものではないとはいえる。そもそもオムニバス形式というのはともかくとして担当する監督が園子温太田光という時点でね。しかし太田光の映画が一番わかりやすいという。

それでも、この企画は事務所に縛られていたスマップ時代では無理だった企画ではあるはずなので、スマップメンバーではなく稲垣吾郎・草彅剛・香取慎吾という個々の新しい側面は観れたと思います。


「ピアニストを撃つな!:園子温

 いつもの、つまりハイテンションな方の園子温映画ではあって、こんな企画でも(だから)ブレないな、と。タイトルはトリュフォーの「ピアニストを撃て!」のパロらしいのですが、こちらは未見につき接点とか共通点とか何言えないのでノーコメント。
時系列いじってくスタイルは園子温のほかの作品でもあったんですけど、今回もちょっとそんな感じの編集してますね。個人的にはアメコミイジりが面白かった。イジリって言っても直接的な台詞ではなく絵ヅラ的な部分。まず浅野忠信のマスクはどう見てもダークナイトシリーズのベインだし、部屋に大きく張られている蜘蛛の巣はスパイディだろうし、満島真之介のメイクはスースクのジョーカーを意識しているのだろうし。嗅覚のくだりなんかもアメコミの特殊能力の揶揄みたいな部分がありそう。あと、走ってる途中で浅野忠信が髪をかきあげるんですが、そのあとの髪型がすごいヒュージャクのウルヴァリンみたいなんですよね。

というのも、この人はいわゆる昨今のヒーローユニバース的なものをやや批判的に捉えているような感じが「皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ」のコメントなどから読み取れたりする部分があったし、そういう考えを持っていてもおかしくはないだろうな、と。

このエピソード自体はかなり「振り」としての側面があるような感じで、全体的にコミカルに仕上がっているので実は園子温のこのエピソードが見やすかったりするのではないだろうか。

あとスプツニ子が出ていて笑った。最初シェリーかと思ったんですけど、シェリーにしては演技が抑え気味(達者ということではなく)だなーと思いつつ誰だっけーと頭をひねってクレジットを観て思い出すという。

肝心のゴローちゃんですけど、実はゴローちゃんってキムタクしか演じられないキムタク以上にゴローちゃんであることを払拭できないんじゃないかなーと思った。それがプラスに働くかマイナスに働くかは使いどころ次第ではあるのですが、優雅というか余裕な部分を常に放っているというのを、このエピソードでなんとなく思った。
あと満島真之介。この人の躁なヤバさは本当に笑う。
 

 

「慎吾ちゃんと歌喰いの巻:山内ケンジ

これが一番好きなエピソードでしたね。
まず慎吾ちゃんの現状というか置かれた状況を端的に示しつつも少しギャグっぽく落とし込み、最後の「新しい詩」に繋がっていくのが構成として地味に上手い。
歌喰いっていう設定がすごくこう、歌いたい歌を歌えないっていう部分が事務所とかの関係で本人はそう思っているんじゃないかなーと思って泣いた。で、この歌喰いを演じる中島セナちゃんがすごい。12歳くらいなんだけど年齢不詳感がすさまじく、この歌喰いというキャラクター(というかほぼ設定)のミステリアスな存在感への裏打ちがされている。実際、観ていて20前後くらいかと思っていたので実年齢を知ってびっくりした。

話もそうですけど演出とかも含めて世にも奇妙な物語のライト寄りな話にありそうだなーと。壁に婦警の顔が投影されて会話するのとか。歌を喰って生きている歌喰いの設定は割りと現実離れしているのに、食ったらしっかり排泄するという部分が妙に地に足ついていて、その排泄物を食べると喰われた歌を歌えるようになるのとか、排泄物であることを隠して古舘寛治に食わせるのとか、シュールな笑いで満ちていて面白い。慎吾ちゃんのどことなく病んだ感じと中島セナさん(ちゃんだと逆に変な感じするので)の現実離れした出で立ちが、妙にマッチしていて、深夜の5~10分ドラマでずっと観ていたい。で、慎吾ちゃんの書いた絵に宿る歌を全部喰ってしまい、それをトイレに排泄したところを慎吾ちゃんが覗き込んでこのエピソードが終了するわけなんですが、それが最後のエピソードで回収されます。
 

「光へ、航る:太田光

これが一番微妙。まあ薄々感じていたことではありますが、太田光って意外と真面目なんだなーと。
北のミサイルがどうのこうのとか沖縄の基地がどうとか、台詞の中でコメディアン太田が流れにぶち込まれてくるのですが、会話の流れに沿ってはいますがぶっちゃけ恥ずかしい。うーん、なんて言えばいいのだろうか。一部の層には伝わると思うのですが、「なんだよ、しらねーのかよ。ジョジョだよry」に通じる寒さ・恥ずかしさみたいなものがある。
 冒頭のシリアスな少年の叫びシーンが最後にギャグ的な描写の中に落とし込まれる、観客の足を引っ掛けるような構成とかも「だからなに」という程度のものでしかなく、逆に困惑するばかりであります。

 でも元ヤクザな草薙くんはやっぱり結構ハマってる気がする。任侠ヘルパーで知ってはいたので別に新鮮なわけではありませんが、照明とかメイクの力もかなりあるとはいえあれだけの顔面アップに耐えられるというのはやっぱりすごいと思いますですよ。尾野真千子のヘボ演技が観れるという意味では逆に希少ですし。尾野真千子で思い出したんですが、「ペンタゴン・ペーパーズ」を観に行ったときに河瀬直美の新作の予告編が流れてめっちゃテンション上がりました。また永瀬正敏出てるし。

それはともかくとして、まあなんというか、このエピソードに関しては本当にこれくらいしか書く事がない。タイトルの「光へ、航る」のトンチみたいなオチとかから察するに、星新一賞の選考しているうちにそっちに引っ張られてしまったんでねーの、と邪推してしまったり。

あと北野武好きすぎるでしょ、この人。わざわざ沖縄の海で締めるのとか、明らかに「ソナチネ」の影響でしょ。話としては、わざわざ沖縄にする必要ないし。
 

「新しい詩:児玉裕一

これはどこまでが児玉監督の采配なのかわかりませんが、エピソード1~3それぞれのオチとかその後の出来事が描かれて集約されているわけです。いい感じにお祭り感が出ていると思います。たとえば、ep3のラストで仕返しを受けたロリコン誘拐犯がこのep4ではちゃっかりグラスを磨いているシーン。最初は「生きとったんかワレェ」と半笑いではあったのですが、「再起」という新しい地図のテーマにはピッタリですし、よく考えるとこの辺のすくい上げは素直に製作陣の優しさとして受け取っていいのだと思います。

ここでも慎吾ちゃんが結構おいしいところを持って行っているんですよね。「クソ野郎~」の中で一番おいしいのは慎吾ちゃんだと思う。

サイプレス上野が楽曲提供してたり、劇中の歌はかなりいいのばかりなのでサントラはちょとほしいかも。

 

とりあえずはこんなところだろうか。

新年度一発目

わたくしめも新生活が始まりますゆえ、これからは更新頻度が目に見えて減ってくるでしょうが、それはともかく一発目をば。

今更前置きとかいるのかどうかという話ですが、最近はなぜかアクセス数が増えてきているし、新年度ということで改めて付記しておきますがネタバレとか関係なしにダラダラ書いていくのであしからず。

 

で、何を観てきたのかというと今年度(去年か)のアカデミー賞で主演男優賞とメイクアップ&ヘアスタイリング賞を獲得した


ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」。
サブタイいらないと思いますけどね。最後まで観ればわかりますが、これはむしろヒトラーに対して宣戦布告をする(ということを議会でスピーチして終わる)シーンで終わるので、劇中だけを観ると「まだ世界救ってないじゃん!」ってことになりますから。たしかに原題の「DARKEST HOUR」は、どうあがいてもタイトルとポスターだけではわかりづらいでしょうから、変更するのはわかりますし「ウィンストン・チャーチル」というのはまさにこの映画そのものであるのでわかりますが、「ヒトラーから世界を救った男」とかいうのはいかがなものか。一昔前のラノベ的タイトルのダサさをなぜここで持ってきたのか。


さて、この映画。もしかするとある種の政治的思想を持つ人によってはプンスカなる可能性が無きにしも非ず。言うまでもなくこの映画は第二次世界大戦におけるチャーチル首相の決断を描いた映画ですから政治の話が絡まないわけはないので、人によるとはいえ多かれ少なかれイデオロギーの話題になるのは避けがたいでしょう。実際、見方によっては「大本営発表じゃないですかー!」というツッコミもできなくはないし、この映画における重要な「民の意見」というものがそもそもプロパガンダによるものではないかとも言えるわけですから。

しかしこの映画、そういった政治的な云々とはもっと別のものを描いているのではないでしょうか。「この世界の片隅に」のB面としての側面が非常に強いのではないかとわたしは思います。どういうことかと言うと「戦争という過酷な状況の中で自分のなすべきことをなそうとする一個人の話」であるということ。

もちろん立場はまったく違います。方や市井に住まうごく普通の人、方や戦争の局面を左右するかなりのパワーを持った政治家。けれど、この両者はそれぞれに負った人生をそれぞれに全力でまっとうしようとしています。この点において、チャーチルとすずさんの間に差異はないのではなかろうか。

少なくともこれを政治劇だとか、まして戦争映画だとかみなす人はいますまい。とはいえ、戦争のシーンはほとんどなくともその悲惨さは伝わってくるように描写されている。闇夜の爆撃で町が燃え上がる俯瞰の映像からのリニアなトランジションで顔の(といってもほとんど目だけ)アップで死体(のはず)を描く。あたかも、その死体の肌の上で爆炎が上がっているかのように。
そして、そういった悲惨な状況やハリファックスとの衝突や妻クレメンティーンや秘書のエリザベスとのやり取りを通じて、チャーチルが民の立場へと降り立つ物語でもある。というより、ウィンストン・チャーチルという一人の人間を描くためには、同時に彼を神の座から人間の領域に引き下ろす必要があったのでしょう。
パンフレットで村山章が指摘するように、この映画では真上からの俯瞰シーンが多く、そして印象的に使用されている。冒頭の最初のカットからして議場を真上の俯瞰で捉えたシーンになっている。ほかにも飛行機に乗るチャーチルが眼下の少年を見下ろすシーンやカレーの部隊に残酷な電報が届けられた部隊の指揮官が空を見上げるシーン。そしてなによりチャーチル自身が夜空を見上げズームアウトでしぼんでいく。
さらに、議場の俯瞰から始まったこの映画は地に足付いたチャーチルが議場を歩くカットで幕を閉じる。

これは、この映画の描き出そうとすることと手法が一致していることの証左でしょう。我々が歴史上の偉人を思い浮かべるとき、それが社会的に悪であれ善であれそこに立ち現れてくるのは伝説化された偶像でしかない。ノーベル文学賞の名誉を持ち、死してなお「世界のCEOが選ぶ、最も尊敬するリーダー」の誉れを受けた彼を、人々は程度はあれ神格化していることは否めない。そう、わたしたちは伝説として神として彼を観ている。そして多用される俯瞰のショットはまごう事なき神の視点でありその神とはチャーチルにほかならない。ここまでくれば、この映画の紡ぎ出したものとその手法が巧みに作られていることがわかる。

つまり、わたしたちが神格化することで神の視点を持ったチャーチルという存在をメタ的に取り込み、最終的には民=人間の領域に落とし込むことで一人の人間としてのチャーチルを描こうとしたのだ。そして、それは成功した。叙事的に理想化された人物の周縁を描き、また彼自身の人間性(苦悩や葛藤や人々との接触)を暴いていくことで民を見下ろしていた神の座から見下ろされる側へと落ち、そうすることで彼は民の思いを理解する。叙情的でありながら、理路整然とした構造を持っている。

彼が真に民と向き合う場面。この映画の白眉といえるシーンの一つに、チャーチルが地下鉄に乗り込み市民の声を聞くというシーンがあるのですが、その直前に、路上を行き交う人々を車中の彼の視点からきりとったシーンがある。この直前に車の中から町の人々を眺める視点のシーンがある。これと似たようなシーンが序盤にもあり、そのシーンでチャーチルは町の人たちのよに列に並んだこともないと自嘲気味に漏らす(ボイルドエッグのくだりも含め)。つまるところ、彼はこの序盤のシーンにおいては民の生活を理解できないでいた。それがここに来て、車から降りて自ら地下鉄に乗り込んでいくのだ。多くの市民が移動の手段として使っている地下鉄を。チャーチル専用の車ではなく。

地下鉄に乗り込んだ彼が人々の視線を集め彼らと率直な意見を交わすこのシーンがわたしは一番好きだ。実は、 ここは映画独自のフィクションな部分ではあるらしいのですが、それがまたわたしには嬉しかった。実際にはないものをあるように見せることで人を感動させるものこそがフィクションであり物語であるのだから、このフィクションのシーンにおいて感動したということは、紛れもなくそれはフィクションの力なのですから。

 

今月は後にもたくさん話題作が控えていますがほかにも「ペンタゴンペーパーズ」やら「ヴァレリアン」やら観たいのがたまっていて辛い・・・。

3月のまとめ

まとめと表して全然まとめにもなってない、どころか頻繁にまとめるのもどうかということで、今度からは「今月のまとめ」と題してまとめていくことにしました。

あと映画じゃないけどドキュメンタリーとか気になった映像なんかもこっちでちょいちょい触れていけたらいいかなぁ。

 

「グローリー」

エドワード・ズウィックってことで一応チェック。ていうかズウィックって30年選手だったんですね。ストーリーはウィキペディアにネタバレとかそういうレベルじゃなくて最初から最後まで書いてあるのでここで書く事でもないんですが。

まあ30年も映画監督やってるだけあってそれなりの数の映画を撮っているんですが、その殆どは見ていない。なのでわたしが観た数本で判断するのもあれなのですが、この人はジャックリーチャー以外の大抵の映画は実際の歴史とか文化とか、あるいは麻薬の流れとかそういったソーシャルなモチーフを軸に、個人の視点から倫理や正義といったものを訴えるような作品が多い気がする。

グローリーは南北戦争における黒人部隊とそれを率いる白人大佐の、ヒューマンドラマというか友情物語というか。ショー大佐の分裂症と思えるほどの唐突なスパルタ指導はやや違和感もあったんですが、冒頭で示されるように彼は戦場を知っているがためにとった行動であると考えれば違和感はない。

デンゼル・ワシントンモーガン・フリーマンの共演ってことで、アフリカ系の俳優の中ではかなり好きな部類に入る二人だけに、それだけで十分といえば十分ですかな、個人的には。しかしこの作品で跳ねっ返りを演じていたデンゼルが「イコライザー」であんな落ち着いた殺人マシーンを演じているというのも面白い。

 

インファナル・アフェア無間序曲」「インファナル・アフェア終極無間

ハゲの解説にほぼ同意。

しかしアンソニー・ウォンがやっぱりいいなぁ。イケメンよりな古田新太っぽいんだけど、古田新太ほどにはふてぶてしさとかイヤミがないのがすごい好きだ。

ただこう、なんていうかこのシリーズに一貫していることで、むしろそこがこの作品の魅力であることは承知しつつも、あまりに湿っぽすぎてどうにも乗れないのである。

まあ1作目で死んだアンソニー・ウォンが時系列的な工夫によって出ずっぱりだったのは良かった。

 

「リトルプリンス 星の王子様」

色彩設計が露骨で笑う。町並みもわざわざ俯瞰で見せるんだけれど、画一化されたサバービアだったりグレーで統一されていたり。主役の女の子も最初はグレーの服装だし。後半の夢の国というか大人のビルの惑星(このビルの惑星とそこを飛行するときのBGMが結構好きだったりする)なんか、もう露骨すぎて逆に笑えてくる。

じい様と触れ合うようになってからの服装の色味の違いも露骨だったし、外からだと寂れたように見える爺様の家が極彩色だったり。 

「モダンタイムス」風味の物語賛歌、といえばいいでしょうか。後半の歯車の向こう側の世界なんか、ほとんどモロ。

テーマも含めて好きか嫌いがで言えば好きなんだけれど、どうもこの作品のあり方自体がどちらかというと優等生な作りになっているせいで微妙に乗り切れないのが。

この映画からは強い欲動というか思いみたいなものが立ち現れてこないんですよね。もっとソーシャルな義務感的正義といえばいいのだろうか。こういうのって、もっと体制に対する怒りみたいなものがあったほうが乗りやすいんですが、どうにも優等生すぎるのがなぁ。

まあ良い映画といえば良い映画ではあるのですが・・・

あと主役の女の子が可愛い。

 

ミニミニ大作戦(2003)」

一昔前のアクション映画を観ているようだ…。実際15年前なので一昔前の映画と言えなくもないのですが。

今見ると役者がすごい豪華。マーク・ウォルバーグ、シャーリーズ・セロン、ステイサム、エドワード・ノートン(たまにゲイリー・オールドマンがかぶる)、冒頭で退場するとはいえドナルド・サザーランドも出てるし。

しかも笑える要素を盛り込みながら手堅い作りになっていて、リメイクとしてはなかなかいい感じ。ミニクーパーでカーチェイスというのも絵ヅラが可愛いし。

少なくともダメダメリメイクされた「バニシングイン60」よりかなりうまい具合に収まってる。しかしハゲなのにモテるというあのギャグを成立させるステイサムのバイタリティは凄まじいものがありますね。

監督は最近だと「ワイルドスピード:アイスブレイク」とかやってるし、カーアクションは結構得意なのかな。

 

「プレイス・インザ・ハート」

 大恐慌時代のテキサスの話。最後のシーンで泣いた。

冒頭でいきなり警官が酔った黒人少年に射殺され、その黒人少年は引き回しで殺され、としょっぱなからバイオレントなんですが、むしろ焦点はその警官の妻の話になるという。この時代の未亡人となった女性がどう生き残るのか、という部分。

はっきり努力の物語ではある。そこに黒人やら盲目の人やら、阻害されたものが一致団結してサバイブするという話で、涙ぐましい。綿の収穫ってあんなに出血するのはまったく知らなかったんですが、本当にあんなに大変なのだろうか。

よく考えたらハッピーエンドとは言い難いのですが、専業主婦という軛に繋がれた女性について考えると、やっぱり大変なんだよなーと。今とじゃ比較にはなりませんが。

あとKKKが露骨に出てきたのを観るのは実写映画では初めてかもしれない。

 

「ゴースト ニューヨークの幻

 改めて観ると結構印象が違っていたのでとりあえず書いておくことに。

まず幽霊という霊体のおかしみみたいなものをしっかりと映像化している部分が好印象だった。生きてる人間とすれ違うときに体内というか物質の構造が見えてしまう(そういう描写だよね…?)のとか。もっとコテコテな恋愛ものって印象が刷り込まれていたけれど、実際はもっとサスペンスな要素があったりゴールドバーグの出番がかなり多かったり霊能力特訓描写とか少年漫画的要素がたくさんあった。

前に観たのがかなーり昔というのもあったけど、改めて見返すと結構面白い。これは男女問わず楽しめるんじゃないかしら。

地味にSFXも良い感じ。

 

 

十戒

実は少し前にも録画して後から見ようとしていたものの、長くて断念していた。まあ見直しても長い。220分って。この時期、というか昔の映画でも4時間近くのものといえば「七人の侍」なんかもありますが、こっちの集中力も考えて欲しい。

聖書なんてまともに読んだことないのでどこからどこまでが原作に忠実なのかとかわかりませんが、ひたすら豪勢な画面でしたな、と。

煌びやかな衣装とか尋常ならざるキャストの量とか、ともかく量が半端ないです。しかしヘストンのイケイケドンドンぷりはすごいですな。晩年はマイケル・ムーアにディスられたりとかありましたけど。「ベン・ハー」にも出てるからちょっと被ったりもしますが、それだけのスター性を持っていたということでもあるのでしょう。

 話自体は正直なところヨブ記からの印象である「神ってやっぱりクソじゃん!」を再認識する感じなのですが、セット丸出しとはいえ色々な場面が出てきたり衣装がコロコロ変わったりと、金かかってることがひしひし伝わってくる。

ただ白眉といえるモーセの海割りと炎のSFXはかなり迫力あります。まあ合成丸出しな部分もかなりあるのですが、それでも割れた海が元に戻るところはイイ。特に炎はディズニー的な生物感を感じさせる炎で、ここはマジで観ていて神秘的というか超常な味わいがありますです。

しかしジャンルとしては某団体が信者から巻き上げた金で信者向けに作り信者が観に行くというマッチポンプな映画「君のまなざし」とかに近いような気がする。もちろん質も規模も桁外れなので比べるのも失礼なわけですが。

それにしても56年でこれってやっぱりアメリカは規模が違いますな。

 

ヴァン・ヘルシング

わちゃわちゃしてる。

ラストの狼男vs吸血鬼は熱いけど色々とテンションで持って行っているため真面目に見るのは正直馬鹿らしいタイプの映画。まあバカ映画ではあるのですが。

 

アウトロー

ジャックリーチャーじゃない方。イーストウッドの方。

なんか普通の西部劇映画っぽくて割りと素直に勧善懲悪をしているように見えるんですが、実は味方にインディアンがいたりするあたりとかはやっぱりちょっと違う気がする。少なくとも西部劇映画の中でインディアンが登場するときは大抵がエイリアン的に描かれていることがほとんどな気がしますし。

ただレイプを未遂で終わらせたりするのとかは理性的だったりしますし、そういうところはやっぱりイーストウッドっぽいと思うのは先入観のせいだろうか。

それでも「許されざる者」を観たあとだと、かなり無邪気というかオーソドックスではあると言える。あとこの映画でつばを吐くイーストウッドの所作はそのまま「グラン・トリノ」に繋がっているので、「グラン・トリノ」という映画の立ち位置を確認するために割りと重要な作品であるような気がする。

 

「ターミナル」

トム・ハンクスってとことんまで彼自身にとっての異邦人を演じているような気がする。そんなこと言ったら99割の俳優がそうだろう、というツッコミが入りそうなのですが、この人の場合はなんていうか役と同化していないままその役を演じているような印象を受けるんですのよ。自分でも書いていてよくわからないんですが。同性愛者のエイズ患者にしろ機長にしろ知能指数が人より低い男を演じるにしろ陸軍大尉にしろ、どことなくトム・ハンクスという存在が役と解離しているというか。キムタクの対極にありすぎてキムタクと同じ場所にいるというかなんというか。この映画でも英語のしゃべれない国の人を演じていますし。まあ吹き替えで見たのでちょっとアレなんですが。

あと2004年なのにポケベルっていうのがすごい不思議なんですけど、あれって時代設定が過去だったりとかするんだろうか。

 

「マイカントリーマイホーム」

うん、まあ、どうでもいいというか、映画でやるなというか。130分かけて文化振興のビデオを見せられているような退屈さでしたな。

まあこの映画の収穫といえば森崎ウィンなる人間の存在を知ったことでしょうか。「レディ・プレイヤー1」にメインキャラクターで出るらしいのでとりあえずそれが収

穫ということで。

 

「フォーカス」

マーゴット・ロビーとウィル・スミスの共演作。日本ではさかなクンさんのプロモーション広告が話題になってたりしましたっけ。しかしあれも3年前ですか。時が経つのは早いですなぁ。

最近のウィル・スミスの作品はイマイチパッとしないものが多く、この映画も特筆すべきところはないのですが、それなりに好きな映画ではあります。

詐欺のスキルを持っている連中がユニオンのような組織で細々と(といっても週に120万ドルを稼いで数十人で山分けなのでそれなりに稼いでいるのでしょうが)生計を立てているというのが庶民的でフレッシュというか。最初にウィル・スミスがマーゴット・ロビーに技を披露するところで手元を撮さないのとか残念な部分はあったりしますが。

前半50分までのスピーディなテンポ感はなにげにすごくまとまっていて(描写は省いている部分もあるのですが)、最初の50分だけでも問題がないという。だからこれはドラマシリーズでやっていったりしたらそれなりに良さそうだなぁと。しかし話が話だけにウィル・スミスがどこまで本当のことを言ってるのか、ということが割りと観ている側からしても読めないというか疑心を持ってしまう作りになってはいるので、そういう意味でのちょっとしたハラハラはあるですな。とはいえウィル・スミスが演じてる時点でたかが知れているのですが。

積極的に観るような映画ではないですが、午後ローなんかでやっていたら観てもいいんじゃないでしょうか。

 

おくりびと

これがアカデミー賞で受けたのって、おそらくはエキゾチックジャパンだからでしょ。郷ひろみだからでしょ。映画の出来自体はそんなに飛び抜けてすごいってことはないと思いますよ。

むしろ音楽の垂れ流しっぷりとか多用ぶりとか、広末涼子のバストショットのゆるさ(ていうか広末涼子がやや浮き気味な気が)とか、「汚らわしい!」とかいう大奥で聞けそうな台詞とか、ちょっとガクっとなる部分も結構あったですよ。田舎の田園の中でチェロを弾く映像がインサートされたり、ああいうのもちょっとダサいです・・・。ていうか全体的に自分語りしすぎなんですよね。

しかし話は割りと興味深いし、こういうあまり見慣れない部分にスポットを当ててくれるのは好きです。腐乱死体を運んだ後に広末涼子の下腹部に吸い寄せられていくもっくんのシーンとかはエロくていいです。「死」に触れたもっくんが広末涼子の下腹部=子宮=生命の揺籃=「生」にすがりつくっていうのがいい。ここでキスしたりしないっていうのが、まさに愛ではなく性=生を確かめたいのだな、というのが読み取れる。

 

どうだろう。まあ、そんな感じでしょうか。

 

 

 

Do not forget also dead

リメンバー・ミー」観てきました。

その前にトークライブに行ったり、ちょうど本を一冊読み終えたりで日記(としての機能を持たせている)雑ソウ記と読書感想のほうも記事を更新したいんだけれど、とりあえずこちらを優先。

 

えー「リメンバー・ミー」本編について書く前に、「アナと雪の女王」の短編の方についてちょっと文句があるので。いや、ていうか、まず、あれいります? だってあれ4年前でしょう? 今更それを出してきてどうしたいのか。紙ヒコーキみたいなのであれば大歓迎なんですけど、今回の「穴雪」に関してはいかにもな後付けな設定だし(そもそも設定とか覚えてないんですが)オラフことマーチャンダイジングくんはひたすらこちらのヘイトを煽ってくるし。ていうか22分て何。長すぎるでしょう。

そもそもああいう無能なくせにマスコットなキャラクターというのがデウス・エクス・マキナ的に最終的には許されるというのがまあ腹立たしいのです。そして、そういうキャラに腹を立ててしまう自分に童心がないのかと自己嫌悪に陥りそうになってしまうようなリトマス試験紙のような作用も持っていることを作り手はわかっているのだろうか。ジャージャー・ビンクスなんかよりオラフの方がよっぽど不快ですよ、まったく。ていうか単につまらないという問題点がありますし、「リメンバー・ミー」を観にきたのに22分というテレビシリーズ1話分の別の作品を提示されても困る。

どうやら私以外にもこう考えた人は多いらしく、こういう記事もありました。

headlines.yahoo.co.jp

 

さて、出鼻をくじかれたせいで色々と観賞にあたってのコンディションが微妙だったのですが、その評価はいかに。

あ、その前に日本語版ウィキには完全にオチが書いてあるのでネタバレ回避したい人はウィキは見ないほうがいいかもしれません。

どうだろう。「穴雪」によって足を引っ掛けられたことを考慮しなくてはいけないのかもしれませんが、個人的にはギリギリ泣けなかった感じです。

とりあえず吹き替え版だと映像そのものをいじってスペイン語(おそらく)で表記されているであろうチラシとか看板の文字が「ザ★ゴシック体」といった感じの味気無さ過ぎる日本語文字に置き換えられているのが、はっきり言って小さな親切大きなお世話です。新聞とかチラシの類ならまだしも、タイトルロゴ以外はほとんど同じ書式じゃないのかな、あれ。やるならしっかりやってほしい、と言いたいところですが、そもそもの置き換えが不要だと思います。いやね、これは「シュガーラッシュ」のときにもあったんですが、今回はそれがすごく多いので結構ノイズになりますです。そもそもメキシコに日本語が溢れているというユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパンなif世界かと思わせる、一種の文化侵略的な想像を働かせてしまうわけで。そういう理由もあって本当は字幕で観に行くつもりではあったのですが、とはいえ日本語吹き替えを担当した声優たちは素晴らしかったですよ。まあ基本的に吹き替え自体が外れることはありませんが。すごく個人の趣味なのですが、最近は多田野曜平が出てくるだけでその作品が少し好きになるというメインストリームとは異なる声優ヲタな部分が顔を覗かせたりしました。

 

まあそういうのトランスレーション問題を除いても自分はあまりハマりませんでしたが、相変わらずハイレベルなことに変わりありません。伏線というか、設定とか小道具の使い方が非常に巧みで後々の展開に絡んでくる脚本はさすが集合知のディズニー。相変わらず練り込まれています

たとえばひいひいおじいちゃんの設定ですが、ともすればデラクルスが実のひいひいおじいちゃんだったというのを落ちにもって行きがちな作品が凡庸であることは承知しているので、そうそうにこの設定を回収し、そこからむしろ話をスタートさせる。さらに言えばここには二重の父親構造があって、実は父親の正体はは灯台下暗しなわたくしめはむしろ「血縁」というものをあまり信用していないタイプの人間でありますので、ごく自然に(それゆえに自分のようにヒネクレ者には誇張されて見えてしまうのですが)血の繋がり(だけ)が当然のように死人の拠り所になっているというように捉えられてしまう。もちろん、有名人でなければ身内程度しか覚えている人はいないだろうし、ましてヘクターはかなり昔の人間ですから友人もほとんど死んでいるでしょう。だから、最後のよすがママココだけであるというのは設定をうまく使っていると言えるし、ラストまで観ればおそらくはよすがになるのは家族だけではないということがわかるといえばわかるんです。が、ないものねだりであることを承知しつつも血縁的な家族が是とされることにレプレゼンテーションの足りなさを感じなくもない。家族がテーマであるのならば別に血縁は必要ないはずですし、よくよく考えたらやはり家族だけが「ゆるし」を与えられるというのもやはり血縁主義みたいなものが浮かび上がってくるように思える。まあ、それを掘り下げていくとそもそも「どこまでが家族として認識するのか」という問題が生じてくるわけで、血縁ではなく戸籍上ならありなのか、しかし戸籍という形式主義があの世で適用されるとせっかくのスピリチュアルな世界観に水を差すことになりますから、落としどころとしてスピリチュアルを維持するために血縁を前提条件するのはやむなしだったのかもしれませんが。

 

デラクスルのラストに関しては、サウスパークを観ている人からするとある種の意趣返しにように見えるかもしれんですね。シーズン13の1話でミッキーマウスがまんま同じ手法でヘマをしていましたし。デラクスルが悪役とわかった直後の露骨な敵キャラ描写なライティングは「レミーのおいしいレストラン」におけイーゴの部屋並で笑ってしまいましたが、しかしやはり彼のラストに関しては「大いなる西部」「フォックス・キャッチャー」でなし得たことからひどく後退したように思えてしまう。まあディズニーはあくまで大人でも観れる子ども向け映画の側面があるので、多くを求めすぎているというか自分が単にイーヴィルな人物に愛着を感じてしまうというだけなので、そもそも自分のような輩はお呼びではないのでしょうが。

もちろん、死者の国のドラッギーでジャンキーなカラフルな世界観のヴィジュアルや橋の葉が滝のように流れ落ちているのだとか、良いところはたくさんあります。

 

本編とはちょっと別の部分でも色々と思うことがあります。

まずママココのキャラデザ。なんか抽象度のレベルがママココだけ違いませんか。ほかの人物はいかにもなアニメといったキャラデザなのに対してママココのシワの作りこみとかほとんどシグルイの虎眼先生レベル。「曖昧」な状態にあるというのもまさに虎眼っぽいし。ラストの方で目を開くと、その大きさも相まって本当に虎眼。

あとこれもないものねだりではあるのですが、認知症とかボケているという描写もそろそろステレオタイプから脱却すべきだと思う。そもそもそういうのを描かない(業界的にそもそもそういうのを描くジャンルが作られないというのもありますが)日本のアニメに比べれば先んじているとは言えますが、認知症にだって色々と種類があるわけで。

わたしがことディズニーに関してうるさくいうのはディズニーがレプレゼンテーションやポリコレといった部分に意識的であるからこそなんですが、まあ自分でもわがままが過ぎるとは思いつつ、あくまで個人の感想として正直にならないわけにもいかないので書き下しますが。

 それとあの世に小さい娘を連れた家族がいましたけれど、あれって要するに家族が一気に死んだってことなんですよね。そう考えると、その死の経緯なんかも気になりますよね。

死生観で言えば、死んだあとの死こそが本当の死ということであれば「ドラゴンボールZ」だったり「シャーマンキング」も死んだ後の自分の魂の在り方に左右されるという意味では共通してはいるのか。シャーマンキングといえばミゲルが死につつある描写として骨の周りの肉が薄くなっていくという描写がありましたが、あれがオーバーソウルの絵ヅラっぽくて好きだったりします。エリザまんま。

まあ上記二つの作品よりは「リメンバー・ミー」の「死後に忘れられたら本当の死」という考え方に一番近いのは「結界師」の斑尾vs鋼夜における「わたしら(妖)は忘れられたら消えるんだよ(超うろ覚え)」みたいなセリフでしょうか。たしかかなり初期の3巻だか2巻だかの話だった気がする。

あと犬に関して。なんかアメリカで制作されるアニメで犬が出てくるときってなんかこうイっちゃってる感じがあるのはなんなのでしょう。そう見えるのは主にロンパってるような目つきとか誇張されすぎた長さのベロを常時出しているからという部分が大きいのでしょうが。私の中ではペティグリチャムのロゴの犬がボーダーになっているので、あれ以上の誇張を重ねられるとイっちゃってるように見えてしまうのです。

深読みというか勝手なこじつけをするのであれば、この「リメンバー・ミー」に関して言えばダンテは終盤に精霊のような存在になるわけでして、日本でも古来はそういった人たちを菩薩だとかそういった対象として観ていたという価値観があるので、そのへんと同じような価値観がメキシコにはあったのかなーとか。

そうそう、エル・サントがしっかり英雄扱いだったりフリーダ・カーロのネタを入れてきたりするところは好感度アップしましたし、エンドクレジットのあとあれはさすがに胸に来るものがありました。色々言いつつも。や、まあ、ここでもヒネクレ者な自分との葛藤がないわけではなかったんですが。なんというかこう、「D-grayman」におけるコムイ室長の実験で死んだ人たちの名前を列挙するシーンとかリーバー班長の「黙れよ」のあとのセリフとか、ああいう死者を思うという行為そのものには感動するタイプなのですが、「リメンバー・ミー」でそれがプラスにあまり働かなかったのはメディア的な違いがあったのかなーと書きながら思いました。

 

世間の評価ほど自分は好きな映画ではありませんが、とりあえずオラフは逝ってよし。