dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

欺かれるを恐れるな、世界はすでに欺きの上にある

さーせん、BLEACH好きなんですよ、自分。好きだった、と書くべきか。

 

安倍ちゃんの公文書改ざんのタイミングで「ペンタゴンペーパーズ 最高機密文書」が公開を控えているという示し合わせたようなタイミングでこの映画を観たのは本当に偶然だった。前から存在を知ってはいたのだけれど、どこもレンタルしてないしアマゾンで買おうにも定価から2000円高くなっているし、色々と二の足を踏んでいたんだけどようやく観ましたですよ。や、国立国会図書館に保存されているから観に行こうと思えば観に行けたんだけどね。

チョムスキーとメディア マニュファクチャリング・コンセント」

これを観ておくことで「ペンタゴンペーパーズ」を観ることへの単純化された二元論を避けることができるかもですな。

しかしこの手のドキュメンタリー手法の映画でインターミッションが入るほどの長い映画(160分越え)とは恐れ入る。作品としてはそれだけ誠実であるということの証左でもあるんだけれど。

 

 

チョムスキーはそもそも言語学者で、言語生得説を提唱したすごい人(小並感)なわけなんですが、同時に政治分野にも一家言ある人なわけです。御年89歳ですがこの間も新刊出したり福島にも来てたりと、日本との縁も少なからずあるお人。この映画はその政治部分についてのチョムスキーの考えをまとめたものであると言える。実はこの人の本は読んだことなくて、「読書感想」の方では言語方面の彼の論を発展させたピンカーの本についてちょろっと書いたくらいだったりする。ピンカーはピンカーでフェミニストからはどうなのそれな部分が あるみたいなのですが、この映画ではピンカーのピの字も出てこないので彼については書きません。

 

 冒頭から「人々の目をふさぐ張本人が彼らの盲目を非難する」というミルトンの引用から始まるわけですが、これが映画の内容を端的に表してはいる。「環境管理型権力こわい」と。たしか前も引用した気がしますが某超越者(自称)が「目に見える裏切りなど知れている 本当に恐ろしいのは目に見えぬ裏切りですよ」とおっしゃっていたようなことです「環境管理型権力」というのは。多分。

 そんな引用から始まる本編ですが、開始十数分でわたしがこの映画を知るきっかけとなった「合意の捏造」という言葉がウォルター・リップマンの1921年の著書からの引用だとチョムスキーは言い、さらに彼の著作から文章を引用する。

んですが、その文章がもう完全になめくさっていて「民衆は公益が理解できないから専門家に任せて支配されてろ(ゝω・)テヘペロ」って感じ。意訳ですけどほぼこのまんま。この直後にチョムスキーが言説するとおり、これは民主主義の一般的見解とは異なっている。さらには政治に対して強い影響力を持っていた神学者(!?)のR.ニーバーなる人物も「愚かな民衆は理性で考えるよりやみくもに信じることを好む」と著書で書いていることを言及。

そして、ここで提示される政治システムが抱える内的矛盾についてさらに深堀されていくことになるわけです。あとこのシーンで思想注入というワードが出てくるのですが、これがなんかすごいディストピアSFぽくてイイ。どうでもいいことですが首領パッチがトゲを差し込んでエキスを注入すると首領パッチと同じ思考になるという設定がありましたが、あれを不可視にシステムの中に組み込んだものと言えるでしょう。

 

「民衆の無関心が独裁者を生む」。平和という選択しがないということ。ここではあくまで戦争を例に挙げているけれど、これは常に行われていると考えてもなんら不思議ではない。我々は常に提示された選択肢以外を選ぶことができないということ。それ以外の選択肢があるということを意識させないということが平然と行われているに違いないのだ。これはあまり考えたくもないことなのだけれど、ともすると提示している側すらそれに気づいていない可能性もあるのだろう。これ、「マトリックス(特にリローデッド)」にも通じますよね。

あとキャプテン・アメリカカメオ出演に笑う。

 

第1部の中盤ではニューヨークタイムズについて取り上げられる。この映画が公開されたのは1992年でまだインターネットが今ほど普及していないこともあって、新聞の影響力が強かったんですね(日本でのソフト化が2007年というのは謎だ)。ニューヨークタイムズの新聞の内訳は、広告が6割で記事が4割。個人広告を抜けば記事の方が割合としては多いというが、そういう問題ではない。

広告が云々という問題は、ネットの普及によって取りざたされることが多くなっていたように思えるのだけれど、そんなものは今に始まったことではないということでもある。またここで、チョムスキーは物事を見るときには対になる出来事を対照させること、と言っている。反証と言い換えてもいいかもしれない。彼自身はポル・ポト政権のことと東ティモールのことを対になることとして挙げている。それがいかに当時としては危ない言論であったかは、インドネシアを取材したジャーナリストの映像と、その映像の直後に彼を含めた数名の名前が表示されると同時に銃声が鳴る演出からも明らかだった。インドネシア軍に殺されてしまったのである。けれど侵攻の前後のニューヨークタイムズの記事の偏向はすさまじく、ジェノサイドが最高潮に達していた時期にはアメリカもカナダも記事を載せることすらなかったという。

 全体的に見直す。

ここでは重要なことを言っている。

制度分析をさせないために陰謀説にすり替えるという上級国民のやり口。そりゃそうだ。既存の制度を分析されることは、すなわちその制度から既得権益を受けている連中にとってはシステムを脅かされることにほかならない。

 そして制度分析をさせないことで「大衆の無力化」を図る。これこそ政治/権力を握るものの本質だろう。別にワタミを例に挙げるまでもなく。

 このあと、チョムスキー(と監督を含めた製作陣)がなぜ映画を作ったのかということを遠まわし説明するかのようにテレビの構造を揶揄する構成を取っている。テレビが好むのは「短く簡潔に」ということ。

しかしこれは単純化以外のなにものでもなく、まして複雑な問題を語るのであれば「短く簡潔に」という概念は事実の歪曲とほぼ同義であるように思える。それを証明するかのようにニューヨークタイムズはある記事を引用する際に部分部分を切り取り「短く」した上で記事を出す。まあテレビではないけれど、同じ問題として並列させはせずとも近しい問題として扱っているように思える。実はこれってハフポスとかあの辺の原文を翻訳する際にも意図的にせよそうでないにせよ生じるロストイントランスレーションな気がするのですが。

つまり、そういう「短く簡潔に」というメディアの放送形態=システムそのものがすでにからして特定意見の排除を内包しているのである。

それにしても「聖書はジェノサイドを肯定している」というのは向こうの人にとっては結構感情を逆なでするものだと思うけど、大丈夫だったんでしょうか。

 

一つひっかかったのは、ベトナム人権委員会なる組織のカーン・レキムという人物が「ベトナムに人権侵害はない? この男は間違っている」とチョムスキーに対する反発を顕にしたインタビュー場面のあとに、チョムスキーは「糾弾はいいが嘘は困る」と言う。しかし、何が嘘なのかということについてはまったく語っていない。意図としては自身を非難する輩への反論(実際にこの直後に差別主義者というレッテルを貼られることを例に出している)というか、その嘘によって攻撃しようとする卑怯さを演出したかったのだろうけど、チョムスキー自身が口にしたその嘘というものとカーンが口にした言葉との間にはどうも乖離が見られる。というか、カウンターパンチをお見舞いするための誘い水を自分で放っておきながら、それに対する答えになっていないように思えるんですよねぇ。

 このシーンの直後に名前が出たロベール・フォリソンについて、チョムスキーが彼を擁護したことへの問題をここで取り上げている。で、気になってこの人の名前を調べてみたら真っ先に面白い文献にぶち当たった。「ロベール・フォリソンと不快な仲間たち一歴史修修正主義の論理と病理」ですって。読んでませんが、フリーアクセスなので余裕があるときに読んでみるのもいいかも。

それはともかくこのパートに関しては最近はもっと拍車が掛かっている。ツイッターなんかだと顕著だけれど、特定部分を抜き出して否定も肯定もしていない(あるいは部分的に双方を含む)ような意見なんかをどちらかに傾けて流布したり。

まあ、それよりはむしろ言論の自由に関する問題なのだけれど。ここに関してはほぼ全面的にチョムスキーに同意せざるを得ない。これの行き着く先はユートピアディストピアだろうし。たとえ悪罵であったとしても、それ自体が封殺されることはあってはならない。発言や記述の善悪だとか事実だとか虚偽だとか、チョムスキーがここで訴えているのはそういった矮小化された二元論ではない。その二元論を語る空間が脅かされてしまうということを訴えているだけだ。

無論、ヘイトスピーチみたいな例外はあるのだろうけれど、しかしやはりA3を読んだ今となっては、「ヘイトスピーチ」という例外を常態化させることでそれを建前に領域を徐々に拡大していくなんてこともあるかもしれない。

そこには注意が必要だろう。

 

 メジャーメディアに対する 対抗策としてのオルタナティブ・メディアは、規模ではなく数で攻めることが可能である一方で、主張がばらばらで読者数も限られてくるため、やはりメジャーどころへのカウンターとしては厳しい。しかし今はネットがあるし、バズったりすることで注目を集めることもある。

ま、バズる記事自体が限定されているという意味ではあまり期待できないことでもあるんだけれど。結局は能動性だろうし。

しかしチョムスキーはやはりわかっている。彼は質問に対して自分自身が間違っているかもしれないということを素直に言ってのけている。常に自分を問い続ける姿勢は、答えのない問題に取り組んでいるからこそなのだろう。この辺が自己欺瞞に陥いっている人とは違う点でしょうな。それに気づいてすらいない人もいるくらいだし。

 このあと、チョムスキーが自身の存在意義のようなものについて極めてわかりやすく伝えてくれている。この映画における捏造の合意を生み出す人々がトップダウン形式であるとするならば、チョムスキーはhub型の組織構造なのだと思う。彼は自分が分析能力に長けていることを自覚しているし、その能力を民衆やオルタナティブ・メディアに波及させていくことに尽力している。

で、チョムスキーはまた直球なことを言っていて面白いのですが「単純に国を愛したい私のような人間がアメリカをまた誇れる日は来ますか? 願うのは間違いですか? 私たちが権力に操られやすいのは国を誇りに思いたい気持ちが強いからです」という質問に対し「あなたの言う国が政府を指しているのであれば永遠に来ません。それはどこの国でも同じことです~中略~国家は暴力的機構です。政府は国内の権力構造を体現しそれは普通暴力的なものです。そして強力な国家ほど暴力的だ」と断言している。

また、チョムスキーは「政治システムには本当の意味では参加できていない」と言っているのだけれど、これはほとんど間接民主主義の構造的欠陥だとわたしは思う。だからこそ「制度の外で活動をする」というのは至極当然だろうけど、システムそのものを変えない根本的な解決には繋がらないように思う。

さらにこのあと、わたしが前述した「選択肢」論についてチョムスキーが明言する。彼の意見をそのまま援用させてもらえるなら、民衆はほとんどペットのようなものだ。飼い主はいくつかの餌の種類を用意している。その中でペットは好き嫌いがあるため、与えられる餌に不満を示すことはできる。そして、それが功を奏したら満足する。けれど、飼い主の用意する餌以外にも実際はたくさんの餌の種類があるにもかかわらず、ペットはその事実に気づきすらしない。それと同じようなものが政治システムには潜んでいる。や、政治に限らないけれど、特にそれが顕著であるのが政治というシステムであるとはいえよう。

 ただ、もしかするとシステムの恩恵を受けている上級国民すらシステムを使役しているというよりはその逆なのかもしれない。人に決められるのはシステム内の位置取りだけでしかなくて、その位置によって資本主義経済の中で生きることの難易度が左右されるのかも。

 

最後の10分くらいのチョムスキーの論ですが、 ここはもうほとんど自分が常日頃から思っていたことをチョムスキーがまんま同じことを代弁してくれている。

つまり、貧困や労働という行為そのものが政治から意識をそらすためにあるのかもしれない、ということ。チョムスキー自身はそこまで言ってなくて、ただ単に働いて疲れた人が家に帰って政治についての情報を集めて分析などできるだろうか、みたいなことを言っているだけだけど。そりゃそうだ。

学者などといった、その分野について研究することでお金をもらえるような連中とは違って、一般的な社会人というものは仕事に追われている。一日の3分の1という膨大な時間を労働に費やし、そうすることでようやく衣食住を確保することができるのである。もちろん、これに当てはまらない人もそれなりにいるだろうが、これに当てはまる人が大半だろう。

そして、それだけの時間を費やした人たちには休息が必要だ。では、その休息の時間をどうして政治のことに使わなければならない? せっかくの休息を馬鹿げた国会討論や同じことばかりを繰り返し垂れ流すメディアにどうして付き合わなければならない? これはもう陰謀論というか妄想なんですけど、そういうくだらない部分だけを徹底的に見せつけることで政治に関して諦念という政治的無関心の免罪符を大衆に与えることを意図しているんじゃなかろうか。

自分は今九割九部九分九厘ニートのようなものだが、そのおかげで映画や本に触れることができている。はっきり言って、本を読むことはかなり大変だ。読むものにもよるけれど、かなりの労力と時間を必要とする。と、わたしは思う。

けどね、30年近くも前に言われていたこの大前提を抜きに話を進める論客が多いこと多いこと。それも体制を批判する立場の人がその前提を無視してる場合が多い。その点で言えば、体制に迎合する側はそれを意識しなくてもいい点では相対的には労力が軽いのかも。

  

この映画を観た今、最後に自分自身への戒めというか楔として、書いておかなければならないことがある。

それは、この映画すら疑ってかかることだ。

たとえば、この映画では基本的に最大手ということでニューヨークタイムズが取り上げられているが、ほかの新聞が具体的にどうだったのかということまでは議論されていない。

また、チョムスキーは虐殺が同程度の規模であり人口比では東ティモールの方がカンボジアよりもひどかったと言っているが、人口比という対照軸が適切であるのかどうかという問題もある。もっとも、ことアメリカに関しては70年代にカンボジアへの蹂躙があったことを彼は言及している(だからどうだ、とは言っていないのがややもすればアレなのだが)ので、事情が入り組んでいるということは言える。

ここらへんはメディアが多重に事実を捻じ曲げているということを主張しているので、なんとなく一つ一つの事例がばらけているきらいはある。あるいはニュースアワーという番組に関することでは、16年間のゲストの数は15000人以上で、そのうちチョムスキーの出演回数は1回という字幕が表示される。一見するとこれはとても少ない数に思える。しかし、数字というものは往々にして相対的に語られるべきであって、この数字ではその数が多いのか少ないのかは判別できない。や、これがウィークリーなのか帯なのかによっても逆算することは可能だけど。

そもそもが翻訳されている映画であるためにロストイントランスレーションではないけれど翻訳者の理解度に依拠しているというのも疑ってかかるべき懸念だろう。

 

 

 

午後ローへ島流し

そういえばリブート前の方も午後ローでやっていたような気がする。

いや、本当に特にこれといって語ることがないんですよ「トゥームレイダー ファーストミッション」は。

「あぁシリーズ化したいのね」というあからさまなラスト(普通はそれ冒頭に持ってくるべき展開だろ)とか。ガタガタの脚本というか場面場面をツギハギしたような展開にどうでもよくなってくるというか。弓矢を使う伏線・・・というにはあまりにどうでもいい上によくわからないタイミングで挿入される回想とか、ともかく色々と雑。本当に場面場面の繋がりがないから「あれ、そういえばどうしてここにいるんだっけ」というようなことが多々あった。ぶっちゃけ最初の方の街中でのチャリンコ鬼ごっこみたいなエクストリームスポーツが一番ワクワクできた要素ですね。

あとufcぽい格闘シーンでアリシア・ヴィキャンデルの腹筋が見れるくらいでしょうか。この人の声って結構ハスキーというかかすれてるような声だから、気張った時の声が必死な感じが出ていいですよね。

ただ義務的に脇腹にケガを負う割にピンピン動くわ、思い出したように「怪我をしているの」とまんまな説明セリフを口にしたりと、そういう意味では面白いところも結構ある。お前はどうして銃を使えるんだよとか、もはやその手のツッコミをしているとキリがないくらい。

ただ、そういうところがちょっと初代トランスフォーマーぽくてそんなに嫌いじゃなかったりする。いや、レンタルして観るとかまして劇場にもう一回足を運んで観るなんてことはしませんしオススメしたりもしませんが。どこで見聞きしたのか忘れましたが、ハリウッドのビッグバジェット映画では観客の興味を引くために5分ごとにイベントを発生させるみたいなことを聞いていたことがあって、G1TFもそのメソッドを用いているというようなことも聞いていたので、もしかするとこの「トゥームレイダー ファーストミッション」もそういうメソッドを使っているのかも。

あとヒミコが字幕では頑なに女王と訳されていたり、邪馬台国が英語ではヤマタイと呼ばれているのとか、そういうどうでもいい要素が気になった。

名前を聞いたことのない監督だなーと思ってましたが、英語版のウィキの方もほとんど情報がないことを考えると新人職人監督みたいなことなのでしょうか。

 

今回の一番の収穫はIMAXで「パシフィック・リム アップライジング」のIMAX版の予告編が観れたことでしょうかね。あれはあれでかなり観せすぎているよう気もするのですが。

R・J・マクレディは怒っていい

この監督の映画って間がすごい伸びる。

だから、2時間を越えるような内容ではないのに2時間を越える長さになる。まだ長編は7作しかないらしいのですが、自分は「横道世之介」しか観たことがないんで、なんとも言えませんが今回の「南極料理人」と見比べるとそういう傾向はありあそう。「横道世之介」なんて160分ですからねぇ。

とはいえ、これは別に批判しているわけではなく、むしろその「間」によって笑わせてくるタイプだったりする。1つ1つのカットが比較的長くカットをあまり割らないというのもある。生瀬勝久の誕生会のシーンなんか、特に顕著な気がする。堺雅人が娘の歯を取り出すまでずっとワンカットですからね。だからテンポを犠牲にしてそういう独特な「間」でちょっとした笑いを演出するのが得意なのだしょう。

即落ち2コマ的な演出をするときも、その振りが長いですからね。宇梶が南極に行くことになって喜び胴上げからのバイク事故のところは、明らかに胴上げの場面長いし。堺雅人が南極に派遣されている時点で宇梶に何かしらアクシデントがあったに違いないという予想を観客は立てるわけですが、あまりにこの胴上げの間が長いのでキャッチに失敗して腰を打ったりするのかと思いましたよ。

伊勢海老→エビフライの天丼からの「刺身だな」とか、ああいう「フッ」って感じに笑えるネタが多いのが沖田修一監督の特徴なのかも。あのシーンでいえば全員が同時に伊勢海老の頭をどけるのとか、ああいう日常的な笑いを演出するのが好きなんですね、この監督は

ラーメン>カニなのも笑えた。

 

地味に料理映画としては好きかもしれない。料理映画としても普通の映画としても質の高い「シェフ 三ツ星フードトラック始めました」とか「二つ星の料理人(※ほぼキャストへの思い入れ)」とか「レミーのおいしいレストラン(※まあよく考えるとアレですが)」とか、あの辺に比べると「南極料理人」はおっさんが戯れているだけなのでドラマは皆無ですが(しかしシチュエーションは「遊星からの物体X」とそう変わらないのに凄まじく牧歌的である)。そういう意味では映画というよりはドラマとか、そういう感覚で観るものだろう。今はどうか知りませんが、少し前まで深夜アニメとか深夜のミニドラマで飯食うだけのはやってましたし。そこに笑いを足したような感じなので、垂れ流し見するのに向いている。余談ですが友人は「キャシャーン」をそういう感じで垂れ流して観ることがあるらしい。一時期はわたしも「トランスフォーマー リベンジ」をそういう感覚で観ていた(もはや観てすらいなかったけど)時期もあったので、そのへんの感覚は人によって違うでしょうが。

 

伊勢海老のエビフライはちょっと食べてみたいなぁ。

 

トム・ハンクスがゲイ役

軽く調べたら実際にあった事例をベースにしているようですな。

フィラデルフィア」ってやけにシンプルなタイトルですが、輸入の際に改題する基準がイマイチわからない。

法廷ものジャンルでありますが、ゲイでエイズを扱った作品ということで、まあ最近のLGBT事情なんかを先取りしたものといえばそう言えるのかな。監督が「羊たちの沈黙」のジョナサン・デミということで全然違う作品だなぁなんて思っていたんですが、この人のフィルモグラフィの中ではむしろ「羊~」の方が異端なのかもしれない。ドキュメンタリー作品を多く撮っているし、そっちの方から見ると社会性というテーマでこの作品を見ることができるし。

ていうか一年くらい前に亡くなっていたのね、この人。

 

顔アップとか「羊~」で見られたカメラワークなんかもあったりしましたな。優等生的な演出が得意っぽく、アンドリュー(トム・ハンクス)がエイズであることがわかった途端に友人ジョー(デンゼル・ワシントン)がよそよそしくなり、視線とアンドリューの挙動のカットの切り替えだけで見せるような演出とかはかなり気を遣っている。

 

基本的にこの手の法廷ものとしては事件そのものがセンセーショナルであることが大前提としてあると思うのですが、その点では「告発の行方」と同じジャンルと言えるかもです。

普通に観ているぶんには面白いんですが、すべてが収まるべきとこに収まっていく退屈さもあるのは事実でしょう。字幕で観たんですけど吹き替えが田中秀幸っていうのがちょっと気になる。トム・ハンクス田中秀幸ってどうなんだ。

トム・ハンクスといえばこの作品ではトム・ハンクスがゲイ役をやっていて、パートナーとのホモセクシャル要素以外にデンゼルとのホモソーシャル要素もあるので、おっさんのそういうのが好きな人はおすすめできるかも。

 

あとこれは本編とは直接関係はないのだけれど、この間「TED」で半身不随だったかの女優が半身不随の役を健常者に取られたという話をしていて、その放送をしたNHKヘテロたるハンクスがゲイを演じる映画を流すということについてどう思っているのだろうか。何も考えていないのだろう。まあそんなこと考えていないだろう。ていうか、それを言い始めたら「ブロークバック・マウンテン」とかどうなるのよ、という話ではあるし「アンダー・ハー・マウス」でポリコレが足かせになっていることを考えるとアレなのですが。

こと人種というものに関してはレプレゼンテーションのこともあるし、わかるのだけれど。半身不随は役者にも体現できるわけで、ていうかそこを突き詰めてしまうとCGが云々という話になっていきそうな気がするのです。

あーでもミンストレルショーのこととかあるし、やっぱりこの問題を考えるにはまだ自分は見聞が浅いので深くは掘り下げるのは止めておきましょうか。

 

 

相続した車で老犬と初デート

見逃した「グラン・トリノ」がまたやっていたので、ようやく観れた。

イーストウッドの映画で初めてウルッときたかもしれない。この人のフィルモグラフィは年齢が年齢だけに、もちろん全部を追うことはできていないわけですが、一番感情的な昂ぶりがあったと思う。イーストウッドの代表作として結構な数の人がこれを挙げるのもわかる。それだけ叙情的であることは言えるだろうから。

 

至極トーシロな見方を許してもらえるのなら、この映画はイーストウッド自身の決算映画としてあるように思える。

許されざる者」について感想を書いたときは、それまでの西部劇映画に対する解答としての贖罪のような面があった、的なことを綴った気がする。イーストウッドと西部劇というのは切っても切り離せない関係にある以上、それまで多くのカウボーイなヒーローを演じてきた彼なりのけじめのようなものだったのだろうと。

そして「グラン・トリノ」はイーストウッドという俳優自身に関する一つのけじめなのだろう。

イーストウッドの映画には死がついて回っている。少なくとも、彼が監督を務め彼が出演している映画のほとんどに、人が死ぬ場面がある。すべてがそうかはわからないけれど、彼が監督を努めなくとも彼がメインで出てくる映画も大半はそんな感じだろう。しかし面白いことに、それだけ死を振りまきながらも、イーストウッドと死をすぐさま連想させることはない。なぜならイーストウッドは死なないからだ。

これだけ死を振りまきながら、彼自身はほとんどのーーもしかすると全ての映画で死んだことがないのかもしれない(イーストウッドのフィルモグラフィを把握しているわけじゃないからあくまで推測だけど)。

死ぬことのない絶対的なヒーローのイコンとしてイーストウッドは在り続け、それがさらにイーストウッドから死を遠ざけていく。イーストウッド自身がそのことに自覚的であったことは「スペース・カウボーイ」で自身ではなくトミーリージョーンズを死に追いやったことからも予測できる。死に追いやったというのは、あくまで作劇上の話ですけど。

そんな自分を観照的に見つめ返した結果として、この映画はあるのかもしれない。

そう考えるのは、まさに劇中で神父とイーストウッドが生と死についての問答を交わすシーンがあり、そこで神父に「生よりも死について知っているようだ(意訳)」と言われるからです。不死の象徴として君臨していながら、生ではなく死に傾いている存在であることが述べられる。死んだことのない男が、死を解するという一見すると矛盾したように見えるものの、イーストウッドの周りは常に死に満ちていた。しかし、自分が死なずして本当に死を理解できたといえるのか。老境ゆえの死考でそう思ったのかどうかはわたしの知るところではありませんが、イーストウッドはこの「グラン・トリノ」の中で誰ひとりとして殺さない。イーストウッド自身を除いて。

そう。これまでのイーストウッドの映画であれば、間違いなく誰かが死んでいたはず。イーストウッド+オラついた若者もとい馬鹿者+銃器とくれば、イコールで繋がるのは「死」だ。しかし「グラン・トリノ」ではレイプされる女性(しかも、イーストウッドの行動が招いた結果であり、彼と親しい役柄である)が登場したり、友人が銃撃によって流血したりすれど、死者は出ない。最後の最後、イーストウッド自身の代償行為以外を除いて。

それも理性的な死に方だ。全てを丸く収める(野暮なツッコミをしなければ)ことができる最善の方法であり贖罪だったのだろう。

家族関係の部分についてはもしかするとある程度投影してるのかなーとか思ったりしますが、まあそれよりも継承という部分がクローズアップされているのでイーストウッド的にはプライオリティが低いのでしょう(笑)。

そして「グラン・トリノ」で一度死んだイーストウッドは、再び映画監督として再生する。それこそキリストのように。キリストといえば「グラン・トリノ」の最後でイーストウッドが殺されるシーン。倒れ込んだ姿が磔刑にされたジーザスっぽいんですが、そのへんは偶然なのか狙ったのか。

 

ヒューマンドラマかと思えば社会派SFだった

っていうとそれはそれで微妙に違う気がする。

アレクサンダー・ペインの「ダウンサイズ

別に原題の「ダウンサイジング」でいいじゃんと思える謎の変更に首を傾けるばかりなのですが、名前はともかく相変わらず面白かったです。

挫折し続けた先にある救済という、何気に励ましてくれるような話であったりしますし。もっとも、そこには他者への思いやりといった善性が根底にはあるのですが。

しかし文字通りキャラクターがダウンサイズするのに対してアレクサンダー・ペイン映画としては何気にもっともスケールがデカい話だったり。

 

とりあえず役者に関して。

ペインが言うところの平均的アメリカ人である主人公ポールを演じるのがイケメンゴリラこと我らがマット・デイモンジェイソン・ボーンが平均的アメリカ人と言われると疑問だが、よく考えればボーンシリーズにおける彼は自身に戸惑っているわけだから間違っているというわけでもないのだろう。しかしいくら顔がでかくて割と短足とはいえデイモンで大丈夫なのかと。しかし思った以上にはまり役だった。マッチョじゃなくてやや太った印象を受けたのだけれど、どうも腹に詰め物したらしいですな。

クリスティン・ウィグはほとんど出番なしでびっくり。ハゲな上に片方眉毛が全剃りアップで退場という面白い退場の仕方をするのですが、これ以降はまったく話に絡んでこないのがトレーラー詐欺だろうという気がする。別にいいんですけど。

今回二番目においしい役を持っていったホン・チャウ。この人のことはまったく知らなかったんですけど、超かわいい。まず声ね。いわゆるアニメ声っぽい感じなんですが、それをことさら強調するわけではなく自然体に使っているのがグッド。愛嬌のある笑顔とか字幕のぶっきらぼうな言葉使いとかもポイント高いですよねぇ。顔自体は美人というよりは愛嬌のある感じで、なじみ易い顔と言えばいいのでしょうか。ドクターコトーに出てきそうというか。

この人は純真だけど強さもあって、いい感じにポールと対になっていますし。

ニール・パトリック・ハリスローラ・ダーンはチョイキャラなのに公式サイトのキャストにでかでかと載っているのが不思議なくらいですな。「ゴーン・ガール」の後だとこの後ニールが死ぬイメージしか沸かない。

ウド・キアなんてほとんど喋らないのにあのトトロというか埴輪というかグレイタイプの宇宙人のような目で存在感を主張してくるし。

しかし、何といっても今回はクリストフ・ヴァルツでしょう。クリストフ・ヴァルツが美味しすぎる。狂気を帯びている変態とか裏のある変人をやらせるとピカイチですな。「ゼロの未来」もあれは変態と言って差し支えないでしょうし。

ポールとノク・ランがメイク・ラブした翌朝のドゥシャン無言の笑顔ね。カットを切り替えてからの同じ顔というあたり、ペイン映画の笑いで笑える。

 

ペイン映画なので細部のディテールはやっぱり手が込んでいます

車が反対向きに駐車されていたり、施術の待合室にいるのが典型的なユダヤ人だったり黒人だったりアジア人だったりと、背景のディテールが凄まじいことに。

ここで施術室に向かっていくマットデイモンがクリスティンウィグとカットが切り替わると通路の奥にいて小さく見える演出がなされていたり。

タイトルに社会派SFと書いたのはエコロジーな問題提起とか言う以上に、ディストピアな風景が出てくるからだったりする。施術シーンなんかの真っ白空間は、もうディストピア映画なレベル。冒頭でマウスに行う動作(レバーだったりつまみだったり)を人間に対しても同じようにやっているあたり、間違いなく狙っている。あと後半のカルト団体が穴にもぐっていくくだりなんかは「少年と犬」っぽくもありますしね。

ほかにも唐突なトリップシーンがあったり(ここのウド・キアの顔が面白い)して、「リック&モーティ」や「シンプソンズ」で見慣れたつもりでもライブアクションだとやっぱり違いますな。

 

挫折し続けた先に見出す幸福もある。しかし逆に言えば挫折し続けなければならないということでもあり、良いんだか悪いんだかよくわからないという。

映画自体は面白いんですが、パンフの情報量が足りなすぎるのが玉に瑕。

英雄が撮る英雄〜75億総英雄社会〜

かつて英雄のアイコンであった老人が、英雄を撮った。

そのくせ、いつもみたいにあっさりと、理路整然とまとめあげる。役者すら使わないという、本来ならば考えもつかないようなことですらも。

劇場でイーストウッドの映画を観るのはこれが三度目だったりする。

アメリカン・スナイパー」のときは今みたいに映画を観ることにそれなりの暇を割くこともなかった。「ハドソン川の奇跡」のを観たときは話題作なら観ておこうという程度でブログでこうして感想を綴るようなこともしなかった。

で、映画というものを人並みに観るようになってから改めて観たイーストウッドの映画が「パーフェクト・ワールド」だったわけですが、「なんだこの映画…」というほかの映画を観たときには抱かなかった奇妙な感覚が残っていたのは覚えている。

「スリービルボード」の感想を書いた時にイーストウッドについてちょっと触れたりはしたのだけれど、こうしてイーストウッドの映画を観ると「いや、やっぱりイーストウッドとは違うな」という、ボキャ貧丸出しな感慨に耽ったのである。

イーストウッドのこれまでの映画はエモーショナルな話を理路整然と組み立てなに食わぬ顔で顔で提供してきていた。と思う。

だから、イーストウッドの映画は感情を高ぶらせる要素をふんだんに含んでいるにもかかわらず、不思議なほどに情動が発生しない。前も同じようなことを書いたような気がするけれど、なんというかこう「1と1を足したら2だろう」と言わんばかりの、しかし達観というには人間の温度がありすぎる一方で、感情的に寄り添うにはあまりに手触りが違うという、なんとも奇妙な映画人(サイヤ人のイントネーションで)である。

 

「15時17分、パリ行き」でもイーストウッドのその変な(としか今の自分には形容できない)部分は変わらない。

ちゃんとした役者を使っている幼少時代の演出もキッチカッチリ正しく撮っていく。たとえば、息子のことを遠まわしに(でもないか)厄介者呼ばわりされたジョイス(ジュディ・グリア演)とジュディ(ジェナ・フィッシャー演)が出て行く時に捨て台詞を吐く。ここで切っても何ら問題はないのだけれど、その後の教師の反応までちゃんと撮る。スペンサーが努力を重ねるモンタージュも的確な編集でさらっと済ませる。

90分ちょっとの尺の中でこの幼少期のシーンはかなり多めに使われていて、さらに言えば事件の場面は本当に最後の方に持ってこられていて、そこにいたるまでのヨーロッパの旅行が延々と描かれるという大胆な構成になっている。それでもイーストウッドは「ソレをソレとして」レリゴーでカメラに収める。

思えば、これまでの映画もそうだったのかもしれない。ただ、そうあるからそう撮る。それゆえに映画の作為性が剥ぎ取られ(というよりむしろ、作為性を作為性のまま使っていたというべきだろうか)、要素としての物語が残り情動が感知されない。

しかし、この映画では役者すらも排することで作り物としての映画が持つ作為性すらも剥ぎ取ることにある程度成功してしまっている。実話に基づき実際の人物を実際のシチュエーションに置く。ライティングすら自然光であるこの映画に残った作為性はカメラのアングルだとか、もはやその位相くらいなものだろう。

唯一、演出的な演出が加えられているとしたらスペンサーの部屋のポスターくらいだろうか。「硫黄島からの手紙」はまあ楽屋オチとして笑うとしても「フルメタル・ジャケット」はどういうつもりなのか。単に権利的にクリアしやすかったからなのか。どちらにせよスペンサーのミリタリー愛の描写としてのさりげない演出として受け取れる。 

そのくせ、(まあこれは事実だから演出もクソもないのですが)幼少期の出来事や軍での失敗、そこから得たものが全てあの瞬間に集約されるという周到さに編集の巧みさ。

そして、ただ撮ることに徹したイーストウッドは、英雄と呼び称される人たちでさえもその通りにだけ撮る。アンソニーとスペンサーとアレクは「英雄」として表彰され地元でのパレードの映像が指し示すように世間としても彼らを「英雄」として扱っている。にもかかわらず、イーストウッドは三人を英雄に仕立て上げるような演出は一切行っていない。「テロリストの一発目がジャムった」という奇跡と呼んでも差し支えない出来事でさえもイーストウッドにかかればただの事実としてカメラに収められてしまう。

肯定も否定もせずにただ「英雄」という称号を背負う英雄たちを撮り、起きた事件とそれにおける各々の人物の行動を再録した。

だから、やっぱり達観と言いたくもなるのだけれど、それよりはむしろ現実主義者と捉えたほうが近いかもしれない。だからイーストウッドの映画には「スリービルボード」のようなイヤミなまで手の込んだ脚本みたいにはならない。「スリービルボード」を観て「イーストウッドみたいだ」とは思っても、こうしてイーストウッドの映画を観るとあくまで「みたい」であってイーストウッドの映画ではないことを再確認する。

イーストウッドの映画にはそんな複雑さはない。「許されざる者」にしたって、普通に観ているぶんには何も驚く要素はない。

イーストウッドは多分、別の位相にいるのだと思う。

この映画を観終わった後にはほとんど何も残らなかった。いや、それこそ「霊的ボリシェヴィキ」の妖精みたいな感じかもしれない。

この感覚は、それこそ無月状態の一護に対するケイゴみたいなものなのかもしれない。

肯定も否定もしないし善悪で分けることもない。ただこうだからこう、というそれこそ観照すらしているような気さえする。

最後の表彰のシーンのカット切り替わるごとに記録映像と映画としての映像がごちゃごちゃになるのとか、スピーチしている人物以外は同じという歪さに変な笑いが出たりしましたな。


なんだか物凄いことを普通にやってのけてますが、それすらイーストウッドは観照しているのやも。

 

トランプ周りのイーストウッドの発言を考えると、あながち間違っていない気もするんですよね。

ただ、ポリコレというものがあまりに窮屈すぎて、観照的な態度でいることすら許されない。その息苦しさからの発言なのだと思う。すごく低レベルな例えをするなら、本当に好きでも嫌いでもないのに「お前あいつのことが好きなんだろ~」としつこく言われるような感覚なのかもしれない、イーストウッドは。そりゃ鬱陶しいはずだ。

 自分なんかは、どうしても人について語るときにはたとえば「美学」とかそういう避雷針を用意して遠まわしに言って批判を前もって避けるような卑怯な寸法を取るのだけれど、イーストウッドはそんな小賢しいことはしない。というか、その域にまで達していないだけなのだけど。

 

今回パンフレットに青山真治樋口泰人のコメントだったり中原昌也と宇野維正の対談が載っていたりと個人的に好きな人ばかりだったので良かった。

特に青山真治の深読みっぷりに対して中原昌也の対談の全体的な楽屋オチみたいな雰囲気とか笑えるのですが、読み応えあります。特に「遅い」という部分に関しては自分の中のイーストウッド映画における奇妙な感覚の理解の手助けになりそうですし。