dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

異界を現出させる方法~地震雷火事寛治~

まったくノーマークの映画だったのですが、何かの拍子に予告編を目にしまして、その時点で「あーこれやばそう。観なきゃ」と思いuplink吉祥寺へ。

uplink系列は渋谷とか吉祥寺とか、オサレで人の多いところにあったり(渋谷の方はちょっと外れるけど)不必要に内装がオサレだったりするので、劇場までの道程とか劇場内での個人的に居心地が悪かったりする。

邪悪な副大統領

アダム・マッケイの監督作で言えば「俺たちニュースキャスター」シリーズが有名なのでしょうが、私の場合は「アザーガイズ」と「マネーショート」くらいしか観たことがないのですけれど、彼の監督作だけを追っていけばその志向はわかる。簡単に言えば社会問題であり、それをコミカルに描こうとするところにある。

だから「笑えるけど笑えない」というのが基本的に彼の映画には通底しているのだけれど、「バイス」はこれまでのアダム・マッケイの映画としてはかつてないほどにグロテスクな映画だった。

たった一人の人間が世界をかき乱していくその過程は、あまりにも凡庸。それにもかかわらずこうなってしまった。その異様さこそがグロテスクさの理由なのでせう。あるいは、落下事故によって開放骨折している作業員に対する冷淡さが当然のように描かれる様もそうだろう。
いや、あれがどこまで真実なのかはわからないし、ディック・チェイニーという人物を描く上での脚色なのかもしれない(その作為性は危険でもあるのですが)。それでもその意図するところは同じだろう。

ディック・チェイニーは飲んだくれで喧嘩っ早くはあった。が、果たして何か異様な行動を取ったりしただろうか? 
多かれ少なかれ権力を欲する(資本主義的かつ卑近にたとえるのであれば昇進でもなんでもいい)というのは人の本性ではなかろうか。より良き生活を手に入れるためには程度はあれ権能が必要となるのだから。

むしろ、愛する妻(というか当時は恋人)のために飲んだくれの生活を止める程度の誠実さが彼にもあった、というところが重要なのです。
つまるところ、彼はソシオパスでもましてサイコパスでもなければ、ずば抜けたカリスマを持っているわけでもない。田舎の一般ピーポーでしかない。劇中では馬鹿な話をいかにも真面目っぽく話す才能があったと言及されるけれど、政治家に必要とされるスピーチの才能は彼にはなかった。その代わりに妻のリンがその才を持っていたのだけれど。

しかしアメリカの政府という伏魔殿で仕事をし続けることで、やがて副大統領にまで上り詰めることになるのだけれど、本編でも途中で感動的なBGMに合わせて流れるエンドロールがギャグ的に使われているように、企業のCEOになった時点で政治関わりを経っていれば、至極真っ当で(退屈な)成り上がりの成功譚でしかなかった。

そこに一本の電話がかかってくる。それこそが、今に尾を引く事態の発端と言っても過言ではないかもしれない。
この電話の主(?)であるサム・ロックウェルの演じる子ブッシュが実に「神妙な顔して何も考えてない馬鹿」を体現していて彼が登場するシーンは本当に笑えるのですが、しでかしたことを考えると全く笑えないのが実にアダム・マッケイ節。
曰く
「無能な働き者は害悪である」 byゼークト
「活動的な馬鹿より恐ろしいものはない」 byゲーテ
「真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である」 byナポレオン

だから無能を自覚している私のような人間はひたすら石橋を叩いて何もせずかろうじて生きているわけですが、そういう自覚を麻痺させ自我を肥大させるものこそが権力なのでしょう。

それはもちろんブッシュだけではなくディックもだ。
だから劇中で描かれるようなことになってしまったわけで。

ディック・チェイニーら政治家たちの行動の反作用(あるいは作用そのもの)とも呼ぶべき活動の影響として随所にインサートされる悲惨な現実の数々。
ブッシュの貧乏ゆすりが戦場で震える人の足に繋げられる映像的な巧みさや絵画の配置、エンドクレジットにかかる曲のアイロニーなどなど、その手腕は流石。

エンドロール後のあのやり取りは監督の本心だったりするのだろうけれど、しっかりと「ワイルド・スピード」への流れ弾で笑いを誘ってくるあたりマッケイである。

 

とはいえ、この映画はかなりの危険を孕んでもいる。

それは、ともすれば問題をディック・チェイニーだけに収斂しがちな描かれ方をしているようにも見えるからだ。先も書いたようにディックというキャラクターはある程度脚色されているだろうし、その脚色とは監督の視線を通して我々に提供されているものに他ならない。

完全な客観性などというものが存在しないことは言うまでもないけれど、あらゆるメディアはそのメディアの主体たる人物(とか組織とか)によってある側面を切り取られたものでしかない。

この「バイス」もそれは当てはまることである。もちろん、本作で描かれる事態の中心にディックがいることは事実だろうけれど、しかし彼にそうさせたのは彼自身だけではなく周囲のあらゆる環境による相互作用にもある。

森達也が「A3」において語った言葉を援用するのであれば、ディック・チェイニーとは我々の可能性の一つでしかない。

誰もがああなる可能性はある。それを常に意識しなければならない。

 

 

徹底した共感の下で描かれるサイバトロン星人

期待しすぎた。期待しすぎていた。

いや、確かにトランスフォーマーというコンテンツに対する愛憎入り混じる感情が映画としての正当な評価(偉そうですが)を邪魔していることは否めないとはいえ。

あとトレーラーの音楽が良かった、というのもある。

いや、良い映画ではあると思いますが、ここ最近の傑作群に対するほどの熱量は正直あまりない。

 

ヘンリーの体つきは良かったですね。特に二の腕の太さは、車いじりが好きというキャラクターにもしっかりコミットしているし。

しかし、徹底して共感と理解を示すこの「バンブルビー」においては、映画内で描かれる共感的行動から観客(要するに私)がはみ出してしまうと、途端に排斥されているような気分になってしまう。

まず第一として車。まあ、これは07年の一作目トランスフォーマーでも描かれていたからゼロ年代までは少なくとも「カーズ&ガールズ」が有効だった(本国では今もそうなのかな)のだろうけれど、都会っ子であり車というものにそれほど欲を掻き立てられない自分としてはチャーリーの執着は共感不能なものである。

いや、だからといって理解できないわけではない。脚本上、父親が彼女に車の修理を教えたわけだから、その父を亡くした彼女にとって車というものに対する思い入れが人一倍強いのもうなずけるし。

そもそも、映画において共感なんてものは決して重要なものではないんですけど、映画のほうから共感を煽る(ってなんかすごいなこの字面)つくりになっているように思えるのだから、それに乗れない自分が疎外感を抱くのは許してほしい。

これが徹底して共感しようとしているのは、たとえば選曲もそうだしやたらと音楽をかけるところも、思春期の少女という存在に積極的に共感しようとしているからだ。

GotGのようにある種の伏線だったりキャラクターの関係性や状況だったり、というものに用いられるわけではない。そういうのはもっぱらスコアの方に託されている。

アイアンジャイアント」っぽいなーとか「E.T」っぽいなーと観る前から思っていましたけど、正直なところそれらの方が好きかなぁ。これはまあトランスフォーマーというフォーマットを使っていることによる功罪でもあるんでしょうけれど、未知との遭遇もの+ジュブナイルをやるのに、未知の相手の素性を最初から明かしてしまっているためにミステリアスな存在としての魅力がなくなってしまっているんですよね。人間よりも先にトランスフォーマー側とバンブルビーの方を先に描いている時点で、未知もくそもないわけで。

とはいえ、それははっきりと取捨選択による意図的なものである。その代わりにバンブルビーはより身近な存在として、最初からコミュニケート可能な存在として描かれる。それってエイリアンを描くにはキャラクターとして葛藤が生じているような気がするんですが、共感しやすさと理解可能な存在として描くという方向性を打ち出しているのはパンフなどからも明らかで(チャーリーとビーを傷ついた者同士としてとらえているし、引用される「ブレックファスト・クラブ」なんかまさにそうだろう)、そこに突っ込むのはないものねだりなのでしょう。

エイリアン=異邦人の共感と理解を第一に考えているというのは、設定面からも見て取れる。

マイケル・ベイの方ではなぜ地球の言語を使用できるのか、という点がしっかりと言及されている。それは要するにエイリアンが本来的には別の言語を持つ別の存在であるということを示しているものでもあるんだけれど、今回はそういうSF的なくすぐりはない。ベイのシリーズにおいては地球人には理解不能なサイバトロンの言語が音としても文字としてもはっきりと登場する。それが彼らのエイリアン性や理解不能性を浮き彫りにしていた(そもそも制作陣がTFのキャラクターを描くことに興味がなかったんでしょう)のに対し、「バンブルビー」ではトランスフォーマーたちがなぜ英語をしゃべることができるのかという部分には全くと言っていいほど言及されない。まるで所与のものとして有しているかのように流暢に地球の言語を話す。なんなら、母星である惑星サイバトロンでさえ彼らは英語(吹き替えだと日本語なのかな)で喋る。

これほどまでに共感や理解というものを全面に押し出していることと、昨今の世界情勢を絡めることはそう難しくない。実際、近作で描き方は色々・間接的であれ直接的であれそういうのを描いているものはあった。

まあ、マイケル・ベイはゴリゴリのマッチョ思考(を皮肉るタイプでもある)な人間なんで、移民がどうとかほとんど興味ないのだろうけど、「バンブルビー」みたいにそういうのを意識しすぎるがあまりに楽しさが減じてしまうのも考え物ではある。

そういう、他者との共感を通じた理解を描こうとしている(都度都度書くけどブレックファスト・クラブの引用なんてモロだし)がために、第一段階での共感ができない自分のようなお呼びでない観客には向いていなかったのだなぁ、としみじみ思いましたですよ。

少なくとも、マイケル・ベイが初めて人類にいい仕事をしたとまで言われた「トランスフォーマー」とは全く違っている。

あっちは「トランスフォーマー」を実写で描くことの一つの成功であると言っていいだろう。いや、もちろん「画面が見づらい」とかそういうマイケル・ベイの諸々のダメな部分は認めたうえで、それでもやっぱりボンクラが車と女の子をゲットするというフォーマットにトランスフォーマーという存在(とその未知の存在に対する人間の対応)をシミュレーションした成功作であった。それは平成ガメラとかシン・ゴジラに近い欲望の形で、だからこそ特撮オタクや少年の心を持った輩には受けたのだし。

 

で、「バンブルビー」が代わりに得たもの――そうやって共感や理解を最優先しているためにキャラクターへのお膳立てのように見える舞台がままある。飛び込みのシークエンスとか。

や、車のルーフから上半身突き出して「ふぉー!」ってやってるシーンのエモーションとか、背景のうねうねした土地と海とかライティングとかはすごい好きなんですけどね。

アクションに関しては、マイケル・ベイの指示下の編集よりもしっかりと見やすくなってはいる。ラストのビーとドロップキックの戦闘はおそらく1作目のビーとバリケードのオマージュなのだろうけれど、マイケル・ベイののようにやたらとカメラを動かしたりはせずチャーリーを中心に据えてその背後で肉弾戦を繰り広げるようなやり方はやっぱり見やすいし。

 

トラヴィス・ナイトは今回が実写作品初だしスタッフも今までの勝手知ったる仲間とも違うから、正直なところどこまで彼が手綱を握っていたのかはわからないけれど、今回に関して言えばもっとチューニングのしようがあっただろうとは思う。

これまでの作品は割と自らが主導でやってきていたのに対し、今回は雇われ仕事感が強いというのもあるのかも。

 

そんな「バンブルビー」で一番共感したのは、映画本編ではなくプロダクションノートでのオーティス役のジェイソン・ドラッカーくんの「おもちゃのトランスフォーマーをなかなかトラックに戻せなくて。トラックからトランスフォーマーにするのは問題なくできるのに、ドアの左右や頭のたたみ込み方がよくわからないんだ。まるでルービックキューブみたいさ」という発言だったりする。下手するとパーツもげたりしますからね。

そんなわけで、5歳の少年の心が未だに生息している私からすれば本編で一番心躍ったのは冒頭のサイバトロン星のシーンなのでせう。

が、ぶっちゃけ、あれにしてもG1デザインに寄せすぎているせいでWFCとかFOCとか「いやゲームのムービー画面ですかいな」という気分になったりしていたんですけど。

全体的にG1デザインなのにバンブルビーだけ実写シリーズの意匠(特に顔面)を残しているせいで違和感も強い。だって同じスタイルであるクリフジャンパーがG1よりな顔なんですからねぇ。「トランスフォーマー プライム」から引き続いて、無残な死に方をしてしまった彼ですが、あれってビーのせいでもあるんですよね・・・とか色々考えたり。

 

 パンフレットのストーリー部分でチャーリーがトリップ(半裸になるパツ金ボーイ)が気になっていると書いてあるんだけど、そうかな?という部分もあって、この辺はストーリー書いた人はもうちょっとね。

あとシャッターの声を当てたアンジェラ・バセットさん(ブラックパンサーで陛下の母親をやっていましたね)の声が良いです。

他にもいろいろと過去シリーズへの目くばせが結構あって、セクター7の基地がちゃんとフーバーダムにあったり(おかげで1作目の設定と齟齬が生じたけど!)、最後にカマロをスキャンしたり。

あとめっちゃ早いビートルという絵面もバカバカしくて楽しかったですけど、世間の興奮ほどには自分は熱狂しなかったですね。

 

それこそ、熱量だけで言えばまだ「最後の騎士王」への怨嗟の方が勝るくらい。

 

GXのテーマと5Dsのラスボスネタを思い出した。

それはともかく前作に比べて全然宣伝されてない気がする。

だからといってこの傑作には傷一つつけることはできないのですが。

しかしあまりにも宣伝されていないので気になって前作の興行収入を確認したら日本での興収はなんと2億円にも満たないレベルだったんですね。「レゴバットマン」にいたっては1億2千万ですし・・・自分のようなオモチャスキー以外はほとんど観に行ってないということなのか。私が観た劇場も吹替しかかかってなかったし。

今回も朝一とはいえ自分とおじさんの二人しか客いなかったし、もしや子供向けと舐められているのではないだろうか。子供向け映画としてしか認知されていないから大人は観に行かないし、子どもは子どもで「ドラえもん」とかそっちに流れてしまうのだろうか。

だとしたらとんだ見当違いをしている輩がいるということなので、ただでさえ傑作である「レゴムービー2」だけれど、今回は必要以上に褒めちぎっていくことにしたい。そんでもってもっと客が入ってもらわないと、今後また続編が作られることになっても興収が見込めないからビデオスルーなんてことになりかねませぬし。

そんな傑作「レゴムービー2」ですが、前作で監督を務めたフィル・ロードクリストファー・ミラーのコンビは今回脚本と製作に回り、代わりにメガフォンを取ったのはマイク・ミッチェル。この人の監督作品では「トロールズ」は観ていたのですが、ビデオスルーだったのであまり観ている人はいないかもしれませんね。まあ傑作とはいいませんが、「シング」と同じ方向性でよりミュージカルっぽさを強調したCGアニメーションといったところでしょうか。

とはいえユーモアセンスは確かにあったしほかのフィルモグラフィーから察するに今回の物語を描く人選としては割と納得できるものではあったりします。

 

あ、それど、今回はパンフレットの情報がめちゃくちゃ少ないので購入はお勧めしません。

 

そういうわけで「レゴムービー2」。

ただの続編ではなく、「レゴバットマン(傑作)」をも包括しているし、何より前作で歌っていた「すべては最高」というテーゼを揚棄しているという点で、まさしく続編の在り方として正統な存在であるといえる。

 

前作で描かれた子どもの(心が)持つ想像力の称揚は、しかし言ってしまえば一人遊びによる「他者の不在」が明確に描かれてもいた。その不在の孤独を埋めるための想像力でもあり、だからこそ最後に父親という他者との邂逅と別なる他者の存在を匂わせることによって幕を閉じた。

であれば、本作で他者とのかかわりが描かれるのは必然であったともいえる。

前作の大きなポイントとしてあった現実世界とのかかわりを前提にしているからこそ、それを存分に使って他者(今作では妹)との関係を大胆に描くことができたのでせう。

幼い妹という大人以上に理解不可能な他者。

彼女の創造物としてブロックシティ(=現実のフィンの空想世界)に最初に現れ町を破壊しつくしていくのが奇妙キテレツでいてどこか原初的な生物を思わせるデュプロ(より幼児向きのレゴ的なブロック玩具)星人たちであり、その5年後にボロボロシティ(=成長してしまったフィンの心の心象風景)に現れるのが、機械的・無機的なスペースシップに搭乗した、これまた機械型エイリアンぽいメイヘム将軍というのは実に面白い。

同じく5年の歳月を経てデュプロ星人よりもコミュニケーションを取りやすい人型でありながらも、しかしエイリアンという他者性・理解不能性は未だ有しているということの表現であることは一目瞭然。

そもそもが、レゴの世界とは兄であるフィンと妹であるビアンカの心の世界そのものであり、その世界で描かれるシスター星雲のキャラクターとブロックシティのキャラクターとの掛け合いはすべて兄妹のコミュニケーションに他ならない。そして、それぞれのキャラクターは人物の心理や考えといったいくつものペルソナの代行でもある。

だから兄のアウェイであり兄の視点を持つブロックシティでは妹という他者はエイリアン(=異邦人)として描かれれ、コミュニケーション(戦闘)を経てヘルメットが抜けて素顔が露わになるという構成。

シスター星雲という妹のアウェイにおいてはすべてが真正直なコミュニケーションとなってしまい、兄の大人(であろうとする)な部分の表象であるルーシーがそれを信じ切れずに意思疎通を阻害してしまう。そして、だからこそルーシーの本位というのもが明らかになるとテーマが一貫していることに気づかされる。

逆に孤独の表象としてのバットマンは、孤独ゆえにたやすく懐柔されてしまう。よく考えれば人間の心の一部の表象としてバットマンを用いるという発想がすでにすさまじいのですが、あくまでコミカルに描くためにはレゴという三頭身デフォルメされた世界観だからこそでもあり、その辺の組み合わせも計算ずくだったのだなぁ、と「レゴバットマン」と合わせてみるとその周到さに脱帽する。

他にもキャラクターはいますが、どことなくベニーが馬鹿っぽく描かれているのは・・・たぶん、幼稚というか純粋に物事を楽しむマインドなのでしょう(適当)

 

ありていに書いてしまえば、「レゴムービー2」はレゴを通して他者を理解しようとする物語という側面が一つある。

とはいえ、他者を完全に理解することは未来永劫不可能なことだろう。第一、自分で自分のことをすべて理解するのができないのに、他者を理解するなんてもってのほかです。

けれど、理解できないからこそ人は人を理解しようとするのです。だから「すべては最高じゃない」の後に続くのは

But that doesn't mean that it's hopeless and bleak」

であり

「We can make things better if we stick together」

であり

「Side by side, you and I, we will build it together Build it together All together now

なのです。すみません、吹き替えの歌詞忘れたんで元の歌詞持ってきましたけど、何となく意味は伝わるかと思います。

 

この歌からもわかる通り、前作の「Everything's awesome」を一度否定し、さらに高度な次元へと押し上げる弁証法的な歌であり本編なのです。

 

そしてもう一つ、「レゴムービー2」を語る上で重要な要素がある。「変わらぬこと」。もちろん、それは保守的になるという意味ではないし、他者を阻害したりするというわけではない。

ありきたりだけれど、童心を持ち続けるということ。でも、それをここまで徹底的に、それこそ「大人」的なる価値観に歯向かってまで真正面から描いてくれる作品はそうはない。

さらに言えば、エメットの未来の姿であるレックスが最期に口にした通り、そういう大人がいて反面教師として学べたからこそその大切さを知ることができたのだと肯定する。大人を否定的に描こうとも決してそれ自体を否定するのではなく、あうふへーべんするために必要なものであったと云う。

 

レックス周りのことやルーシーに呆れられるエメットを観ていて思ったのは「フェリスはある朝突然に」だった。変わらないこと、あるいは成長しないという言い換えが可能であるならば、「レゴムービー2」と「フェリス~」はやっぱり同じようなものとしても観れてしまう。

ただあちらは、どちらかというとそこはかとない否定を冠した願望としての「変わりたくない」という印象や「変わらなくてもいい」といった何か意地のような含み感じたのに対し、「レゴムービー2」はもっと積極的で信念に貫かれた「変わらないことは素晴らしいことなのだ」と訴えているように思える。

両者に共通するのは、逆算的なものだけれど部分的にせよ全体的にせよ「大人=現実」という存在への反逆にある気がする。

今回、フィンとの軋轢が生じるのは妹なのだけれど、しかし敵(って書くと語弊があるんだけど、やっぱりレゴの世界を壊そうとする者なので・・・)として登場するのは現実世界では両親(というかほぼ母親)だし空想世界(レゴワールド)では「大人になった」エメットだ。父親はほとんど声のみでしか登場しないし前作から「まるで成長していない…」し。

 

とかなんとか書いていて思ったのだけれど、「フェリス~」って日本における「エヴァ」のようなものなんじゃないかしら。描き方や細かい部分は違うけれど、成長の拒絶という点では通底しているし。

でも「レゴムービー2」はやっぱり、「フェリス~」とは違うような気がする。それをさらにもう一段上に引き上げているような。

そう考えると大人のエメットが「マトリックス」を「大人の映画」として持ち上げたのも意味深長に思えてくる。だって「マトリックス」って大人の映画じゃないでしょう。あれはもっとオタク的な趣味が大爆発した映画で、むしろ童心によって作られたような映画だもの。そうじゃなきゃタランティーノが推すまい。

その意味で、伊藤が指摘するようなギリアムの「物語は現実より強い」精神の顕現としてこの映画はあるのかもしれない。

実際、この映画の中には想像が現実を浸食するシーンがある。

 「洗濯機の下」という暗く薄汚い現実に打ちのめされたレックスが、まさにその洗濯機の下でエメットにとどめを刺そうというシーンがそれだ。ここで、二人の戦いがギャグの演出として現実的なモーションになる(要するに可動がひどく制限され、単にミニフィグがぶつかり合うだけ)のだけれど、それは多分ギャグだけでなく二人がまさに現実に来てしまったことの証左でもあるのではなかろうか。

そこに現れるのがルーシー。彼女の登場によって「洗濯機の下」という現実は一瞬にしてレゴ空間=空想の世界によって浸食される。

この空間にこの三人がいることの意味。童心のままであり続けるエメット、童心を捨て大人になってしまったレックス、元は誰よりも童心を持っていたが大人への成長の手招きに導かれそうになっているルーシー。

もちろん、エメットはルーシーの手を取るのだけれど、前述のとおりレックスを根底から否定しない。なぜならこの三人は三位一体の関係にあるからだ。そもそもが、フィンという人間のパーソナリティの片りんであるのだから、欠けていいはずがないのだと。

それが「フェリス~」とは違うところなのだろう。

 

(汚い)現実を睨めつけながら全力で理想を掲げる映画が「レゴムービー2」。

考えてみれば、同じくフィル・ロードが脚本を務めた「スパイダー・バース」もそうだった。「現実は厳しいものだ」と知ったような口をきく大人の提示する現実を享受しないで、声高に理想を叫んでいた。

 

 褒めちぎるためとはいえなんだか大仰なことを書いてきたけれど、単純に観ていて楽しいというのがまず重要なことである。

 

 テンポは良すぎるくらいだし、単純にレゴの組み立ては楽しい。わがまま女王の一々変形するアニメーションは特に歌に合わさっていて無駄にテンションが上がる。

DCEXユニバースではやたら暗いのに「レゴ~」でのDCコミック勢はやたらと明るいし(ラメ入り)、マーベルは来ないとか、バットマンのあほ可愛さとか、マッドマックスな世界観とか、猿の惑星パロとか、バナナが「おかしなガムボール」のバナナ・ジョーに酷似(すっとぼけ)していたり。とかとか。

やたらブルース・ウィリスが本人として登場したり、お約束の禿ネタやダイハードネタがあったり、なぜか彼のネタが豊富なのも笑えます。

ブルースの吹き替えは多田野曜平なんですが、野沢那智に寄せているので結構それっぽいです。声質的は割と青野武に似ている多田野さんですが。

他にも声優で笑える部分はいくつかあります。脇役に岩崎ひろしを酷使していたりとか、吹き替えも吹替で吹きで字幕とは異なる視点から楽しむこともできますしね!

 

細かいネタやナンセンスなネタも大量に仕込まれていますから、少なくともつまらない場面はありませぬ。画面の情報量多くて疲れるけれど。

 

さいころに姉とよくお人形遊びをしたのを思いだしました。今でもやってるんですけどね、ええ。

 

サン月

地獄の黙示録

作品そのものよりその撮影のエピソードが語られがちの名(迷)作を、ようやく前編通して観ることができますた。

影の使い方やトランジッションの独特さなど、編集と撮影が凄まじくかっこいい。昔ちらっと見たときは気づかなかったけれど。

極限状態の人間ってああなるのだなぁ、と。あとカーツの国のカットは本当、ぐろい。ピントこそ合ってないけど背景に死体が吊るされていてそれががっつり映っているのとか微に入り細を穿ち世界を作り出しているのががが。

 

スティーブ・マックイーン その男とル・マン

「栄光のル・マン」を観ていないのだけれど、その情熱のほどはうかがえる。なんとなく「バニシング in 60」の系譜に位置しているのかなという気はする。

情熱の所在なさ、折り合いのつかなさ、そういうのを経験した人が見ると結構くるものがあるかもしれない。

自らがスタントを行おうとするという部分は今のトム・クルーズシャーリーズ・セロンに共通しつつも保険会社との兼ね合いによって引き下がっていたりするのだけれど、でもそれは単純には比較できない。

なぜならマックイーンの時代はまだスターという幻想が残っていただろうし、その幻想の軛に何よりも固執していたのはスター自身だったであろうから。

自らの末期の状態を「ガス欠になっただけだ」と形容するほどのレース狂な彼の一面は、彼をスターのまま佇ませるのかどうか、正直リアルタイムで彼を知らない自分からするとよくわからない。

 

「ZMフォース ゾンビ虐殺部隊

あれタイラントだろ。絶対にタイラントだろ。

 

 

女神の見えざる手

ロビー活動は予見すること

敵の動きを予測し 対策を考えること

勝者は敵の一歩先を読んで計画し――――敵が切り札を使った後 自分の札を出す

敵の不意を突くこと

自分が突かれてはいけない

 

冒頭でジェシカ・チャスティン演じるエリザベスが、まるで観客に向かって騙りかけるがごとく(それこそ注意喚起するがごとく)顔面ドアップで上記のようなことを言うのですが、彼女の警告も空しく私はまんまと彼女に騙されてしまいました。

いやだってさぁ、誰もいないところで書類をまき散らすような「出し抜かれた!畜生!」な描写があるんですもの。

それともあれですが、盗撮されているかもしれないとパラノイアな感じであったりするのでしょうか。あと薬のくだりとか、そこまでエリザベスのキャラクターやパーソナルな部分にかかわってくるわけではなく、法廷でのピンチ演出の「ため」だけにほぼ終始していたりするのはもうちょっとどうにかできなかったかなぁと思いはしますが。

ところどころ、っていうかチームで動いているときにミッションインポッシブルのイントロ部分風味な曲がBGMとしてかかったり、たぶんそういうのを意識してはいると思うんですよね。劇中で言及されるのはむしろ「007」なんですが。

音楽とか全体的に落ち着いたムードの漂う映画のせいでまじめな映画に見えますけれど、ウェルメイドというよりももっとエンタメに寄った映画だと思います。

まあコックローチスパイ(勝手に命名)とかのオーバーテクノロジーが出てきたりするのでそれは作り手も意識してはいるとは思うんですが、一方であのテクノロジーは割と近い将来在り得るタイプのものだったりするので(いやまああんなに万能ではないでしょうが)天然ボケの可能性もあるのか。

あのへんはシュールな笑いどころとして処理していいのかな・・・?

 

キャストでいえばジェシカ・チャスティンの演技が素晴らしいです(小並感)。

それと「キングスマン」以来好きなマーク・ストロングが出ていたりするので、そこもけっこうポイントが高い。

 

死刑台のエレベーター

25歳でこれかぁ。すごいなぁ。

なんというか、ある意味で因果応報といえるのでしょうが・・・たとえばこれがタベルニエのあとも何人もこのエレベーターに呑み込まれるというか、地獄少女的なというか、そういう法則みたいなものがあればそれはそれでまた異なったおもん気で観れるような気もするのですが。

偶然により計画が破綻していくのと、そこに子どもの無邪気さというにはあまりに無鉄砲な、まあ普通に悪気があってやっているわけだし。

しかしタベルニエを思ってのフロランスの行動が馬鹿丸出しというか、どうしてそこでその二人を放置するのかとか(まあ社長夫人だし、彼女自身も殺人を画策したわけだし色々と動きづらいのだろうけれど)、あと一歩どうにかならないものかと思わないでもない。

しかしまあジャンヌ・モローのエロさ。タベルニエが現れずに夜の街を徘徊するあの薄幸の美女の感じは葬式でのゴマキの和装に通じるものがある。

ていうかジャンヌ・モローってフリードキンと結婚してた時代があったんかいな。

ウィキの「なお、フランスでは1981年に死刑が廃止されたため、現在のフランスを舞台にしたリメイクは不可能である。」の文言で笑ってしまった。

 

「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」

ビバリーヒルズ・コップマーティン・ブレスト監督、「カッコーの巣の上で」のボー・ゴールドマンが脚本ってことなんですが、なんか普通に良い映画でしたぞ。音楽もトーマス・ニューマンでしっとりしつつそこまでダウナーでもなく底から上げるような曲があって。

しかしアル・パチーノのあの目の演技はどうやってんでしょうか。

14年に亡くなったジェームズ・レブホーンやらフィリップ・シーモア・ホフマン(超若い)やらが出ていてちょっと感動。

あと「はっ!」とか一々細かい反応が面白い。あとウィキでちょっと驚いたのが吹替だとチャーリーの声江原さんなのね。マジですか。

迷った若者をおっさんとの旅を通じて迷いを払拭するタイプの理想形では。

そのおっさんが一癖あるのがまた良くて、むしろこれはパチーノの救済にこそ比重が置かれているというのも重要である。

これを観た日にたまたま点字博物館に行っていたこともあって、色々と盲者に思うところがあったのですが、カーネルの場合は先天ではなく後天的で(しかもあまり褒められてものではない事象によって)あるため、その落差(本人にとっては)と除け者扱いによって死出の旅路に出るというのがなんともはや痛ましい。

だからこそひやひやもののドライブシーンの高揚感や最後のスピーチのカタルシスがあるわけですが。

しかしパチーノの最後のワンカット長丁場といい目の演技といい、さすがですな。

 

 「ゲノムハザード ある天才科学者の5日間」

俳優陣と女優陣はみんな好みだし、「屍者の帝国」的なネタとか好ましい点は色々あんですが、演出といい演技といいテレビドラマ的すぎてなんだかなぁと。

西島秀俊ってああいう演技よりもっとサイボーグ的な演技の方が映えると思うんだけれど。キム・ヒジョンとパク・トンハは良い感じなんですけどね。

 

「変核細胞ジュベナトリックス」

ぐろいっていうか気持ち悪い。

こういうB級ホラーってVHS画質の方がかえっておどろおどろしいような気もするんですけど、ノスタルジーなのでしょうかね。

しかし化け物になると何の説明もなしに怪力になるのは一体なぜなのか。

助手の子がかわいかった。

 

「摩天楼(ニューヨーク)はバラ色に」

BSは結構時事ネタというか季節ネタというか、そういうのを入れてくるので、これもやっぱり入社シーズンゆえのチョイスなのでしょうか。

ジョーズパロに笑いつつも今見ると(というかおそらく当時からしても)古いというかなんというか。

 

「心が叫びたがっているんだ」

この冒頭ってギャグ描写じゃないの?あ、違う?マジですか。

禿は黒いユーモアと言っていたけれど、あれって割と本気で悲しいものとして描写しているような気がする。少なくとも「笑ってくださいな~」って提供されて笑うというよりも、明らかに全力でやっているがゆえにその滑稽さを笑うという、ある種の天然っぷりを笑うものなのではないか。もしくは太宰の人間失格を読んで笑うような感じ。

あと、なんでこの手のアニメってやたらとウィキが充実しているんだろうね。

まあGONZOのように本当に虚無なアニメってわけでもないのだけれど、かといって超いいというわけでも超悪いわけでもないというのが何とも評価しづらいところではある。

なんかところどころでリアルな(作品内リアルではなく、現実的なという意味で)描写がある割に所々でファンタジー要素が顔を覗いてくるバランスが絶妙に食い合わせ悪いような気がする。

あとちょっと「200ページの夢の束」的な障壁ががが。まああっちみたいに外界的なものでなく内部から生じているものだからまだ納得いくんだけれど。

 

カリートの道

パチーノが一瞬RDJに見えました。

さすがデ・パルマ

あまり集中していない状態で観てたんですけど、そんな状態の私を引き付けてくれる力を持つ映画というのがやはりいくつかあるんですが、この作品でも後半の追跡劇は長いカットなどやサスペンスフルな誘引力もあってさすがです。

ラストのシーンを冒頭に持ってくるセンス、因果を閉じているというあの結果はある意味で「メッセージ」にも通じる。

自分らしさという軛に囚われてしまった男の悲哀、とかなんとか。

追跡劇だけでもうおなか一杯。あれ観れただけで正直十二分すぎる。

 

 「蜘蛛巣城

事情を知った上で観るとMIFUNEが矢で射られるシーンの鬼気迫る表情が演技なのかどうかというのが怪しくなってくる。

しかしまあ、この時代の映画の演技というのは基本的にオーバーな気がするのですが、それを自然に受け入れられるというのはどういう心理なのかよく自分でもわからない。

もちろん全部が全部というわけではないんだけれど。

あと一つ一つの場面が長い気がする。というか、今であればすぐに場面転換しそうなところをあえて持続させているように見える。なんなんだろう、これ。

老婆が消えるシーンのカットとか、すごく映画的でハッとする。

 

アリスのままで

 認知症の身内がいるとあまり笑いごとではないんですけど、まあやさしい映画である。

どことなくドキュメンタリーっぽいのは、たぶん人物に寄り添っているからなのかも。登場人物のだれもがよき人であろうと努めるその姿勢と、アルツハイマー認知症の症状へのストレスとの葛藤とか。

個人的に、アリスの講演のシーンが物語への欲望に引きずられずにやさしい眼差しでのみ成り立たせているところにウルっと来た。

ここで失敗させることも物語的にできたはずなのだけれど、そうはせずにここをむしろアリスのハイライトとして描いている。それはもしかすると監督が筋萎縮性側索硬化症であることと関係しているのかもしれない。病態は違っても、どちらも「以前できていたことができなくなっていく」という恐怖に苛まれる病であるし。

 

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?

CGもうちょっとどうにかならなかったんだろうか・・・「ALWAYS」じゃないんだから。いや、カメラをパンしたり遠目から撮っていたり、誤魔化そうとしている努力は垣間見えるんですけれどね。坂を下っていくところとかほんとホラーですよこれ。

まあ中坊にありがちな肥大しつつある自意識としての餓鬼どものやりとりはまあまあ好きですが・・・。

二回目のリセットのときの花火の演出、あれって抽象度の高いアニメでやると「そういうもの」として描かれているように見えるから「異なる法則が働いている」花火として見せるならもっと大胆にやって良かったのでは。

 

 「ちはやふる 結び」

上の句と下の句は劇場で観ていて「いい映画だなぁ~嫌なところもあるけど」なんて思っていたのになぜか結びだけは観なかったという謎の采配。

金曜ロードショーで珍しくいいチョイス(日テレ出資だからだろうけど)してくれてラッキー。

しかしこうして観ると画面のあのぼんやりと光った感じの彩度すごい。

いやぁ、でもいい映画でしたよ。といっても、何となくキャラの描き方とか展開のさせ方がすさまじいまでの最大公約数的なのがもったいない気もするといえば気もする。

あと試合直後の閉会式?のシーンだけ若干トーンが違うんだけど、あれって演技じゃないのかしら。編集も凝ってるしいいなぁ。

しかしさすがテレビ屋。エンディングを流さないその采配。

 

「ブレックファスト・クラブ」

なんだろう、この感じ。「フェリスは~」を観て以来、どうにもジョン・ヒューズという監督に対してモヤモヤするものを感じる。

この映画に限ってみれば、各キャラクターが関係性を変容させハッピーエンドに結び付いたように見える。構成が不思議だけど。

ほとんどピアカウンセリングの様相を呈しており、それのみで構成されているといっても過言ではない作りなんですよね(ほとんど同じ部屋でだけの撮影だし)、これ。30分もの間お互いにけん制しあっていると思えば、最後までほぼそれだけであるといえばそうだし。本当に、ナラティブのみでできているという歪さ。いや、確かにユーモアのあるシーンはたくさんあるんですけれど。

ジョン・ヒューズのエモーションの発露としてのダンスシーンは相変わらずあって、そこは確かに楽しいのだけれど、同時に何かやけくそ感もある気がする。

それぞれに異なる事情を抱えた「他者」を理解する。思春期の肥大した自意識と折り合いをつけて。しかしみんながみんな、大小・質は違えど家族との問題を抱えていて、それゆえに共感しあうという部分は、ジョン・ヒューズのパーソナリティに何かあるのだろうかと疑ってしまう。「フェリス~」のラストとかを観ていると特に。

バスケットケースちゃんが「大人=悪徳(意訳)」みたいな発言をしていたり、全員が親による抑圧を受けているというところと、「フェリス~」においてフェリスが成長をせずに元の位置に留まったのを考えると、大人という存在への不信があるのかなぁ、とか考えたり。思えば、フェリスのオプティミズムに貫かれたあのキャラクターと帰結というのも、逃避的といえば逃避的ではあった。

そこまで考えると、「ジュマンジ ウェルカムトゥジャングル」ではしっかりと各キャラクターたちが学校で再会して関係性の変化が継続していることを示していたのに対し、「ブレックファスト・クラブ」において変容を遂げたそれぞれのキャラクターはしかし親が運転してきた車に「回収」されてしまうところで終わる。

確かに最後のカットはジョンが陽気に帰路につくシーンだけど、それこそ「ジュマンジ~」のように描くことがやっぱりすっきりする形だと思うんですよね。

それを描かず、親=(大多数の)大人によって回収されてしまうというのは、やはり大人が彼らにとって軛として機能し続けていることを暗示しているようにしか思えない。

なんというか、すごく尾を引く形の終わり方なんですよね。

 

ブレグジット EU離脱

先日のブレグジット延期を受けて緊急で放送することになったとか。

あらすじ:2016年。政治戦略家ドミニク・カミングスは、EU離脱国民投票に向けて、イギリス独立党ロビイストから離脱派の選挙参謀になるよう依頼される。依頼を受けた彼は、データアナリストの協力のもと、高度なアルゴリズムを使い、相手陣営も知らない有権者でありながら投票したことのない人々「存在しないはずの300万人」を得票のターゲットに絞り込む。そしてソーシャルメディアで離脱を訴えるキャンペーンを始めるのだが…

禿たカンバーバッチという絵面がすでに面白いのですが、つい先日「女神の見えざる手」を観ていたこともあって色々と思うところが。

イギリスのEU離脱の是非はともかく、「女神~」もそして事実を基にした「ブレグジット」もプロパガンダが電子戦に移動しつつあるというのに、日本はどうなのうだろうと。

もちろん、どの国も旧態依然としたご老体どもが蔓延っていて、むしろそこに新しい風(というにはあまりにも暴風なのだけれど)を吹き込むことで離脱までもっていったということなのでせう。

物理学者まで動員する、というのが驚いたけんど、そこまで根幹的な部分からアルゴリズムを作り出す徹底ぶりがあってこそ可能となったわけなんでしょうな。

まあでも、やっぱり日本と似ているところがあるなぁ、と。

 

もぅマヂ無理・・・

尊い」というのはこういうことなのでしょうね。

寄る辺ない、両親すら頼れない、いじめられている少年と吸血鬼の少女(少年?)の

邦題からてっきりベンジャミンバトン系かと思っていたのですけれど、まさかの怪奇映画。いや、怪奇というよりも幻想小説のような趣がある。

これ重要なシーンで(まあ仕方ないとはいえ)局部にぼかしが入っていたので、ウィキを見て初めて(原作の)設定として男の子だったことを知りましたですよ。

いや、「吸血鬼カーミラ」に通じる空気感があったし、個人的な欲望として「これ少年同士だよね?そうだよね!?お願いだからそうであってください!」という心情ではあったので、なればこそそれを劇中ではっきりと確認したかった、というのはある。

いや、ペドフェリアということではなく、それが劇中でしっかりと意味を持っているから。「プリディスティネーション」でも局部に暈しがあったのですが、あれもあそこを映すことに重要な意味合いがあったので、その辺のバランスは難しいところではあるのかな。本国では無修正だったらしいので芸術的価値を優先したということなのでしょうけれど。

まあ、はっきりとはせずともエリを演じたリーナのどことなく中性的な顔立ちや、そこはかとない仕草なんかが少年ぽくはあったんだけれど。いや、嘘です、完全に自分の欲望の色眼鏡で観てました。

 

カメラワークもあまり日本やハリウッドで作られるような映画とは異なっていて、すこし距離のある場所から人物を撮っていたりするし、その独特な距離感というのが「さよなら、人類」なんかを想起させたり。

美術も素晴らしい。エリのメイクもそうですし、何よりあの魅惑的で幻想的な世界観はあのロケじゃないと無理でしょうし。

あの雪の世界は本当に魅惑的で、日本じゃ絶対に無理でせうな。

オスカーがいじめっことを殴るところの、あのリアルな重さと痛み。あれは下手なアクション映画やゴアな映画よりも痛みを感じると思う。というのは、似たような経験が自分にあるからだろうか。

人があっけなく死ぬあの感触もそうですし、見せないことの巧みさといい、やっぱりその辺も怪奇映画というか黒澤清的でありつつもそっちとは違うような感覚もあって、なんだかすごい映画だと思う。

 

これは久々にオールタイムベスト級の大好きな映画になりもうした。

 

 

 

 

 

グロテスクな現実を飾るユーモア

ここ数年、ブラックパワーや黒人差別の歴史を再考させる映画が作られてきている。

ここで扱ったものだけでもキャスリン・ビグローの「デトロイトジョーダン・ピールの「ゲット・アウトラウル・ペックの「私はあなたのニグロではない」などがあるわけですが、満を持して名匠スパイク・リーの「ブラック・クランズマン」が公開となりました。

 

事実を下地にしつつもフィクショナルな要素もふんだんに取り入れている本作は、はっきり言ってシリアス一辺倒だった「デトロイト」や狙いすぎているきらいのある「ゲット・アウト」より個人的には好ましい。

フィクションとしての物語を、映画の持つ力を、決して居丈高に高説にするのではなくあくまでユーモアを使って描き出す。一方で冒頭に「風と共に去りぬ」の映像を流すといったように、その映画が内包しているような現実の問題を見据えてもいる。その巧みな構成によって劇映画の魅力を醸した評伝的映画の様相を呈しているのが「ブラック・クランズマン」なのでせう。

劇映画の魅力は色々ありますがキャラクター・設定・展開そのものなど、いくつか要素を抽出することはできるでしょう。

この映画は事実をベースにしていても、そこには架空のキャラクター(ローラ・ハリアー演じるパトリス・デュマス)や架空の展開(言ってしまえば彼女とのやり取りすべてもそうだし、爆弾騒動やカタルシスをもたらす終盤の「俺は黒人だよバーカ(意訳)」のシーンも実際にはなかい)が描かれ、劇映画としての楽しさを味合わせてくれる。それは徹底的に当時のシチュエーションを再現しその手触りや空気感といったものをスクリーン上に現出させようとした「デトロイト」にはないものだ。

けれど、事実をベースにしている以上、やはり現実にあったリアル(KKKが「国民の創生」を観て追いやられる黒人に狂喜乱舞する様など)を、それが結果的になのか意図的なのかはわからないけれど露悪的に描き出す。あるいは、その歴史を生きた・現存する歴史そのものとしてハリー・べラフォンテ(御年92歳!)によって悍ましい過去の事実を語らせる。これはフィクションに徹底し(意地悪な書き方をすれば「耽溺する」)「ゲット・アウト」にはない眼差しでもある。

加えて、スパイク・リーは黒人差別の問題だけに終始しない。それよりももっと大きな枠組みとして「差別」そのものを見据えている。だから黒人差別だけでなく、ユダヤ人迫害についてフェリックスによる歴史修正主義な発言(日本でも高須がホロコーストを否定していましたが)の問題にも言及するし(というかKKKを描く上で逃れられないのですが)、それとなく侮辱的な家父長・女性蔑視な家庭(フェリックスとコニーの関係性)をも描いて見せる。

これらはとりもなおさずスパイク・リーが人種に拘泥しない(だからこそ当事者としても黒人差別に抗う)ことの証左であり、これまで多様なキャスティングを行ってきたことの理由なのではないか。

本作においてもロン(ジョン・デヴィッド・ワシント演)とフリップ(アダム・ドライバー演)の被差別者としてスポットの当たるメイン二人だけでなく同じ署で同じ潜入捜査のチームとしている白人のジミー(マイケル・ブシェミ演)をごく自然に輪の中に入れてみせ、仲良く楽しそうな場面もいくつかある。だから、潜入捜査が終わったあとのバーでの差別警官を嵌めるシーンと、その直後の署長に呼び出されて椅子に腰かけて並ぶ4人の「やったった感」に胸が熱くなるのである。

理想でもありつつ現実の一側面としても確実に存在するからこそ、スパイク・リーはこれみよがしに描いたりはしないのかもしれない。

 

そうして劇映画としてフィクションとして楽しんでいると、最後の最後に現実を突き付けてくる。これがスパイク・リーのしたたかさなのでしょう。

ロンとパトリスが会話をしているとインターフォンが鳴る。銃を構えてドアを開けると、しかしそこには何もない。だが、廊下の窓の向こうには火を放つKKKの姿があり、まるで現実に引き付けられていくようにロンとパトリスの背景がスクリーンプロセスによって背後に追いやられていき・・・そして2017年に起きた一連の「現実」の映像が流されていく。ヴァージニア州シャーロッツヴィルの、グロテスクな現実の映像が。本作で最も強烈な映像が。未だに続く現実の問題が。

この一連のシークエンスにおける異界感はちょっと黒澤清的ですらあり、その異界こそが現代の現実というのがまた恐ろしくもある。

 

ここでこの映画の構造が明らかになる。すでに書いてきたように、この映画はフィクションとリアルを双方向的に描いている。それはKKKと黒人集会で対比的に描かれていたことからもわかる。かたや強烈なフィクション(KKKを再生させた「国民の創生」)に耽溺し、かたや強烈な現実(1916年のテキサス州で起こった詳細を書き起こすことすら悍ましいリンチ事件)を語る。

リアルとフィクションを明確に区別しながらも一本の芯で貫き同位させている。

そうしてフィクションなどよりもよっぽどグロテスクな現実を見据えた上で、そしてやはりフィクションには現実に拮抗し変革しうる力があるのだと信じ、その力を引き出す。映画の魅力と、その危険性も熟知しているからこそだろう。同じ映画である「国民の創生」がそうであったように、「ブラック・クランズマン」が同じく(しかし正反対の)影響を及ぼす力を持つと信じて、両者を同じ直線上に対置させている。

 

この映画ではそこかしこに現実とリンクする悍ましさが見られる。「アメリカ・ファースト」と唄うKKKの理事デュークと同じことを発言するどっかの国の大統領もそうだろうし、頭の方でアレック・ボールドウィン演じるボーリガードなる人物の主張も聞き覚えのあるものだ。

 

ラストのラスト、星条旗が色あせて白黒になる演出は、アメリカの歴史を如実に表している。もっとも、アメリカには白と黒だけではなく黄色も赤色もいるのですが。

この映画で描かれることが、すべて今の日本にも当てはまることであるというのが、なんともやるせない気持ちになってくる。