dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

試写会に行ってきた

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キノフィルムズの試写室でやった試写会行ってきましたよ。

良い感じにオシャレな内装(ピクトグラムの代わりにチャップリンマークなトイレとか分かりにくいけど)だし、何よりシアターの匂いが良かった。新宿武蔵野館に近い感じ。

今日明日明後日は時間ないんで感想は後日になるだろうけど、とりあえずダコタかわいいよダコタ

ただ邦題はもうちょっとどうにかならなかったのかとは思う

keep shooting ! ゾンビ映画の映画

そんなわけでようやっと「カメラを止めるな!」観てきました。

盗作疑惑とか色々ありましたけど、クレジットでその辺を確認するのを忘れるくらいには楽しんでいました、わたしは。劇場も笑い声で溢れていましたし。でもまあ、そもそもエンドクレジットも楽しめるようなタイプなのでクレジットに目が行かないというのもあるのですが。

 

まったく前情報なしに観に行ったので、ネタバレ部分はそれなりに驚きましたが、正直なところ「ネタバレは絶対にしちゃダメ」と話題になてしまった時点でなんとなく察しはついてしまっていたというのは無きにしも非ず。「シックス・センス」とかなら、最後まで観て初めて驚くとかはあるんでしょうが。

しかしまあ、予想とは違っていましたがかなり面白かったです。三谷幸喜が面白い映画を撮れたらこんな感じになりそうだな、と個人的には思ったり。

なにげに写真の使い方の伏線とかもしっかりしているし、視点の転換によって前半の退屈なワンカットシーンを面白く見せる舞台裏映画でもあるわけですな。

しかし無名な役者ばかり使ってる割に滅茶苦茶強烈なキャラクターが多かったですね。こけしみたいな髪型してるおばちゃんPとか。

あとあれは業界風刺ネタなのか。深読みするイケメン俳優とか事務所バリアーのアイドル女優とかアル中俳優とか。

 

ただどうしても前半のワンカットのあれは本当に退屈極まりなくて辛い。あそこを越えられればあとは笑いの渦が待ち受けているし、2回目以降に見れば間違い探し的に楽しむこともできるのですが、それを差し引いてもあのワンカットは辛すぎる。

あそこで脱落する人がいてもおかしくないと思うし。しかし、それを見なければ面白さが半減するという恐ろしい構造をを内包しているという。

劇場は早送りができないのでね、さすがに何度も足を運ぶのは嫌かもしれない。いや、わかってはいるのですが。

でもよく考えたら日本の映画で純粋に笑えて大ヒットっていうのはここ最近ではなかったような気もします。いや、わたしが邦画をあまり観ていないというのもあるにはあるんですが、しかし「銀魂」が称揚されてしまいあまつさえ続編なんかが作られてしまうという現状にまともなコメディが作られるとは思っていなかったので・・・。

と、書いていて思ったのですが、これはそもそもインディーズ映画でしたね。やはり体制側はいかんのかもしれませんね。昨今の政治状況などを見てもそうですが。

まあ、商業用としてシネコンでかけるのであれば「視聴者の視点」を入れて欲しかったというのはあるかもですね。

 

 

「死」が生き生きと描かれる世界で死ぬために生きるということ

ペンギン・ハイウェイ」を観てきました。「カメラを止めるな」と迷ったんですけど、原作未読につきどういう話かまったくわからない状態で「お姉さんの投げた缶がペンギンになった」というあらすじを耳にし、しかもそれがSFであるという情報を仕入れたのでどういう形に落ち着くのかと気になってこちらにすることに。

ただ


 普通に観ているとSFというか限りなくローファンタジーな様相ではある。SFとは何かということを深く突っ込むとキリがないのと私自身の底が知れてしまうのでどこがどう、とは言えないのですが、原作がSFの賞を取っているしパンフには大森望も寄稿してるし、SFでいいでしょう(テキトー)。

成長の象徴として歯が抜け、ペンギンの謎解き(大森望はこれをもって精神的イニシエーションと書いていました)。ここまでがアバンだと言ってもいい。
で、こっからしばらくはおねショタ大歓喜のシーンが続きます。
それから大人(だけの世界)と子ども(だけの世界)の両方が描かれ、それが「海」を中心にして収束していき後半のスペクタクル展開へとつながっていく。
部分部分でどことなく宮崎アニメな世界を思わせる。森の奥の海がある世界はハウルの魔法が降ってくる世界に似ているし、ほかにも「千と千尋~」に似ている場面もある。
だからどう、というわけではなく印象としてあるとはいえる。

見た目は至ってシンプルで、ひと夏の冒険を通して少年が成長する話、という体である。体である、というか別に間違ってはないのですけれど、一見すると実にとっつきやすいものに見えて中身は結構子どもにはとっつきにくいものだと思うのですよ。夏休みということもあって子どももいたんですけど、多分、わかりきってはいないと思う。

なぜなら、立ち位置が違うだけでこの映画の見据えているものは細田守のそれに近いから。

 つまり、「死」の存在を否が応でも感じ取りながら成長を促される人間の話、ということ。それは「少年」の部屋に、妹が母親が死ぬことに気づくて泣き出すシーンに象徴される(唐突に見えて、実は予感が張り詰めていたりする)。
この映画において少年ことアオヤマくんは「死」の存在を知ってこそすれ、ついぞ物語中では理解にまで至ってはいないわけ(のように私には見える)で、映画館にいた小学校低学年か年長くらいの子どもは「死」を知っているかどうかすらわからない子どもには些か首をかしげたくもなるのではないか。

かといって、それを補ってあまりあるほどのアニメーションのダイナミズムを含んでいるかと言われると私にはわからない。ただ、後述しますが「あるもの」に関するアニメーションの力の入れようはあるので(パンフでも言及していますし)、それをもって「子どもも楽しめる」と言うことはできよう。ただ、ディズニー並みのCGで水を表現しているわけでもなく、徹底的にアナログな水を表現した「ポニョ」のような振り切りでもない水の表現は、もしかすると意図的に生命感を排していたのかな、と思う。まあ、だってこの映画における「海」は生命のスープではないから。

この映画では重要な要素として「お姉さん」「ペンギン」「海(世界の果て)」がある。これらはいずれもは「死」を形成するトリニティのピースであり、「世界の果て」はすなわち死の世界であると言える。

そしてそれはこの映画が描き出す「人間の(それとも子どもの、かな)理解の及ばぬもの」をどう描くか、という直接的な表現にもつながってくる。大森望はパンフで「正体不明の怪物=ジャバウォックを人間の理解を超える、なんだかわけのわからないものを象徴している」と書いている。ただ、個人的な解釈で言えばジャバウォックだけではなく「ペンギン」も両者を生み出す「お姉さん」も、そして直接的な研究対象となる「海」も理解不能なものとして描かれていると感じる。それゆえに研究つまり理解を進めようとする「少年」の物語たりえるのだから。


再び細田守を引き合いに出すのだけれど、彼の作品で必ず出てくる青空もとい入道雲のシーン。この映画にも、空が頻出する。ただ、「ペンギン・ハイウェイ」では細田作品のように予感として張り詰め絶えずこちらを不安にさせるものではない。「ペンギン・ハイウェイ」における空は、それでもおそらくは「死」に寄っている。あるいは「死」たる「海」を包む巾着袋として描かれているのかもしれないが、ともかく細田映画のようではない。そう主張するかのように、雲は薄く散り散りに散在し、しかもぐんぐん動く。生き生きと、と言ってもいいくらいにともかく雲がはやい。

 「死」がそうやって描かれているのは、前述したトリニティの要素へのアニメーションのちからの入れ具合は明らかに違うからだ。ペンギンの生命力にあふれたアニメーション、お姉さんの些細な機微のアニメーション、海のCGによる無機質な描出。

この映画において、死は絶望ではない。
この世で唯一絶対(すくなくとも今のところは)なのは、死だけである。死を肯定的に描くことは往々にしてある。だがしかし、それらの多くは諦観やシニシズム、苦悩や苦痛からの脱却としての救いあるいは慰めとしてある(と思う)。

「怒りそうになったときは、おっぱいの事を考える」と少年は諭す。でも、このおっぱいは、多分、「死」に寄って立つものだ。だから、「死ぬことを考えれば、怒りなんてどうということはない」と少年は言っているのだ。というのはもちろん冗談であるけれど。

この映画ではそういったものはない。本当にまっさらに、死を肯定している。
少年の心を惑わす理解不能なものとして「おっぱい」があるというのは、そういうことなのではないか。「世界の果て」を封じ込め、喫茶店でお姉さんが少年を抱きしめるシーン。お姉さんの呼吸に合わせてその豊満な胸が息づくアニメーション。些細な、しかし少年を「死」という優しさでもって包み込むこのシーンには奇妙な感動がある。それは確かだ。

けれどそれは、少年がまだ「死」を理解していないからだと、私は思う。妹が夜中に「少年」に抱きついて母親が死ぬひいては生命が死ぬということを嘆くシーンに象徴されるように、彼は「死」がどういうことか知っている。そうだろう、あれだけ勉強していれば、彼の年頃であれば、死の概念についてくらいは知っているだろう。

ただ、彼はこの映画のラストに至るまで「世界の果て」である「死」を理解してはいない。確かに、その貪欲なまでの好奇心によって、「お姉さん」「ペンギン」「海」のトライアングルが織り成す法則を導き出す。しかし「お姉さん」が人間ではないということがわかったからといって、正体がわかったわけでもない。結局、わけのわからないまま魅了されてわけのわからないまま一緒に世界を救い、わけのわからないまま消えていってしまう、わけのわからない存在として「お姉さん」は最後の最後まで在り続ける。安易に宇宙人という解釈を当てはめることもできようが、なんらかのはめ込みを行うとすれば「お姉さん」はむしろまどマギにおけるアルティメットまどか、つまりシステムそのものであると解釈するのが腑に落ちる。

もっとも、劇中ではそれを特定させないことで「少年」がその未知を見据える開けた終わり方になってはいる。

どうしてここまで気負わずに「死」を描けるのか。
この映画の制作陣が二十代や三十代なのも、大いに関係していると思う。そういう意味で、「少年」の目線で描かれるこの映画は石田監督らのそれと同じだ。こういう書き方をすると語弊がある気もするのだけれど、作り手は「死」について無邪気なのだと思う。お姉さんが完璧なのも、それが「死」だからだ。「死」は何にも脅かされることはない以上、完璧なものである。それは奪うものなどではなくて、ただプログラムされたシステムとして厳然とあるだけ。人の最後の最期に至っても変わらずに待っていてくれるものとしての「死」。諦念とも違うその解釈は、かなり異質だけれど、そういう、無邪気さがなければ「死」をここまで肯定的に描くことはちょっとできない気がするのです。  

異質な手触りを体感したいのであれば、この映画はかなりおすすめできる。けれどはっきり好みが分かれるというか、拒否反応もでるタイプだとも思う。個人的には。

全体的にその異質な(歪といってもいいかも)な感触の映画を楽しんではいたのですが、ちょいちょい気になるところもあったりはした。
場面転換で暗転を多用しすぎていたり、「少年」の行動のあとにそれを受ける相手側(ハマモトさんだったかな?)のリアクションを入れずに場面を切り替えるのとかは「少年」が慇懃無礼なんじゃないかと思えてしまいかねないかなぁ、と思いますです。

あ、それと。くぎゅうの演技に関してなんですが、たしか割と最初の方でアオヤマくんとペンギンを追っていくシーンだったと思うんですが、同じシーンにもかかわらずカット単位では明らかにショタボイスとロリボイスが混在している箇所があったので、これはもうちょっと音響監督はリテイクしたほうがよかったのではないでしょうか。声優だから、ということで過信しすぎてたのでは。いや、くぎゅうは好きなんですけど。

ていうか、演技指導だけでなくこのウチダくんに関しては石田監督も「何も考えずに描けたキャラクターです。ほぼノーチェックでOKだしたデザインです」と言っているようにウチダくんへの良くも悪くもぞんざいな扱いが見て取れますぞ(笑)。いや、モブキャラというわけでは決してないんですけれどね。

ほかにまあ、強いて言うのであれば、相対性理論の本は伏線でもなんでもないというか、内側に世界の果てがあるという話をブラックホール的な収束と重ね合わせてはいるのでしょうが、相対性理論の本はあのワンシーン以外では特になかった気がする(見落としてたかもしれないけれど)ので、あんなに思わせぶりに見せる必要はないのでは。

 

細田守と並列して語ったけど、「未来のミライ」では「くんちゃんに無理強いしすぎだろう、細田さん」と思ったのね。子どもの成長譚としてはこれくらいのバランスが個人的には好きだったりするのです。

 そういうわけで、「未来のミライ」に乗れないという人でもこっちは多分、観れるんじゃないかな、とは思う。

バートンマンの帰還

8月のまとめに入れるつもりで見てたら、なんだか悲しくなってきてしまったのでこちらに。

バットマン リターンズ」がこんなにやりきれない話だとは思わなかった。

それにしても、技術的な部分やアクションへの嗜好を別にしても、やはりバートンはヒーロー/ヴィランを超人として描くことをしないのだなぁ、と「バットマン」からこっち、「リターンズ」を観て考えてしまった。

後で更新する予定の「8月のまとめ」の方にも書いてあることなのだけれど、バートンははバットマンたちをスナイダーのようなカッコいいルックとしてのヒーローだったり、ノーランのような現実(にありうる問題)と相対化させるための装置として暑かったりはしていない。確かに特別な存在として描いてはいるのだろうけれど、それはベルタースキャンディ的に前提として肯定を含んだものではなく、フリークである自身を世界と対立させて自虐し、それを踏まえたうえで「それでもレリゴーしたい」願望の発露なのだろう。

だからペンギンとキャットウーマンだった。

キャットウーマンは徹底して被害者だった。フリークの肯定されるべき側面が、しかしダーティな現実の前に破れてキャットウーマンになった。そしてそれは社会規範としての正しさを内包しているがために、ラストのワンカットに結実する。

けれどバートンは優しいだけではない。根底にフリークに注ぐ優しさや愛なるものがあるのは確かだけれど、フリーク(≒オタク)が疎外者である理由を決して世界のせいだけにはしない。歪みとしての醜悪さゆえに排斥されるのだ、とバートンは自嘲しているはずだ。だから、ペンギンにはフリークの背負わされたスティグマがあるのだけれど、それを笠に着て傍若無人に振る舞う。たとえ、そこに世界の悪意の囁きに唆された部分があったとしても、肯定はしない。

だから、ペンギンの最後は悲しくもあるのだけれど、哀愁漂う悲しいものとして描けるということ自体がフリークスへの慰めであるとも言える。

これは9.11以後のノーランのバットマンの横に並ばせるのがいささか居心地の悪さを感じてしまう(無邪気なかっこよさを追求しただけのスナイダーバッツが間に入ってくれることで、なにげに良い塩梅になっている気もする)。

伊藤はこれが転じると「そのままの君でいいんだよ」に繋がると書いていたけれど、そうだろうか?そうかもしれない。そうかもしれないのだけれど、ペンギンをああいうふうに描ききった時点で、バートンにはやはり大人としての矜持があって(映画製作上の都合、と言い捨ててしまっても表面上はなんら変わりはないのだけれど)、それを受け取る側の私たちがどう動くか、というところで踏みとどまっているように思える。すくなくとも、「シザーハンズ」に比べれば。

 

キャットウーマンになることを暗示するメガネの影使いとか、演出も凝っていて楽しいのですが、今見ると個人的には色々と辛い映画ではある。

 

そういえば、自分は発達障害なのではないか、と考える人が増えているらしい。これは多分、バートンバッツの優しさの庇護に与ろうとする人たちが増えてるということだと思う。けれど、そうしたスティグマを欲しがるほとんどの人が実のところペンギンでもなければキャトウーマンでもなくて、それどころかペンギン軍団のサーカス団員ですらもないのだ。もちろん、このわたしも含めて。

要するに、自分が無能で怠惰であることをスティグマに求めようとしているわけだ。本来であれば逆なのだけれど、無能な怠け者はその無能さの根拠となるお手軽な免罪符を欲しがっている。これは医療化の波というのが関係している、と思う。

痴漢犯罪ですら病とみなされるこの見方は、あらゆるものに原因を貼り付けるこの見方は、色々と歪みを持っていると思う。そうした方が社会が上手く回るのだとしても。弱者救済・ノーマライゼーション・社会的包摂・・・それはら全て、弱者たりえる弱者のための概念であって、真に弱者足りえない弱者はその囲いの中には含まれない。

それは、実のところ「バットマン リターンズ」にも同じことが言えるのだ。「万引き家族」のあの一家が受けるべきバートンの眼差しは、無能な怠け者である私は含まれない。

多分、少し前だったらこの映画に自分を含ませていたかもしれない。けれど、さすがにそこまで自己欺瞞に陥るほどの馬鹿ではないと気づいてしまった今、「リターンズ」を観て涙を流すことはなかった。

けれど安心して欲しい。そんな無能の怠け者のためにこそ「大いなる西部」があるのだから。ただし気をつけなければならないのは、「大いなる西部」におんぶにだっこのままでいることは進歩を妨げるということを。それはこの世の中では生きづらいことなのだということを。

あくまで安全基地として。

 

 

不可能任務:降灰と太洋の八

「ミッション・インポッシブル:フォールアウト」と「オーシャンズ8」観てきましたよ。

「ミッション~」はなんかすごい映画でしたな。

ともかくずっと動きっぱなしで展開に次ぐ展開なので息付く暇がない。

イーサン=トムが車で走る・バイクで走る・足で走る・ヘリで走る。話に何か深みがあるとか、そういうことを考えさせる暇はない。そもそも考えさせようともしていないわけですが。純粋な運動でのみ魅せる、ただそれだけ。

やたら組織の用語とか出てきたしますが、はっきり言ってこれは「シン・ゴジラ」における情報量で畳み掛けて理解させる気はないだけの台詞と言っても過言ではない。だって、別にちゃんと理解してなくても観ていればなんとなくわかりますからね。スパイ映画とは言いつつも、地に足のついた現実的なスパイ映画ではなくむしろアクション映画なわけで、まあそのへんの細かい部分はどうでもいいのです。というか、アクションを追っていればなんとなくわかる程度の作りになっているんです。

ちなみに、言われるほど脚本がひどいとは思いませんでしたよ。なんかごちゃごちゃしているな、とは思いましたが。でもむしろ、これまでのシリーズ(特に2)を拾い上げて生かしているあたりとかはこれまで以上に凝っていると言ってもいいと思いますよ。

元妻のこととか仲間の見せ場がかなり増えたりとか、まあそういう部分もさることながら縦のアクションシーンとかここらへんもブラッシュアップされていて楽しいですし。フランスの街並みを走るところは「ランデブー」っぽいな、と思ったらインタビューでしっかり答えてましたね。

 とはいえ、比重としてはアクションを見せるためのアクションがいつも以上に多いので、テンポはいいのに長く感じる部分もなくはないかな。

次あたり本当に死ぬ気がしますが、どこまで行くんでしょうかトム・クルーズは。

 

で、「オーシャンズ8」。

 えー私「オーシャンズ」シリーズはちゃんと観たことがないので、これまでのシリーズと絡めた話はほとんどできません。ただ、ジョージ・クルーニーが出てたとかマット・デイモンが出てたとか(本作でカメオしてたもののセクハラ騒動で全カットになったとか)、それくらいしかわからないんですよね。もっとも、サンドラブロックの「兄貴云々」の話あたりくらいしか明確な繋がりを感じさせる箇所はないので、別に気にする必要もないとは思います。まあ、ラストカットの余韻とかを味わうには、ちゃんと「オーシャンズ」シリーズを観ていたほうがいいかもですが。

これまでのシリーズで監督を務めていたソダーバーグは今回製作に回り、代わって監督・脚本を務めたのはゲイリー・ロス。バトンタッチするのが新人ではなくソダーバーブよりもキャリアの長い監督というのが妙ですが、それゆえ、というのもあるのか「オーシャンズってこんな感じでしょう」という「オーシャンズ」をそのまま出されたよな気がします。というか、こういう種類の映画って大きくフォーマットを崩すのって難しいので、どれも似たりよったりになりがちな気もするといえば気もする。

しかしまあ、実のところこのシリーズってキャラ萌えがメインであると思うのですよね。だって、実際に計画を実行してからの「実は~」とか「それどうやって入手したんだい」というような緻密な計画のディティールを楽しむには、このシリーズはあまりにおざなりすぎますからね。

そういう意味では昨今のキャラ萌えの潮流に合致しているとも言えますし、キャストもそういう路線を狙ったんじゃないかなーと思う。

しかしトム・クルーズ(56)にも驚かされましたけどサンドラ・ブロック(54)も大概おかしいですね。せいぜい40代かと思っていましたけど、よく考えたら「スピード」でキアヌの相方やってたわけですし、キアヌと同年代と考えれば50いっててもおかしくはないわけですものね。というかキアヌもそうですが最近の50代どうなってるんですかね。

ラジー賞での一件でユーモアセンスを見せつけたかと思えば災害地域へのミリオンダラー寄付したりと人格者な面を見せるサンドラが一応は主演ということなのでしょうが、ほかのキャラクターもそれなりに目立った役割を持たされてはいます。

ただ、意外なことにケイト・ウィンスレットが今回はそこまで目立っていなかったんですな。いや、衣装の面ではかなり衣替えしてくれてパンツ姿とか凛とした強さを感じさせる魅力的なキャラクターだったんですが、いかんせん黄色人種の私には同じ系統のサンドラと一緒に映るとごっちゃになるので相殺されてしまうというか。作戦実行時なんて両者の髪色が両方とも金髪になりますしね。

むしろ、ミンディ・カリングやリアーナ、オークワフィナ、ヘレナ・ボナムカーターの方が印象に残っていたかな。彼女らは現場での実働部隊だったり天才ハッカー(幼い妹持ち)とかだったりするので、一応ボスっぽい立ち位置だけでやってることは嘔吐剤を仕込むことくらいだったりするケイト・ブランシェットよりも印象が強いんですよね。ヘレナはまあ、あの顔面とか演技の異質さで即脳に焼き付きますし。

アン・ハサウェイも今回は割と汚いキャラのおかげでキャラ立ちしていましたし、ドレスアップ多めだったり最終的に落ち着く立ち位置なんかを考えると一番美味しい役どころのような気もします。

個人的にはもっとチーム全体で仲良くしてるシーンがあってもよかったかな、とは思いますがチーム強奪モノはそれだけで観ていて楽しいものではあるので、そこに魅力的なキャスティングがなされているだけで十分観れるかな、と。

 

あとちょっときになったことが。なんか中盤あたりでサンドラ・ブロックケイト・ブランシェットが海辺(?)でちょっと強めの語調で話し合ってるときのカメラワークだけ妙に手ブレでバストショットを強調するなーと思ったんですが、あそこだけなんか別の映画観てるみたいでしたよ。撮影のアイジル・ブリルドさんはあまり情報が出てこないんですが、ニューフェイスなのかな。

 

ていうかミンディ・カリングの吹き替え釘宮さんなのね。洋画では珍しいですが、この日本語吹き替えキャスティングからも割とキャラ萌え路線というのは当たっているのでは。シュワちゃんの映画が往々にしてそうであるように、これも吹き替えの方が楽しめるタイプの映画かもです。自分は字幕だったのですが、吹き替えの方が良い可能性もありけり。

 

 

ミュウツーの逆襲(恐竜)

久々に映画館で映画観てきた。最近は本当に月に1回くらいの頻度に減っていて自分でも少しもやもやしていたのですが、そういうモヤモヤを取り払ってくれる快作でございましたよ、「ジュラシックワールド 炎の王国」

 

 

ここでもまたへんてこりんな邦題を付けられてました。
原題は「Jurassic World: Fallen Kingdom」なんですが、本編を見れば「炎の王国」というサブタイがいかに的外れというか本編の一部分を切り取っただけのサブタイだったか、ということがわかる。もしかして日本の配給会社は予告編しか見せてもらえなかったのかな、と思ってしまう。

まあ、自分も予告編の映像がほとんど前半30分くらいのシーンだけだったとは驚きましたが。炎の王国は要するに島の噴火のことを指しているんでしょうけど、物語の肝はまさしく原題の「Fallen Kingdom」の部分にあるわけでして。

トレボローは今回、共同脚本にとどまっているのですが前作の不評のせいなのかどうかは不明。代わって(まあシリーズもので監督が変わるのは別に珍しいことではありませんが)監督はファン・アントニア・バヨナ。あまり名前を聞かない人ですが、トレボローよりも年上なのですね。彼の監督した「怪物はささやく」だけは一応ウォッチリストに入れてはいたんですが、タイミングを逃して見ずじまいだったのですよね。今回のジュラワーを見る限り腕はありそうです。

さて、もはや出オチのような、ある意味で安心感を覚えるような気持ちになる「字幕:戸田奈津子」の文字。

今回はあまりなっち節は出ていないような気はしますが、やはりちょいちょいおかしな部分が・・・。「you're welcome」がどうやって訳したら「ありがとう」になるんですかね。あそこはユーモア描写なわけで、恐竜を煽ってその恐竜の頭突きで檻から出してた(出してもらった)クリプラが嫌味っぽく「どういたしまして」と言うシーンなわけで、ニュアンスがだいぶ変わってしまうのですよ。

いやまあ、ここはそんな重要なシーンじゃないし別にいいんですが。

色々書きましたが、映画自体は楽しいです。泣けますし(すくなくともわたしは首長竜が粉塵に巻き込まれていくシーンと女の子がボタンを押すシーンとブルーのシーンのほとんどでウルッときた)

頭空っぽにして、といいつつさりげにクローンの(ていうか元ネタからしてそういうテーマを扱っているわけですが)問題を扱っていたりして、しかもそれがまんま「ミュウツーの逆襲」なわけで。女の子をもうちょっと掘り下げた方がこのクローン問題の哀愁は出せたような気もしますが、このバジェットの映画で上映時間のことも考えると仕方ないでしょう。それに、あの子がボタンを押すシーンがあったので個人的には大満足ですし。

で、邦題とは裏腹に炎の王国ではなくメインの舞台となるのは洋館なわけですな。洋館といっても地下に研究施設があったり展示室があったりと滅茶苦茶広いわけですが、まあ邸宅ではあるわけで密室空間と言ってもよかんべ。しかし洋館に恐竜というのも中々良いもので、ディノクライシス+バイオハザード的な楽しさがある。ゾンビだけでなく恐竜もあり、というのはなにげに発見な気もします。

随所に見られるパロとか、スピルバーグ的なグロ描写とか割と人が死ぬのとか割と多めに盛り込んでいて驚いた。スピルバーグといえばどことなく「BFG」っぽいシーンはありましたな。バヨナ監督のフィルモグラフィーから考えると子どもと一種のファンタジー路線が好きなのかな、と思ったり。

スピルバーグっぽいといえば、やたら女の子を叫ばせるのとかもそれっぽい。「宇宙戦争」のダコタん並に叫んでましたよ。

人間の王国が陥落した後の、ライオンとTレックスが対峙するするバカバカしい絵ヅラとかも最高ですし、サーファーと一緒に一作目からなにげに美味しいシーンをもらいつづけているあの海獣恐竜とかもゾッとしてよかったですよね。

 ラストのブルーが崖で街を見下ろすシーン、なんかすごく既視感があるんですけどなんだったかな。

それと、ポストクレジットのあれ。タワー的なものに翼竜的なものが合わさるとギャオスに見えてしまう幼稚なマジカルバナナ思考を突き動かすロマン。
続編が作れそうでもあるし、本作だけでもまとまってはいるので、どうあれこれは観ておくが吉。

 

この夏、子どもに戻りたい人は観るべきでせう。ていうかみんなもう観てるか。

 

言葉で通じないということ

イニャリトゥ監督の「バベル」

8月のまとめの方に組み込もうとも考えたんですが、色々と思うところがあったのと台風接近につき時間ができたので単独記事をポストしてやることにしました。

イニャリトゥ監督といえば「バードマン」や「レヴェナント」が日本でも話題になってしましたのでそれなりに映画を見ている人なら名前を知っているでしょう。ま、いきなり余談ですみませんが「レヴェナント」の日本版予告で映像の最後にデカデカと「音楽:坂本龍一」と出したのはなんというかこう、ダサいっす。ダサいっていうか、下品というか、舐めてるというか。別に坂本さんが嫌いとかいうわけではないんですがね。

 

「バベル」なんですが、公開当時も色々な意味で反響を呼んでいたらしくこちらの映画も知名度はあるみたいですね。2006年ですが当時は映画なんてほとんど見ていない若輩でしたのでこの映画についてはほとんど知らず。

なんか観ている間にズウィックっぽさを感じたんですけど、そういう人はあまりいないのかしら。あと日本の街並みの撮り方なんかは「ロスト・イン・トランスレーション」ぽいというか、どうもエキゾチックに映っているきらいがある。

映画のタイトルですでに落ちているような気もするんですが、やはりバベルということで重要な要素となってくるのは言葉です。

この映画の中にはいくつもの言語が出てくる。英語、スペイン語アラビア語、日本語、そして日本手話。これらは明確に異なる言語であるのですが、しかしこの映画ではこれら全ての言葉に共通する部分があると思います。

それは、意思疎通の手段としての言葉におけるコミュニケーションが不全に陥っているということ。言語の違いによるコミュニケーション不全ということではなく、表面的に交わされる言葉が、その実はまったく通じあえていないということなのですよね。ブラピとブランシェットが会話している場面の通わなさ、あるいはアフメッドとユセフの兄弟間に生じる決定的な違和と差異、マイクとデビー(今調べたらエル・ファニングだったのかい!)が言葉を発するまもなくただなすがまま状況に流されるさま、そもそも異なる言語での意思疎通を図らざるを得ない菊地凛子

とにもかくにも、この映画の中では言葉が恐ろしい程に頼りない。それゆえにそれぞれがすれ違い・絡まりあって一つの事故へと収束(拡散)していく。

血が血を引き寄せ、不寛容が排他を招き、無理解によるすれ違いが傷を膿ませる。

 

けれど、言葉の代わりにこの映画には意思疎通の手段が用意されている。それは多分、触れ合うこと。登場したシーンではコーラのことですらストレサーになるくらいいがみ合っていたブラピとブランシェットが、皮肉にも撃たれたことによって寄り添い触れtづけたように、浮薄な言葉(異言語、書き置き)でしか会話をしていなかった役所広司菊地凛子の親子が抱き合って終わるように。電話なんていうか純粋に音としての言語以外に伝わりようのない(この映画世界では最も通じあえないコミュニケーション手段であるというのに)しかやりとりのないブラピとアメリアの関係があのような形で終わるように、その逆もしかりなのであろう。

 

演出的に言えばクラブでのミュート使い(煽ってから「September」イントロをミュートにするのとか、切り替えとか)による世界表現と、そこ(放縦な性の世界)に陶酔しようと努める(もちろん上手くいくはずもないのですが)菊地凛子とか、痛々しくて大変よろしい。

時系列をバラバラにしつつまったくこんがらがることがないのも上手いですよね。

あとなにげにペーニャとか出ているし、エルはロリすぎて誰かわからなかったけんど、菊地凛子は妙なエロさがあるんですよねぇ。顔は別に可愛いわけでも特別綺麗ってわけでもないんですけど。