dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

7月のまとめ

「ヌードの夜」

余貴美子がエロい。

竹中直人がエモい。

椎名桔平がヤバい。

それだけでも十分に見る価値はある。今見ると子犬の使い方とかまんますぎて笑ってしまうのですが、これはクリシェ量産してきたエピゴーネンズの罪過ですのでモーマンタイ。しかし桔平のネオンオブジェを眺めている時の恍惚とした表情とかなんなんですかね、あれ。田口トモロヲってなんでこう、キッチュな役柄ばかりやらされるのでしょうか。「その夜の侍」くらいがかなり適役というか、ともすると一番見た目から想像しやすい範囲ではあるのに。

それと、全体的に長回しが目立っていましたね。「トゥモローワールド」の後に見たのがこれだったこともあって、長回し映画的に無理くりな相対化をしてしまうのも無理からぬ話ではある、と自己弁護。

こっちの長回しは「トゥモローワールド」とは明らかに違う使い方(そもそも向こうはデジタル撮影で繋いでるし)なんですが、いわゆる臨場感を出したいとか見てはいけないものを目にしてしまったようなものの表現ではなく、もっとギミック的に使っているようにも見える。かと思いきや遠めで長々と撮っていたり。

あとヒッチコックのオマージュっぽいシーンもありましたね。全体的にダウナーな映画ですし救われない映画ではあります。ホラーぽくもある。

あとはやっぱりデジタルじゃない画面の粗さというのも、一つあると思うんですよね。マイクの音声の広い方も結構アレで椎名桔平がちょっと何言ってるかわからない部分なんかもありましたが。これって懐古なのかしら。

 

 あと、どうでもいいことですけど特殊メイクを使ったらクローネンバーグっぽいということになる直結な思考回路な人がいて面白かった。

 

 

 

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン

ヤンキースが強い理由。

観ていて思ったのは「クヒオ大佐」でしょうか。まあ共通しているのが詐欺師ってところくらいで、顛末は全く異なるんですが、両方とも実話ベースというのもまた面白い。

基本、スピルバーグの映画でつまらないと思ったことがない。と、書いた直後に「BFG」の存在を思い出すのですが、あれも今見たら面白かったりするのかなぁ、とは思う。

若きプリオとトム・ハンクスの時点で、まあ自分は観れてしまうんですが、そういう役者目当てじゃなくても面白い。しかしスピルバーグは本当に父親へのコンプレックスがあるのだなぁ。

わざわざ二人の父親的存在を配置してるし。しかし、どちらも悪く描いていないのが面白いところで、最近だと「アントマン」もこんな感じの父親の描き方でしたね。ウォーケンとハンクス、二人の父親によって最終的に成功を収めるという母親不在の映画。不在、というかほとんど悪い部分しか描かれない。

「ノー」からの「イエス(喘ぎ声)」の繋ぎなんか露骨に笑いを取りに来ていますし、普通に笑って泣いていい映画ではあるんですが、メインとなるキャラクターの家族関係はやや破綻しているというか離婚していたり確執があったりするし、別にそこは見せんでもよろしいでしょうというグロシーンをわざわざ見せてきたり、やはりスピルバーグ的な異質さという黒さが散りばめられている。

 

余談ですが、クリストファー・ウォーケンジョン・ヴォイトどっちがどっちかわからなくなることがある。こっちはウォーケンでした。

 

 

「黒い家」

面白いけどちょっとくどいかなぁ。

黄色と緑の使い方やノイジーな効果音がかかったりするのは気持ち悪くていいんですけど、ラストの方だけアメリカのB級スプラッタっぽくなっているのはなぜなのか。あと主役が腹立つ。

 

 

ジェシー・ジェームズの暗殺

伝説を別の視点から眺めると、こういうことになるのだなぁ。

やるせない。やるせないのだが、やはり最後のナレーションはちょっと説明過剰な気もするのである。死してなお生き続けるジェシーを撮るのであれば、いっそのことボブが撃たれて天井からの俯瞰で終わってくれても良かった気がする。もちろん、孤独に。

叙情的な「アウトレイジ」というか、一方通行な「ディパーテッド」というか。そこに若さという思慮の欠如っぷりみたいなものが足されているような、観ていてやるせなくなってくる映画だ。

スタッフがやたら豪華でスコット兄弟が製作側にいたりディーキンスが撮影していたり、キャストが好みの人ばっかりだったりと、個人的には好きな部類にはいるのだけれど、160分は長い。

それはともかくとしても、キャスティングが良い。この役柄にケイシー・アフレックというのもまた絶妙でるし、「スリー・ビルボード」でサム・ロックウェルが演じていたあのキャラクターの片鱗がここで出ている気がする。なにげにジェレミーレナーとかデシャネル出てるし。

やっぱケイシーいいわぁ、と再確認できただけでもよし。

余談ですが、ウィキで調べたらロケット団のムサシとコジロウが向こうだとジェシー&ジェイムズらしい、というトリビアを得た。武蔵と小次郎という元ネタがあることを考えると二重に意味が・・・

 

 「ナイトクローラー

レンホール(今はジレンホール表記なんでしたっけ)は「ドニー・ダーコ」からすでに狂気をまとった役を演じていましたけど、こちらもかなりキテますね。年齢不詳な顔してるとは思っていましたけど、まだ40にも満たないというのが驚きなくらい風格が漂っています。リズ・アーメッドが誰かに似てるなぁと思いつつ見てたんですけど、あれだ、満島真之介だ。

今は亡きビル・パクストンが地味に出ていたりするんですが、そういうのはどうでもよくなるほどジレンホールのイカレっぷりが。

ずれたbgm演出なのに妙にかっこよさげだったりするのもムカつく面白さだし、まあともかくジレンホールでしょうね、これは。

 

「ソーセージ・パーティー」

これはひどい。いや、八割褒め言葉として使ってますが、字義通りの意味としてもひどいといえばひどい。まあ、「擬人化もの」としては日本の方がひどいといえばひどいんですが。

しかし吹き替えの声優にクリスティン・ウィグとかエドワード・ノートンとかジェームズ・フランコとかポール・ラッドとか、メンツが豪華なのも笑えますな。

ホモセクシャルレズビアンイスラムネタ、ヒトラーネタ、ホーキング博士ネタ・・・etc

これの監督がきかんしゃトーマスもやっているというのがまた面白い。

ラストの大乱交もひどいしなにげに首チョンパあるし、なんか色々とひどい映画でした。

 

アポカリプト

前半30分見逃した。ショック。

それでもなんとなくストーリーは追えましたが、いやはや。セリフが少ないのですが面白い映画って色々ありますけど、この映画も牽引力はパナい。

カメラグルーとかあの場面で遠目からのショットをあえて使っていたり。

ただいかんせん、メル・ギブソンの映画って普通に感想を書こうとするとなんだか言葉に詰まるんですよね・・・。いや、確かに面白いんですけお。

 

バランサーとしてのイーストウッド

オウム真理教幹部の死刑執行、あるいは白人警官による黒人殺害に連なってくる映画をこのタイミングで放送する午後ローの敏捷性は計り知れない。

狙ったのかどうかはさておくとして、午後ローはB級映画だったりを流すくせしてこういうところがちゃっかりしている。

トゥルー・クライム

イーストウッドが主演・監督を務めるイーストウッド映画である。

本当は7月のまとめの方に入れちゃおうと思ったんですけど、最近は月ごとにまとめられるほど本数を見なくなったのであれはやめようかな、と思い始めていまして。まあそれとは関係なしにちょっと個別に扱ってもいいような内容だったので。

 

イーストウッドの映画を、このブログでは何回か扱ってきてはいますが、やっぱり毎度面白い。

3月のまとめ - dadalizerの映画雑文

相続した車で老犬と初デート - dadalizerの映画雑文

英雄が撮る英雄〜75億総英雄社会〜 - dadalizerの映画雑文

BSイーストウッド無双 - dadalizerの映画雑文

続・消化録 - dadalizerの映画雑文

消化録と消化不良を引き起こす名作 - dadalizerの映画雑文

アラスカ=パーフェクトワールド - dadalizerの映画雑文

 

イーストウッドの映画を扱ったのはこんなところでしょうか。

往々にしてこの人の映画は理性的というか泰然自若というか、中庸な感じがするのですが、「トゥルー・クライム」でもそうでした。

お話そのものはフッツーのサスペンスなんです。けれど、そこに白人と黒人という要素が入ってくることでアメリカ社会の病理が浮き彫りにされてくる。

冤罪とか差別とか、そのへんを直接的に扱っているというよりは娯楽の中にそれとなく(というには明瞭すぎるけど)落とし込んであくまでわかりやすいエンタメ路線であるので見やすくはあります。

しかし、劇中でも言われているとおり本作のイーストウッドはクズです。屑ではなくクズ。これまで観てきたイーストウッドアウトローな「屑」でしたが、この映画では女ったらし路線で仕事を優先するあまり娘に怪我を負わせる系の「クズ」です。午後ローカットのせいなのかオリジナルの演出がそうなのかわかりませんが、娘へのフォローが一切ないあたりがなんとなくらしい。

イーストウッドの映画って、なんとなく止揚感があるのですよね。基本的にイーストウッドが聖人君子を演じることはなくて、むしらダーティさでもって正しいことなし、それによって清濁併せ呑みアフヘーベンしますた。的な。

イーストウッドは瞑想とか仏教思想に傾倒(とまで言っていいかはアレですが)していますから、明確な善悪みたいなものに対する拒否感みたいなものがあるんだと思う。だからクズではあるけどそのクズっぷりに直結する真面目っぷりでもって人を救うわけですし。

 

どうでもいいことですが、ラストのルーシー・リューはなんだったんだろう・・・。

あと岩崎ひろしを牧師とホームレスに割り振るのはやめてください。ギャップで笑い死んでしまいます。

 

 

 

 

コント映画

友人に誘われてホラー映画を観に行きました。

まあ、夏ってことでホラー映画でも観て涼もうという魂胆だったのでしょうね。「インサイド」っていう映画で、前情報なしで観に行ったんですが、いや、まあ、面白かったといえば面白かったんですが。

2007年のフランス映画「屋敷女」のリメイクということらしいですね。で、「屋敷女」の方を検索して思い出したのですが、原作のほうはたしか滅茶苦茶グロいものだというのを聞いたことがあったことを思い出しました。こっちのほうが見たいなぁ・・・グロイのは苦手だけれど。

一応、「インサイド」の方も15Rではあるんですけど、そこまでグロくはなかったですよ。顔面に刃物が刺さるシーンとかはありますが。

 

しかしまあ、これで怖がれっていうのはちょっと難しいような。確かにびっくりどっきりさせられる部分(おばけ屋敷的な意味で)はありますし、ほどよくグロイしなにげに凝っている部分もあるんですけどね。

公式サイトの著名人のコメントが三人だけというのと、そのうちの二人が伊藤潤二平山夢明という映画本編外での涙ぐましい努力に泣けてくる。

ヒッチコックの「裏窓」とか「シャイニング」とかのオマージュっぽいシーンがあったりしますが、だからなんだよと言われてしまうレベルだったり。

あとですね、ローラ・ハリングが美しく実年齢にそぐわぬ若さのせいで「サラの母親よ(大嘘)」のシーンに逆に説得力がなくなってきているのですが。

場面場面で繰り広げられるアンジャッシュ展開や、馬鹿ではないんだけれど段取りが悪すぎるせいでローラ・ハリングさんが滅茶苦茶頑張るハメになるというのが面白い。ていうかぶっちゃけドジっ子ローラ・ハリングに萌える映画と言ってもいいかもしれない。無駄に耐久力があったり、親友からのコーリングを見せつけながら殺す意地悪さだったり、純粋に子供を失った悲しみからの反動というには説明のつかない異常値を叩き出すハリング萌え。

ただ、そんな彼女が最後の最後に妊婦を救うシーンは帝王切開のメタファーであって、母親になれなかったハリングが最期に母親を救うことで子どもを助けるというなにげに感動する場面もあったり。

怖がりたいという人にはおすすめしませんがローラ・ハリングが好きな人とかにはおすすめです。

 

未来のミライの試写会に行ってきたよ

気づけば映画館で映画を見るのがひと月ぶりという。

映画館に行く頻度が減ったなぁとは思っていたんですが、まさかこれほどとは・・・。いや、4月から本当に忙しいんですよね。忙しいというか、大変というか。そんなわけで試写会でもないと映画館に足を運んでなかったでしょう、という気はするのでありがたく馳せ参じました。まあ、その代わりに犠牲になったものもあるんですが。

 

普段はネタバレ注意とか書きませんが、さすがに公開前の映画なのでネタバレ注意と但し書きしておきますので、読む場合はそのへんあしからず。

あ、それとケモナー要素を期待している人には先に断っておきますが、今回のケモショタ要素はほとんどオマケというか、予告編の一連のシークエンスだけなので「おおかみこどもの雨と雪」とかレナモンを求めている人は肩透かし喰らうかも。このへんも含めて、全体的にシームレスな妄想・想像力(とは、後半を見ると言い切れないわけですが)空間と現実のいまここの転化が同じ角度から繰り返し行われるのですが、個人的にはA.F.ハロルド「ぼくが消えないうちに」なんかを読んでいるとむしろすんなりと頭に入ってくるかな、と。

 これがもっと境目があやふやになったら今敏といった具合。

 

別に細田守のファンでもなんでもないのですが、なにげにこの人の長編映画は全部観ている不思議。いや、別に数が多くないので不思議でもなんでもないですし、それを誇るつもりはまったくないんですが、個人的に珍しいことではあるので。さすがに「おジャ魔女ドレミ」とかはフォローできてないけど、少なくとも劇場公開された映画は全部観ているはず。細田守は特別好きではないですが「スパイラル」のopは好きですけど。
デジモンでヒカリと太一の兄妹がメインの回で演出してたアレは色々とヤバげだったりして印象に残ってはいましたので、その頃から作家性みたいなものはあったのでしょう。


しかしまあ、宮崎駿(というかスタジオジブリかな)といいこの人といい、なぜか大衆向けのエンタメを作る人と思われている節があるのだけれど、私はちょっと疑問。いや、両者ともわかりやすいエンタメ映画を作っていますし、プロデューサーの手腕とか色々とあるんでしょうが、すくなくとも万人受けはしないであろう強烈な何かがあるとは思う。慧眼の持ち主は早くからそれに気づいているわけですが、細田守の場合は特に「生と死」なんじゃないかと。だいたいね、「嫌いな食べ物はイカリング。理由は輪の中が深淵のブラックホールのようで、吸い込まれそうだから」なんて「トップランナー」で答えている人がね、死を意識しないわけないんですよ(偏見)。

思えば、「ぼくらのウォーゲーム」でさえディアボロモン(ラブマシーンや鯨もそうだった)の無機質な「通じなさ」やウォーグレイモン&メタルガルルモンが瀕死に追い込まれるところは恐ろしかった。
なぜ恐ろしいのか。それは、多分、彼岸のものだから。
逆に、なぜ細田守ショタコンもとい成長著しい少年にエロスを感じるのか。それはやはり、セイの匂いを発しているからではないだろうか。そうでもなければカズマHSHS(超意訳)などと人前であることを憚らずに言うはずもない。


ただ、今回はその「生と死」を未来と過去と今に紐付けて、円環的なシステムに包含することで一歩先に進んだんじゃないかなぁ、と個人的には思ったり。というのも、今回はクレジットが冒頭と最後にあるんですよね。わざわざEDテーマを流しながら、どう見てもEDのソレとしか思えない絵ヅラ、テレビアニメ映画なんかでありがちな背景真っ黒で画面左に小さめの画面が出てきてい右側に白い文字でクレジットが縦に流れていくあれ。その左側の画面でくんちゃん(CV:上白石萌歌)が誕生するまでの経緯がさらっと描かれるんですよ。

ご丁寧にタイトルも映画の最初と終わりで2回出ますし、この辺の終わりと始まりのダブらせ方は明らかに意図したものであると言える。

いや、「メッセージ」と比べるとそこまで徹底した円環構造とは言いづらいかな、とは相対的に思います。ただ細田監督はあくまで大衆向けを意図しているっぽいので、そこまでやると子どもが分からなくなりますし、塩梅としてはいいのかな。といっても、子どもたちは随所の笑わせポイントでは笑っていましたがタイムスリップしたあたりから話がわからなくなってきてたっぽいですけど。終わったあとは「これで終わり~?」といった子供の声がちらほら聞こえてきましたから。だからといって退屈していた、ということではないですけれど。

で、冒頭といえば頭っから全景からの下へのパンでくんちゃん一家の自宅へとズームしていくんですが、これが2回繰り返されて時間の経過を表現していたり「バケモノの子」での九太の成長以上に手際の良い省略をしていました。省略というか、ダイナミックな時間表現というか。今作は全体的に、説明的な説明を排しているように感じました。前作ではそのへんを評論家諸氏に突っつかれていましたし、監督も色々と考えたのでしょう(笑)。
 後述する「死の駅(仮名)」から脱出して空に落ちていくシーン(とか書くとパテマをイメージされると思いますが、まああんな感じ)で、未来のミライちゃんが唐突に「インデックスがー過去と未来と今がー」と説明的な説明台詞を口にしたのはちょっとやりすぎかなぁ、とは思いました。そもそも4歳児に単語の説明で「インデックス」なんて単語使われても分からんでしょう。ここはもっと噛み砕いた抽象的な台詞でよかったんじゃないかな。
 

全体としては生に満ち溢れているこの映画。それは子どもの誕生から始まることからも言わずもがななんだけれど、それと同じくらい死は映画の各所で立ち現れてくる。一番最初はひいおじいちゃんの死。これは劇中ですでに故人であるひいおじいちゃんの話が会話として出てくるだけなんだけれど、中盤あたりではくんちゃんが自転車の練習をするシーンに、まるで心霊写真かのように映り込む彼岸の匂い。あの寂れた時計台みたいな建物。オリコンニュースでは横浜市磯子区金沢区あたりが舞台ということを書いていたんだけれど、ひいじいちゃんの過去の時代では健在だった同じ建物が現在では寂れているという諸行無常さ。ただ、ここがどこかちょっとよくわからないんですよね。どこかで見た気はするんだけど。映画の最後の方で車ででかけようとしている行き先とか、忘れちゃったんですけど、位置関係とか時間軸とかって、どうなってたっけ・・・。
それはともかく、青空の下、緑の生い茂る公園という生に溢れる背後に屹立するその死の匂い。細田作品の空はむしろ「風立ちぬ」の空がそうであったように、彼岸として在るわけだから、やはり怖い。

そして、それが極に達するのが未来のくんちゃんと邂逅した直後に電車に乗って駅に到着する場面。仮に地獄駅と名づけますが、ここがともかく怖い。落とし物の受付の「人」(というにはあまりに抽象的表現なのですが)の無機質な声や対応や無慈悲さ。この質感、どことなく星新一のアニメーションに近い気がするんですよね。

あるいは、のっぺらぼうのモブ。顔が画一化された人違いおかあさん、からのオニババ。ここからさらに、まさしく死の新幹線と呼ぶべき異形の新幹線が自分を見失ったくんちゃんを吸い込もうとする。ここでちょっと「リメンバー・ミー」的な死の概念を想起する人も多いのではないでしょうか。内装といい、この新幹線はちょっと子どもには怖いんじゃないかな。CGのテクスチャ(?)がちょっと気になりましたけど、ともかくこのへんのほかの新幹線の無慈悲な問答といい、全体的に怖い。
なんというか、この映画で描かれる空想空間といいこの死の駅といい、自分が幼い頃に読んだ「めっきらもっきらどおんどん」という絵本がダブるんですよね。

で、そこで生の象徴たる未来ちゃん(赤ん坊ver)を見つけて、「ミライの兄」という自分を見出すことで未来のミライによって救出される。この辺のシーンを観ていて思ったんですけど、そういえば自分が4歳のころって両親の名前って言えたっけ、ということ。このへんは、監督自身の体験が反映されていそう。
死の駅から抜け出した兄妹はそのまま前述した一家のアーカイブたる木の中に入っていって(いや、真面目に)過去と未来と今を見ることで連綿とした繋がりに気づく。そして、くんちゃんは未来のミライののいる未来、つまり未来のミライにとっての現在地点で彼女と別れ、くんちゃんは元の世界に戻っていく。

ラストシーン、兄妹の顔が画面ごと明るくなっていくのが、個人的にはハっとさせられて好きだったりする。が、4歳児のくんちゃんを主観に据えているとはいえ、あれだけ時系列やら入れ替えていたら子どもはさすがにわからないのでは。わからなくていいのかな、まだ。

演出としては反復だったりパンだったり、あまりカットを割らなかったり引きのショットが多かったですね。

 

ただ、極めて個人的なことを言わせてもらえると、4歳児にそれは重すぎる。

あと上白石萌歌ちゃんは4歳児をやるには声がさすがにキャピキャピしすぎでは、とは思います。くんちゃん単体で聞いているときはだんだん慣れてきてそこまで違和感があるわけではないんですが、モブの年上の少年たちと絡むシーンでは、そのモブ少年たちの声をおそらく本当の少年を使っているために、明らかに年下のくんちゃんよりも声が高いということに。まあ、くんちゃんはあの年で色々な世界を見てきてしまっているので、その分の積りが声に反映されたと考えれば・・・というのはさすがにキツいか。

 

あまり家族の部分には言及してませんが、そこらへんにいそうな中の上の家族です。 ただ、過去のお母さんのシーンを見ているとADHDというか発達障害というか、なのかなと思ったりしてしまった。あれを子どもが普遍的に持っている「自由奔放さ」として捉えるには私はちょっと抵抗が。

あと家族に関して言えば、細田監督は「生と死」をオブラートに包むために家族を描いているのか、家族というシステムにそれそのものを見出しているのか、私にはちょっとわからないのだけれど、しかし「サマーウォーズ」から一貫して家族を描き続けているということは少なからず思うところはある気がします。「オマツリ男爵」でさえそれに近い関係性(そもそも海賊団というのが疑似家族)を描いているわけだし・・・ってそれはさすがにそれはこじつけだろうか。

 

 

とりあえず、久々のリアタイ映画の感想としてはこんなところでしょうか。 

ロサンゼルスから脱出だ!

???「バカばっか…」

 

何の気なしに番組表を見ていたら「エスケープフロムL.A」がやっていたという奇跡。

相変わらず午後ローはやってくれる。「ニューヨーク1997」の方は結構前に観てはいたんですが、こちらは手付かずだったので素直に嬉しい。で、ウィキを観ていて知ったのですが「ニューヨーク~」でのカートラッセルは吹き替えが青野武だったのですね。こっちは字幕で観たのですが、午後ローでは山路さんでした。むしろ青野さんというのがイメージできない・・・。

続編でありリメイクでもあるという不思議な立ち位置のこの映画。

そういう映画としての立ち位置もあるのか、「ニューヨーク~」のほうはいたって真面目な映画だった気がするのですが「エスケープ~」は完全に笑わせにきています。

いや、全体を通しての雰囲気は間違いなくハードボイルド調なのですけれど、要所要所で明らかにこちらの笑いを誘っている節がある。なんというか、BLとか少女マンガにあるようなシュールな笑いというか。まゆたんの「そのキレイな顔をフッ飛ばしてやる!!」的な笑いというか。もちろん、これみたいに無学からくるものではなく、カーペンター公の場合は意図的なのだろうという点で隔絶しているわけですが。

 

説明的な台詞なんぞ朝飯前であっさりと映画の設定や世界観を済ませてミッションをスタートするスピーディさ。ウェルメイドなぞクソ喰らえ。

些事ではあるのですが、ちょっと思ったのがVRをいちいち「バーチャル・リアリティ」と略称を使わないところに時代を感じる。要するにこの映画の公開時はまだそこまで知名度でなかったのかな、と。

「ユニバーサル」ときてサメという小ネタを盛り込んでいたりするし、基本的にはサービス精神が旺盛ではある気がする。だってわざわざハリウッドの整形を皮肉るシーンまで入れてくれますからね、話的には不必要ですから。いや、むしろ構造的にはそういった皮肉とかサブテキストで固め上げた映画という気がする。本筋は本当にシンプルですからね。

イージーライダー」のピーター・フォンダの使い方とか、アウトローの先達というサブテキストを披露するためだけと言っていいくらいの時間しか出てきませんし。

 bgmのコテコテぷりとか、コート姿とか、日本の特撮みたいで大変よろしい。これは吹き替えの問題の気もしますが、ウィルスに対して解毒剤というのが違和感があったり(抗ウィルス薬じゃだめだったのだろうか)。VR空間のちゃっちさは、予算の都合もありつつやはり意図を感じる。

 

それにしてもスネークの汚さはギャグである。敵は律儀に待ってくれるのに(この「待ってくれる敵」というのもカーペンター的な遊びというか皮肉なのでしょうが)、自分から提案した決闘方法には従わずダーティな戦法でもって敵を殺すスネーク、助けた直後にすぐ死ぬヒロイン枠、2回に渡るチビネタ、バスケコートの人間を四方から射撃するアホ丸出しな絵ヅラ、ステルススーツを着せたせいで位置把握できなくなる大統領一味の頭の悪さ、律儀にバスケするスネーク(モーションブラーまで入れちゃって、それなりに尺を使っているのも面白い)、画面隅でウォーキングマシンで歩かされるスネーク、地震のカットが変わるとテーブルの下に隠れている大統領、足を撃たれた直後にサーフィンするスネーク、そのサーフィンの絵ヅラのどうしようもないバカっぽさはほとんど漫画的であるし、不必要とあらば都合よくヘリコプターの後ろの席に座っているキッチュ連中だけ無感動に背景的に始末する潔さ、どうでもいいコートの伏線を回収するし。

設定だけ見ると重めというか真面目くさっていて、実際にオチとしてはスネークが世界のシステムを破壊して文明崩壊にまでいたらせるという(絵として表現はされませんが)幕引きですし、皮肉の内容も今見ると笑えない内容だったりするのですが、やはりシュールな笑いがある。

酒もタバコも女も禁じらた中で、タバコを吸うことで「人間に戻れたぜ:というセリフで暗転して終わり。粋である。

こうして見ると、MGSって実はこの一連の作品から影響を受けてるんだなぁとしみじみ思い直す。表層的な部分だけではなく、笑える部分なんかが。

 

 

 

6月のまとめ

時間が無くなって(というか以前が時間ありすぎていた)目に見えて映画を観る時間が減ってきていることもあって、録画していたものの消化ができないだけでなくそもそもテレビでやっているのを観れていないのが辛いよー。

 

しかもまとめるほど本数多くないし、時間なくて雑に済ませてしまったものも多いし、本当にすまない。

 

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

すごく個人的な映画。

歌が良い。アニメーションも良い。

 

「ベルリンファイル」

スマホで観てるんですけど、最近自宅なのにやたらと通信が悪くて途中で途切れたりするもんですごく重要なシーンを見逃していたりする。

んですが、面白い。

単純にアクションの質がダンチである。アジア人の顔が画面に映っていて自然に見れるアクション映画ってなにげに貴重な気がするのですよ。香港映画はまあ、ややおちゃらけていてはいるし、ここまで徹底して真面目な(あくまで映画として)ポリティカリーサスペンスアクションとして面白いのはやっぱり韓国映画くらいじゃないだろうか。

なんというか「ボーン」の一作目風味だったりはするんだけど。でもまあ、よくかんがればロシア並にポリティカルな臭気を発している北朝鮮をむしろなぜ今まで扱わなかったのか、というのもあるといえばある。

坂本浩一とか谷垣健治とか、あっちはむしろケレンなアクションなのでこういうのにはあまり向いてなさそうだし。好き嫌いとかではなく。

 

 

quietus

前から気になってたけどry

アルフォンソ・キュアロンの「トゥモローワールド」

原題が「children of men」で原作小説の日本語タイトルが「人類の子供たち」なのですが、どうして「トゥモローワールド」になったのだろうか。

キュアロンといえば最近では「Gravity」という傑作を撮っていたりもしてるのですが、なんとなく技術的な関心が強い人でもあるのかな。そういえば「アズカバン」もやっていたけど、どうしてなんだろう。

なんだか不思議な映画だった。長回しがどうとか、もちろんそういうウィキに載っていることを単純に抜き出して云々という話もできるのだろうけど、そういうのとは別に感覚的な不穏さがある。とはいってもデジタル撮影によるワンカットとか、この時点でかなりのものが出来ていたことに驚いたりはするけれど。これがあったのなら、別段「バードマン」で驚くことはなかったような気もする。いや、手間はだいぶかかるのでしょうが。

子どもが生まれなくなって、最年少の人間が死んだことがニュースになったりしているわけで、それが冒頭に持ってこられるわそれをワンカットの長回しで見せるわ画面はジメジメしているわ、ともかく陰湿、というか残酷であることは言えるかもしれない。

なんとなく人類にとっての救いを巡る話という点では「ジェノサイド」にも似ているような気もする。あとはなんとなく「ソイレント・グリーン」も思い出した。どっちかというと逆方向なディストピアだとは思うのですけど、容赦のなさが似ているというか。描き方はまったく違うんですけど。

かなり早い段階で死ぬジュリアン・ムーアですが、「キングスマンGC」と見比べるとすでに老けているというか、むしろ変わっていないことに驚くべきなのか。

それと、これは自分でもどうかと思うけど「サイン」とちょっと共通する部分もあるような気がした。あちらは別に突き詰めようとしているわけではないのだろうけど、「信仰」のゆらぎと盲信というか。

「サイン」ではメル・ギブソンは最終的に宇宙人を目の前にしながらも神の存在を悟り揺らいでいた信仰を取り戻しますが、「トゥモローワールド」のクライヴ・オーウェンは最後まで確かな拠り所となるものを見つけることなく死ぬわけですし。死んだあとにトゥモロー号が来る、というのもそういうことだろう。赤ん坊は、行動の動機ではあってもそれ自体が信仰の対象ではないでしょうし。まあなんたって「FISH」だし、どちらもキリスト絡みであることは間違いないわけで。

いや、全然違う映画なんですけどね、この二つは。ただ、目に見えないものを信じることについて、という点では共通する部分があるかも、という話。

ただ、宗教はあくまでモチーフ的なもので、そこにあるのはもっと根本的な信仰だと思う。もっと卑俗な言い方をするなら依拠、だろうか。何かに依拠することで理不尽な現実とやらに対抗する映画なんじゃないか。