dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

男の友情はデウスエクスマキナ

でもなかった。

 なんかすごいやりきれない映画でしたよ「ラスト・ショー」。ウィキでは青春映画って説明されてたけど、言うほど青春だろうか。いやまあ青春といえば青春なのだろうが、どちらかというとノワールだしなぁ。

 ある一人の人間の死≒不在から物語が本格的に動き出すという点では「桐島、部活やめるって」にもちょっと似たプロットですな。しかしまあ色々と物悲しいですな。画面の隅にちょいちょい映るタンブル・ウィードとか。

 高校生の主人公(?)がコーチの奥さんを寝盗ったり、ガチロリータコンプレックスがいたり、インポテンツがいたり。女も女でどうしようもないエゴを持ち出してきたりおっパブみたいなこと言い出したり、なんというかモノクロの画面も相まって全体的にどんよりする。

 男のサガというものはなんとも悲しいものか。それがわかる映画でしたな。

ボーンじゃないアイデンティティー

 ジェームズマン・ゴールドの「アイデンティティー」。おそらく知名度という点ではボーン・アイデンティティほどではないだろうが、結構面白い。ウィキさんだと公開当時もアメリカではかなり興行良かったみたいだし、サスペンス寄りのミステリーとしても物語の構造も凝っているし。まあゴールドだからつまらなくはならんだろうと思ってはいましたが。グッドフェローズぶりにレイ・リオッタを見たんですが全体的にゴツくなってて最初「どっかで見た顔だなぁ」とか思ってしまった。

 多重人格者のクライムサスペンスではあるんですが、ミスリードで勘違いさせる手腕とかのちの伏線(まあ割とどうでもいい感じではあるんですが)として服の背中の部分に穴があいているのをさらっと見せたりとか、演出もなかなかくどくなくて好感触。

 まあ、多重人格者の全員が誕生日同じっていうのはちょっと安直というか実際とは違うはずですけど、次の展開に繋ぐためにわかりやすく提示するという効果ありますからいいですね。

 落ちもB級精神があって良い。

 

 あとGyaOで「オマツリ男爵」も見た。なんかワンピースとは思えないような怖さだぞこの映画。

ナチと魔女とときどきおばん

 というわけで「ハイドリヒを撃て~」「ウィッチ」「最高殊勲夫人」を観たんどす。最後のはBSでやってたので

  「ハイドリヒ~」も「ウィッチ」も、どちらも音楽の使い方が印象的でしたねー。音楽、というよりは音といったほうが割と印象としては正しい気がしますが。まあ音っていうとseと誤解されてしまいそうなので、bgmならぬbgsと言いますか。どちらも効果的に使えていて、よござんす。前者は無駄な音を使わないことでセミドキュメンタリーちっくに仕上げて緊張感を持たせてますし、後者に関しては音がすでに怖い。重低音の「ヴー」っていうのが、真面目なハンス・ジマーのオルガンという感じで。

 映画そのものとは関係ないことなんですが、隣の人の鼻息の「ヒヒュー」みたいな音となんか噛んでるのかクチャクチャした音とかすっげー耳障りで前半結構集中できませんでしたよ、ええ。「ハイドリヒ~」なんて最後の銃撃戦以外はかなり静かに進んでいく映画ですから、真隣でそういう音を延々と奏でられるとすっげー困るんですよ。ちょっと本当に、これは久々に嫌な映画体験でしたよ。

 心が狭いって? そうですか。でもみんな大好きなダイバーシティってそういうことでしょう(暴論)。

 「ハイドリヒ~」は青酸カリのシーンがどれも結構キツイ。だってみーんな誰もいない密室で死ぬんですもの。キャプテン・アメリカでナチ側だったトビー・ジョーンズが反ナチだったのはちょっと笑えたけど、それ以外は基本的に救いのない話。描き方によっては人間の猜疑心や疑心暗鬼の部分を肥大させることもできたかもしれんですね。そっちパターンも見てみたいかも。

 

 で「ウィッチ」。原題はwじゃなくてvを二つ使ってwに見せた「vvitch」という表記なのですが、これは一体どういう意味があるのでせうか。

 上で疑心暗鬼云々と言っていたのは、「ウィッチ」がそういう作品だからというのもあるかもしれない。ていうかこれ、コクソンじゃないですかね。あっちよりはかなりモロですけど。りんごとか黒ヤギとか。

 画面が暗すぎてところどころ(しかも割と核心っぽいとこ)がね、見えなかったんですわ。わたくしの視力が悪いせいなんですが、マジで暗すぎてところどころわからんかった……。

 「最高殊勲夫人」はオープニングが良かったです。

ハードスケジュール

 録画していた「サイレント・ランニング」を昼に見て、夕方から二作見に行くというスケジュール。明日も見に行くし・・・金がないどす。

 ところで「サイレント~」なんですが、「2001年~」の特撮を手がけたダグラス・トランブル監督のSF。ほかには「未知との遭遇」や「ブレード・ランナー」などSF古典の特撮を数多く手がけている才人でございます。

 で、そんな人が手がけた映画が「サイレント・ランニング」なんですが、うんまあ潔いというか、小さくまとまった小品といった感じでなかなかどうして嫌いになれない。別に傑作とか言うつもりはないし、「水なきゃ緑も育たんでしょうよ」とか「なんだその娯楽としての用途以外に使い道のなさそうなビークルは」とか「宇宙のコロニーの時点で自然もクソもなくねぇ?」とか言いだしたらキリがないんだけれど、それも含めて「愛いやつめ(はぁと)」と撫でてあげたくなる作品ではあるかな。ドローンが三体とも可愛いし。ていうか、CGになれた今の目で見ると機械のガワを人に着せるのってかなり無理があるのですね、機械として見せようとすると。普通に揺れてるんですもん。

 でもやっぱりミニチュアとか見てるとCGとはまた違った味があっていいですよねー。

幼子われらに生まれ:家族という組織、その歯車である個人と潤滑油として機能しうる血縁

久々にきました。「マンチェスター~」「20th~」「ゴーン・ガール」(え?)に続くリアル人間関係もの。しかもそれが邦画でその上傑作だったのですから、わたくしの筆も進むというもの。

 

 邦画をリアルタイムで観るのはなにげに久しぶりのような気がする。まあ観たい映画が洋画に集中しているというのもあるんだけれど、単純に観たい邦画が近所の映画館でかかってないというのもある。

 

 出不精で守銭奴のわたしはどうしても近所の映画館優先になってしまうので、見逃してしまうものが多くなってきてしまう。

 

 そんなことが気になって感想を掘り返してみたら、最後にここに書いた邦画のリアタイ感想は「こどもつかい」だったし。おいおい、これではいかんだろうと思ったわけではなくて、単純に気になっていて見に行ったのが「幼子われらに生まれ」でした。監督のこともまったく知らず、浅野忠信だからという理由でとりあえず観に行ってみようと思っただけなのですが、思いがけない傑作に出会ってしまったですな。

 

 洋画・邦画も大作偏重のここ最近のシネコンにおいて、この作品を公開してくれたイオンシネマには感謝したい。イイヨイイヨ~こういう映画もっとかけてちょーだいイオンシネマさん!

 

 

 

 で、本題。

 

 

 

 ほとんど誰もが生まれながらにして所属する絶対的なコミュニティである「家族」。では、誰もが所属しながらも千差万別のそのコミュニティにおいて、出来上がりの時点ですでに「家族(家庭)」が最初から不安定だったとき、そこに所属するメンバーである「個」としての家族人たちってどーなるの?。というのを、主に父親の視点から描き出していく。それが本作「幼子われらに生まれ」である。ちなみに家族というコミュニティをパワーゲームとして描いているという点で先ほど「ゴーン・ガール」を挙げただけで、作劇はまったく違いますので(笑)。

 人間関係を、普通でさえ少なからず軋轢が生じる「家族」というコミュニティの中で、しかも最初からその「家族」に歪みを持たせたらどーなるの。最近の気になることで人間というものはやっぱり特定のルーティンの中でしか生きられないんじゃないかと思いはじめてたこともあり、これも前述の仮定のシミュレーション映画として語ろうかとも思ったのだけれど、あまりに情動を揺さぶられたのでもっとエモーショナルな感想を書くことにしました。ていうか、家族ってさっきも書いたように千差万別で一様じゃないし、なんでもかんでも抽象化して類推するのもつまらんですしね。こじつけになりかねないし。

 

 

 離婚経験があり前妻との間の実娘である沙織(鎌田らい樹)と楽しそうに遊園地で遊ぶ浅野忠信演じる信。この時点では明言されているわけではないのですが、遊園地の前で待ち合わせをしていたり会話の端々やら「パパ」と「お父さん」の使い分けによって関係性を自然に提示する手法がスマートです。

 

 で、家に帰ると現妻である奈苗(田中麗奈)と彼女の連れ子である長女の薫(南沙良)と次女の恵理子(新井美羽)が待っているのですが、もうこの時点で薫の態度から異父であることの問題があらわれている(笑)。ただ、それにはしっかりと理由があって、奈苗と信の間に新しい子どもができたことを奈苗が薫に言ってしまったことが露骨なまでの不機嫌さとして表面化してしまったわけですな。

 

 個人的には、奈苗のお腹に子どもがいることを知らされる前の薫と信のやりとりというものを見てみたかった気はする。もっとも、子どもができたことはきっかけであって大差なかったとは思いますが。

 

 この作品、薫と信に見られるように全編にわたって「気まずさ」が張り詰めているのですが、特にこの二人(そこに奈苗が加わる)のやりとりは真に迫るものがある。これは監督がエチュード的な演出手法を使ったという発言をしていることから、意図せずけれど狙ったとおりの結果をうまく引き出せていると思う。

 

 南沙良は本作が初演技ということなのですが、むしろ演技者としての演技では今回のエチュード的作劇には合わないと思うので、臭くない自然体な振る舞いがグッド。浅野忠信もそういう演技でしたし。15歳(撮影時は14歳か)で小6を演じるというのは中々アレだと思うのですが(実際、劇中でも彼女は小6に見えないですし)、ああいう小学生っている。実際最近の小学生は早熟ですからそこまで違和感もない。

信の家庭内でのフィジカル・言語的なストレス表現が演技とは思えない感じだったのですが、浅野忠信のインタビューだと素がでていたようです。うむ、ドキュメンタリー出身らしい三島有紀子監督の素晴らしい采配です。

 パンフのインタビューを読むと、もともとの脚本には信の仕事のシーンはなかったようなのですが、監督が入れたらしいです。わかってるなーこの監督。こういう作品で、とりあえずスーツを着させてビジネスマン的な装いをさせるだけさせておいて仕事の風景を描かないという監督は結構いるのですが、それはあまりに嘘くさいんじゃないかと思っている自分としては映像化する上で実に懸命な判断だと思います。というか、この物語を描く上では必然的に浮かび上がってくるものだと思うのですが、もともとドキュメンタリー作家である監督の考えとして仕事というものが「当然あるべきもの」だったのじゃないかしら。

 それと女性側の掘り下げも脚本から手を加えた部分らしいです。三島監督は割と自立した女性っぽいイメージなのですが、奈苗の女性的女性の鬱陶しさの描き方がすごいリアルでマイク・ミルズ監督とは別のベクトルで女性を撮るのが上手い。

 子どもって存在そのものが免罪符的に描かれることが多いんですけど、本作ではそれを意識的に描いている気がする。実際、薫との関係をどうにか好転させようと励む信に肩入れして観ていると、薫のウザさたるや「このわからず屋ぁ!」と叩きたくなってきます。けれど、子どもってそういうものなんですよね。自分の気持ちと向かい合うので手一杯で、親のことなんて考えてられない。その上、信は実の親ですらない他者であって、実の父親に会いたいなんていうのも結局はそんなどうにもならないやきもきした思いに対する方便でしかない。信だって、本当のところは「家族」というコミュニティを安定させようとしているだけで、はたして薫という「個」を思っているのかどうかわからない。全員が全員、一面的にキャラクタライズされていない複雑さを持っている。だから、わたしはこの映画がとても好きなのです。

 

 好きな場面はたくさんあるのですが、個人的には沙織を危篤のお父さんの元へ車で届けるまでの一連の流れがすごい良い。この辺は、本当に信の実娘と継娘への思いの違いが絶妙に示されていますし、道中での沙織と恵理子のヒヤヒヤものの会話の気まずさ(とそれによって生じる可笑しみ)で、このまま事故ってしまうのではないかと思ってしまうほど。

 ここまで述べてきたように、この映画は演出が全体的にレベル高いです。特に上で述べた車の場面で如実にあらわれているのですが科白には気を遣っているので、意識して観るとなお良し。まあ意識しなくても場面が場面だけに印象に残るのでわざわざ意識しなくてもいいんですが。中でも「友達」という科白は劇中で色々な人物が口にしますが、それぞれが口にするときのニュアンスの違いがこれまた絶妙なり。

 また、カメラの距離感や手ブレがちゃんと信の心情と一致しているのが「映画を観ている!」という感じがして実によい。薫とのやりとりのところとか、前妻との回想のときとか揺れること揺れること。前妻との嫌な別れのきっかけとなった回想を挟んだ直後に前妻と会うところとか意地悪くてすごくいいです。監督はお綺麗な人ですが、なんとなくSっけを感じます。

仕事の場面になるとカメラが少し遠くなるわけで、仕事が信にとってどうでもいい(というと若干語弊がありますが)ことが科白以外でもちゃんとカメラで語ってくれる。ここもすごい映画的でイイ。まあ上司とのやり取りの中ですでに仕事に対する熱意のなさと家族への思い入れが語られてはいるので、わからないということはないですが。

アーティファクト好きとして、ロケーションとか電車の橋を線路から映すカットとかもすごいツボりました。もちろん、ちゃんと作劇として意味のある使い方をしているのですよ。映画冒頭、実の娘である沙織とはちゃんとした遊園地で遊び、物語終盤で血の繋がりのない恵理子とはデパートの屋上遊園地小路啓之デカダンスを感じてすごくツボった)で遊ぶ。この対比的な配置なんかを考えてもロケを意識しているのがわかりますしね。

ただ、それを差し引いても斜めエレベーターとか群をなしているマンションとか、配達物が積み上げられた棚とか、それだけで視覚的に楽しめちゃいます。これは完全にフェチですが。

 ちゃんと赤ちゃんを映してくれたのも良かった。英語版のタイトルが「DEAR ETRANGER」つまり異邦人というタイトルであることを監督が言っていたように、新しい異邦人である赤ちゃんを映すことは、やっぱり必要なことですからね。イーストウッドだったらCGにしかねないけど(笑)。

タイトルを最後に持ってくるのもよし。ゼログラ方式で、ちゃんとタイトルを最後に持ってくる意味があるからね、うん。洋画だと、だいたい日本版のタイトルが最初にくっついてることとかあるので、邦画でこういうことをしてくるのはやっぱり嬉しい。そういえばタイトル忘れてた!ってなるし、その意味もはっとさせられるし。

 

ただ、二箇所ほど気になった部分もあった。

映画の終盤も終盤、薫の頭上から桜?の花びらが舞うのですが、あのいかにもCGな感じはどうにかならなかったかなーと思う。そりゃ「ゴーン・ガール」の雪みたいにフィンチャー的完全画面制御しろとはいわないですけど、あそこだけ浮き上がってしまっているのが少し気になった。

それと、沢田(クドカン)のDV描写をガラス越しにしてちゃんと撮さなかったのはどういう意図があったのかしら?と。クドカンの蹴りとかなんか「ぷっ」ってなっちゃう感じでストレスを発散しているようには見えづらかったし。なんとなく黒沢清「叫」を連想するガラスの配置だったり、セルフモザイク的な使い方していて……あそこはしっかりと映すべきだと思うのですよ。沢田と奈苗たちの心理的距離を異なる部屋にいて家の柱を境界として描いている画面のレイアウトがイイだけに、なおさら気になった。この辺は、わたしが読み損なっているだけなのかもしれない。それがわからないような技量ではないと思うので。DVの結果である歯と血のところは良かったです。

でもあれって、そもそも回想なのかしら。

 

 ほかにもカメラマンとか美術とか編集とか音楽とか沢田と信のこととか、わかる範囲で書きたいこともあるのですが、まとめきれないので最後にマイベストシーンにだけ言及しておきたいどす。これはちょっと、本当にキた部分なので。

沙織が「パパ」である信から手を離し、「お父さん」である危篤状態の江崎(だったかな)の手を握る一連のシーン。血の繋がった元父親の「パパ」から血の繋がりのない現父親の「お父さん」へと向かうこの手のカットは、とても寂しいものでありながら、同時に信と継娘である恵理子と薫がそうなれるとい可能性を示唆する場面でもあるのです。その厳しくも優しいカットに、危うく泣きそうでした。実際、映画館で鼻をすすっている人がいましたし。

もちろん、このシーンが感動的であるのはその直前で信と沙織のカフェでのやり取りがあるからこそ引き立つわけで、情動を計算したシーンであることは言わずもがな。

三島有紀子監督の手腕に脱帽いたしました。監督のほかの作品も見なくては。

死霊のはらわた(オリジナル&リメイク版)

 こうして見ると、技術の進歩というものは凄まじい。プロットと同じだけでほとんど別物でしょ、これ。

 チープゆえに過剰に盛り込むことで漫画的で戯画化されたグロテスクを楽しませてくれたサムライミのそれは、つまるところギャグであった。「痛い痛い、痛いってそれ(笑)」というようなニュアンスであり、バラエティ番組の短い動画の失敗シリーズを見ているときにも似た安全圏からの痛みを楽しむことができた。

 ところがぎっちょんてれすくてん。フェデ・アルバレスのリメイク版はほとんどsawのそれであり、笑えない領域にいっている。sawですら(予算とかの都合で)ここまで徹底的にやってはいない。

 それでも相変わらずテンションは高いため、どうにか耐えられる。これが清水崇白石晃士の「グロテスク」のようにテンション低いのにやってることが滅茶苦茶ヤバイのだと感情の障壁とも呼ぶべきものがないためダイレクトに痛みを伝えてくる。

 とはいえ、現代の技術でリメイクしたらそりゃそうなるわ、という当然の帰結ではある。

 同じように、技術の発展により大きく楽しみ方が変わったものとして、着ぐるみゴジラとCGによるゴジラの違いに似ている。同じ名前を冠した作品とはいえ、もはや別物である。しかし、着ぐるみには着ぐるみの愛嬌があるものだし。平成ガメラなんかはずば抜けた特撮技術のおかげで後者の楽しみ方ができるところにもあるような気がする。もちろんそれは、平成ガメラのCGの質が良かったとかそういうわけでは全然ないのだけれど。

 

ワンダーウーマン、処女を切る

 そういう話でした(そういう話だったのか?)。ワンダーウーマン

 処女っていうか、「恋」を含む「愛」を知ることでダイアナが神として完成するという話。それと同時に、人間になる話でもあると。エンディングに「to be human」流してるんだから考えるまでもないことですが。

 人間に対する一面的な思い込みではなく、人間の醜い部分をも知り清濁併せ呑むのことで弁証法的にアウフヘーベンして神へと昇華したわけです。未熟な神様が第一次世界大戦を通じて(そこまで戦争感ないけど)立派な神様になる。

 ぶっちゃけそれ以上の話ではなさそうなんですが、ワンダーウーマンがここまで取りざたされるのはやっぱりワンダーな「ウーマン」だからなのでしょうか。仮にこの作品が「ワンダーマン」だとしたら、ここまで評価されただろうか。と考えるとそうは思えない。もちろん、映画にかぎらず大衆芸術は世相と密接に結びついているわけではあるんですが、性差で反響が変わるということそのものが性に対する偏見が残ってるということの裏返しでもあるんじゃないかなーと。

 面白いけど、そこまで突出して面白いかというと、個人的には「300」くらいの印象です。いや、つまり面白いもの観たなーとかアクションシーンなんかで鳥肌を立てたりしたんですけど、みんなほどの熱量は自分の中にはなかった。

 ていうか、アレスが出てきたあたりで「やっちまったな」感がすごかった。すごい言い訳じみた「武器のインスピレーションはしたけど、戦争をおっぱじめたのは人間自身だから」ってアンタ。殺人教唆したけど殺人はしてないよってくらい弁明になってないじゃないですか。実は神様が裏で人間の争いの糸を引いていたっていうのは、はっきり言って逆に安っぽいっていうか、B級感が出るじゃないですか。でもまあこれはジャパニメーションに馴染んでしまった私自身の問題のような気もするんですが。

 神様のビジュアルが安直なのはどうかなぁ。アクションが単調になってしまうのもアレですよねー。ダイアナvsドイツ軍のときはアングルとかデジタルカメラでの一周回すカメラワークとか、そういうのを含めて無双を見れて楽しいんですけど、アレスと戦い始めると途端にサッカーボールを壁蹴りしてるような単純動作になるのが。これはほかの作品にも言えることなんですけど、跳躍もとい超躍ってどうしてああも動きが嘘くさくなるんでしょうかね。

 

 あとmcu的なおまけがないのも不満だったり。ユニバース構築するんだったらおまけつけてよ、ダークユニバースもそうだけど。クソ長いクレジットを最後まで見させられるこっちの身にもなってくれって話ですよ。