dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

夢想を抱いて溺死した男

というよりは、夢想そのものに溺死したと言うべきか。溺死っていうか、ほとんど縊死に近い気もするけど。

リュック・ベッソンというとロリコンという印象が強い(近作はそういう臭いはしないとはいえ)のだけれど、それは「レオン」とか「フィフス・エレメント」とか日本人なら「WASABI」のせいであることは間違いない。

まあ、ロリコンというよりはベッソンなりの女性像というものを描いているのだろう。

別にそこまでベッソンは好きではないんですけど、かといって嫌いなわけでもないしむしろ「レオン」で謎のTFシーンを挿入してくるあたり好感を持っていたりする(アメリカ向けの打算なのかもしれないけれど)わけですが、今回見た「グラン・ブルー」に関してはそこそこ、といったところでせうか。

 

白状すると、そこまでちゃんと見ていたわけではなかったんですが、それでもまあ当時の本国のハイティーンが熱狂する理由もわからなくはない。

だってこれ「夢に生きる」もとい「夢に死ぬ」ことを、かなーり幻想的に描いているように見えるんですもの。

現実としてのジョアンナ・ベイカーとの地上のまぐわいのテキトーさに対して、夢想としての海中におけるイルカとのまぐわいの注力ぶりを見れば、ジャック(とエンゾもそうか)の中で夢想>現実であることは明らかですが、それをほとんど全肯定に近いレベルで最後まで描ききっているのがすんごい。

それと寝室における天井のあの海が近づいてくる描写ってどうやってるんだろうか。88年ならCGもそれなりに出来上がりつつあるんだろうけれど、どちらかというと水の中に絵の具を落として爆炎に見せるような、あっちの特撮技術を使っていそうな感じもする。それはともかく、あのシーン滅茶苦茶好きだなぁ。「運命のボタン」でも似たようなベッド+水のシーンがあったことを思い出したりしたんですが、こっちも含めてどうもわたすはこの組み合わせが好きみたいだ。理由はよくわからんのですけど、もしかするとベッドから夢の世界を連想したりするからかもです。

わたし、寝るときによく水の底に沈んでいく自分をイメージすることがあるんで、何かこう、ベッド+水というものに親和性というか親近感を覚えるのかも。

 

それと、これは完全に余談かつ推測なんだけど、奈須きのこはこの映画かからインスピレーション受けてそうだなーと思った。このエントリのタイトルとか「DDD」のカイエの部屋の構造とかまんま上のシーンとダブるし。

 

謎の日本ディスとかところどころにある笑えそうであまり笑えない(ブラックだからとかではなく、単純に面白くないからなのですが)笑かしシーンがあるんですけど、ああいうのとかbgmの感じとか一昔前の邦画っぽい気がするなぁ。気のせいだろうか。

 

そういえばベッソンの新作「ヴァレリアン」は気になっているんだけれど、滅茶苦茶コケてヨーロッパコープの株が下がったらしい・・・近所のシネコンでかかるかどうか微妙なところだなぁ。

キャリアを積むことでのみなし得ること

あるところに仲の良い悪ガキ4人組がいた。

その昔、4人のうちのある男は大阪の街でヤクザと戦った。別のある男はゴッド・ファーザーと呼ばれあるいは幼女に惚れ込んだ。それとはまた別のある男は解説することでそばかすを増やした。それともまた別の男は野獣と結ばれる美女の父親だった。

そんな様々な過去を背負った4人が、一堂に会する映画がある。名を「ラスト・ベガス」という。

 

すみません、ぶっちゃけケヴィン・クラインの作品は「美女と野獣」以外に見たことなくて彼に関しては何一つ思い浮かばず適当にやっつけました。あと、別にそんな大した映画ではない(爆)ではないと思うので変にカッコつけたことに意味はありません。

幼馴染の4人が、メンバーの一人の結婚をきっかけに「ベガスでバチェラーパーティやるべ」という話です。といっても、自分は結構好きな映画なんですけど。

 

監督はジョン・タートルトーブという人なんですが、彼のフィルモグラフィを見ても本当にまったく知らない作品しかなくて、なんか申し訳ない気持ちになった。「ナショナル・トレジャー」はかろうじて名前は聞いたことあるけれど、観てはないし。ただ、職人監督的な人なのだろう。

 

それはさておき、ジジイ映画である。世の中にはジジイがキャッキャウフフしているのを観て楽しむタイプの映画がある。自分にとっては「スペース・カウボーイ」なんていうのはそういう楽しみ方もできる(それ以前に、純然たるイーストウッド臭のする映画なんだけれど)し、人によっては「龍三と七人の子分たち」もそうなるだろう。

ただし、こういったジジイ映画を楽しむためには、その映画におけるキャストのジジへの思い入れが必要である。無論、そういうのを抜きにしてもある程度楽しむことはできるのだけれど、それでもやはり、この映画に関してはどれだけメインキャストへの思い入れがあるかで楽しめるかどうかが変わってくる。

そして、そういう映画を作るにはキャリアを重ねしっかりと老いた役者でなければならない。彼らの歴史を知っているからこそ、役柄ではなく俳優としての彼らを投影しながらその多幸感を味わうという、少し特殊なタイプの映画。たとえリアルタイムでは追えずとも、地上波やdvdなどで若き彼らを知ることのできる現代に生きるわたしたちにはそれが可能で、彼らへの思いを醸成することができる。そういう意味で、これは一種のアイドル映画・ファンムービーとしての側面がある。

「人によっては「龍三~」も~」と書いたのは、そのためだ。恥ずかしいことだけれど、「龍三~」のキャストのことをほとんど知らないわたしは微妙なたけし映画としての評価軸しか持つことができなかった。

その点、デ・ニーロは大好物だしモーガン・フリーマン(どうでもいいことですが、モーガン・フリーマンってフルネームで書かないと気持ち悪いですね)も左に同じです。マイケル・ダグラスはそこまでじゃないし、ケヴィン・クラインに関してはもはや「誰だっけ」という思い入れしかありませんでしたが、「デ・ニーロたちが楽しそうにしている」というだけですでにわたしの顔はほころぶのです。

四人がみんないいキャラしていて、楽しそうに演じているので、それを観れるという眼福だけで十二分だったりする。

や、実は「ジジイになっても性欲はあるし若い女が好きなんだよ」という叫びみたいなものがあったり、「老人だからってずっと家で介護されるのは嫌なんだよ、人間だからな」といった、高齢化社会の住人たる日本人にはハッとさせられるようなことはちょろっと描かれたりはします。とはいえ、結局はそれっぽいことが劇中での行動に表れるだけで、それ自体をテーマに老人の悲哀を描いているわけではないので、深く掘り下げようとするのは難しいのですが。

でも、中盤のクラブのシーンで「おじいちゃんとおばあちゃんの結婚ってかわいくていいよねー(意訳)」と若い女の人が言うのですが、これって実のところ観客の願望の押しつけみたいなものなんじゃないかと思ったりもするわけです。もっときつい言い方をするなら「ジジイはババアとくっついてろ」というある種の押しつけ=差別意識の現れである、と。

このセリフは結構ズシンとくるものがあったのですが、しかし残念というべきか当然というべきかただの娯楽作である本作では、そこは特に問題視されず(というか、結末だけを切り取ると自らその枠に収まりにいっているようにも見えなくもないのだけれど、それはやはり作り手にその問題意識がないからなのだろう)にデ・ニーロとダグラスの過去の恋のいざこざにすり替えられてしまい、表層的な変化とハッピーエンドを迎える。

いやまあ、それでいいんですけどね、別に。こっちもそんな重いもの観るつもり観てないし。

そんなことより、そこかしこにある笑いのディテールを楽しむが吉。葬儀でプロポーズとか、痔の年齢とか、ともかくジジイの多幸感を味わいたいのならこれはオススメです。 

あ、それと メアリー・スティーンバージェンが最高に可愛いです。笑顔が魅力的な人ってそれだけで持って行っちゃうんですけど、美人で可愛いし胸元出してるしで色々とエロエロで素晴らしいです。当時60歳ですけど、いや全然可愛いし綺麗だしエロいのでジジイだけでなくババアも良いので、ババア萌えする人も一見の価値有り。

 

 

しかし、そんな楽しい思いをしたと同時に日本映画界の抱える問題が浮上してきた。

それは、深刻なジジイババア役者の不在である。京極夏彦平山夢明もラジオで言っていましたよ。

現行の邦画業界はjk・恋愛といった若者主体の映画ばかりで、本作のようにジジイ・ババアの多幸感をメインに据えた映画がない。「アウトレイジ」がそれと言えなくもないけれど、それはそれでどうなのと。 超高齢化社会に向かう現実社会とは相反する邦画の表舞台ははっきり言って異常だ。

どうしてジジイ・ババア、おっさん・おばさんがキャッキャウフフするような映画を表舞台に持ってこれないのだろうか。どうしてしんみりとした役ばかりをあてがうのだろうか。

この辺に関しては、自分なりに色々と考えてはいるのだけれど、まったくの根拠レスなのでここに書くようなことはしないけれど、もうちょっと陽気な高齢者を見せてくれてもいいのではないか、邦画界よ。

まあ、44歳の堺雅人と26歳の高畑充希を夫婦役にさせたり女子高生と警察官をカップリングするような映画を大々的に宣伝するような状態なので、そもそも高齢化社会とかそういうところに目を向けてはいないのだろうけれど。

いやさ、樹木希林とかもっと楽しげな映画に出てくれてもいいんじゃないかと思うわけですよ。「あん」とか映画そのものも最高だったし「海よりもまだ深く」の阿部寛との親子とかも良かったけれど、もっとこう、多幸感に溢れる映画を撮ってあげてもいいんじゃないの、と思ったりする。

別に樹木希林に限らないけれど。

 

 

 

 

キャプテントム

世間がスター・ウォーズで浮かれている中、BSでシコシコと過去の作品を観ているわたしは隠者ならぬ陰者である。

スター・ウォーズという世界的イベントにそこまでノリノリでないのは、それに代わるのがわたしにとってはトランスフォーマーであるからなのですが、まあそれはどうでもいいことで、「キャプテン・フィリップス」観ました。

 

実際の事件を題材にしたフィクションと言えば、今年はピーター・バーグの「バーニング・オーシャン」と「パトリオット・デイ」がありましたね。この「キャプテン・フィリップス」で主演を務めたトム・ハンクスがジェリー機長役を務めたイーストウッドの「ハドソン川の奇跡」があったりと、振り返ってみるとなにげに実録ものが豊富でしたね。イーストウッドは次の作品も実録ものみたいですが、どういう心境の変化なのだろうか・・・。

して「ソマリア沖2009年4月12日の事件 - Wikipedia」を題材にしたこの「キャプテン・フィリップス」を「ボーン」シリーズを手がけたポール・グリーングラスが監督したことを観たあとに知って納得。カメラがやたら揺れる揺れる。ピーター・バーグの二作でも臨場感を出すために揺らしていたりするので、「状況もの(なんてジャンルはありませんが)」においてそれが異端というわけではないのでしょうが(むしろイーストウッドが異端なのでは)、グリーングラスはちょっと酔ってしまうレベルでカメラを揺らすのでわかりやすい。「ジェイソン・ボーン」はあまりの気持ち悪さに瞼を閉じてましたからね、ええ。

ただ、そういうギミック以外の部分でも作家性と呼べるようなものはあるんじゃないかと思っている。といっても、これを除くと「ジェイソン・ボーン」くらいしかまともに彼の作品は見ていないのですが。

それでも、あらすじなんかを読んでいるとある程度どういうものを撮ろうとしているのかは読める。上で「状況もの」と書いたけれど、グリーングラスはまさに状況に翻弄される個人、その個人の主体の在り処を状況とかシステムといったものの中で描くことに固執しているように思える。そして、その主体としての自身に与えられた役割を全うしようとする主人公を描いているのではないか。

 

ボーンシリーズは言うまでもないことだけれど、それは「キャプテン・フィリップス」におけるフィリップスも同様だろう。

ある状況下(本作の場合は海賊に襲われるというケース)でキャプテンとしての役割をまっとうしようとするリチャード・フィリップスという個人の話であり、そしてまた合わせ鏡としてその海賊たるアブディワリ・ムセが対置させられている。

作劇は非常にスピーディかつ実話ベースということもあり、双方が双方を探り合い出し抜こうとしているために頭脳戦とまではかずとも、緊張感が常に保たれているため見ていて飽きることはない。

けれど、両者の駆け引きは海軍という大きな力の介入によって急激に収束の色を見せ始める。なんとなく原作デビルマンのラストを思い起こさせる物語展開ですた。

トム・ハンクスはさすがとしか言いようがなく、生還した直後の検査のシーンなどは本当に生還者なのではないかと思う迫真の演技で、それによってフィリップという人物の個人性が浮かび上がり説得力を持たせている。

ムセを演じるバーカッド・アブディもその頭骨の形だけでもう存在感を持って行ってくれるし、この二人のための映画といっても過言ではないと思う。

それは演技合戦だとかそういうことだけではなくて、描かれ方からしてこの二人がメインであるからです。

対置させられるということは、つまるところどこかで何かを共有しているということでもあるわけですが、ひとつには大きなシステム(今回の場合は海軍という力、ひいては経済とか、そこまで突き抜けることも不可能ではない気が)の中で役割をまっとうしようとし続けるところ。もっとも、それによって両者はあまりハッピーとは言えない結末を迎えるのですが、この部分を補強するためにアイリッシュというワードに関して考えられそう。フィリップスたちの船は彼を含めてアイリッシュが大半だろうし、それはつまり先祖が帝国主義時代のイギリスの植民地のアイルランド出身であろうと深読みができる。

 

もうちょっとしっかり書きたい気はするんですが、とりあえずこの辺で。

 

かくして彼女は天使にラブソングを歌うことになったとさ

どっからどう手をつけていいか困った映画である。

人種差別の映画なのか性差別の映画なのかスピルバーグの映画なのか、どっからどうやって語るべきかというのが悩みどころの「カラーパープル」。

しかしまあ、スピの映画にしては影が薄いというかあまり語られないような気がする「カラーパープル」ですが、作品として秀でているというのは認めざるを得ないところではあるでしょう。なんといってもスピルバーグですしおすし。というか、ほかに代表作が多い上にそのどれもが大衆向けエンタメ成分も濃厚なために埋もれてしまっているだけなのでしょうが。

 

不細工な黒人女性を主人公に据え、黒人社会を舞台にいろいろな差別ネタをコミカル&ホラーテイストに修飾しつつわかりやすいハッピーエンドに帰着するんですが、バランスがすごいヘンテコな気がする。バランスが変というか、安心させてくれないというか、しつこいというか。怖がっていいのか笑っていいのか、ワガンネーのです。

ちょっと「あれ、これ良い方向に行くかも?」と思わせておいて冷水をぶっかけてきて「現実はそんな甘くないんだよ」と目を覚まさせてくる。そんな感じの展開を数回リピートして最後の最後にハッピーエンドというオチなのですが、おかげさまで見てるこっちはげっそりする。

しかも、割と本気で怖いシーンありますからね。いくつも怖いシーンがあるんですが、個人的に一番怖かったのはセリーの妹ネティが学校に行こうとしているときに茂みの向こうからアルバートが馬に乗って挨拶してくるシーン。あそこの一連の流れは本当に怖すぎて鳥肌が立ちましたです。

アルバートの話の通じないサイコ感は、ネティの視点から見ていると本気で恐怖を覚えます。そのシーンに至るまでにアルバートのクズっぷりが描かれていたというのと、ネティに対して君㌔㍉?な感情を抱いていることがどストレートに示されていたのもありますし。馬の上からいなくなっているのとか、あれはどう考えてもスピルバーグもホラーのつもりで撮っているはず。

同じ時代同じ黒人コミュニティを描いたものではトニ・モリスンの「青い眼が欲しい」(細かい内容は忘れてしまいましたが)という小説がありますが、どちらも近親相姦が平然と描かれていることに結構な衝撃を受けるのですが、当時では普通にまかり通っていたのでしょう。日本でも尊属殺人重罰規定の裁判とか、20世紀後期にも色々ありましたが。

黒人・女性・不細工という三重苦のケリーが最後の最後にハッピーエンドを迎えるまで、辛抱に辛抱を重ねなければいけないというのがこの映画の構造としてあると思うのですが、この三つの要素が苦になるという社会の差別の様相が所与的にあり、深く掘り下げられていないというのは、スピルバーグが監督ということを考えるとなんとなく邪推してしまう。原作をなぞっただけなのか、あるいは被害者たるユダヤ人としての傷と加害者である白人としての責から目を背けたかったのか、とか。

というか、そういう背景がなかったら黒人女性が黒人女性を描いた小説を原作に、白人男性が映画を撮るというのは中々に反感がありそうなものですが。

 

実の父親(ではないことが後に判明するのですが)に売り飛ばされたセリーの苦渋の生活が描かれながらも、その生活の中でコミカルに描いているシーンも割とあって、それがこの映画をへんてこりんなバランスにしている。セリーとネティが引き裂かれるところなんかはリリックに悲愴溢れる質感で描いているのに、アルバートが料理をするところなんかはまんまコメディだしで、情動があっちこっち行ってしまう。白人の召使いにされたソフィアなんか、めちゃくちゃひどい顔をしているのに市長の嫁の運転で笑いを取りに行ったり、ブラックな笑いというにはあまりにその境目がはっきりしているのでありんす。

 

ただ、この作品が描いていること自体はかなり単純でそれゆえにわかりやすく力強いものであるということは言える。要するに「愛を知る者が最強」ということだす。しかもその愛というのは性差とかを超えて「(どんな)人間を(も)愛する」というもはや創造主でなければできない強烈な愛です。

それをもっともわかりやすく体現しているのが途中から登場するシャグです。創造主でもなければ、と書きましたが、その点でおそらく彼女は神の子のメタファーでもあると思います。そう思った理由というのはいくつかあるんですが、一つ目の要素としては両性愛者であるということ=性別に囚われず愛せるということだからです。

もっとも、シャグは股が緩いとは言われていてもバイセクであるなどということは一言も言われていません。しかし、セリーと二人きりになったときのあのマウストゥマウスのエロティシズムは、ズッ友などというレベルのものではないと思います。というのも、この直後にシャグはセリーの元を離れ後にまたセリーとアルバートの元にやってくるのですが、そのときにはシャグは夫を連れ添ってきているのです。シャグが結婚しているとわかったときのセリーとアルバートの落ち込みよう(その二人を一緒に収めるところに笑いを誘引しようとしている気がする)は、明らかに失恋のそれです。

二つ目は、アルバートすらも本気で愛していたと思える発言をしていたからです。少なくとも、彼とのセックスについてはかなり肯定的な意見を述べていましたし、女性蔑視極まる当のアルバートが本気で彼女を愛し彼女に対しては下手に出るあたりなんかは、彼女から愛を教えてもらったということが如実に分かる部分ですし。

どれだけのクズ(アルバート)でもどれだけのブス(セリー)でも、人間である以上はシャグにとって愛を注ぐべき対象であるわけで、そんなことができるというのは創造主や神の子くらいなわけですよ。

三つ目は、シャグが神の視点から愛を語るシーンがあるから、でしょうか。たしか花畑のシーンだったと思いますが。

で、最後に牧師の父に「罪人でも魂はあるのよ」と抱擁する。こことか三位一体を想起しちゃうんですけど、途中から登場したキャラクターにしてはあまりに大役だとは思いませんでしょうか。

言うなれば、アギトやギルスすらも愛してしまう神がシャグであるという認識でもいいんじゃないかと思うのです。

 

そして、その愛の伝道者たるシャグの導きによって、一度は失った愛(妹のネティと実の子供たち)を取り戻すというお話なんじゃないでせうか。

この映画のすごいところは、セリーだけじゃなくてソフィアとかスクィークとかみんなをまるごとひっくるめて救済するところなんですが、あまりにさらっとやっているの意外と味気なくてわかりにくいやも。

細かい演出とか、一々取り上げてると面倒なくらいなので、気になる人は自分で観てみるとよろしいでごんす。まあスピルバーグなんで、基本的に大外れということはないですからね。BFG? あれはまあ、うん。

 

 

じゃない方のイップマン

 イップマンの映画といえば一般的にはフォース所持の嫌疑をかけられているドニー・イェンの「イップ・マン 序章」の方でしょう(わたしは見ていませんが)。

が、これの成功を受けていくつものイップ・マン映画が作られたらしく、わたしが観た「グランド・マスター」もその一つでしたとさ。

 

 すごく真面目ぶって割と下手っぴぃな映画という印象ですた。そもそも、イップ・マンという人物について何一つ知らなかったわたしは、この映画を観たあとにウィッキーでイップ・マンについてちょろっと知ったのですが、割と俗っぽい人なんじゃないかと思って映画のトニー・レオンはちょっとシリアス過ぎるなーと思ったわけですが。

公開年を知ってちょっとびっくらしたんですが、これって2013年の映画だったんですね。せいぜいゼロ年代の前期か中期くらいだと思っていたんですよね。アクションシーンのダサさというかマトリックス的ヴィジョンというか。

アクションでカット割りすぎてるし、正直なところチャウ・シンチーの方が全然上手いと思ったりするわけで、ぶっちゃけそこまで面白くはないという気はするし「面白いイップ・マン映画を教えて」と言われてこれを挙げることはないと思う。や、そもそもこれしかイップ・マン映画を観ていないのですがね。

それくらい、割と退屈ではあると思います。ていうか肝心のアクションがなぁ・・・。

 

ですが、あったく楽しめないかというとそんなことはなく、まったく存外なことにアクション以外で良いところがあったとです。

それはチャン・ツィイーです。ていうか彼女が全てと言っていい。個人的には。

彼女のことは名前だけでほとんど知りませんでしたが、この映画における紅一点(正確にはそうでもないんだけど、まあほとんど紅一点と呼んで差し支えないでしょう)でありながらその紅一点ということに懊悩する役どころというのがよい。トニー・レオンに対して優勢だったのもポイント高い。

どうでもいいんですが、彼女「Godzilla: King of the Monsters」にキャスティンされてたんですね。

 

まあ、映画としては個人的にどうでもいい感じなんですが、チャン・ツィイーの魅力に気づかせてくれたということには感謝したい。

超簡素に

「弾丸を噛め」と「グレートレース」

前者に関してはまあ普通に面白いし「金が賭けられることには八百長は付き物(意訳)」とか「女が云々」とか名言もいろいろあるんですが、普通に普通の映画なのでこれといって私に触れられることもなく。コバーンとかジーン・ハックマンとか、オヤジスキーなのでまあ最後まで見れましたが。

 

「グレートレース」はですね、長い。

当ブログでも触れたことがある「大冒険」と同じ年に公開というのが、この時期のコメディ映画の潮流のようなものが見えて面白いかも。

まあ「大冒険」よりもスラップスティックしている部分はしているんですけど、いかんせん長い。コメディ映画で160分は正気の沙汰ではないですね、はい。

ただオープニング「序章」から本編に入るまでのアバンの絵は「80日間世界一周」のクレジットぽくてすごい好みですな。

キサマらの撮ったものは、バーホーベンが20年前に通過した場所だ!

うーん、それとも「マーズアタック!」のスタンスなのだろうか。

 

というわけで、例のごとくアベマの日曜ロードを視聴。大根仁の「恋の渦」ですが、なんていうかこう、知能指数をゴリゴリ削られるというか、どこまで自分の品性や知性と向き合ったまま(あるいは、人によっては過去とか)笑えるかというような、頭空っぽにして楽しもうとさせてくれない底意地の悪い作品ですなぁ。

大根監督の作品って大概が人間の愚かしさ・・・というとあまりに壮大なので、せいぜいが下品さといったものを描いていると思うのですが(2作品くらいしか見てないけど)、それを笑えるか笑えないかというよりはどう笑うかといった部分に向き合わないと、監督の思うツボのような気がする。

全体的に面白いし普通に笑えるんですけど、ちょっと細かい部分でいろいろと気になるところが。

まず誰もが、知っていれば目につくであろう「サウスパーク」のポスター。ハゲは解説でキャラ付けとしての機能のみに言及していたが、あれはどう考えたって「恋の渦」という作品そのもののスタンスを如実に示すためのツールでしょう。だって、そうでもなきゃあんなにデカデカと映すわけないですし。ただ、どう考えてもこの映画に出てくる人種はサウスパークに接触する機会ねーですよ。確かに、登場人物の中ではかろうじて知性的な部分を見出すことはできなくもないでしょうが、ハゲが言及したとおりヴィレヴァンには届かないドンキ止まりの人間であって、そこにいけないということはサウスに到達するはずがないというわけで、まあキャラクターとしての設定に齟齬があるようにも思える。

あとはまあ、「BLEACH」も微妙なラインだろう。あえて「ワンピース」を避けたという感じがして、逆にわざとらしいというか。

予算の都合などもあるのでしょうが、そういう隙がバーホーベンのエピゴーネン臭をわずかながらでもさせてしまう要因になっているのだろう。しかしまあ見る人によっては底辺観測の「マーズアタック!」スタンスとしても見れる(というか、サウスパークの時点でこっちよりなのだろうけど)ので問題はないのでしょうが。

 

いや、まあ面白いですしヒットする理由もわかりますが、これがヒットするというのもそれはそれでむず痒い。もっとも、動向を知るためのリトマス試験紙としてこういう映画があることに意義はあると思いますが。