dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

闇落ちした魔女vs踏み止まった魔女

「RAW 少女のめざめ」が最高すぎて今すぐに感想書きたいくらいなんですが、これから公開研究発表会を見学しにいくので帰宅してから書く。


これ東京でも一館しかやってないのが不思議なくらい傑作ですよ。


しかしなんだ、「愛の渇き」とか「サスペリア「RAW 少女のめざめ」とか、ここ数日は魔女っ子映画続きですな

サスペリアとか色々

週末観賞映画録の続き。

 

1.「こころに剣士を」

実話ベースの話。どこまでが実話なのか知りませんが、映画にするほどの内容でもないし、脚色に失敗しているのが素人目にもわかる。

有り体に言ってしまえば退屈、だと思います。女教師のくだりを全部削ってフェンシングの鍛錬と子どもとの交流の部分をもっと深く描けばもっと面白くなったかなーと。

フェンシングを廃止するかイナカってところの多数決のシーン。あれどう見たって便乗というか周りに合わせて手を挙げたって感じに見えちゃうでしょ。意図はわかりますよ、勇気を振り絞って、っていう表現をしたかったのでしょうが、そもそもあそこに集まった大人たちとの交流も描かれてなければ彼ら大人が子どもとやりとりをするようなシーンもありませんからあんなとこだけ見せられても困る。あと田舎だから、という理由以外に明確な廃止案の原因がないから(いや実際にそうなのかもしれませんが)この辺のふわふわした感じが「?」。いつの間にか子どもの数減ってるし。

屋外のシーンをレースゲームの三人称視点がごとく主人公の背後から映していた意図はなんだったのだろうか、とか色々疑問はありますが、単純に退屈だと思います。

肝心のフェンシングシーンもBGMでちょっと誤魔化してはいますが何か勝敗のロジックがあるわけでもなければ熱量で押し切るというわけでもなく、結局何が描きたかったのかわからないまま。

まあ、中盤から退屈になってしまってながら見していた部分もあるので、もしかしたら見落としているところがあるのかもしれませんが、個人的には退屈でした、と。

 

2.「ロンドンゾンビ紀行

ショーン・オブ・ザ・デッド」成分を多めにしてザックの「ドーン・オブ・ザ・デッド」要素をちょいちょい入れ込んだコメディゾンビ映画

なんか風景が「ショーン~」っぽい。イギリスだしロケ地も似たような場所でやっているのかしら。

映画自体はまあ観たあとに何か残るようなわけでもないスナックな映画ですが、赤ちゃんゾンビを蹴り飛ばすところとかしっかりと笑えるシーンはあります。

で、まあ、この映画を観ていて思ったのは、ゾンビが街中で発生した場合って当然ですけど絶対に街中で話が展開するわけじゃないですか。そうすると、その土地特有の色というか背景みたいなものが立ち現れてきて、そのランドスケープの違いみたいなものが見れて面白いなーという気がした。そんなのどの映画でも同じでしょう、という気はするんですけど、ゾンビ映画はフォーマットがほとんど共通であるがゆえに背景の世界観が浮かび上がってくるんじゃないかと思うんですよね。「ワールドウォーZ」みたいにあちこち飛び回ったりするのは例外ですし、「アイアムアヒーロー」みたいに日本という設定で韓国ロケしたりもしてはいますが。

 

3.「サスペリア

怖い。アートなホラー映画。悪夢を見ているような感覚になれるホラー映画。ゴブリンのBGMも相まってかなりくる。

あの異様なセットがもはや異界であり、唯一、異界の外である精神科医のシーンにむしろ違和感を覚えるくらいキレた異界感にくらくら。

ただなんていうか、「クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険」っぽいなーとか思ってしまってちょっと笑ったんですけど。

続編もあるみたいなんでそっちも見たいなーと。

まあね、今の目で見るとチープな部分もなくはないですが、本質は多分「死」の恐怖のロジックのなさにあると思うので、グロシーンとかは味付け的に見るのがよしでしょう。

 

 

私は嫌な思いしてるから

「愛の渇き」が面白すぎて「黙って抱いて」の印象が薄れてしまった。

連続で見ていると、どうしても印象の強い方が弱い方を消しにかかってしまっていけない。いや、「黙って抱いて」も全然面白いんですよ。ただ、「愛の渇き」の浅丘ルリ子が強烈すぎて。

 

そういうわけで、まだ印象が残っているうちに「黙って抱いて」の感想を書き留めておきましょう。

大まかなストーリーは↓こんな感じ。

 パリのヴァンドーム広場にある宝石商で起きた、エメラルドの強奪事件。
18歳の美しい孤児ヴィルジニー(ミレーヌ・ドモンジョ)は孤児院から脱走すること三度という経歴の持ち主。友達のオルガと逃げ出したところを、不良仲間のルールー(アラン・ドロン)たちと知り合う。しかし、知り合った経緯のせいで事件に巻き込まれてしまう。捕えられ警察署にいるヴィルジニーに、刑事のジャン(アンリ・ヴィダル)は身分を隠し近づく。やがて二人は本気で惹かれあうことになる。
しかし、ジャンが刑事だと知ってからもヴィルジニーは、仲間たちと離れられなかった・・・

 

これ読み返して気づいたんですけど、アラン・ドロン出てたんかい。

うん、人は割とドライに死んだりするけど、普通にコメディ映画です。音楽の演出とか捕まったときの脱出の仕方とか、ゆるーく演出していますし、明らかなコメディリリーフのキャラクターも配置していますし。その割にはみんな真面目な顔をしているのでなんか笑えてくるんですけど。

「黙って抱いて」というのは映画のラストシーンのある人物の科白なんですけど、映画の途中っていうか終盤までは、むしろそのセリフをいうのは抱かれている方だと思っていたり。ま、お互いに好きあっているので、どちらが言っても間違いではないんですけど、そっちに言わせるのはいいですよね。自分なんかは口下手ですし、ミソジニーが台頭していたりいなかったりするこの社会では、そっちから言わせる=君に首ったけ=あの手錠の大写しでの「FIN」なわけですから。

ゆるくはありますが展開はしっかりとサスペンスフルですし、興味の持続という点ではしっかりしたプロットかと。

 

 

で、問題の「愛の渇き」

 これヤベーですよ。映画の持つ熱量というか、黒い炎とでも呼ぶべき寒々しくも灼熱めいたものがあって。一言で言えば面白いんですよ、マジで。

三島由紀夫の同名小説が原作ということなんですが、例のごとく三島由紀夫の書いたものは読んだことない。んですけど、科白(まはあ、どこまで原作通りなのかは知りませんが、少なくともわざわざ入れてるナレーションなんかは引用してそうな気が)とかすごい良い。冒頭の台詞からして「この体にもまだ生きた血が流れていると知れて嬉しい(意訳)」みたいなことを老体たる弥吉の口からいわせますからね。このシチュエーションというのが悦子(浅丘ルリ子)に髭剃りをさせていて手元が滑って弥吉の首元から出血させる、というシーンなわけですが、鶏のカットとか色々と冒頭から炸裂しています。これに限りませんが、他人に髭をそらせているシーンってかなり緊張感がある気がするんですけど、どうなんでしょうかねこれ。個人的な感覚の問題なのでしょうか。「カラーパープル」はシチュエーションと関係性から生じるものだと思いますし。

さて、両者の関係性も不明なまま冒頭からそんなシーンをぶっ込んだ監督は蔵原惟繕という、ぶっちゃけまったく知らない人でした。が、本多猪四郎の紹介で映画界に入ったり代表作に「南極大陸」があったりと、名前はともかく腕はあるようです。ていうか腕がなかったらこの映画撮れないでしょうし。

 

この人の作品はこれしか観ていないんですが、カメラワークがすごい面白い。やたらと真上からの俯瞰で撮ったり、そうかと思えばその俯瞰の長いカットから下がっていって人物の目線と同じ位置になったり。まあ、これは食卓のシーンで最初の方と終盤の方で同じように使われていて、対比的に使っていることはわかるんですが、そんなカメラワークはあまり観たことがなかったのでちょっと感動しました。

ほかにもラスト近くの温室でのシーンでワンカットで温室の内外での三郎と悦子のやり取りをカメラを軸にして撮っていたり、ともかく面白いカメラワークをしています。

カメラワークで言えば人物のやりとりでも顔面ドアップだったりめちゃくちゃ引いたりと、なんかもう画面内のものは大して動きがないのにその画面の枠が忙しない。

 

物語そのものの面白さもさることながら、やはり役者の顔による力がかなり働いていますです。

まあ言うまでもなく浅丘ルリ子なんですけど、凄まじいものがあります。大仰な演技というわけではないのですが、表情の微細な変化や声音だけでその内側に蟠っているものを垣間見せるその力は、演出と相まって引き笑いしてしまうくらいです。

あと三郎のなんもわかってないくせに、それゆえに確実に悦子にダメージを与えていく、無頓着の残虐さというものも素晴らしい。

補足的に心情説明をしていたりするのは、まあ仕方ない部分ではありましょう。あんな複雑な内面を表情だけで見せるのは不可能ですし、それは小説という媒体の最たる強みを三島由紀夫が生かしたがゆえであるわけで。むしろそれをそのままナレーションとして持ってくるという大胆で、それこそ不敵といってもいいくらいストレートな演出に逆に文句とか言えない。

ほかにも「クローズゼロ」くらいでしか観たことないんですが、人物をすごい引きで撮ってその会話を画面上の字幕で表現していたり。

なんかすごい、映画の総合芸術性みたいなものを楽しめているような気がしました。

 

傍から見ているとストーカー気質な女の一人相撲とも取れるわけで、というかそういうふうに観るのもあながち間違いではないとは思うのですが、ありきたりな昼ドラではないのがなかなかどうして面白いところ。

はっきり言ってしまえば、この物語の主役であるところの悦子は明確に悪の領域にいる人間です。もちろん、その境遇に同情の余地がないわけではありませんが、しかしろくすっぽ働いていない家の長男や、悦子を慰みものにするスケベじじいにしても、まして腹立つとはいえ何も悪事を働いていない(まあ避妊はしろよ、とは思いますが)三郎や美代があんな仕打ちを受けるいわれはないわけです。

状況、というか描かれる環境が実に見事で、悦子はいわばこの金持ちな杉本家における異邦人でありながらもチェスにおけるクイーンであるわけで、キングたる弥吉をその体で懐柔している彼女は実質的な実行者でもあるのです。そんな歪な環境そのものが、悦子の歪みを生み出したのではないか。

彼女が魔女のように描かれているのは確かで、異様に長い爪や目元のメイクなんかは「黒い十人の女」の岸惠子のそれよりも鋭い。ただ、なんというか魔女は魔女なんですけど良心のある魔女というか、それゆえに苦しみ、しかしその人間性の残滓ゆえに他者を巻き込もうとするはた迷惑さが、悦子の素晴らしいところなんですよね。

と、書いていて思ったのですが「マジカル・ガール」的でもあり、その意味では「まどマギ」的であるとも言えるかもしれませんね。

 二度ある炎のシーン。ここの撮影の感じといい、悦子の魔女っぽさといい、「ウィッチ」や「地獄愛」っぽさすらあってちょっと感動すら覚えました。

 

で、自分の苦しみの元である三郎と一瞬ながら通じ合うシーンがあるわけですが、しかし三郎の純粋無垢(ていうかただの馬鹿なような気もしなくもないのですが、本を読んでたりとかしてるので一概に言い切れないのがまたなんとも)さと悦子のどす黒さは相容れるはずもなく、むしろ彼の純粋無垢さが苦しみの元凶である悦子は、最後にぶち殺してしまいます。

この辺の落ち着きぷりといい、どこかさえざえとした表情といい、似たような経験があってどちらかというと三郎より悦子よりな自分はもう陶然モノです。この一線を越えるシーン(まあ、その前に子どもを堕胎させているのですが)は、やはりフィクションでしか得られない快楽でしょう。

その直後の、くどいまでの一線を超えた結果=三郎の死ぬ瞬間を写し取るのは笑いますが。

 

ラストの朝日をバックに大阪に向かう悦子のかっこよさたるや(このシーンだけカラーになるのとか、「シンドラーのリスト」よりも先んじてるじゃん!。とか言い出すともっと最初にありそうな気はするのでやめますが)、どう見ても覚醒した魔女です本当にありがとうございました。

 

これは傑作と言って差し支えないのではなかろうか。

メルキオールとカスパーはどこかいな

よくわからなかった、というのが率直な感想だった。「バルタザールどこへ行く

監督・脚本はロベール・ブレッソン。名前はたまに耳にするけれど、作品は観たことない。まあ、いつものことですね。

ロバの目線から人間の営み(主に愚を)を静観し、時にはその営みに巻き込まれながらも淡々とした調子で描いていく。

いや、でも、これって上手い映画とは言い難い気がする・・・。いや違うか、面白い映画ではない、というべきだろうか。美しいとか上手いとか、そういう形容を当てはめようとするのはわかるけれど、じゃあ面白いかというと、「うーん?」という感じ。いや、やっぱり話の構成とかはやっぱり上手いとは言い難いような。散漫になっていると、個人的には思う。

あまり自分には合わなかったかなぁ。

あと、寓意が露骨すぎるのもちょっと。

ロバはキリスト教的に従順と柔和の象徴として描かれているから、人間たちの行いに従順であることはわかるし、そのロバにバルタザールという東方の三賢人が一人の名前をつけるのもわかる。バルタザールが神性を象徴し、最後に神の子羊の群れの中で死んでいくというのも、まあわかる。

じゃあそれが面白いかというと、自分はそうは思えなかった。

 

ただ、マリーはエロい。別に好みの顔とかそういうことではないんですけど、発展途上故の可能性を秘めたエロスとでもいいますか。それが絶妙なバランスで艶かしい。

とはいえ、それにしてもなぜこんなにマリーに惹かれるのかなーと思ったら、小学生のときの同級生に顔が似ているからだ、ということに気づいたわけです。ご存知のとおり、人にとってのツボとなる顔というのはその人がそれまで見てきた人の平均の顔に寄っていくというものなの(だったはず)で、印象に残っている顔に似ていたから、というのもあったんでしょう。

後半になってようやく思い出した。M原Yさんにメッチャ似ているんだと。

いやまあ、そんなこと至極どうでもいいことではあるんですけど。

映画に関しては、万人に勧めるタイプの映画ではないかなぁ、という気はする。

ダムの守護者

ちょっとした機会があって「the dam keeper」っていう短編アニメを観たので感想を。

2015年のアカデミー賞で短編アニメーション部門にノミネートされたものなので、知っているかたは知っていると思う。

あと、どういう経緯かよくわからんのですがNHKでこれを原作にした「ピッグ 丘の上のダムキーパー」っていう全7話のアニメもやっていたらしいので、それつながりで知ってる人もいるかもですね。わたしはたまたま流れてきたタイムラインで知ったのですが。

 

わたしが観たのはオリジナルだったので冒頭と最後の方にあるナレーションが英語で(日本で出てるソフト版などは塚本明が吹き替えてるらしい)、その上微妙に聞き取りづらいウィスパーボイスだったのも相まってよく理解できなかったんですが、まあ観ていればそれはわかるし問題はないですな。

とかなんとか言ってたらアマゾンで売ってるソフトの商品詳細のストーリー欄にわかりやすく載ってたよ(^q^)↓

 

時は、世界が大気汚染に覆われた時代。
汚れた大気と暗雲の影響を受けずに、生きながらえてきた小さな街があった。
街は大きなダムによって、その呪われた大気から守られていた。
主人公は豚の少年。家族も、友達もいない。
家族代々受け継がれて来たダム・キーパーの仕事は、今は少年一人によって
行われていた。その仕事は8時間に一度、歯車のネジを巻いて風車を動かす事で、
汚染された空気をダムの外側に追い出すことだった。
長い間平和ボケした街人たちは、ダムが誰によって動かされているのか、そもそも
ダムの向こう側に何があるのかすら、忘れてしまっていた。
そんなある日、彼の学校にキツネの転校生がやってくる。
絵を描く事が好きで、天真爛漫なキツネとの出会いは、少年のその後の人生を
大きく変えるきっかけとなる。

 

基本的にセリフはなくて、いじめられっこのダムキーパーことブタくん(あだ名とかではなく)がキツネくんの友情物語なので、誰でもわかる。

しかし、げに恐ろしきはアニメーション。監督の堤大介とロバート・コンドウは「トイストーリー3」「モンスターズ・ユニバーシティ」のアートディレクターを務めたということで、まあそのセンスは推して知るべしといったところでしょうか。

まあ、下に貼ってある関連リンクにあるインタビューを読むとストーリー作りに苦戦したそうですが。

油絵のような絵柄を動かしていることそのものにまず吃驚。既述のインタビューでも触れていますが、「つまり、線で描いた内側の「白い部分」を着色していくんですけど
ぼくらは、そうやって描いてないんです。1枚1枚「イラストの作品」を描くように
1コマ1コマを描いてるんです」ということらしく、恐ろしく手間が掛かっていることが伺えます。

 

感想、と言っても、まあ「見ろ」としか言い様がないんですよね。廊下の床に反射した姿やほんの一瞬だけなのにバスの窓に映る木とか、そういう細かい部分を細かいとこまで舐め回して見るべし、と。

 

 

気になった人(まあこのブログを見ている人はそんないないけれど)のために関連サイトのリンク貼っときますです。

thedamkeeper.jimdo.com

 

www.1101.com

 

www6.nhk.or.jp

 

 

週末録画録

コッポラの「ドラキュラ」

ファンタジーとしてよくできていて、衣装とか特撮とかセットとか、そういうのを観ているだけでも楽しめてしまう。なんというか、この映画に限って言えばリドリー・スコット+ティム・バートンというか。

ブレードランナー」「グラディエーター」の世界構築という点でリドリー的であり、「シザーハンズ」「スリーピーホロウ」のフリークファンタジーという点でバートン的であると言えばいいのだろうか。タイムライン的には後発のものがそれぞれ一つずつあるんだけど、わたし個人のタイムラインとしては「ドラキュラ」が後ろになるのでいかんせんそういう見方をしてしまう。

しかしエロい。ブラムストーカーの「ドラキュラ」は読んだことなくて、レ・ファニュの「カーミラ」は読んだことあるんだけど、そっちの印象に引きずらていたからすごい露骨にエロくてびっくり。

途中でキアヌがドラキュラの嫁三人にねぶられるシーンがあるんですが、ここのエロさが半端ないです。一人やたらとエロい人がいるなーと思ったらモニカ・ベルッチだったし。

 

ゲイリー・オルドマン、ウィノナ、キアヌ、ホプキンスと役者が豪華っていうか、まあ脇役も含めて基本的に老若男女が美男美女。そこに石岡瑛子の衣装が合わさって眼福ここに極まれり、といった感じ。

とはいえ、話はすごく単純なラブストーリーで、ドラキュラ公とミナの時を越えた愛の物語。キアヌくんはまあ、どんまいというしかないなんだけれど。

あとホプキンスじっちゃまの演じるヴァン・ヘルシングがドラキュラの存在を確信して興奮するところとか、すごい可愛い。

異なるフリークの対立という構図もあって、とにかく観ていて「ふつくしい…」となる映画です。

そういえばミナが読んでた「千夜一夜物語」ってエロい本だったんですね。同じバートン翻訳で言えば「カーマスートラ」がエロエロ(ていうか性)なことは知っていたんですけど、こっちも元のタイトル「アラビアンナイト」でググると風俗系のものが結構出てくるし・・・。

 

潜水服は蝶の夢を見る

これもすごかったですねー。

実話ベースとはいえどこまで実話なのか知りませんが、愛人の電話を受け取る妻の気持ちってどうなのよーとか色々考える。

ただ、閉じ込め症候群って今の医療技術とかでどうにかならんのかなーと思ったり、改めて医療とかその方面への知的好奇心が刺激された。

音楽も良かったですね、そういえば。

 

「サスペクツダイアリー すり替えられた記憶」

いま話題沸騰中のジェームズ・フランコ主演映画。

人の記憶というものがいかに曖昧なものか、というものを再認識する。

そういうのって実際にありますもんね。以前もどこかで書いたような気がしますが、久々に会った幼馴染と自分の間に決定的な記憶の齟齬があった経験があった自分からしたら、決して他人事ではないし。ていうか、誰にとっても他人事じゃないんだけれど。

ていうかこれ、劇場未公開なんですね。

まあでも、これを見るくらいだったら「サウスパーク」の油樽がフィッシュディックのネタを自分のものとして本当に信じ込んでしまうネタのほうがスマートに面白いかなーとは言える。映画を何かと相対化しすぎるのはどうかと思うんだけど。

まあ、タイトル詐欺というか「嘘は言ってないよ」という体ではあるんでしょうが、ねえ。

あと、ジェームズ・フランコのミートゥー関連の騒動の後だと彼の濡れ場のシーンが作品の内容の割に多く感じてしまうことに邪推が働く。

 

 「サイドウェイ

アレクサンダー・ペインの映画。方向性の違うダメな男二人のロードムービー

相変わらずこの人の映画は妙に面白い。といっても「ネブラスカ」しか観てないんだけれど。

こういう映画って日本でも撮れないかなぁ。それともわたしが知らないだけで映画館にかかってたりするんだろうか。

 

 

 

人間というコンプレックス

主演がフランシス・マクドーマンドってことで、「ダークサイドムーン」以来のファン(ってほどでもないけど)であるわたしは足早に劇場に向かいました。

「ダークサイドムーン」で政府高官で強い女を演じ、その後に観た「プロミスト・ランド」でゴリラことマット・デイモンの相方を演じ、「あの頃ペニー・レインと」で子想いの親を演じ、そのどれもがかなり印象的だったわけですっかりこの人の顔を覚えてしまったわけですが、今作ではフランシスが出ずっぱりで、しかも「おっさん・じじい」な強いばあさんでもあり、同時に弱さもたたえており、まあともかくわたしのツボなわけです。

ほかの役者もわたくしの好きな人ばっかりで、つい最近も「猿の惑星」で強面なおっさんを演じているウディ・ハレルソンだったり、今作で実はウディ・ハレルソンよりも美味しい役どころを演じる「ギャラクシー・クエスト」や「アイアンマン2」のサム・ロックウェル。この人、おバカな役どころばっかやってますけど、今回の馬鹿はちょっと意味が違う。今回の馬鹿は、泣けます。


この映画、暴力的・破壊的なルックや映像にもかかわらず、描いているのは「マンチェスター・バイ・ザ・シー」や「20th century women」のような人間の多面性だったりする。しかし、アレらが日常や自虐の範疇に収まっているのに対して、こちらは加虐によってその人間性の真価を問うている。

冒頭に顕著なように、三つの看板の表裏がそれぞれの人間の一面的ではないことを指し示している。
 

ちなみにストーリーはこんな感じ↓

アメリカはミズーリ州の田舎町エビング。さびれた道路に立ち並ぶ、忘れ去られた3枚の広告看板に、ある日突然メッセージが現れる。──それは、7カ月前に娘を殺されたミルドレッド・ヘイズ(フランシス・マクドーマンド)が、一向に進展しない捜査に腹を立て、エビング広告社のレッド・ウェルビー(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)と1年間の契約を交わして出した広告だった。
自宅で妻と二人の幼い娘と、夕食を囲んでいたウィロビー(ウディ・ハレルソン)は、看板を見つけたディクソン巡査(サム・ロックウェル)から報せを受ける。

一方、ミルドレッドは追い打ちをかけるように、TVのニュース番組の取材に犯罪を放置している責任は署長にあると答える。努力はしていると自負するウィロビーは一人でミルドレッドを訪ね、捜査状況を丁寧に説明するが、ミルドレッドはにべもなくはねつける。
町の人々の多くは、人情味あふれるウィロビーを敬愛していた。広告に憤慨した彼らはミルドレッドを翻意させようとするが、かえって彼女から手ひどい逆襲を受けるのだった。

今や町中がミルドレッドを敵視するなか、彼女は一人息子のロビー(ルーカス・ヘッジズ)からも激しい反発を受ける。一瞬でも姉の死を忘れたいのに、学校からの帰り道に並ぶ看板で、毎日その事実を突き付けられるのだ。さらに、離婚した元夫のチャーリー(ジョン・ホークス)も、「連中は捜査よりお前をつぶそうと必死だ」と忠告にやって来る。争いの果てに別れたチャーリーから、事件の1週間前に娘が父親と暮らしたいと泣きついて来たと聞いて動揺するミルドレッド。彼女は反抗期真っ盛りの娘に、最後にぶつけた言葉を深く後悔していた。

警察を追い詰めて捜査を進展させるはずが、孤立無援となっていくミルドレッド。ところが、ミルドレッドはもちろん、この広告騒ぎに関わったすべての人々の人生さえも変えてしまう衝撃の事件が起きてしまう──。

公式サイトのあらすじが微妙にパンフのと違うんですが、まあ大きな違いはないので構わんでしょう。

娘を殺された母親ミルドレッド・余命幾ばくの強面だけど優しい警察署長ウィロビー・暴力マザコン警官のディクソン。この三人がメインではあるものの、決してこの三人だけでは成立しえない。脇を固める人物がいてこそ、彼らは人間として相成り、彼ら三人がいることで街の人々も人間足り得ている、この世界の在り方そのものと言っていい。歯医者とかはまあ、「アウトレイジ」リスペクトのための雑魚キャラでしょう(適当)。

娯楽大作や類型的な映画ばかりを観ている人にとって、あるいは人と接する機会の少ない人や他人に興味のない人は、この映画を観てもちんぷんかんぷんかもしれません。なぜなら、この映画に登場する人物たちは実際の人間がそうであるような複雑さを備えているからです。

娘の事件で怒りに燃え、一向に犯人を見つけ出せないでいる警察に憤懣やるかたない様子のミルドレッドは挑発的なビルボードを広告会社に出すように依頼する。しかも、5000ドルという決して安くない料金を現ナマで、離婚した元夫の車を売って広告費を捻出することすら厭わないほどの怒りを燃料にアクションを引き起こし続ける。

ウィロビーが余命少ないことも知っていて、だ。そして本人を目の前にしてもその姿勢を貫く。だが、警察署での取り調べの際にウィロビーが吐血すると、それまで貼り付けていた鉄仮面が剥がれ動揺を隠しきれないミルドレッドは彼を気遣い救急車を呼ぶように言う。

この瞬間まで映画を観ていた観客は、ともすれば「え?」と思うかもしれない。なぜなら、ミルドレッドの滾らせていた怒りはそんな程度のことでは崩れるようなものではないのではないかと、彼女の行動やその顔つきから思っていたからだ。たしかに、その顔に吐血の血を受けたが、その動揺の仕方は明らかに不快感を含んでいるものではない。

つまり、彼女を「そういう人物」と見做していると混乱してしまうような描かれ方をしているのだ。

このシーンに顕著なように、この映画に登場する人々は誰ひとりとしてわかりやすい人物はいない。現実に存在する人と接するように彼らに接しなければ、この映画を理解することはできない。
そういう映画なのである、これは。

そういうわけで、人間を描いている映画でもあるしかなりウェットではあるんだけれど、泣けないのである、この映画。
北野映画の影響を公言しているだけあって、シュールな笑いが盛り込まれていたりするわ、乾いているのに実にウェットに仕上がっている感じとか、確かに北野映画っぽくもあって泣けないというのはあるんですが、それ以上にどこか無機的な質感にわたしはイーストウッドの映画を想起した。

個人的には北野武イーストウッドはかなり近しい位置にいる映画作家なのではないかと思っているのですが、この映画はその両者をつなげてくれているようにも思える。

たまむすびの町山の解説でイーストウッドに言及していたことを考えると、あながち間違いではないのかもしれない。

町山と言えばパンフレットのコラムでの解説でディクソンのことがより深く知れたので、パンフを買うのもよろしいでしょう。

ただFOX SEARCH LIGHT なので通常のパンフより100円高いです。