dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

タイの日常とは

そんなわけで、前回の記事の最後で触れていた「ブンミおじさんの森」についてと、あとほんとに一言ですが「ヘッドライト」について。

 

地下室のメロディー」のヴェルヌイユ監督作。

この人の映画(といってもこの二つしか観てないけど)ってどうしてもこうも泡沫のような物語になるんだろうか。「ヘッドライト」に関してはいい年したおじさんの醜悪な部分がすごくつまっていて、淡々と進みはするけど面白い。

ただ本当に淡々としているから、かなり集中してないとすぐに気が散っちゃう自分には映画館とかで観たい映画かな。今作の不遇なヒロインを演じるフランソワーズ・アルヌールが可愛い。

 

で、「ブンミおじさんの森」について。

これはすごい不思議な映画。最初の20分くらい観ているとちょっとタルコフスキーを想起させるのですが、でも全然そういう映画ではなくて、むしろ黒沢清のような、しかし立ち位置としては黒沢清と対局にあるような人間的な温かみがあるというか。

わたしがウィラセータクンの名前を知ったのは、たしか2年前くらいに恵比寿ガーデンシネマに映画を観に行ったときのチラシか何かだったかと思うんだけど、まあまずは名前ですよね。表記揺れが激しいらしいのですが、アピチャッポン・ウィラセータクンという名前にまず注目してしまい、なんとなく頭の中にブックマークしていた。

で、それがこの間BSでやっていたのを観たという経緯なので、前から知ってはいたけどこの人自体についてはほとんど何も知らない状態。

まあ、バートンがこれを観て「ファンタジー」と称するのもわかる。わかるんだけど、それってつまり異界としての他者との邂逅だから、厳密にはこの映画そのものはファンタジーではないんだと思う。ていうか、バートンもそのへんはわかっていそうなコメントではあるんだけど。

タイの文化と日本の文化がどの程度の共通点を持っているのかはわからないけれど、多分、欧米人や北欧の人がこの映画を観た場合とではかなり印象が異なると思う。

というのも、この映画にはアニミズムが日常の範囲にあるからだ。猿人になってしまったブンミの甥っ子とか、カットを割らずにフィックスのままごく自然に現れる死んだブンミの妻の霊とか。少し驚きはすれど慄きはせず、その驚きも概念そのものに対してではなく「なんだよ、そこにいたのかよ」といった程度の驚きだし。

あと猿人が森の中で赤い目を光らせているのとか、モロに「もののけ姫」の猩々まんまだったりするのとかを考えると、やっぱりアジア的というかアニミズムだったり八百万とか付喪神とか、あの辺の文化に近いのだと思う。

だから、バートンが観たようにはわたしの目にはこの映画は映らなかったかなぁ。それでも、奇妙な体験をしたいのであれば割とオススメかもしれない。感性的に近いものがあるからこそ、むしろ大きな隔たりを見せつけられて奇妙な感覚に陥るし。

説明を排した部分やあまりにスローペースな作風はかなり好みの分かれる部類だと思うし、わたしも正直なところ集中が途切れたりしていた部分はあるので、なんとも言い難いところではあります。

でもまあ、中盤のナマズと王女の異種姦はエンドクレジットあたりの「前世を思い出せる男」から着想を得たという字幕で「あーもしかしてあれって前世かなぁ」とわかる感じではある(いやまあ、冒頭にも前世云々のくだりはありますが)ので、キューブリックが好きな人はそういう映像で語る作家だと思うのでオヌヌメかもですね。

ちょっとインタビューとか観たいけどアマゾンでスペシャルエディションのdvdが10万超えてて笑ったよ・・・。レンタルとかあるんだろうか、これ。

 

 

 

映し撮るという行為

ゾンビ映画

この言葉が人々にポップな印象を与え、軽さすら匂わせるようになったのはいつからだろうか。言うまでもなく、その言葉の根っこにいるのは間違いなくジョージ・A・ロメロであることに異論はないだろう。

しかし、キッチュさや作りやすさから粗製濫造されることで「ゾンビ映画」がーー時にはその父の名すらが望むと望まないとに関わらず俗物化していく中で、しかし当の「ゾンビ映画」の父はあくまでストイックと言っていいほど真摯にゾンビと向き合い続け、その可能性を見極め続けていた。

その一つが「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」だろう。

モキュメンタリーの手法をホラー映画に持ち込んだのはこれが初めてではないし、全編通してこの形式のものがあったかどうかはともかく、ゾンビ映画においては部分的に使われていることもあっただろう。

しかし、ロメロがこの手法を選んだことには間違いなく「ホラー映画としての恐怖感・臨場感」ということ以外に理由がある。あるいは、その「ホラー映画としての恐怖感・臨場感」を使って現実の恐怖を投影させようとしていたのだろう。

はっきり言って、これを娯楽映画として観るにはあまりに真面目に作られすぎている。「新感染(やりたい邦題)」でもヨン・サンホは社会性を盛り込んではいたけれど、その映画の在り方はもっと大衆に目を向けたエンターテイメントのフレームに収まっていた。けれどこの「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」は、それよりもむしろ観ている観客への疑義を呈しているようにしか思えないのだ。

無論、だからといってつまらないとか退屈だとか、そういうわけではない。

 

本編開始数分で「ジェイソンなる学生の記録した映像をその恋人であるデブラが編集を加えたものである」ということが説明され、そこに警句としてのデブラの行為があることからもうかがい知れる。

つまり、撮影るということの傍観者然とした佇まいに対する自己言及というか自責のようなものが、この映画にはある気がするのだ。もっとも、この自責が指し示すのはロメロ個人だけではなく、文字通り日本も含め全人類に向けられたものだのだろうけど。

たとえば人を殺すという行為について、ゾンビという媒介を置くことで殺す側の人間を相対化する。そして「人を人と思わないと殺せない」というようなことを劇中の人物が発する。

この映画が公開された2008年、おそらく撮影が始まったのがそれよりも前であることを考えると2006年から2007年の世界の情勢を考えてみると、なぜ「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」という映画が作られたのかが、見えてきそうだ。

2006年はまだイラク戦争が活発だったころだ。ロメロはこの一つ前に「ランド・オブ・ザ・デッド」を撮っていて、そちらでイラク戦争におけるアメリカ国内の状況を写し取ってはいたわけですが、「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」ではその先に視座を据えているように思えるのです。

岡本健が言うようにゾンビというものと他者性というものを関連させるのであれば、「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」はそれが顕著に現れた映画と言えるでせよう。

上で述べたこともその一つですし、本作で終盤までカメラを回しっぱなしにしているジェイソンの行為そのもの(あるいはそれを突きつけるかのように彼の友人が彼に向かってカメラを向けていたりする)もそうですし、黒人の州兵がリーダー務めるグループに車を襲われたときの、映像からわかるジェイソンの立ち位置など、(安全圏から)撮影ることを悪い行いともとれるように描いています。実際、終盤のシーンでもはや「風立ちぬ」的なテーマに近接するあの行為などは、はっきり言って異常でしょう。

もっとも、そのジャーナリズムのようなものを貫くことでこの映画という形に帰着するわけで、責任に向き合ったとも言える。

つまり、これがモキュメンタリーであることの意味が、作品の伝えようとすることのテーマと密接につながっているのです。

 

途中、ケータイで東京の女性が助けを訴えるシーンが挿入されるのですが、なぜ日本なのか。それは「日本でさえ」という台詞からも読み取れる。何が日本でさえ、なのか。映画の中における日本でさえという台詞は、島国である日本にもゾンビがいる=ゾンビから逃げる場所がないことを示唆していることは明白です。

ゾンビが大量発生するという世界的な病理を、つまりはどこにいようと世界で起きている病理から逃れることはもはやできないのだとロメロは言いたいのではないだろうか。

しかし、噛まれずとも普通に死ぬだけでゾンビ・・・リビングデッドになるというこの映画の世界は、もはや世界的病理を超えて世界に呪いがかけられたといってもいいかもしれない。

 

まあ、実のところ台詞で全部説明されるんですが。「えー科白で全部言うのかよ、台無し」と思う人もいるかもしれませんが、しかし、これはあくまでモキュメンタリー形式であり記録として語り手(映し手とでも呼ぶべきだろうか)が意見を述べることに違和感はないのでモーマンタイ。

 

 

あとようやくウィーラセタクンの映画を観ることができたんですが、これもこれですごい変な映画だったんであとで書く事にします。なんというか超日常系というか。

 

合衆国の敵

トニースコットの「エネミー・オブ・アメリカ」が予想より面白かった。

いや、なんというかともかくかっこいいんですな。

オープニングのちゃかちゃかしたモンタージュとか、劇中ひっきりなしに行われる追跡劇も、盗聴や衛生からの情報をやりとりして主人公であるウィル・スミスを追っていくのとか、ともかくかっこいい。

なにげに前半の伏線がちゃんと生きてくるあたりとか、NSAにぶつける相手としてのFBIとか巨大な組織同士のパワーゲームみたいなものが働いているのだろうと考えるだけで脳汁がドバドバ。

あとジーン・ハックマンの使い方がもろに「カンバセーション…盗聴…」オマージュ、ていうか金網のシーンとかモロすぎて遊び心のようなものが見えたりしてそのへんもすごいポイント高い。

ウィル・スミスはちょっと軽すぎるきらいはありますが、娯楽映画としてはアリなのかもしれません。

エドワード・スノーデンやらのことを考えると、実は20年前のこの映画は今見るとかなりタイムリーでもありますし。

 

あとこの映画とはまったく関係ないことですが「トランスフォーマー」シリーズのリブートが決まったみたいで、結構嬉しかったり複雑だったり。

ただ、今回の「エネミー・オブ・アメリカ」とかを観るとトニー・スコットが「トランスフォーマー」を監督してたらそれはそれで面白いものになったかなーと思ったり。

奇形者(フリーク)の悲恋の物語としてのオリジナルキングコング

長野から帰宅して録画していた「キングコング」を観ましたですよ。

テレビで観ているとアス比の違いが露骨で、画面両サイドの黒い長方形のスペースに対して「テレ東だったらここに番組の広告入れるんだろうなぁ」なんて思ったり、まあ過去の作品を観ていると色々と作品とは別の部分に考えを巡らせることがあったりするわけですな。

 

それはさておき、テクノロジーの発達した現代において、このオリジナルの「キングコング」を観るのはなぜか、という疑問を抱いた。まあ、「キングコング」に限らず昔の映画をCGに慣れたり撮影技術が発達した今の目で見て面白いと思えるのか・フィクションを信じ切れるのか、と不安に駆られることはある。友人も、昔の映画を誉めそやす人は少なからずノスタルジーがあるのだろうということを言っていたし、自分もそこに一理ある。かといって、半世紀以上前の映画だからといってつまらないかというとそういうわけでもないし。自分としては一つの出会いのようなものであるから、言うなれば昔の映画を観るということは高齢の人と接して価値観の違いとかを痛感したりする、コミュニケーションのようなものだと思ってはいる。

しかし「キングコング」のように、当時としての最高峰のテクノロジーを導入した映画という、リアルタイムで鑑賞することことこそが最大の映画体験であるような作品と接するときは、やっぱり真摯に向き合うというよりは「愛でる」ように観ている自分が居ることも確かだったりする。まあ、悪く言うと「侮っている」と曲解できなくもないかな。

そりゃあ、そもそもストップモーションという作業が大変なことであることは知識としては知っているし、毛を動かしていることに「芸コマだぁ」と関心することはあるけれど、「クボ」を観た今となってはやはり物足りなさを覚えないわけではない。

ストップモーションという技巧を使うことの制約としてカットを割れないことで、むしろ緊張感が出たりとか、まあそういうことはある。

というか、オリジナル「キングコング」が語られる場合の大抵はストップモーションのオリジネイターとしての側面が大きい気がする。

 

しかし、わたしは特撮映画や怪獣映画としてではなく、むしろこれはフリークの恋の物語として悲哀ある映画として見るべきではないかと思う。まあ、わざわざ自分が宣言するまでもなくそういう見方をしている人が多いとは思うけれど。

 楽園たる島から見世物として捉えられたコング。初めて外界としての金髪美女に触れ合うことで恋をするコング。しかし、奇形者として都会人とのディスコミュニケーションによって理解されないコング。

ただ好きなものに触れたいだけなのに、理解されない悲しさ。ストーカーとすら呼べないほど、金髪美女とコングとの間には隔絶したものがある。だから、コミュニケーション不能なニンゲンとコングの間で軋轢が生じるのは当然のことで、あのラストはもっとも妥当な決着でもある。

ただ、94分あたりでコングが見せる涙を拭うような仕草に、どうしようもなくニンゲン側であるわたしはウルッとしてしまった。この、どうしようもなさに。

ラストにある人物が「美女に殺された」と言って幕を閉じるあたり、この社会がどれだけの病理を抱えているのか、とかちょっと笑ってしまったのだけれど。

 

 

あ、すごくどうでもいいことですが、長野のロキシーに行ってきたので写真を撮ってきたです。日本で最も古い映画館のうちの一つということらしいので、記念に。

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ゴミ袋と窓と水と火と

黒沢清の「ニンゲン合格」と「ノスタルジア

まあ「ノスタルジア」に関しては大学の授業でちょっと暑かったし今更、という感じではあるので本当に書くことはないんだけれど、しかしあの夢幻な時間と絵画的とも言える絵ヅラといい、水やら火やらといい、すごい変な映画だよなーと思ったりする。

でもやっぱりほかの映画と違う。この映画そのものがすごい水みたいだなーと改めて感じたのは、なんというかこう、デジタルではなくアナログであって、点ではなくずっと線が続いているような。かと思いきやベートーヴェンのものすごい使い方とか、急に足引っ掛けられたような感じもするし。

 

で、「ニンゲン合格

怖い。病院という場所だからということもあるし、死から蘇ったという意味ではまあ彼岸と此岸が画面の中で描かれるというのはまあわかるんだけど、物語的にはもっと温かみがあってもいいのになんでこう、気味悪いのだろうか。

黒沢清は大学で「叫」についてのレポートを扱ったときに多少調べたりして、そういう視点から見るとゴミ袋が登場するだけで笑ってしまったり。

ラストはまあ、生き返って「しまった」ニンゲンの収まる場所として至極ロジカルではありますし、本人も言っていた通りだし、というか。

ていうか主演が西島秀俊だとまったく気付かなかった。

 

リバイバル上映とかプロミスとか

インターステラー」のリバイバルがやっていたので観に行ったり「チョコレートドーナツ」を観たり、今日は「THE PROMISE~君への誓い~」を観に行ったり、録画してた「ヴァージン・スーサイズ」を観たりしてました。

 

インターステラー」も「チョコレートドーナツ」も既に観たことのあったやつなんで今更何かを書き加えるってことはないんですけど、「インターステラー」はリアルタイムで観たときよりもその色々な意味での上手さが実はあったのだなーというのが。

上手さ、というか、脚本とか尺の都合をうまく映像の表現で違和感なく見せていたり。だってね、マコノヒーがNASAを見つけてからロケットに乗るまでのインターバルすごい短いんですよ、マジで。普通は訓練とかをモンタージュなりなんなりで見せたりしますが、そこはあえてオミットしてテンポアップさせている。で、このテンポアップの仕方が割と強引というか勢いでつないでいるんですが、マコノヒーが車でNASAに向かっていくのとジマーの音楽で感情的な昂ぶりを優先して、そこに打ち上げのカウントダウンを重ね合わせることでエモーションが極大になったところで打ち上げということをやっていて、まあうまく端折っているな、と。

あとマン博士と合流したところで、まだ彼の正体が暴かれていない時点で、カメラの画角というか、マコノヒーとハサウェイにカメラの水平を合わせていて、マン博士っていうかマット・デイモンがその宇宙船と合わせて傾いているように見せているんですよね。要するに、実はマン博士が歪み・・・というかまあ、ズレ始めていることを暗示しているわけですな。まあ、ここは推測に過ぎないんですけど、「ダークナイト」の人体模型フェイスの彼のオフィスの本棚にそういった意味を託していたことを考えるとあながち間違いでもないような気もする。

「チョコレートドーナツ」はまあ、泣くよね、という感じ。

 

で「THE PROMISE」を観てきたわけです。

アルメニア人のジェノサイドを描いた映画ということで、まあ政治的なあれこれもあったりするのか公開館数もそんなに多くなく、東京でも6館しかかかっていない始末。ま、幸いなことに近所の映画館にかかっていたのでわたくしは観ることができましたが、祝日の昼にしては座席はガバガバですし年齢層もかなり高めでしたねぇ。 

 

あらすじ

1914年の南トルコ。トルコ人アルメニア人が共存して暮らす村シルーンで育ったアルメニア青年のミカエル(オスカー・アイザック)は、本格的な医療を学ぶために裕福な家の娘マラル(アンジェラ・サラフィアン)と婚約。マラルの持参金を学資にして、オスマン帝国の首都コンスタンチノープルの帝国医科大学に入学する。

ミカエルはコンスタンチノープルで商人をしている父の従弟メスロブ(イガル・ノール)の邸宅に下宿する。新生活に期待と夢を膨らませ、大学で出会った大物政治家の息子エムレ(マルワン・ケンザリ)や、メスロブの娘の家庭教師アナ(シャルロット・ルボン)と友人になる。ヨーロッパ育ちでパリから帰国したばかりというアナに洗練と都会の香りを感じ、憧れを抱くミカエル。一方、アルメニア人の父親を亡くしたアナは、父の故郷と同じ地方からやってきたミカエルに親近感を抱いた。ミカエルは、アナの恋人でアメリカ人ジャーナリストのクリス・マイヤーズ(クリスチャン・ベイル)に紹介される。通信社の記者として働くクリスは、戦争が近づいているキナ臭さとトルコに急接近するドイツの危険性を感じていた。ミカエルたちはエムレの豪勢な誕生パーティーに招かれるが、酔って現れたクリスは招待客のドイツ人たちを罵倒して騒ぎを起こしてしまう。第一次世界大戦が始まりトルコも参戦。ミカエルにも徴兵の招集がかかる。ミカエルは医学生として徴兵免除を申請するが、アルメニア人だからと受け付けてもらえない。問答無用で戦地に送られそうになったミカエルを、エムレが役人に賄賂をつかませて救ってくれた。

戦意高揚とともに国内ではトルコ人民族主義が高まり、アルメニア人への差別と弾圧が横行し始める。トルコ中部を取材に訪れたクリスは軍によって住処を追われたアルメニア人の集団を目撃。抵抗した者は処刑され、さらし者にされていた。

一方ミカエルとアナは、アルメニア人を狙う暴徒の群れと遭遇。ミカエルも襲われて怪我を負い、アナと一緒に近くのホテルに避難。同じ部屋で過ごすことになる。お互いへの想いがあふれた二人は、その晩に初めて結ばれる。

同じ頃、メスロブがいわれのない反逆罪で逮捕されていた。ミカエルはエムレに助けを求め、刑務所に駆けつけるが、メスロブの父に見とがめられて拘束されてしまう。コンスタンチノープルに戻って来たクリスは、アナの心がミカエルに向いていることに気づきながら、アルメニア人弾圧の事実を世界に伝えようとしていた。

 

以上があらすじになります。

歴史は赤点が常だったわたしは、第一次大戦の勢力図的なことには割とうといのですが、トルコと日本(あとアメリカ)が現在のところ政治的に結び付きが強いということはまあ知っています。

 

えー、とりあえず言及しておきたいことがありましてね、カメオ程度の出番しかないジャン・レノをパンフレットの主要キャストに入れるくらいならエムレ役のマルワン・ケンザリを載せてあげてよ、と。

だってね、彼は一つの正しさを示して殺されたわけですよ。劇中の役どころとしても、マルワン自体の演技も良かったんですから(自分でアメリカ大使館に送った手紙を上官から読まされるときの手の震えとか声の調子とかさー)、数秒顔出ししただけのジャン・レノにインク使ってやるなよ東急レクリエーションさん。いや別にジャン・レノは嫌いじゃないっていうか、「鬼武者3」以来彼にはどちらかというと好意を持っていますがね、ここはマルワンに譲るべきでしょう。せっかく、この映画で「正しさ」を描いているのに、肝心の作品パンフでそういうパワーゲームを邪推させるような体裁にするのってどうなのでしょう。

 

とまあ余談はさておき本編についてどうだったのか。

基本的には主要三人の物語ではあるのですが、その三人(ミカエル、アナ、クリス)は実在の人物ではなく、実際の出来事の中にフィクション=物語としての人間を作り上げたというわけです。もっとも、クリスに関しては事件当時オスマン帝国で仕事をしていたジャーナリスト数人をかけあわせたキャラクターらしいですが。

一方で、そのクリスを救おうと動くモーゲンソー米国大使とオスマンの先導者の一人が劇中で交わすやりとりなんかはモーゲンソーその人の自叙伝からの引用で、実際にあったことだったりと、虚実のバランスが非常に巧みになっている。

そのへんのバランス感覚は非常に上手いと思う。

けれど、実際にミカエルやアナのように過酷な経験をした人、つまり親族を皆殺しにされ追いやられた人はいたのだと考えると、わたしがためた涙は必ずしも架空のキャラクターにだけ向けられたものではないのだろう。

わたしは決して、これが歴史的な傑作であるとは言わない。

けれど、観る価値のある映画だとは思う。

 

 

 で、「THE PROMISE~」を観てげっそりしたあとに観た「ヴァージン・スーサイズ」はすごいポエティックで困った。ていうか自分が観たソフィア・コッポラの映画って、どれもこれも題材からしてかなりポエティックなものをポエティックそのまま押し出している感じがあって、別に好きでも嫌いもでないんですけどイマイチ乗れないんですよね。「ロスト・イン~」はビル・マーレイと若きスカヨハの肉体感でまあなんとなく観れた感じでしたが、「ヴァージン・スーサイズ」に関してはなんていうかこう、

 

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        >   そうなんだ、すごいね!      <
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            |__,,/          |__ゝ
             〉  )          (  )

 

 

って感じなんですよね。

ただ、今度の新作は割とどろどろしそうで面白そうではある。しかしダンストはあれですね、このときからビッチな感じの役をやっていたんですね・・・。今度のでもそんな感じなのかどうか。

と、いうわけで

オールタイムベストに入るくらいの傑作(断言)。
早くBD出して欲しい。特典にデュクルノー監督の短編をつけて。

もうね、これから週刊少年ジャ〇ンプに応募しようと思う漫画家志望の人はこれを観ることを義務付けたいくらい。それくらい、この映画にはメジャーとしての王道を失ったジャンプ的な「友情・努力・勝利」イズムがある。嘘です、努力描写はそんなにないです。葛藤をイコールで努力と結びつけてもいいのであれば、あるいは可能かもしれませんが。
けれど、ジャンプ的というのは事実です。この映画にはメインとなるふたりの人物、というか姉妹が出てくるわけですが、これがもう「NARUTO」におけるナルトとサスケをサスケとイタチの関係でやっている感じ。そこに肉体的な女性性と恋を盛り込みカニバルというラッピングを施した王道の青春映画とも言える。

一方で、これは甘酸っぱさの甘さを極限までミニマルにしそこに辛さを加えた青春映画でありかなわない恋愛映画でもあるのです。

パンフレットのコメントにもあるように、この映画は少女の変体を通じてその変体そのものと折り合いをつけていく物語である。なるほど、デュクルノー監督自身の言うようにクローネンバーグの用いる身体性のグロテスクさを通じて表現するという部分はまさしく、といったところ。「ザ・フライ」において主人公のセスがその身体の変容によって自己の精神を増長させ他者とのコミュニケーションとの阻害が生じたのと同じように、デュクルノーは一人の少女の肉体を通して、しかしクローネンバーグの「ザ・フライ」が徐々に変貌していく身体の時間をゴールドブラムの肉体そのものを変えていくことで見せていたのに対し、デュクルノーはそれをあくまで過程として描いている。
皮が向けるシーンの痛々しさは、文字通り一皮むけたことを示し、あるいは新しいコミュニティ(社会)との接触による破瓜としての膜の喪失とも取れる。

さりげない演出やユーモアも特筆すべき部分であろう。あの、おそらくは拒食症に向かうデブスっ子トイレでのアドバイスとその後の「ニカっ」と効果音のつきそうな笑顔や、「キューブリックか!」と突っ込まざるを得ないインリンオブジョイトイも顔負けの画面に据えたM字開脚からの犬のアソコ舐めは笑わずにはいられない。
あるいは、覚醒を終えたジュスティーヌとアレックスがゲームをするシーンのカット。両者のバストアップのカットが交互に入れらるのですが、この二人の画面の位置関係が擬似的なスプリットスクリーンとも言える対比になっており、このあとに待ち受ける対決を予感させてすらいる。

そこはかとない演出で言えば、最初にジュスティーヌが着ている服の絵が(おそらく)ユニーコン=処女性を表している。のですが、入学直後のパーティ=イニシエーションのシーンでは馬のぬいぐるみがまるで絞首刑にされたかのように吊るされている。馬、とは処女性の特筆すべき象徴であるユニコーンの角が取れたことを表しているのだろう。

そして、儀式を終えた彼女はベッドの中でもがく。揺籃とも思えるベッドの中で悶えもがく姿は羽化を待つ蛹のようにも、誕生の時を待つ胎児のようでもある。
呪怨」でも逆説的に示されていたように、布団あるいはベッドの中というのは極めてパーソナルな絶対空間でもあるわけです。しかし、イニシエーションを通った彼女はもはやそこに留まり惑溺していることはできないのです。

姉の指を食すシーンにかかるあのノイジーな音楽。パンフで町山智浩は「サスペリア」のゴブリンの音楽に言及していましたが、わたしはそれ以上に「早春 DEEP END」(傑作)の最後にかかる音楽に似ていると思いました。

ともかく、このシーンで目覚めたジュスティーヌと、それに驚くことのない姉のアレックスの二人にしか通じあえない特質。ああ、なんて寂しくて悲しくて、それでいて喜ばしいのだろう。姉妹の立ちションシーンは、笑うよりも先に微笑ましさがくる。

ともかく、好きなシーンがありすぎて一々言及していくとキリがないので、自分が感極まったシーンを最後に取り上げます。

それはアレックスによってまるで獣のようになってしまった自分の姿を拡散させられたジュスィーヌが怒りに狂ってアレックスに飛びかかるシーン。そこに至るまでのジュスティーヌの怒りはとても複雑な感情に基づいている。好意を寄せているアドリアンに見られたこと、そしてまさしく彼からそれを告げられた屈辱、あるいは彼との軋轢をうむ一件があったにもかかわらず自分のことを心配してくれる彼の優しさにやるせなくなったのかもしれない。

だから、ジュスティーヌの怒りはもっともだ。

では、アレックスはなぜそんなことをしたのだろうか。もちろん、妹に堕ちてほしかったからだ。唯一、自分を理解することのできる妹に、堕ちてしまった自分の元に来て欲しかったからだ。

アレックスは寂しいのだろう。ここにおいて、この二人の関係性はバットマンジョーカーの関係性と同じであることが明らかになる。

そして、二人は取っ組み合いになる。周囲の人間がスマホを向ける様は「ザ・サークル」のシーンを想起させる寒々しさや他者性というもののどうしようもない壁を見せ付けられる。しかし同時に、姉妹はお互いを傷つけ合っているにもかかわらずそこにはどうしようもないほどコミュニケーションが発生している。

ここは二人の攻撃の仕方にも注目したいのですが、カニバルに堕ちたアレックスはジュスティーヌの頬を噛みちぎるのに対してジュスティーヌはアレックスに噛み付きはするものの服の上からであるし、そもそも噛みちぎったりはしないのです。ここに、ラストの明暗が提示されてもいたりする。

わたしは、この取っ組み合いが極に達する瞬間に、あまりの泥臭いかっこよさに目に涙を貯めていました。お互いがお互いの手に噛み付き合う、つばぜり合いと言っていいこのシーンに。

どうしようもなく暴力的なコミュニケーション。その直後に、この二人は肩を組んで周囲の人間たちに中指おったてます(画面意訳)。

はたして、血みどろの暴力を繰り広げた二人とそれを冷笑しながら囲う人々の、どちらが人間たりえるのでしょうか。

そして最後近く。留置所の面会室の窓を介してジュスティーヌの顔とアレックスの顔が重ねられるとき、二人が同じ存在であり、それこそガラス一枚分の差異でしかなかったことに気づかされるのです。

二人のいる場所は逆だったかもしれないし、二人共内側だったかもしれません。

 

まあラストのオチに関しては「血は争えぬ・・・」的なある種、血統主義的というか、そこまでジャンプイズムあるんかいと笑ってしまう部分でもあるのですが、よく見るとお父さんは最初から彼女ら姉妹の性質を見抜いていた節があって、そうなると「才能を見せつける」という意味もちょっと違ったニュアンスに受け取れたり・・・。まあともかくパパンは苦労人ということがわかるラストでもありましたね。

 

それと、ジュスティーヌ役のギャランス・マリリエの顔が最高。何が最高って高橋一生ジャンルの顔なのが最高。このジャンルの顔には高杉真宙や満島慎之介も加えていいかなーと思うのですが、要するに危うい・危ない目をした胡散臭く、それでいてどこか妖艶さを持っている顔です。

このマリリエさんは、目だけでなく口元の感じまで高橋一生ぽくて最高です。あーもうともかく最高。


ともかく最高の映画。