dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

4月のまとめ

ヒューゴの不思議な発明

なんだかすごいスピルバーグっぽい。

スラップスティックな感じとか、70~80年代のスピルバーグ映画でこんな感じのを観たような。あと駅にずっととどまっているという点では「ターミナル」とも共通点があるといえばある。

どうでもいいけれど、クロエよりエイサくんの方が可愛いという罠。映画への愛が溢れている映画、といえばいいのだろうか。サシャバロンコーエンとかクリストファー・リーとか、なにげにメンツが面白いというか豪華というか。

あの機械はやっぱり「メトロポリス」のアレなのかなぁ。

 

 

「チェンジアップ オレはどっちでお前もどっち」

ライアン・レイノルズベン・スティラーに見えた。作品自体は下品なネタが多いけれど笑える。

マスターベーションを訊かれてクラッカーと答える母(クラッカーはタマキンのスラングなので意訳としては誤魔化してはいないという)。ケツたたいて友人の娘を倒すところの配慮の欠如とか。

タティアナは狙ってないのでしょうが日本語の語感だと卑猥に聞こえたり。

細かいところで言えば、向こうの行政施設?特に運輸省はサウスや「ズートピア」でも描かれたように仕事がトロすぎて行列ができるというのはもはや定型なのでしょうね。

ほかにも入れ替わったことをわからせるために夫婦しか知らないことを言うくだり。夫が誕生日を間違えるのとか、笑えるけど笑えないというか。

後半はレイノルズ側の描写が雑な気がしますが、まあ多くを求めるタイプじゃありませんな。

入れ替わることで他者を理解するというのはまあありがちだし、何か傑出した部分があるというわけではありませんが、普通に観ているぶんには笑えます。

個人的には「小便して自分の人生を取り戻す」というワードが気に入ったので、排尿するときに使います。

 

 

ドクトル・ジバゴ

長い。いや、良い映画ではあるんですが長いですよ。

197分とか、「アラビアのロレンス」もそうですがデヴィッド・リーンの映画は尺もそうだし内容のカロリーもあって集中力を持続させるのが大変。

ただ、最後まで観てみるとヒューマンドラマとしての側面がかなり大きく、ロシア革命という状況に翻弄される男女の物語なのですね。なんだか宣伝コピーみたいになってますが。

これ、どっかで同じようなプロットを見たなーと思ったら「シェルブールの雨傘」でした。「シェルブールの雨傘」も、これはこれで全編がミュージカル台詞という狂気の映画で凄まじいのですが、話自体は「ドクトル・ジバゴ」とかなり近い。要するに「もしもあの時あの人と…」というタイプ。オマー・シャリフの命日だからこれをやったのだろうか、BSは。

 

演出も芸コマだったり。たとえばコマロフスキー(クズ)とラーラのシーンで、コマロフスキーの顔を近めに、その横にある鏡におめかしさせられた赤いドレスのラーラを反射させて一緒に撮っているんですが、鏡には彼女の身体だけが映り、顔は鏡面に収まらないという演出。この男が彼女を本質的にどう思っているかが読みとれる。そのくせ、葉巻に火をつけるだけの行為を鏡の前で行う(無意識だろうが)自我の強さ。

実際、このあとで彼女はレイプされるわけですが、まあ男尊女卑の世界では黙殺されてしまってね。

ジバゴに「彼女を進呈しよう。結婚祝いに」なんてほざきますし。

でもあの赤いドレスがいいんですよね、困ったことに。

 

「大砂塵」

強い女同士のバトル。やっぱりジョーン・クロフォードはかっこいいなぁ。

いや、いい映画なんですけど、「ドクトル・ジバゴ」と立て続けに観たせいでわたしのポンコツな脳みそでは集中して見ることができず・・・

 

サボタージュ

もともと3時間の映画を編集で100分ちょいから午後ロー枠でさらに20分ほどカットされているので微妙によくわからない部分があったりする。

デヴィッド・エアーなので最低限の面白さは担保されているわけですが、ミステリー要素を排除しても良かったんじゃないかなーって。

しかし相変わらずグロ描写とか銃撃とかアクションはいい。死体を金網で巻くことで腐乱ガスが抜けて沈めても浮き上がってこないという部分とか。

しかし編集と演出(制作のゴタゴタのせいですが)のせいでよくわからなくなっている。シュワが最後の方で攻め込むところで背後のポスターに「sin sin sin」って書いてるのとか細かい部分はいいんですけどね。あと三四郎小宮の吹き替え起用はイミフ。

 

ロシュフォールの恋人たち

ミュージカル映画ってやっぱり衣装が大事な気がする。「ラ・ラ・ランド」がミュージカル映画の初体験である自分からすると、やはりその部分は外せないのだろう、と「ロシュフォールの恋人たち」を見て思った。

冒頭のダンスなんか、「ラ・ラ・ランド」の冒頭のダンスに少なからず影響を与えているでしょうし、これは結構イケている気がする。

グレーの作業着(?)の下に淡い色のシャツ着ていたり姉妹が最初来ていた白を基調として黄色やピンクが下地的に使われているワンピースも良いですよね。

あとイヴォンヌのカフェのデザイン。壁がほとんどなくて開放的なんですけど、グリッド状の白い床の整った感じとか、個人的にすごいツボ。

カラフルな衣装が次々変わっていく楽しさっていうのはやっぱりミュージカル映画ならではでないかと思うのです。

 

「ファーナス 決別の朝」

やるせない。チャンベール、ハレルソン、ケイシー、デフォー、サルダナ、ウィテカーなどなど。好みの俳優が雁首揃えて陰鬱とした空気を発している映画とあって、個人的には結構好きな映画だった。

チャンベールからどんどんズームアウトしていくカメラワークが多用されているんですけど、これはもしかすると彼から離れていくそれぞれの人物の視点だったりするのかなーとか思うとほろり。ケイシーは「マンチェスター~」でその地に足付いたすさみ具合を見せてくれていましたが、こちらでも心の荒廃を明確な理由を根拠にしているだけあって壊れ具合もひとしお。ハレルソン意外は明確な悪がいないだけに、どうにもやるせない。「ジュマンジ」を観たあとにこれ、というのも落差がひどい。ハレルソンを悪、とは書きましたが、実のところハレルソンですら閉塞した村社会の因習というシステムに無意識のうちに調教された犠牲者でもあると考えることもできなくはない。いや、普通に観ているとハレルソンの演技も相まってムカつくサイコみたいな感じなのですがね。

 

 「ソイレント・グリーン」

ディストピア映画といえば、この映画の名前が挙げられるのはかなり早い段階であろう。人肉ウマーではなくマズーな映画。

この映画は食ってるものが人肉でできていましたーということが大オチになっているわけですが、今似たような設定やリメイクを作るとしたらむしろこれが前提となって様々なメタファーでもって映像化されるのだろうなーと思ったり。

人間を飼育することの前段階としての「家具」があるとも考えられるのですが、段階でいえばむしろ飼育の後になるでは。「家具」が女性だけという点は明らかにフェミニズムの問題が提起されている。

ディストピアな世界観が観れるだけで、割りとじぶんは満足してしまうのですが、頭の方の水路(?)みたいなところのフェンスを暗殺者が登っていくところの望遠のカットとか、なにげにすごい近未来感があるんですけど、あれってセットなのかしら。

あと市場の風景を映すときだけ緑色がかった霧のようなものが画面に充満しているのとかもいいですよね。

 

「シャイアン」

ジョン・フォードの、というかアメリカ人の罪意識からなのかどうかは知りませんが、今度は先住民側の苦悩を描いている。

相変わらず風景のカットとか馬がカメラの奥までずーっと雁首揃えて走っているシーンとかは観ていて気持ちいい。

 

 「レッズ」

冒頭の入りからてっきりドキュメンタリーかと思ったら伝記映画でした。それでも結構史実に忠実なのだろうけれど。

ロシア革命を外部の視点から描くというのは面白いんだけれど、いかんせん長すぎる。もっともどこかカットしろ、と言われるとそこまで無駄な部分があったとも思えないし。いや、そうでもないか。少なくとも前半のイチャイチャとかニコルソンとのntrとかもっと切り詰めてテンポよく行けたとは思うんですよね。別に、最終的にあの三者が組んず解れつのおお揉めになるとかでもなし、かといって革命の動向とシンクロするでもなし。主題はあくまで革命の動きにあるわけで、どうもどんピシャリとは思えない。困基本的に2時間でも集中力にかげりが見え始める自分としては190分は長すぎる。

 

女は二度決断する(AUS DEM NICHTS)

劇場行ったら朝一の回なのにアベンジャーズの客でごった返していてがすごかった。ていうかウザかった。GW効果もあるんだけど、あんなにイオンシネマに人がいるの見たことないですよ。ほんと、人ごみって嫌いだ。まあ好きな人はそもそもいないだろうけど、わたしは輪をかけて嫌いだ。

中年の夫婦がクレヨンしんちゃんアベンジャーズどっちを見るかで迷っていたのがなんか面白かったのでほかの客を許しましたが(何様)。しかしこれまでのmcuでこんなに人が入っているのは見たことないんですけど、この人たちはこれまでのシリーズをちゃんと全部おっかけてきたのだろうか。なんてことを思いながら箱に入っていったのだった。チケット渡すのにも列に並ばなきゃいけないくらい混んでましたよ。普段はガラガラなのに。

 

報告はこれくらいにして、映画「女は二度決断する」について。

 ドイツ(語)の映画といえば去年は「ありがとう、トニエルドマン」なんて傑作もありましたが、本作「女は二度決断する」も傑作です。面白いです。面白い、と書くと内容的に不謹慎かもと思わなくもないですが。
ていうか、すごい上手い。社会的な問題をそれとなく台詞や演出の中に盛り込みつつある一人の女性の話としてしっかりと最期まで語り切る巧さに脱帽。
ただ、あまり社会派とか書くと逆にバカっぽい(主に言語に対する思考が足りないマスコミのせいですが)んですが、それでもやぱり社会派な映画ではある。
偏見を偏見のままコメディとして扱う「サウスパーク」と並べてみても面白いかもですね。

 本作は3つのチャプターに章立てされていて、「Ⅰ 家族」といったようにあらかじめ提示される、わかりやすい構成になっています。最近だと「マジカル・ガール」がこんな感じでしたっけ。
そんなわけなので、とりあえず章ごとに書いてきます。

 

1章:家族
 この章に限らず、全編に渡ってほとんどフィックスで撮っている場面がなくて、手持ちカメラのように常に小さなブレがある。その演出は、人間を描くこの映画にはかなりピッタリしている気がする。「ギフテッド」ほど露骨ではないのも印象が良い。よく考えると映画の始まりからして獄中結婚の様子をホームカメラで捉えた映像から始まるわけですし。

 1章で描かれるのは章のタイトルどおり家族についてなわけですが、アットホームな雰囲気とかそういうのはほぼない。ないというか、本当に冒頭にさらっと(しかし巧妙に)描かれるだけで、10分もしないうちにすべての出来事の発端となる爆破事件が起こるので、むしろ家族を失ったカティヤの喪失感を描き出すチャプターと言えるでしょう。この一件で夫と息子を失うわけですが、事件が起こったときに彼女自身はおふろの王様みたいな場所で妊婦の友達とくつろいでいたというのがまたキツい。この直前の家族の些細だけどまさに良い家族といったやりとりがあるだけに。
この一連のシーンですでにカティヤは犯人と遭遇するわけですが、この辺も後の2章の展開と上手くリンクしていて法廷劇のシーンでカティヤ(ダイアン・クルーガー演)に感情移入させる作りになっている。もしかすると、この辺は共同脚本のハーク・ボームさんが助言していたりするのだろうか。
ちなみに、この妊婦の友人の描き方なんかを巧みに使って時間の経過(=裁判にかかっていた時間)を言外に示していたりする。

 で、前述したように台詞や演出からさらっと社会問題が表出する。たとえば犯人捜索のために警察がカティヤに質問をするシーン。夫はトルコ系で薬を売っていた前科者だったこともあって、警察はカティヤに「夫には敵がいたか?」と訊ねます。これの質問の意味するところは色々と背景があるわけですが、その質問に対して彼女は「敵って何?」と問い返すわけです。夫はすでに闇商売から足を洗っていたにもかかわらず、前科者でありガイジンであるというレッテルを貼ったり特定の宗教を信仰していたのかなど未亡人にデリカシーのない質問をぶつけます。
第二次世界大戦、東西冷戦、そして9.11を経た今、単純冥界な「敵」などという仮想敵がいないこの時代に。ほかにも随所にこれらのようなポリティカルなワードを想起させるものがあったのですが、1回観ただけなので失念している箇所が結構ありますです。

 このチャプターは全体として彼女の悲しみや夫の死によって生じる軋轢なんかが表出させられてくるのですが、ダイアン・クルーガーの煙草の吸い方一つとってもその混乱状態や悲壮感が伝わってきますし、殺された夫ヌーリ(ヌーマン・アチャル演)の実親が彼と彼の息子(要するにカティヤの息子)の損傷した遺体を故郷のトルコに持ち帰りたいと提案されたときのカティヤ側の親の反応やヌーリ側の親の反応、そしてその申し出に対して一度部屋にこもってクスリを吸ってから断るといった、カティヤの弱さを丁寧に描く。やりすぎて「もういい…!もう…休め!」と叫びたくなります。そんな喪失の只中にいる彼女が彼女の弁護人であるダニーロ(デニス・モシット演)からもらったクスリに頼ったり、それが後々の展開に影響していったりと、ともかく脚本がかなーり有機的に絡んでいる。

チャプター1のときは事件が起こってから章の終わりまで、ずっと雨が降っていてちょっと笑えてくるくらいなのですが、カティヤのことを考えるとそれほどの悲しみの中にいるということなのでしょう。
そして雨の降る中、風呂場でリストカットして自殺を図るカティヤ。が、犯人が捕まったという留守電を聞き覚醒し次のチャプターへ。

が、次の章に移る前に、ヌーリが自宅に三人でいる風景をスマホで撮っている短い動画がインサートされる。会社の経理担当でありつつ壊れた息子のラジコンを修理するエンジニアを自称するカティヤ。三人が楽しげにフレームに収まることはもうないのだという物悲しさや寂寥感で胸が苦しくなってきますね。
ところがどっこい、そこは周到なファティ・アキン監督。ここでのラジコン修理というのがまたまた後の展開の伏線というか布石になっていたりする。

 

 2章:正義
 この章は、法廷劇がメインとなっていて、エンタメとしてはここが一番楽しい部分だと思います。検察側と弁護側が参考人の情報などから相手を打ち負かそうとしている頭脳戦が見れますし。見た限りだと法廷では先攻より後攻の方が優位なのだろうか。それとも単純に力量の差なのだろうか。
ここは、共同脚本のハーク・ボームさんが弁護士でもあるという才人だったので、彼の助言なども結構大きかったようです。

 この辺、場所がほとんど法廷内だけなんですがカメラワークや被写界深度でカティヤとダニール(カティヤの弁護人)の距離感を演出していたり、飽きさせない作りになっているんですよ。それにここで犯人(ネオナチカップル)がまともに登場するわけで、ここまでカティヤに感情移入してきた観客にとっても明確な「敵」の登場に盛り上がるわけです(怒りで)。ま、それゆえにラストの展開が納得いかないとおっしゃる人もいるのでしょうが、わたしはむしろあれこそが人間だと思いますね。

 ここで登場する犯人側の弁護士のハーバーベック(ヨハネス・クリシュ演)の顔のウザさとかもね、いいんですよ。すきっ歯だったり眉間に皺寄せる表情だったり小癪な論法使ってきたり。
あるいは、参考人として召喚されるネオナチカップルの男のほうの父親であるユルゲン・メラー(ウルリッヒ・トゥクール演)と、カティヤの加害側と被害側の交流が描かれることで単純な二元論に陥っていないのもイイネ。ウルリッヒさんのちょっと所在なさげな顔がですね、いくら絶縁状態だったとはいえ息子を警察に通報するという行為に胸を痛ませなかったはずがないのだと思わせる。

 紆余曲折があって結局ネオナチカップルは無罪になるわけです。この紆余曲折の中に最終の3章の展開に繋がっていく重要な要素もあったり、前の章における行動が招いた結果であることであったりするのであまり省くわけにもいかないんですな。
たとえば1章でクスリをやっていたがために、様々な事情から薬物検査を拒否するしかなくそれによって証言能力がないとされたことだったり。あるいはホテルを経営するギリシャの極右政党の男がカップルを庇って改ざんした利用歴を提示したことであったり。うろ覚えなのですが、確かこの男の経営するホテルの名前が「オールドドリームなんとか」だった気が…バリバリの保守でちょっと笑えてきます。

 そんなわけで、無罪判決がくだりこの「正義」というサブタイトルの2章は終わり、またしても次の章に移る前に短いホームビデオの動画が挿入されます。

カティヤがおそらくはスマホで撮っている動画(彼女は足先し画面に映らないことから、彼女の視点であると推測できるので)。そこに映っているのは海で戯れる息子と夫。
これは映画のラストショットと密接に繋がります。ラストショットの説明は後に回しますが、これは明らかに生者であるカティヤのいる浜辺をこの世・此岸として描き、海をあの世・彼岸として描いています。この短い動画の中で彼女は夫に誘われるにも関わらず日焼けがどうのこうのと言って浜辺に残り続け、夫と息子は浜辺から海の中に入っていくのですから。

 

最終チャプター、3章の「海」
 この章で描かれるのはカティヤの復讐に至る行動。
確かこの章で1章に登場した妊婦の友達とのやりとりがあったと思うのですが、さらっと描かれるのに情報量が多いです。
まず妊婦だった彼女が実はすでに出産して子どもを連れてきている。「実は」と書いたのはそれを明らかに意図した演出だからです。これが示すのは前述のとおり時間の経過です。裁判にどれだけの時間がかかったのかを暗に示し、それによって疲弊した彼女の心理などを表しているのですが、それだけではなくカティヤの目の前で子どもをあやすという、「悪いわけじゃないけどこっちのことも考えてよ!」なシーンだったり。まあ、これと似たシーンは2章のダニーロとの酒場でのかけあいにも似たのがあるんですが。
 ただ、この友人とのやりとりで重要なのは友人が出産を終えたことで「生理が戻ったの。タンポンあるかしら」という発言に続くカティヤの「これ(タンポン)あげるわ。わたしは止まっちゃったから」というような旨の言葉を発する。この生理というのが、実は結構重要なんですが、それも後述。

それから、彼女は復讐の行動に出ます。
無罪判決によって旅行を楽しむネオナチカップルのフェイスブックを眺めながら情報を収集していく中で、2章のギリシャ人極右オヤジの経営しているホテルの住所を突き止めます。このフェイスブックの投稿コメントも本当に腹立たしくて「国の金で旅行満喫中(。・ ω<)ゞ」みたいなことを書いているわけですよ。キャンピングカーに乗って。
で、ひと悶着ありつつもネオナチカップルの居場所を見つけたカティヤはいよいよ行動に出ます。その間、何度もダニーロから着信があったものの、無視するのです。が、これもラストに繋がっていく演出の一つなのかなーと思います。
犯人の居場所を見つけた彼女は、犯人が使ったのと同じ爆弾を作り始めます。鍋の中に大量の釘を仕込んだ爆弾を。この爆弾を使うのに使われるのが、インサートされた動画で彼女が直していたラジコンというのが、なんともはや言葉にしがたい。

そしてラジコンのリモコンを使って遠隔爆破を狙い、ネオナチカップルがキャンピングカーから出てランニングをしに行っているあいだにキャンピングカーの下に爆弾を置いて二人が戻ってくるのを草葉の陰でじっと待つカティヤ。ですが、ここで彼女は鳥が車のミラーにとまっていることに気づき、爆弾を回収してその場から立ち去っていくのです。


 ちなみに、ランニングから帰ってきた犯人の表情が生き生きしているのが最高に最悪なんですが、この辺のことをフェミニズムの観点からファティ・アキン監督と中村文則氏がパンフレットの対談で語っていて、そのへんもすごく面白いので読んでみるといいかもしれません。パンフレット全体としてはボリュームに欠ける気はしますが。

 

爆弾を爆発させることなく一時撤退した彼女に、またしてもダニーロから電話がかかってきます。けれど、今度は彼女はその電話に出るのです。上告の期限が迫っているから書類の記載にカティヤ本人の署名が必要だと。だから、明日の朝に来てくれと。するとカティヤは本当に心の底から溢れ出たような声で彼に礼を言います。そのあとに、彼女に生理が戻ってくる。

思うに、2章が終わってから生理が戻ってくるまでのカティヤは人間ではなかったのでしょう。人間ではなかったというのは、復讐心に支配され考えること思いやることを止めたがために、人間の血を失った=生理が止まったということ。
そう考えると、どうしてダニーロの電話のあとに彼女に生理が戻ったのかに得心がいく。それまで電話に出なかったのは、他者との接続を完全に絶っている状態であることを示しているのではないか。他者とのつながりを断絶することで他者の個人性を排し、復讐心というゼンマイによって動くだけの機械に成り下がっていたのではないか。

 けれど、彼女は一度踏みとどまる。なぜか。なぜなら、鳥という些細なきっかけではあっても、それによって他者の存在に気づいたから。

他者の存在に気づいた彼女は、ダニーロからの電話を取る。それまで無視していた他者の存在を思い出し、機械から人間に戻った。だから、血を取り戻したんだと思う。
 そして、人間になった彼女は、遠隔から爆弾を起動させて二人を殺すのではなく、自ら爆弾を抱えて乗り込み自爆することを選ぶ。そう。もしも自爆でなかったとしたら、それは息子と夫を奪ったネオナチカップルと何ら変わらない。悪辣な思想に自らの思考を蝕まれ、「他者」という個別な存在を放擲し人種や性別といったガワだけを切り取り攻撃するような思考停止な機械化したネオナチと。

殺戮マシーンというスラングがある。スラングとして定着しているわけではないけれど、殺戮とマシーンという単語を繋げることでそこに人間的な思考が排除されていることを暗に示している(かどうかは不明)のではないか。だとしたら、踏みとどまる直前までの彼女はやはり機械だったのだろう。
だから、彼女はあくまで人間として自爆することを選んだ。悲しみと怒りに支配されていたことで止まっていた生理が、爆破を思い直したあとで再開するのは、つまりそういうことなのだろう。考えることを止めた機械としてではなく「一人の人間として二人の人間を殺める」ために自爆という選択を取ったのではないか。

ただちょっと、映画そのものとは関係ないけれど、少し思うことがある。この映画に限らず「生理」とか女性の人体現象をあまり象徴的に使うっていうのは、それ自体がどこか女性を異なる存在として扱っているような気がしなくもない、というのは前から少し思っていたりする。だって、女性にとってそれはある意味でごくごく身近なものであるはずだから、殊更強調されるとこそばゆいのではないかと。

さて、そんなわけで車が爆発したところで映画は終わるのですが、ここで2章と3章のあいだに挿入される動画について触れた「海があの世である」ということが裏付けされる。裏付けされるというか、このラストのカットによって逆説的に判明する、といったほうが正しいのだけれど。
 なぜ海があの世なのかというのは、ラストに流れる歌の歌詞が露骨にそうであるから。というだけではもちろんないです。ラストショットで爆発した車から空に昇っていく爆煙をカメラが追っていくと、天地が逆転したかのように海が映し出されるからなんですよね。空の上にある世界があの世であることは、誰にだってわかります。まあ、あの世というよりは天国でしょうけれど。
なんにせよ、あのラストカットはすごく美しい。
ラストに至る一連のシーンのカメラのアングルとかもすごい良いです。ちょっとしたホラー(?)にも思えるようなのがあったり。


いや、これはすごい良い映画ですよ、マジで。

それでもこれは、どこかの誰かの話なのだと思える

まいった。

オールタイムベストに届くか届かないかといったぐらい、自分の好みの映画だった。

「25時(原題:25th hour)」

何が好みなのかって、それはまあ「マンチェスター・バイ・ザ・シー」的な、と言えるかもしれない。あそこで描かれるマンチェスターの町並み以上に哀愁の漂う(というか人物たちが漂わせているのだけれど)ニューヨークという街が、すごくたまらない。ちょっと、というかかなり違うけどちょっと近い感覚としてGTAで雨の降る夜の時間帯の街を車で走っているときのような。

何が言いたいのかというと、「夜明け前の空が白んでいない時間の尊さ・儚さ」みたいなものがこの映画の全編に渡って支配しているというか。始まりからして真夜中(と思われる)の道路を車で飛ばすノートンですからね。もちろん朝や昼間のシーンもあるのだけれど、それでもやっぱりミッドナイト感がある。

けれど、言葉として言い表すにはどうにも難しい類の「情感」や「雰囲気」や「距離感」といったものばかりで、まとめのほうに押し込まず単独でポストしたものの文字数がかなり少なくなりそうな予感。

 

主張しすぎず、物悲しさをそれとなく演出する音楽もいいし使いどころもいいですよね。無常観というか。

 

あと役者ね。ノートンがこの役に選ばれたのって「ファイト・クラブ」の影響っていうか、その反動もあるんじゃないかなーってくらい、すごくやさぐれていて萌える。まあ豚箱に行くまでの25時間の物語だから当然っちゃ当然なんですけど、自暴自棄に「何もかもくそくらえ!この街もあいつもこいつもどいつもこいつも全部クソだ!そんなこと

 を考える俺が一番クソだ!」といったやり場のない憤りや後悔といったものが、あのトイレの鏡の前で一気に吐き出す演出と相まって切なくなってくる。周りに当り散らすのは、何よりもそれが自分の自業自得が原因であることを理解しているから。それでも当り散らさずにはいられない、そんな葛藤まみれの独白に心を揺さぶられないわけがない。時事ネタでいえば、アベンジャーズ絡みだと「シビル・ウォー」で社長がファルコンを撃ったときにも近しい感情があって良かったなーと思い出した。

バリーペッパーのあの小生意気で下世話で下品だけど、友情に厚い有情な役柄なんかもいいですよね。最後のほうで泣きながらノートンを殴るシーンのどうしようもなさややりきれない気持ち。

多分、本編のあとに一番しれっと社会に溶け込むタイプではあるのだろうけど、内心ですごく抱え込んで自殺しちゃいそうな危うさもある。

それとシーモア・ホフマン。ちょっとマット・デイモンに似ているんですよね、この人。なんというか、何事もなさなかったverというか。踏み出す力より踏みとどまらせる自律心が勝ってしまう人間というか。

そういう意味では、この人もかなり危うい場所に立っている気がするんだけれど、ノートンに尺が割かれているのでその後にどうなったのかが描かれないのが惜しい。最初は「130分とか長いなーだるいなー」なんて思っていましたが、見終わった今となっては「あと10分だけでいいからホフマンのその後を!」と思う。

まあでも、この世界だとこの人の行動の結果はよろしくない方向に向かいそうではある。あとねー細かいところですけどバリペとチャーハン食ってるときにね、手が震えてるんですよ、色々言われて。彼はすごく繊細なんですよ。すごく繊細で、だけどノートンみたいな悪友とも仲がよくて、おそらくは彼なりの葛藤があったはずなのですよね。

 

けれど、遠目からのショットとバストショットをうまく使って一定の距離を保っている感覚とかもあって、決してウェットになりすぎない大人な振る舞いが活かす。

スパイク・リーの傑作だと思う。

SI PUO FARE!他者はすべてイカレているということ

イタリア映画「人生、ここにあり!」

 精神障害者に焦点を当てた、いわゆる社会派な映画ではあるんですが、内容はそこまでかしこまってはいない。むしろ、普遍的なテーマ性を持った映画で、誰が見てもわかりやすい物語になっている。観賞した印象としては理想8:現実2といったバランスなのですが、一応は実話ベースの話ということらしい。マジですか。

精神病者を扱った映画といえば「レナードの朝」(はちょっと違うかな)や「カッコーの巣の上で」「17歳のカルテ」などがありますが、そレらに比べると重苦しい空気はない。少なくとも表面上は。これはイタリアという国柄なのかどうかよくわからないけど、悲壮感がない。人死にはありますが、なんだか重く見せかけてはいるけれど軽いし。悪いとか良いとかではなく、単純にそういう作風である、と。
 
ウィッキーさんの情報があまりにテキトーすぎるので、今回はDVDのパッケージに記載されているあらすじをしっかり書きますです。


舞台は1983年のイタリアーーーミラノ。型破りな活動で労働組合を追い出された熱血男・ネッロが行き着いた先は、精神病院の閉鎖によって社会に出ることにあった元患者たTの協同組合だった。お門違いな組合の運営を任されたネッロは、精神病の知識が全くないにも関わらず、持ち前の熱血ぶりを発揮。個性が強すぎて社会に馴染めない元患者たちに仕事でお金を稼ぐことを持ちかける。うぐに手が出るキレやすい男、彼氏が100人いるという妄想を持つ女、UFOが年金を支給してくれていると信じる男…そんな一筋縄ではいかない面々とネッロは、ドタバタなトラブルを巻き起こしながら、無謀ともいえる事業に突っ走っていくがーー。

1978年、イタリアでは、バザーリア法の制定により、次々に精神病院が閉鎖。それまで病院に閉じ込められていた患者たちを外に出し、一般社会で暮らせるような地域づくりに挑戦いた。この物語は、そんな時代に起こった、ある施設の夢のような実話を基にした作品である。

 

今から10年近く前の映画が、さらに30年前の出来事に端を発する実話を下敷きにした映画。ではあるのですが、実のところこれは現代の先進国(とりわけ日本)が直面している問題でもあったりする。
 というのも、精神障害者はなるべく病院や医療施設に頼るのではなく地域全体で、地域中心という方針が政府主導で現在進行形で行われているからだ。
なぜ病院を廃止するという法が成立したのかというのは、まあ一応わたしの専攻している部分であるとはいえここで説明するとかなり長くなってしまうし、半可通な知識で書くとあらぬ誤謬を生みかねないのでごくごく単純化してしまうけれど、簡単に言えば「人権擁護の観点から拘束したり強制入院させたりするのはどうなの?」ということである。たとえば「宇都宮病院事件」なんかは日本でも特にその機運が高まる理由の一つであるし、最近でもNHKのドキュメンタリー「ある青年の死」でも精神病院のスタッフの暴行によって死んだ青年のことが取り上げられていたりしたことからも、決して過去の出来事ではない。

NHKドキュメンタリー - ハートネットTV「ある青年の死」


 ほかにも兵庫県の事件に代表されるように私宅監置の問題なんかもからんでくるのだけれど、先刻承知ながらそこまで突っ込むほどの知識はまだわたしにはないのでとりあえずは「そういう歴史がある」とだけ。

兵庫・長男監禁 5年前親族が市に2回相談(日本テレビ系(NNN)) - Yahoo!ニュース

だから「精神病院を廃止する法」というのは決して患者を見捨てたとかそういうのではなく、むしろ世界的な流れとしてノーマライゼーションを目指した動きの一つなのだろうと思う。1975年の「障害者の権利条約」に少なからず影響を受けているのだろうけれど、イタリアどころか日本の障害福祉に関して学び始めたばかりの自分にはその詳しい背景はわからないので、今現在どうなっているのか詳しいところまではわかりませんが2016年時点では施行されている状態だった模様。

まあ病院を廃止するというのは福祉的にはともかく医療的には色々とぶっ飛びすぎなきらいもありますが、少なくともこの映画に登場するネッロのような人間がいれば成立し得るのでしょう。逆に言えば、こういう人間がいないとこの映画に登場していた人たちはずっと冒頭のように狭苦しい場所で薬を飲まされ切手貼りみたいな細かい作業を延々と続けていることになる。

 

基本的にはあらすじに書いたようなことから、精神障害者の人たちと関わっていくうちに初めは戸惑いがちだったネッロが、紆余曲折を経て彼らの置かれた現状を理解していくにつれ、彼らに相応しい仕事をともに担い、一定の達成をするというもの。
その仕事はある種の「こだわり」から生じる特殊な技能に関わっていたりするわけで、それがひょんなことから成功に繋がっていくというのは実に映画的お約束なのだけれど、どこまでが実話なのだろうか。
 仕事を請け負うことで健常者とも接し、ある精神障害者との恋に発展するという展開が映画の後半にある。最終的には悲劇に繋がっていき、それがネッロを挫折に追い込みはするけれどもみんなの行動によって再起する。
とてもシンプルでわかりやすい。ただ、この映画はちょっとした深い(とか書くと途端に浅く感じる不思議)台詞がある。「誰だってイカれてる」という台詞。結局のところこれが真実なんですよね。精神病者には彼らの理屈があって、それを理解できない・理解しようとしないことから排他・排斥という手段を取ってきたにすぎない。

無論、相手を理解しようとすることはかなり難しいし大変なことだし傷つくこともある。だから楽な方に流される。ぶっちゃけその気持ちはわかるし、先にあげた事件の加害者側のスタッフの行動にしてもわたしは批判できない。究極的に言えば、わたしたちはどちら側にもなりえるのだから。
というか、ネッロもその洗礼を受けるし。
だからこそ、ネッロがある人物から「イカれてる」と言われるシーンは、感動的でもある。ようやく彼が精神病者と同じように見られるくらい彼らに共感・同調できた証左だから。

 なんだか作品そのものに割いた字数が少ないですが、映画としてはどうこうというのは置いておいて悪い映画ではありませんです。

 

あれはメカゴジラというよりキングゴジュラス(verバイオゾイド(そんなのないけど))では

あれはメカゴジラというよりキングゴジュラス(verバイオゾイド(そんなのないけど))では・・・しかし立ち方とかはゴジラスギガっぽいし、顔はギャレゴジっぽくもある。よく考えたらどれもモチーフは同じだしキンゴジュにいたっては元ネタがゴジラみたいなものだし似てるのも当然なのでしょうか。とか思ってたら秘宝の寄稿で手塚昌明が同じようなこと書いていて笑った。西川伸司(3式機龍のデザイナー)は生賴範義ポスターverのメカゴジラをベースにしているのではということを仰っていましたが。
ガンダムはそのままなのにメカゴジラはどうしてあんなにアレンジきかせたのだろうか。

割と遅めの回ということもあってか、IMAX3Dにもかかわらず(だからかな?)半分も席は埋まってなかったかな。まあ入れ替わりで出てくる客の多いこと多いこと。みんな「アベンジャーズ」観てきたんでしょうね。
こういうお祭り要素の強い映画っていうのは初日の初回に行って「うおおおおおお」となるのがもっとも愉快な楽しみ方であるということを「シン・ゴジラ」のときに痛感いたしましたが、今回は出遅れましたハイ。思えば、「シン・ゴジラ」を5回も劇場に観に行ったのはそういった熱気に浮かされていたというのもあるのかもしれない。BDを買ったけどメイキングを観て本編は一回も通して観てないし。ミリオタの庵野秀明が大きく顔を出している映画なので、大画面+大音量が一番正しい見方であって、家の画面で見るのとは結構体験として違うものがありますですからね。IMAXの後に普通の上映形式で観たら「あれ、こんなんだっけ」という肩透かしを食らったし。内容はもうわかっていたから、というのもあるのだろうけれど。

前置きが長くなりましたが、「レディ・プレイヤー・1」
なんかもう映画秘宝でFBBが言っていることがほとんどわたしの感想のすべてなんで書くのもアレな気がするのですが。

 とりあえず最初に吐露してしまうと、めちゃくちゃ盛り上がっている人には申し訳ないのだけれど、そこまで乗れな買ったかなーと。お祭りに乗り遅れた僻みとかそういうのではなく、純粋に乗れなかった。
というのも、この映画、実のところスピルバーグはこれといって思い入れがあったというわけではなさそうだからで、この映画にはむしろそういった思い入れが欠かせないはずだから。ぶっちゃけいつものスピルバーグ映画である。つまり、映画として面白くてまとめてあって、どこか異質な感じがある。そして、それゆえに乗れなかったのだと思う。仏作って魂入れずではないけれど、これ、原作は未読だけどおそらくは映画よりもかなり自分は乗れるんじゃないかと確信に近い自信を抱いている。それは尺の都合だとか権利上映画には登場させられなかったイースター・エッグがあるから、ということではなく、(聞きかじっただけだけれど)原作はオタクのオタクによるオタクのためのオタクの愛による(むしろそれだけでできているはず。基本プロットが映画と変わらないのなら、SF的な楽しさや新鮮さといったものははっきり言って皆無に近いから)小説だという印象を受けるからだ。

企画が先にあって脚本もある程度出来上がった状態でスピに提案されたということからも、あくまで雇われ仕事であることはわかる。

しかしスピルバーグの映画で心が震えたことがあっただろうかと思い返してみると、最近の作品ではそういうのはあまりなかったような気がする。それこそ「E.T」や「魔宮の伝説」(「カラーパープル」と「ジュラシック・パーク」も入れていいかな)といった80年代の作品まで遡る必要がある。好きな映画にまで広げれば「宇宙戦争」とか「マイノリティ・リポート」とかありますが。たんなる懐古じゃんと言われそうですが、そうではないと断言できるのは、「E.T」を去年になってようやくちゃんと観たからです。
で、既述のとおりスピルバーグはあくまで雇われ仕事でこの映画をこれまでと同じように手早く撮り終えた。無論、そこはスピルバーグですからその才能でもって楽しいエンタメ作品に仕上げてきている。脚本的には色々と言いたいところもなくもないのだけれど、一冊(ていうか文庫だと2冊)の小説を1本の映画に収めるにはかなり削らなければいけない部分もあっただろうし、そこは仕方ない。
が、こと「レディ・プレイヤー・1」というコンテンツに関しては、才能よりも愛情が必要だったのではないかと思う。それこそ「パシフィック・リム」のような拘りに拘りぬく情熱が。
だからといってスピルバーグを責めるつもりは毛頭ない。「レディ・プレイヤー・1」の愛情の源泉やその対象が当のスピルバーグに向かっているというのもある程度はこの映画を撮る上で作用しているだろうし、町山が指摘しているように本人がそれらのコンテンツ・時代を作り出した以上は、どれだけのエゴを肥大化させたとしてもそれは結局のところ自己愛にしかなりえないわけで。様々なところのインタビューを読む限りだとスピルバーグはむしろ積極的に原作にあったスピルバーグへの言及点を別のに置き換えているようだし。
ただ、その点で言えば「シャイニング」パロのシーンだけは愛情度というか本気度がかなり違った。元々あそこのシークエンスは「ブレードランナー」を使う予定だったのが権利的な問題で変更することになったとはいえ、わざわざ「シャイニング」をぶち込んできたということはそれだけマジだったということでしょうから。あそこは本気でビビリました。
スピルバーグキューブリック愛は周知の事実(自分は知らなかったけれど)ですし。だから、「シャイニング」シークエンスはやけに面白かったのでしょう。

下衆の勘繰りですが、今回のスピルバーグの来日のコメントとかが明らかにリップサービスっぽいのとかも、なんというか「とりあえず日本の有名どころの名前出しておけばリスペクト感出せるだろう」という気がするのですな。だって、これまでスピルバーグって宮崎駿に言及したことありましたっけ。だいたいいつも黒澤か三船でしょう。そこで口にするのが「千と千尋~」というのもなんだか「アカデミー賞獲ってるジブリ映画だし」という気がしなくもない。
言うまでもなく、ゴジラや怪獣特撮(宇宙戦争での来日時なんかはそれがよくわかる)への愛情や特定の日本映画に対する思い入れはガチなのだけれど、今回に限ってはそういうのとは違う気がするのです。今回の映画は日本のコンテンツへのリスペクトが多分にありますから、ぶっちゃけマーケティングとしての意味合い以上のものはそこまでないのではないか、と。それでもアバターの見た目を三船敏郎にしたり、ちょいちょい遊び心を表現したりはしていたけれど。

あーあと乗れなかったというのは、この映画が「オタクが(オタクの)世界を救って彼女もゲットして金持ちになってヒャッハー」(完全に「トランスフォーマー」です本当にありがとうございました)なガワなのにメッセージ的には「それではいかんですよ」というオタク否定というかたしなめる映画でもあるから、なんですよね。しかもそのオタクを生産しているのがスピルバーグ本人というのもタチが悪い。ハニートラップよりよっぽどタチが悪い(笑)。
大人としてのスピルバーグなりの矜持なのでしょうが、そんなスピルバーグみとうはなかった!
まあ、あとは強者が当然のように勝つのとか彼女が美女だとか、オタク特有の葛藤がない(バートンかわいいよバートン)のも不満要素ではあるですな。

  散々っぱら文句のようなものを書き連ねてはきましたが、決してつまらない映画というわけではなく、むしろ超楽しい映画であることは変わりない。
ラストの大乱戦はやっぱり観ていて楽しいし、ゴジラのテーマアレンジは超上がるし鳥肌立ちましたし。ガンダム・・・は自分はそんなに知らないんであれですが、メカゴジラを応援しつつもアイアンジャイアントを応援したりと、まあともかく楽しいです。
リナ・ウェイスがゴールドバーグに似ているとか、そういうどうでもいい部分の感想はありますが、ともかく楽しい映画ではあります。
 
もし観るならIMAX3Dがオヌヌメです。アベンジャーズの公開でIMAXシアターを回す回数が減ってくるでしょうから、見たい人は早く劇場に行くが吉。

あんなの(熊)なんて飾りです。宣伝マンにはそれが分からんのですよ。

午後ローは本当に侮れないのです。

カット祭りで繋ぎがよくわかんなくなっていたりすることは多々あります(だったらそもそも放送枠に合うような尺の映画を選べという話ではあるんですが)が、それでもこういう微妙に話題にならないようなものをやってくれるので助かるのである。基本はおバカ映画ばかりやっている印象ですけれど。

 

で、その侮れない映画というのが「ザ・ワイルド」。このタイトルの潔さに「ワイルド・スピード」の原題以上のワイルドさを感じる。

どれくらいこの映画が好きなのかと言われるとまあ自分でもよくわからないのですが、少なくとも「まとめ」のほうに投擲するよりは単独で記事をポストしたいという欲求に駆られる程度には好きなのである。

この映画、午後ローのコマーシャルからは「ホプキンス翁vs熊」という珍味な映画として、一部の好事家やホプキンスファンが楽しめるようなものなだと思っていました。しかしまあ、よく考えてみればただの動物パニックもといサバイバル映画に出る(出す)はずもないわけで。

監督はリー・タマホリ。タマときてホリという、語尾に「♂」をつけたくなる名前ですが、この人の関わった映画ではかろうじて「戦場のメリークリスマス」を知っているくらいでしょうか。戦メリでは助監督をやっていたらしく、ほかの有名どころタイトルでいえば「007 ダイ・アナザー・デイ」でしょうか。寡作な人なので年齢の割に作品が少ないので、機会があればちょっとほかのも観てみたいかも。

主役の富豪チャールズ・モースには我らがアンソニー・ホプキンス。そのチャールズの、モデルである妻役としてエル・マクファーソン。彼女の専属カメラマン役にアレック・ボールドウィン。そのアシスタントにハロルド・ペリドー・ジュニア。チョイ役に「少年と犬」の監督であるL・Q・ジョーンズと、絶妙に有名どころなキャストも揃っていたりして、この時点でただのサバイバル映画ではないことが察せられる。あと熊もどうやらむこうでは有名な動物俳優らしくバートという名前らしい。

音楽もジェリー・ゴールドスミスだし。

 

そんな一見すると豪華な映画ですが、とはいえキャストや音楽だけは一丁前で映画自体はポンコツというものは少なくありません。しかし、この映画に関してはそういう部類に入らないんじゃないか。

そう思ったのは、この映画にはウィリアム・ワイラーの大傑作「大いなる西部」に通じるものがあったからで、わたしがこの映画の感想を単独で書こうと思ったのもそこにある。

以前に「大いなる西部」についての感想を書いたので細かい部分を参照してもらうとして、簡単に言えば「クズすらも受け止めてくれる懐の大きさ」でしょうか。

dadalizer.hatenadiary.jp

 

ていうか、熊との対決部分とかは割りとあっさりというか「え、それでいいの?」と思わない部分もないわけではない。もちろん、手持ちの物資が限られている中で熊とどう戦うのが正解なのか素人のわたしにはわかりませんが、ややおざなりな感じは否めない。ま、竹槍持たせて戦車やら戦闘機やらと戦わせようとしていた国の人間が言えたことではないのですが。

この辺が雑に思えるのは午後ローのCM地獄カットというよりは、そもそも作り手が注力していなかったのではないかと思う。あくまで熊との遭遇は人間の数あるペルソナを引き出すための試練というか道具でしかない、と割り切っているような。道具というか、状況でしょうか。それゆえに「なぜ熊…? ほかにやりようがあったのでは?」と首をかしげたくなったりもするのだけれど。ただどうやって撮影したんだこれーと思うくらい熊の行動とか距離感とかはあったので楽しめはしたんですけどね。(既述のように熊も俳優だったというオチですが)。

熊が舞台装置的な役割でしかないとここまで言い切れるのは、熊を倒した後にこそドラマが展開されるからなのですよね。

熊をホプキンスとボールドウィンが二人で倒したあと、小屋を見つけてそこで体を休めようとするのですが、ボールドウィンが酒を飲みながら猟銃に弾を込め始め、ホプキンスを殺そうとするんです。なんでそうなったのかというと、割りと最初の方からほのめかされていたりホプキンスの台詞なんかからも読み取れるんですが、ホプキンスは妻とボールドウィンがデキていて共謀して自分を殺して遺産を手に入れるつもりなんじゃないかーとか思っていたわけです。それを指摘されたこともあって、ホプキンスを殺そうとするボールドウィン。しかしボールドウィンはホプキンスを殺す直前に落とし穴にはまって重傷を負ってしまい、助けを懇願する。

ホプキンスじっちゃまはそれを受け入れて助けるんですな。たった今自分を殺そうとしていた人間を。

結局、その落とし穴の傷が原因で救出直前にボールドウィンは死んでしまうわけですが、その間の二人のやりとりがこの映画の白眉で、どうしても泣けてしまう。

クズな人間が死を目前に罪を懺悔し赦しを請う。それは、ともすると情けなくて、アクション映画なんかではその直後に主人公に撃たれて死んでしまったりするわけで。

けれど、この映画はそれをホプキンスに受け入れさせ、赦しを与える。神にではなく、不義理を働いた本人に向かって赦しを求め、それをその本人が受け入れる。こんな単純なことだけれど、それを素直に描くことは案外難しい。それに、ここではウェットでありながらもジョークを交えているから、余計な臭みがない。それに過剰な音楽的な演出もない。だからいい。

「熊である必要性が云々」とは書いたけれど、それまでの二人のサバイバルな状況がなければこうはならなかったはずで、二人にとっての試練という意味では必要なものであるということは言える。

 

午後ローカットなしで見たら、またちょっと違うかもですが、結構いい映画だと思いますですよ、これ。

なぜ二回も爆発させたのか+左利き

休日に体調を崩すことほどテンションの下がることはない。

しかし面白いことに土曜日に健康診断を受けてこれといって問題はなく問診にも異常はないと答えて20時間も経たないうちに喉が痛くなり鼻のかみすぎで水分が体から抜けていき頭がグラグラするという始末。

そしてまた、わざわざ新しくエントリ作るほど印象に残ったわけでもない映画について書こうとしているのも問題ではある。新生活で時間がカツカツとはいえ最低でも週に1回はこのブログを更新したいとは思っているので、それでも無理やり書くのです。

まあコンディション整えないでレディプレ観に行くのは避けたいしね。

 

そんなわけで今回観たのはチャッキーでお馴染み「チャイルド・プレイ」だったりする。別にレディプレにチャッキーが出ているからとかではなく、本当に思い立って観ただけなのですが、ということを「チャイルド・プレイ」を見終わってこれを書いている今思い出す。

チャッキーといえば映画は見たことないけど知っているキャラクターとしてポップアイコン的に扱われている気がするけれど、わたくしめもそんな一人であった。

で、こうして改めて見るとどうなのか、ということ。ちょうど30年前の映画だけれど、いや、面白いですね、これ。面白いというより、すごい。

チープといえばチープだしB級感は拭えないのだけれど、ホラーなお約束は守っているし、なんだかんだと最新作が作り続けられるくらいに初代のインパクトがあったということではあるし。

そのインパクトというのは、なんといってもチャッキーのアニマトロニクス。とはいえ、所々で「これ絶対に人が演じてるだろう」という部分ではやっぱりセットのサイズを大きくしてアクターに演じさせていたり。

このアニマトロニクスが人形という題材に見事にフィットしているというのが大きい。確かに生きていると感じさせつつも、人間の動きとしてはどこかぎこちなく、それこそが人間の魂の乗った人形というチャッキーの存在と直結している。

だから、今見てもまったく違和感がないのだろう。まあ脚本は正直なところB級ホラーの域を出ないのですが、脚本の秀逸さを求めてこれを見る人はまあいないでしょう。

個人的には冒頭の魂の乗り移った部分というのを丸々カットして、チャッキーをよりわけのわからない存在にした方が怖さという面では際立つと思いますが、それでは表現としてのアニマトロニクスと「人間の魂の乗った人形」の設定との間に分断が出てしまいそうな気もしなくもない。まあ後出し的に開示することは可能でしょうが。

まだ1しか観てませんが、続編も早いうちに観たいと思いますです。

ちなみに、二回も爆発、というのは冒頭のトイショップと空家みたいな家をセットごと爆発させたことで、そんなことをする余裕のあるバジェットだったのだろうかという疑問があったからですね。冒頭はまあ掴みとしてわかるのですが、中盤の爆発は別にあれをやる必要はまったくないので・・・いや、サービスとして素直に受け取っていいと思うんですけれども。

 

で、「サウスポー」も観ました。観ている間にティッシュ一箱使い切ってしまいました。そんな最悪のコンディションでも上がる映画ではあります。物語はオーソドックスですがボクシング映画で変にひねられてもそれはそれで困るというもの。

監督はフークワということで最近は割りと評価か固まってきていますので、安心して観れる監督ではあるので。彼の作品の中では「トレーニング・デイ」が今のところ一番好きなのですが、今回の「サウスポー」は普通に上がる映画ではある。

しかしギレンホールは「ドニー・ダーコ」から近作の「ナイトクローラー」や「ライフ」に至るまで妙にクセの強い映画に出ている。まあどこか虚ろな目をしているので癖のある映画には合っているといえば合っているのでしょう。

フークワがボクシングに一家言あるとかないとかで、ちょいちょいドキュメンタリーちっくというか試合をそのままテレビで見せられているような絵ヅラなんかもありましたな。