「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」
浸りすぎ。「語る」に落ちた映画である。
伝えたいことはわかるしそこに共感する部分もないわけではないのですが、どうも押しつけがましいというか「バンブルビー」にも似た厭味ったらしさが。
3.11の当時の「絆」とか「がんばろう」といったたぐいの無理やり前を向かせようとする煽動じみていて。「さあ、みんなそれぞれ辛い思いをしているのだから共感しあって互いに理解しあいましょう」と。
はっきりって余計なお世話なんですよね。
この映画はオスカーという少年のナラティブ(そのものと、それによる開放・救済)と他者との共感というものがあるわけですが、母子の共感・悲しみの共有がクライマックスに持ってこられていることからも明らかなように、問題はこの映画で描かれるナラティブが共感という着地点を絶対的前提としていることにある。
ナラティブというのはメンタルケアの場面において重要なことではあるのですが、一方でそれを強要するような曝露療法的なものは実のところトラウマ体験をしたものへの負担が大きいということも証明されていたりするわけで。
そもそもナラティブと共感というのは必ずしも一緒くたにできるものではないでしょう。
ナラティブというのは、語ることそのものに意味があり、その先に何を求めるかというのはそれぞれによって異なるでしょう。赦しかもしれないし罰(まあこれも赦しに与するかもですが)かもしれないし、それこそ共感かもしれない。ただ、誰かに語るだけで救われるという人もあるでしょう。自分語りというのは、そういうことですから。
聴き手という他者を希求しながらも、徹底して自己の心理的な葛藤の解決を目的としている、ただでさえ本来的・本質的にエゴイスティックな作用を内在する「ナラティブ」を、オスカーのための「共感・共有」に絶対化したことで、さらにエゴイズムを肥大化させ「共感・共有」という他者との相互理解が必要な目的との間で決定的な断絶を生んでしまっているのではないでしょうか。この映画は。
オスカーやリンダに共感を示さない人もいるにはいて、彼らを門前払いするブラック(苗字)さんもいるのですが、そういう人たちは監督から邪険にされているのか掘り下げられることはない。回想でちょろっと触れられる程度だったり、オスカーからパパラッチされる人すらいたりする始末。描かれるだけまだマシなのかもしれませんが。
このことからもわかるように、前述のような「共感・共有」というどうしようもなく他者の存在を受容しなければならない命題に対して、「共感しようZE!マジ9.11辛かったし!みんな大事な人を失って傷ついてっしょ!ね!」と押しつけがましく行動してくる自分本位≒他者への無関心を作り手が気づかなかったことにこの映画の敗北はある。
それこそ、病的なまでのACのコマーシャルが流れていた「3.11」当時の日本の空気そのもの。ここ2,3年でようやくそれが顧慮されるようなメディアが表に出てきているわけですが、要するに「こっちの許可も取らずに何勝手に共感しようとしてきてんだ」という話である。
大体ね、子供という免罪符(アスペルガー云々というのもその援用にしか思えない)を使って他者を振り回してるようにしか見えないんですよ、これ。嫌がってる相手の写真を撮るとかね。
一応、おじいちゃんに謝意を示す(ここらへんは素の子供っぽい感じが出てて好きなんですが)演出があったりはするのだけれど、でもそれはおじいちゃんに対するものというよりはバツが悪いからということじゃないんですか、ええ?
無能を自覚しているがゆえに他者に迷惑をかけまいと引きこもる自分のような人間からすると、無自覚なオスカーの行動がほかの人に比べて余計に腹立たしいというのもあるんですけど。
まあ、オスカーくんが幸せならそれでいいんじゃないでしょうか。この映画はすべてオスカーくんのためにあるので。
サンドラ・ブロックがオフィスの窓越しにツインタワーを見やるとき、タワーが歪んで見えるあの演出とか好きなシーンもあるんですけどね。
それにしても、この映画の日本公開が3.11から一年も経っていない時期というのがなんとも言えない。
「俺たちに明日はない」
観たことあると勝手に思っていたのですが、見直すつもりで観たら全く記憶になかったことに愕然とする。なんとも人の記憶というものは曖昧なものであることか。いや、私の記憶か。
ウィキには「銃に撃たれた人間が死ぬ姿をカット処理なしで撮影したこと」をはじめとして先駆け的な表現が多かったということなのですが、ラストの「死のバレエ」は今見てもすさまじいものがある。
ボニーとクライド二人の顔面アップの怒涛の連続カットバックからの一斉掃射による死にざま。確かにこれは、それまで描かれたドラマの終局としてまさに儚くも美しいと形容されるべきラストでしょう。
無慈悲な「THE END」がもたらす二人と観客の断絶も、エンドロールを長々と流さねばならない(それゆえに感傷や余韻に浸ってしまう)今の映画では難しいでしょうし。
拳銃という男根のメタファーに始まるこの映画が、その肥大化した姿としての機関銃の掃射によって終わるというのは因果応報的であるものの、しかしやはり悲しいものである。
インポテンツ(ていうか元の脚本ではバイセクシャルだったのでその名残らしいのですが)が暗喩されるクライドの、その代用物として虚飾の拳銃、さらにはそれが機関銃へと肥大していく居た堪れなさ。
クライドは自分の不能さ(あるいは世界から見た性的倒錯)を補うために見栄を張らなければならなかったのだろう。そうしなければボニーを繋ぎとめられないのだと、「男らしさ」という呪いに緊縛されて。ボニーが煽った(ボニーが拳銃を撫でる艶めかしさたるや)クライドの拳銃は、しかし当初は人に向けて発射されることはない。
さもありなん。所詮は自分の不能さを取り繕うためのものでしかなく、クライドは虎の威を借りるなんとやらでしかない。だから、ボニーと接触したときのような装ったスマートさはすぐに化けの皮が剝がれる。
ウェスタンのような強さ()を彼は持っていない。だからせいぜいこけおどしに空に発砲する程度だった。
わざわざ銀行が破産していたことをその銀行の管理者の口からボニーに言わせる情けなさこそが、おそらくは彼の本質なのでせう。はっきりとコミカルに描かれているし。
本質的にはクライドはロビン・フッドですらない。ただ臆病なだけなのではなかろうか。それが結果的にそう受け取られただけで。
それがモスの合流によってどんどん鍍金が剝がれていく。あそこまでモスに対して憤るのは(帽子でたたくシーンはちょっと笑ってしまう)、捕まることへの恐れもあったでしょうが、私にはむしろ自分の不能・無能さをボニーにさらされてしまうことへの虚栄心の反射のように映った。
ボニーと出会わなければ、ああはならなかったはず。たしか、モスを最初に引き入れようとしたのもボニーだった気がするのですが、それを考えるとこれは一種のファムファタールでもあるといえるのかも。
グラサンのことやヘイズコードなど時代背景なども考えると色々と画期的なことをやっているということなんですが、そういうのを抜きにしても面白い。
「カプリコン1」
名前は知ってたけど優先順位は高くない、ので今まで観ていなかったのですがなにこれおもしろい。
面白いんだけど、国内外の政治にまつわるあんな事件やこんな事件を思い返すとまったくもってフィクションではないというのが恐ろしいところである。
ただあのラストのくどすぎるスローモーションは笑ってしまうのですが、しかしあの後にどうなったのかということを考えると、それまでの政府の隠蔽の強引ぶりから察するに「追悼式典に悪戯目的でブルーベイカーのコスプレをした不届きものが闖入してきた」とでもなんとでも言ってしまえそうなところがなんとも。
あとジェリー・ゴールドスミスの音楽ね。
「デイジー・ミラー」
堅物男が身軽な女に執着したまま終わるという。
ドストレートにいきたまへ
「太陽はひとりぼっち」
倦怠感。何をしていてもどこか空虚な感覚。それがモニカ・ヴェッティによって演じられる女性の姿で(正直あの美的感覚はそんなにわからないんだけど)、それとは逆にアラン・ドロンの稚拙さのようなものが最終的に交わりつつも、しかしやはり煮え切らない。
正直なところ俗っぽいアラン・ドロンや終始やる気のない演技であるモニカ・ヴェッティなんかよりもはるかに――異様に街並みとか風景といったものが印象的なのですよね。キノコ型の給水塔みたいなものもそうだし、やけに街を歩いているシーンがあるし、何よりラスト数分の映像。核兵器云々も含めて、人間の営みを鬱屈とした感覚でとらえるとこうなるのかなぁ、と。
冒頭のタイポグラフィーといい風景・情景の挿入の仕方といい、エヴァの参照元の一つがこれなんじゃないの、と思ったり。
「サイレントボイス 愛を虹にのせて」
志は高貴かもしれませんが、 映画としてはどうか、という問いが(いうまでもありませんが、これ映画なので)。カットのつなぎが不自然なところもあったりするし。
極めてポリティカルなネタではありますが、それを誘引するためのサスペンスがあるわけではなく、基本的にはエモーショナルな場面のみで繋げていく映画ですが、ポリティカルな題材でそれを扱うのはむしろ危険な気がするんですけど。そこにエルマー・バーンスタインの勇壮なスコアがかかるという猪突猛進ぶり。
描かれるべきディテールが描かれないために妄想じみたファンタジーとしてしか見れないのが痛い。
チャックやその周りの人の動向は描かれるものの、具体的にどうやって核兵器の撤廃に至ったのかが描かれない。表面的には米ソのトップが会談するシーンはあるんだけど、そこで政治的な交渉が描かれるわけではないし。結果だけ提示されても納得はできまい。
ほかにも、素人でも考えられる問題は山積み。どうやって既存の核兵器を処理するのかとか。89年の時点でアメリカが保有していた核ミサイル(あくまでミサイルなので弾頭自体はもっと多い)の数は1815でソ連は2794もあったというのに。07年にはそれぞれ982、760と、87年のINF全廃条約の発効などもあってかなり減少してはいましたけれど。まあ、INF全廃条約も弾頭そのものは廃棄対象外で弾頭数は減らなかったし、解除されたのも10%に満たないという体たらくではあったけど。
ただ、60年代から核軍縮の機運自体はあったし、INF全廃条約とSTARTⅠの交渉開始が81年82年だったこともあるから、その辺の動向を受けて極めて楽観的にこの映画を作ったという解釈をすれば、その希望的観測(というかほとんど願望)に寄りかかる気持ちはわかる。
題材としては、悲しいことに30年たった今でも古びていないだけに。
というか今はもっと各地の内戦とか、わかりやすい二項対立じゃない紛争こそがメインになっている分、悪化しているとすらいえるんだけれど。
現実的に考えるとジェフリーの役どころはむしろ大統領が担うべきであると思うんですが、登場から最後まで大統領が良い人として描かれているあたり、年代的にもレーガンに対する当てつけみたいなところもあるんだろうか。イラン・コントラ事件とか発覚した時期だろうし。あて推量でしかありませんが。
まあそこはグレゴリー・ペックですから、ある種の独善を含んでいるというか無邪気な「アメリカの正義」の体現として見ることもできなくはない。というよりは、「フォックス・キャッチャー」におけるマーク・ラファロ的というか。悍ましいのは、監督はそういうつもりで描いてはいないのだろうな、というところ。
ソ連の書記長を演じたバシェクの体形とかもちょっとゴルバチョフっぽいし、やっぱり意識してたんだろうか。
チャックももうちょっと丁寧に扱ってあげればいいのにと思わないでもない。いや、個人的にはチャックのあの恐怖はわかるすぎるくらいにわかるのだけれど、それは「はだしのゲン」を読んだりメディアに煽られた恐怖ゆえなので、直に核を見ただけでああなるのかどうか(爆発の瞬間を見せたとかではなく)。父親がパイロットだし、わからなくもないのかな。
あるいは、その程度のことですら恐怖を感じるくらいに感受性が高かったからこそのあの行動、ともとれはしますが。
ていうか、そもそまサイロを見学できるもんなんですかね? さすが自由の国アメリカ、グラスノスチごときで粋がるソ連などとは大違いです。
チャックに対してみんな結構辛辣というか、無責任すぎるでしょ。アメージンググレースにしたって、あれって見方によっちゃチャックに全部責任を押し付けてるだけとも言えますよ。ていうか、チャックの名前出してバスケを引退したら絶対ファンからカミソリレターもらうでしょ、チャック。
どうでもいいけどアメージングを暗殺するのにわざわざセスナ(だっけ?)爆発させるのは笑った。あそこの勢いは、「なんでそんな金かけて殺すの」的な倒錯っぷりと勢いがサウスパークじみていて。別に暗殺するにしたって、自動車事故なりなんなりできるでしょうに。空で爆殺は確かに確実ですけども。
でもまあ、最初から最後までやさしい世界の話ではあるので、そういうディティールとか無視できる人は( ;∀;)イイハナシダナーと楽しめるのではないでしょうか。
私個人としてはイイハナシカナー?ですが。
「ブラジルから来た少年」
なんか思ったより怖かった。まさかあんなホラーな落ちになるとは。
前日にシリーズ人体を観ていたこともあって、まあなんというか、今見返すと科学考証として首をひねる部分もあるんでしょうけど。
でもこういうSFはいいですね。たぶんあのクローンには残虐性の遺伝子のスイッチをオンにするDNAのパーツがあったんでしょうなと。
何気にゴアだし。しかし本当にヒトラーって信長並みに弄り倒されてますね、本当。
「武士の家計簿」
森田芳光監督の作品は「家族ゲーム」と「黒い家」しか観たことない程度なんですけど、「家族ゲーム」はすごい面白かったのは覚えている。
「黒い家」にしても、ほかの映画とはちょっと毛色の異なるものではあったから印象には残っていたんですけど、それにしても色々なジャンルを撮るんですなぁ。
まあでもユーモアというか笑いを入れてくるのは通底しているんですよね。会話のテンポとか掛け合いの妙によって。
仲間由紀恵をこんなに真面目に観たのははじめてかもしれない。いや、キャリアスタートがいろんな意味でネタに溢れているという極めて個人的な色眼鏡なせいなのですが。
「人生はシネマティック」
そんなにコメディ要素ないような、と思ったらセットが崩れてくるシーンで吹いてしまった。いやトラジディであることはわかるんですけど、あのテンポは笑いを生じさせるものとしか。なんだっけ、猫が世界から消えたなら、みたいなタイトルの映画を観たときの主人公の恩師?みたいな人が振り返ったら死んでたときの笑いと同じ感覚の。
そこの笑い以外はほんとこてこてのラブロマンスなんですけど、結構観れる。それは多分、主人公の女性が脚本化だから。脚本家チームの執筆風景やそこに横やりや注文がつけられる様はさながら「ナイトクルージング」の高揚感や「カメラを止めるな!」的な現場あるあるな楽しさがプラスされているからかな。
「恐怖の影」
DVD未発売にてVHS画質で観たんですが、エロい。すさまじくエロい。画質が画質だけに、ソフトフォーカスだと余計に茫漠とした印象になるんですが、それがまたちょっと幻想的な雰囲気を醸し出していてエロスを漂わせる。異国、というよりは淫夢的な異界情緒に近い気がする。ちょっとホラーテイストなのも怪奇っぽさを狙っているのかもしれない。
撮影がいいですよね、これ。人形の切り取り方とか覗き方(画質と画面の小ささでよくわからなかったりもしたんだけど)とか。あと何気に暴漢の正体がわからないように(いや、展開的にもろバレなんだけど)してる工夫とか。
ちょっと調べたら監督がウィリアム・A・フレイカーで、ポランスキーやスピルバーグなどとも組んで撮影監督として長年キャリアを積んでた人なんだそうな。でも本作では撮影監督はラズロ・コヴァックスっちゅー「イージーライダー」なんかを撮ってた人が担当しているんですね。
それにしてもエロい。多分、多重人格モノ(っていうかイマジナリーフレンドとのスペクトルなんでしょうが)でしかも近親相姦(まあ、本番はありませんが)モノっていうのは中々ないんじゃなかろうか。あの手つきは肉親に触れるそれじゃあないですよー。しかもオチがアレっていう。
これ、オチが「え、そこ!?」っていう、なんかこうシャマラン映画を観ていたときの「あ、それマジだったの?!」といった感慨に近い。そっかー。貧乳だったのはそのためかーと思ったり。あとはまあ、隣接する部屋でパピーと恋人が盛ってるときに自慰行為を始めるのですが、その手つきというか姿勢みたいなものもよくよく観察すると「それっぽい」あたり、実は伏線になっていたのではないかと深読みしてみたり。
オチの着地点を考えるに、これはミステリー(っていうか、サスペンス?)とかそいうことじゃなくて、もうほとんど作り手の性的倒錯をフルスロットルにしただけなんじゃないかと思うんですけど。
ソンドラ・ロックの目つき、佇まい、腕の細さ、病的とさえ思われる白さや童話じみた金髪、そのすべてがこの異界情緒あふれるエロティシズムに直結していて、もう辛抱たまらんといった感じ。そらパピーでも篭絡されてしまいますよ。いや、されてないんだけど。
ママンとグランマがあの事実を知らないわけがないので、そう考えるとあれは抑圧によるものだったりするのだろうけれど、そっちをことさらフィーチャーしないであくまでマーガレットの性に視線を注ぎ続けるあたりが変態じみていて大変よろしい。
そのソンドラ・ロックさんなんですが、去年の11月に亡くなっていたんですね。
彼女のことはほとんどよく知らないので哀悼なんて浮薄なことはできませんが、マーガレットを演じてくれたことに敬意を表したいと思います。
R.I.P
「パニッシャー(2004)」
今のマーベルじゃいろんな意味で無理そうな映画だった。
なんというか、一つ一つのシークエンスが凄まじく間延びしているかと思いきや復讐シーンは結構テンポ良かったりするんですけど、なんか笑えるシーンが多い。
これ、ドラマシリーズとかでやってくれたらすごいいいんだけどね。いや、ネットフリックスとかじゃなくて、この毛色のままで。
あのマークは不覚にもカッコイイと思ってしまったよ。
「ワン・フロム・ザ・ハート」
これ結構好きですかも。一応、ミュージカル映画なんでしょうけど、中盤の街中でのミュージカルを除くとそこまで大掛かりなミュージカルシーンがないのがもったいない。
全編スタジオ撮影ってことなんで書割も多用しているんですけど、それがまたいい。あの箱庭感はブンドドの感覚に似ている。
編集やカメラワークがかなり凝っていて観ていて楽しいんだけど、どうやってるんだろうと気になる。
何気にハリー・ディーン・スタントンも出ているし、ミュージカル映画の中では結構好きな方です。
「終電車」
トリュフォーに関しては「大人は判ってくれない」を講義でちょっと観たくらいなので、こういう映画を作っていたとも知らず。
あの終わり方は好き。
「愛と青春の旅立ち」
リチャード・ギアが若い。
(ディス)コミュニケーションの話ではあるわけですが、「海猿」がプロットをほとんどそのまま使っているような感じで。
軍曹とメイヨ―の殴り合いはもうまさに河川敷で殴り合る親友(と書いてライバルと読む)の青春である。
でもこれ、ポーラもリネットもどっちも女性の描き方としては流石にきついものがある。むしろ、リネットこそが抑圧されている女性の叫びとしてのリアリティを持っている。
「インサイダー」
さすがマイケル・マン。「コラテラル」「ヒート」を観ていたのでこういう映画を撮る人だとは思わず。
ワイガンドが台所で手を洗うところを家の外から(そして外には「部外者」が佇んでいる)のあのショット、まるで家(家庭)に閉じ込められているような強烈さ。
あるいはローウェルの休暇先の色がダークすぎてまったく休暇のそれではないという。笑えるくらい。
ほかにもワイガンドが壁の画を見つめているとそれが家の庭の風景に変容していくあのおどろおどろしさ。屋内から屋外の幻惑的な錯覚を見ようとするワイガンドの孤独感を、罵倒によって外界と接続させるローウェルの手腕。
ラストのローウェルのカットと流れ出す音楽のカッコよさといい、160分近い映画でしかも派手なアクションがあるわけでもないのにこんなに引き付けられるとは。
撮影といい証明といい、エッジがすごい(ボキャ貧)。
「ビッグリボウスキ」
そういえば観てなかった映画の一つ。ていうかコーエン兄弟だったのね。
フセインとかベトナム戦争の後遺症とか、あの辺は(今も続いているけれど)当時のトピックとしてやっぱりあったのだろうか。
今こそデュードのような生き方を目指すべきなのではないかと思うんだけれど、こういう馬鹿っぽいクライムコメディでも脚本がしっかりしているところはコーエン兄弟らしいというか。
柳に風、というわけでは決してなく、むしろ物事には動じまくるのですが、そこに大きなお世話を焼いてくるウォルターとの絡みやドニ―の
_人人人人人人_
> 突然の死 <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y ̄
とか。
ジョン・タトゥーロの使いどころも含めて笑いどころが多い。
フィリップ・シーモア・ホフマンを観ると泣きそうになってしまう自分がいる。
「セルフレス/覚醒した記憶」
これターセム・シン監督だったんですか。まあ「ザ・セル」すっ飛ばして「白雪姫と鏡の女王」しか観たことないんですけど、内容は覚えてない反面シーン単位での洒脱な衣装やセットは思いだせる、ある意味で映像メディアにとっては幸福なことなんでしょうけど。
ネタ自体は古今東西のSFですでに使われきっているような内容なんですけど、あまりウェットになりすぎないバランスなのは好印象。
ライアン・レイノルズはもはや「デッド・プール」以前のシリアスな役どころを観ると笑ってしまうのですが(「ライフ」は半分ギャグみたいなものなので・・・)、でも演技が悪いってわけじゃないんですよね。知った風なこと書けませんけど。
どことなく「ボーン」シリーズな趣もある。
「ハミングバード」
わしはこんなステイサムみとうはなかった!
まどろっこしいったらありゃしないよもう!
「モンスタートーナメント 世界最強怪物決定戦」
プロレスラー使うなら普通にプロレスさせた方がよかったのでは・・・?
あーでも目からビームとかは(今後の可能性としてプロレス+ARとかで再現できそうですが)映画じゃないと観れないし、何気にメイクは凝っているし、楽しもうと思えば普通に楽しめる。
ウィッチビッチとかいう小学生レベルのネーミングセンスには苦笑しましたが。
「バカルー・バンザイの8次元ギャラクシー」
もっとコミカルな方面に突き進んでいるのかと思ったら真面目にやっていてびっくりした。
だって万歳ですよ、万歳。年代的にも、もっとこう「ゴースト・バスターズ」的な感じかとおもったんですが、むしろ「インデペンデンス・デイ」な感じ。つまり本人たちは至って真面目なんだけれど、観客としてはなんか笑えてくるというバランス。
いや、セットとか小道具は結構凝っているので観ていて楽しいんですけど。
ラストのみんな集合のエンディングがBGMも相まって一番楽しい。
「帰ってきたヒトラー」
これって結構な当事者性が求められるようなタイプの映画ではありますが、どの国も同じ問題を抱えているんだなぁと。
でも、ある意味では強大なアイコンとしての悪がドイツにはあるぶん、顧みやすいということはあるんでしょうな。
日本の場合はもっと曖昧で認識しづらい空気みたいなものにあるから(ヒトラーがそれによって呑み込まれていた、という部分も確実にあるでしょうが)、余計に難しいところなのかもしれない。
「ゾンビランド」
2が今年やるということことで観てみたんですけど、この手の映画にしてはキャストが豪華すぎる。ビル・マーレイも含めてですけど、「アクアマン」でメラの役をやってたアンバー・ハードが割とちょい役で出ていたり「フリークス学園」のマイク・ホワイトもちょい役で出ていたりするし。
ビル・マーレイの扱いやジェネレーションギャップの小ネタ、一々ルールを文字で見せてくれるのも気が利いていて面白い。劇中のアクションに合わせて文字も色々な動きを見せてくれるのもいいですね。何気に物理的に存在しているかのように影をつけていたり無駄に凝っている、ああいう細かい編集で笑わせてくる。カイル・クーパーが手掛けた「パニック・ルーム」みたいで楽しい。
ただR15な割にそこまでグロい描写がなかったのは謎。
予告編で美味しいところを見せすぎているような気もしますが、それにしても最後以外はほとんどゾンビは出てこないのは結構大胆な作り。
ほとんどメイン4人がダラダラ過ごしているだけのシーンでありますからね。
人見知りへっぽこ童貞が障害を乗り越えてガールフレンド(?)をゲットするという実に分かりやすい話をロードムービー的に描き、人見知り出不精童貞くんを強制的に外に引きずり出し尚且つアクション的に活躍させる舞台設定としてゾンビがいるようなものとしか思えないので、ほとんどスパイス的な扱いである気がする。
ピエロのくだりの安易さとかハレルソンの息子のくだりとか、凄まじいまでのお手軽さで笑えてくるのですが、そういうスナック感覚で観るのには向いている気がする。
遊園地のアトラクションを使ってゾンビ退治するシーン(ていうかこれがやりたかっただけだろ!)はもうちょっとカメラワークとか色々ブラッシュアップできそうな気もしますけど、あのアイデア自体は新鮮ではあった。
近所のシネコンでかかるなら2も観に行くかも。
「ドニー・ダーコ」
これも観たかった映画だったんですけど、長い間放置していてようやく観賞。
なるほど、カルト映画の空気感は確かに湛えている。25歳でこれを撮るってのも凄まじいものがあるんですけど、なんとなく若さゆえのダウナーなアッパー感が。
評判の悪い2は未見なんですが、IMDBを観ると監督は全くのノータッチかと思いきやCharactersとしてクレジットされているっぽいですな。
リチャード・ケリー監督はめっちゃ寡作なんで、監督作はほかに4つしかないんですね。日本版ウィキが情報少ないだけってわけではなく、2009年の「運命のボタン」以降は監督も脚本もしてないと。午後ローで「運命のボタン」は観ましたけど、あれもあれで変な映画ではありましたね。オチも含めて星新一のショートショート的な話だったような。そういやサウスパークのシーズン13で似たような、というかほとんど同じ話があったのを思い出す。時期的に元ネタ同じだったりするんだろうか。
あれもあれで哲学的な問題提起ではあった。
本人としてほかのドキュメンタリー?とかには出ているっぽく「Donnie Darko: Deus Ex Machina - The Philosophy of Donnie Darko 」っつー2016年のものには出てるらしい。ただ、IMDBにもこれといったレビューがないあたり、本国でも割と「あの人は今」的な扱いなのかもしれない。
本編に関して言えば、最後の方までは「SFっていうより精神障害の人が視ている世界じゃんすか」と思っていたのですよね。関係妄想や幻視幻聴として捉えれば単なるスキゾフレニックなだけと言えなくもないし。が、最後まで観るとこれはむしろ「イザナミだ」な内容だったのかなーと。
一方でこれはナウでヤングなユースフルボーイにありがちな、世界への不信というものとしても観ることができる。
ドニ―の行動はすべて尾崎豊の歌みたいなもので、大人による欺瞞を暴こうとしているようにも見えるし。ドリュー・バリモアくらいなものでしょうかね、この映画で大人側にいない大人は。文学、っていうところも多分そうだし。
同時にいわゆるセカイ系でもある。女の子を救うために自分を犠牲にするタイムループもの。悲しいけど。
改変前の名残みたいなものがそれぞれのキャラクターにもあるような描写があったりするし、飛行機がどこにいったのかわからないみたいな発言もあったし、繋がっているっぽいんですよね、前と後の世界が。
ラストカットのあれは「すれ違」っていることを示しているんでしょうかね。
直前に観た「ミスターノーバディ」と似ている部分がある。
竜巻みたいなのの超常感とかすごい良い。