dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

プラネタリウム

そんなわけで「プラネタリウム」の感想をば。

 

まずは役者から軽く触れてこうかしらしらしら。

 はい。昨日のエントリーでも触れたからにはまずこの人から紹介すべきか。我らがナタリー・ポートマン。才色兼備の

 リリー・ローズ・デップ、「コンビニ・ウォーズ」とかいうB級映画に出たと思えばこんな重苦しい(仮)映画にも出るし、よくわからんですな。まあ「コンビニ・ウォーズ」の監督は「ドグマ」なんてガワはバカっぽくしつつ割と真面目(?)な映画を撮る人ではあるんですが。どうも次の作品で監督引退するらしいですが。「コンビニ・ウォーズ」も「mr.タスク」もまだ見れていないんだよねー。どうでもいいんですけど、リリー=ローズ・デップって芸名なのかしら。いや、どちらにせよかなり輝度の高い名前ではあると思うのですが。特にリリーとローズを「=」で繋いでるあたりが。いや、外国人の感覚としては名前を「=」で繋ぐのはごく自然のことなんでしょうが。字面上はすごいキラキラしてるので。

たしかに浮世離れして達観しているような顔つきは魅力的ではありますから、使いたくなる気持ちもわかる。陽の超然性を持つのがダコタならば陰の超然性を持つのがリリーローズとでも言うか。デップに似てるのは当然なんだけど、エミリー・ブラウニングにも少し似てる気がする。あっちはもっと顔が角張ってるけれど(他意はない)。

基本的にはこの二人がメインなんだけど、どうしても物語上ーーそんでもって個人的にこの二人と同じくらい気になるのがエマニュエル・サランジュ。フランス人俳優ということでこの人についてはまったく知らなかったんですが、この人の顔とか演技とかかなりこの映画に貢献していると思ふ。あのギョッとした目が大きく見開かれて見つめてくるところとか割と怖いし。

ただ、こう、パンフの写真を見直していて思ったのがアンソニー・ホプキンスジョン・タトゥーロのハイブリッドっぽい顔つきなんですよね。この両名は個人的に好きな俳優ですから、もしかすると単に顔が好みなだけだったりするのか?!

余談ですがルイ・ガレルさんが大学時代のゼミの教授にちょっと顔つき似ている。

 

 お話の設定は中々面白く、1930年代(名言されてないけどセリフ的に第二次大戦前)の霊媒師・・・じゃなくてスピリチュアリストの姉妹と映画プロデューサーが出会ったことで両者の間に色々な変化が生じてくるという感じ。

 面白いといったのは、姉妹の話も映画プロデューサーの話も年代こそ違えど事実をベースにしていて、それを組み合わせたのが本作であるということ。ケイトとローラ姉妹の元ネタとなったフォックス三姉妹は19世紀中頃に活躍したスピリチュアリストで、「とある裕福な銀行家が亡き妻の霊を呼び出すために、姉妹の1人を雇った(パンフより抜粋)」エピソードを元にしているらしいです。同じ箇所でヒッチコックに言及していたけれど、そういえば「めまい」っぽいシーンがありましたねー。で、もう一つの方は映画会社パテの映画プロデューサーであるベルナール・ナタンという実在した人物のエピソードを元ネタにしているとのこと。

  36歳のナタリーと18歳のデップ娘を姉妹役っていうのは結構挑戦的というかなんというか。ギリギリ親子にも見えるんですが・・・しかし深読みすれば母子にも見えるという部分を意図したものとも取れる。実際、彼女らは顔は似ているから血縁を感じさせることは容易だし。で、その意図というのは何かっていうと、親のいない姉妹にとっての妹の保護者という役割(ロール)を背負わせているんじゃないかということ。なぜ母親の役割なのか。それは妹を庇護するためで、そのためにはつまるところ現実と向き合わなければならないからだ。

誤解を恐れず書くと、感情的な映画だと思った。見えないものを見ようとし、それを信じる純粋な心とあくまでそれを打算的な道具として扱っている怜悧さが同居し、その葛藤と前者の敗北を描いているんじゃないだろうか。しかし、それは完全なる敗北ではなく怜悧な視線をもつ後者へ継承ーーーーではなく憑依することで生きながらえていくのではないか。コルベンとケイトの末路とそれに連なるラストシーンを見ていると、そう思わざるを得ない。パンフに寄稿している富永由紀氏には概ね同意するのだけれど、タイトルとなっている『プラネタリウム』に関しては見解がちょっと違う。いや、違うというか、さらにその裏があるような気がする。

なんで「プラネタリウム」なのか。だって、プラネタリウムって作り物の夜空でしょう? 作り物、つまりフィクションであり、そのフィクションの上に散らばっている星星を見せているということにほかならない。つまり、スピリチュアルがフィクションであると理解した上で、それでもなおそんな世界を信じようとするある種の抵抗でもあるんじゃないかと思ったりするのです。だからスピリチュアルに殉ずるコルベンとリアルを生きるローラを繋ぎ止めるケイトがいるんじゃないだろうか。

「カメラは生きているものを捉えるものじゃなくて、なくなっていくものを記録するものじゃないか」ということを、デジタルカメラを今回なぜ使用したのかという質問の中で答えている。わたくしめの意図とは異なる意図をもっての発言であるということに注意しつつも、リアリティとハイパー・リアリティに変えてくれるという発言もやはり「超現実」というスピリチュアルを描こうとしているとしか思えない。だとすると、現実の対極としてのスピリチュアルではなく現実の先にあるものとして最新鋭のデジタルを導入したのかもしれない。そう考えると、これは監督にとって次なる挑戦的な作品なのやもしれません。

まあ批評くさくなってしまっているけれど、一個人の感想でしかないので見当違いな駄文を書き連ねているだけかもしれませんが。

 

 

 うん、まあ色々書いてきたけどナタリーの七変化とリリー=ローズ・デップのうっすら生えた腋毛が観れるから、そういう趣向のある人は観ていいと思う。特にナタリー(あえて本名で書きますが)がいい年したおじいさんのコルベンと妹のケイトに嫉妬している姿がねーすごく可愛らしいんですよ。ロリコン紳士はお気に召さないかもしれませんが。ほかにもコルベンの噂を知りたいがために浮薄な俳優とセックスしちゃう度胸があるくせに、それがコルベンの悪口だと知る(っていうか男娼にナニをさせていたという事実を知ってしまったことのショックの裏返しだと思いますが)やいなやピロータイムもなしに感情的に追い出していくところとか。この直前でこの浮薄な俳優とのキスシーンがあるのですが、窓枠に被って顔面が見えないことから彼への気持ちがないことを映像的に表現していたり、さすがアート志向なフランス映画。

まあエマニュエルとリリデプが部屋で降霊術をやっているところなんか、どうかんがえてもセックスの暗喩としか思えませんでしょうし、嫉妬云々以前にアレではありますが。

 何が言いたいかというと、アート映画としても楽しめるしナタリー萌え映画としても楽しめるということです。あとしつこいようですがリリデプの腋毛も観れるので気になる人は劇場に急げ!