dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

どう見てもDVの共依存です本当にありがとうございました

っていう簡単な話に見れなくもないんだけれど、実はもっと根深いものがありそうです。みんな大好きフェデリコ・フェリーニの「道」。

わたしはそんなに好きじゃないっていうか、そもそも彼の名前だけは知っていても作品はほとんど見たことがない(大体そのパターンだけど)ので多くを語れないのですが、「8 1/2」とこれを観るとどうにも「この監督いつも悩んでんな」という印象を受ける。

 

まあ、ぶっちゃけますと淀長さんが触れてくれているし、自分も観たあとに彼の解説を読んで割と満足してしまっているので、それでも構わないような気もするのですが、やはり自分の言葉で綴ることにこのブログは意味が有るので、もうちょっと書きましょうか。一応、公式のリンクを貼っておきますです。

淀川名画撰集 - 道 

ちなみに、わたくしめは「一番最初、海をじーっと見ていたジェルソミーナが今度じーっと薪見るんですね。この子は水と火が好きなんですね。本当の原種の子なんですね。」という部分がかなり的を射ている上にすごくイイ表し方だと思う。原種の子っていう響きそれだけでジェルソミーナの純な部分が表現されていて。

 

 で、淀長さんのその部分に強く共感したわたしは、映画を観ている間は「君ら不器用すぎるよー」と思っていたのだけれど、そうじゃなかったのかもしれない。

不器用だとかそういうレベルじゃないんじゃないかと、書きながら思った。つまり、この映画における主要人物ザンパノ・ジェルソミーナ・綱渡り芸人(イル・マット)の三人から知恵を感じられないということ。こう書くとどうしても貶しているように聞こえるだろうけれど、そうじゃない。そうじゃなくて、人間の中で人間が人間として生きるのに必要な駆け引きとか妥協とか我慢とか思いやりとか、そういうものを持ち合わせていないように思えるのです。不器用という言葉ではあまりに足りない。それくらい、どいつもこいつも自分に対して、それこそ歪なほどにまっすぐで愚直にしかいられない。だからザンパノはその名のとおり(名前については後述)ジェルソミーナにDVをかますし、ジェルソミーナはジェルソミーナでそうする以外の生き方を知らないし(冒頭でも母親から言われているし自己言及もしている)、イルマットに至っては殺すとまで言われてもザンパノをからかうことやめない。それこそ、病的なまでに。

 

 一回観たあとにもう一回巻き戻して観て、ある場面が目にとまった。一回目から、なんとなく思うところはあったんだけど、二回目に自分がそこから見出したのは、ジェルソミーナという疎外者だった。

その場面というのは、子どもにせがまれて寝室のベッドの上の笑わない奇形児を笑わしてやってくれと頼まれた場面。この場面で、ジェルソミーナはその子を笑わせる前にシスター(?)によって部屋から追い出されるのですが、その直前奇形児に対して優しいまなざしを向けるアップのカットが入るんです。

それが、どうにも気になった。たしかに、この場面はザンパノから離れようとするきっかけとなる部分ではあるけれど、きっかけとしてだけ機能させるのであれば、わざわざ共感を示すようなカットはいらないんじゃないかと。

思うに、ジェルソミーナはこの子どもに自分を投影していたんじゃないか。世界に相対(化)する同じフリークとして、純粋な者としてしか生きられない同志として。まあ、そこまでいかずともなんらかのシンパシーはあったはずだ。あの視線には。それに、彼女には少し足りないようなところがあるし。

 だから、奇形児ひいてはフリークスを蔑ろにして女を抱く(この前の時点ですでにザンパノは彼女を放置プレイしているし)彼に対して憤りを感じて離れようとしたんじゃないか。自己を投影した奇形児を無碍にされて怒るという、なんとも自分本位で相手思いなことか。

 この世界にあって、純粋さというものは生きていくのに不要なものかもしれない。けれど、だからこそ尊いのではないだろうか。そして大概、人というやつは喪失してから気づくものなのでせう。ザンパノのように。だから、この映画を観て泣く人の気持ちはわかる。自分の場合は、もうちょっと直球どストレートな方が泣けるんですけどね。

 

最初のワンカットと最後のワンカットの対比も胸にくる。

最初のカットにおける抜けた空と一緒に明るい海の浜辺を駆けるジェルソミーナに対して、最後のカットにおける真っ暗な夜の海に膝をついて崩れ落ちるザンパノの哀れなことよ。きっちり海に対して角度も逆に撮影っているのは、わたしの深読みかもしれないけれど。

 

冒頭でわたしは「こいついつも悩んでんな」と書きましたが、それって要するに人間的な問題じゃありませんでしょうか。悩むという行為、それそのものがとても人間的なことであり、それを純粋な映像と物語によって描き出すところが彼の凄まじいところなのかもしれない。これは、たとえば自分の好きな「マンチェスター~」とか「20~」のように人間を描くことで人間を描くのとはまた異なる次元の、けれど実に映画的な表象手法なのかもしれない。

とかなんとか、それっぽいこと言ってみる。

 

ちなみにアンソニー・クインが演じるザンパノがイタリア語のZampaが悪や悪漢の象徴を意味していたり、ジェルソミーナ(Gelsomina)がイタリア語でジャスミンの意=純粋さの象徴だったり、綱渡り芸人ことイル・マット(il Matto)は狂人やキ印と訳されるというネタを仕込んでもいたりするらしいですよ、奥様。