dadalizerの映画雑文

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邪悪な副大統領

アダム・マッケイの監督作で言えば「俺たちニュースキャスター」シリーズが有名なのでしょうが、私の場合は「アザーガイズ」と「マネーショート」くらいしか観たことがないのですけれど、彼の監督作だけを追っていけばその志向はわかる。簡単に言えば社会問題であり、それをコミカルに描こうとするところにある。

だから「笑えるけど笑えない」というのが基本的に彼の映画には通底しているのだけれど、「バイス」はこれまでのアダム・マッケイの映画としてはかつてないほどにグロテスクな映画だった。

たった一人の人間が世界をかき乱していくその過程は、あまりにも凡庸。それにもかかわらずこうなってしまった。その異様さこそがグロテスクさの理由なのでせう。あるいは、落下事故によって開放骨折している作業員に対する冷淡さが当然のように描かれる様もそうだろう。
いや、あれがどこまで真実なのかはわからないし、ディック・チェイニーという人物を描く上での脚色なのかもしれない(その作為性は危険でもあるのですが)。それでもその意図するところは同じだろう。

ディック・チェイニーは飲んだくれで喧嘩っ早くはあった。が、果たして何か異様な行動を取ったりしただろうか? 
多かれ少なかれ権力を欲する(資本主義的かつ卑近にたとえるのであれば昇進でもなんでもいい)というのは人の本性ではなかろうか。より良き生活を手に入れるためには程度はあれ権能が必要となるのだから。

むしろ、愛する妻(というか当時は恋人)のために飲んだくれの生活を止める程度の誠実さが彼にもあった、というところが重要なのです。
つまるところ、彼はソシオパスでもましてサイコパスでもなければ、ずば抜けたカリスマを持っているわけでもない。田舎の一般ピーポーでしかない。劇中では馬鹿な話をいかにも真面目っぽく話す才能があったと言及されるけれど、政治家に必要とされるスピーチの才能は彼にはなかった。その代わりに妻のリンがその才を持っていたのだけれど。

しかしアメリカの政府という伏魔殿で仕事をし続けることで、やがて副大統領にまで上り詰めることになるのだけれど、本編でも途中で感動的なBGMに合わせて流れるエンドロールがギャグ的に使われているように、企業のCEOになった時点で政治関わりを経っていれば、至極真っ当で(退屈な)成り上がりの成功譚でしかなかった。

そこに一本の電話がかかってくる。それこそが、今に尾を引く事態の発端と言っても過言ではないかもしれない。
この電話の主(?)であるサム・ロックウェルの演じる子ブッシュが実に「神妙な顔して何も考えてない馬鹿」を体現していて彼が登場するシーンは本当に笑えるのですが、しでかしたことを考えると全く笑えないのが実にアダム・マッケイ節。
曰く
「無能な働き者は害悪である」 byゼークト
「活動的な馬鹿より恐ろしいものはない」 byゲーテ
「真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である」 byナポレオン

だから無能を自覚している私のような人間はひたすら石橋を叩いて何もせずかろうじて生きているわけですが、そういう自覚を麻痺させ自我を肥大させるものこそが権力なのでしょう。

それはもちろんブッシュだけではなくディックもだ。
だから劇中で描かれるようなことになってしまったわけで。

ディック・チェイニーら政治家たちの行動の反作用(あるいは作用そのもの)とも呼ぶべき活動の影響として随所にインサートされる悲惨な現実の数々。
ブッシュの貧乏ゆすりが戦場で震える人の足に繋げられる映像的な巧みさや絵画の配置、エンドクレジットにかかる曲のアイロニーなどなど、その手腕は流石。

エンドロール後のあのやり取りは監督の本心だったりするのだろうけれど、しっかりと「ワイルド・スピード」への流れ弾で笑いを誘ってくるあたりマッケイである。

 

とはいえ、この映画はかなりの危険を孕んでもいる。

それは、ともすれば問題をディック・チェイニーだけに収斂しがちな描かれ方をしているようにも見えるからだ。先も書いたようにディックというキャラクターはある程度脚色されているだろうし、その脚色とは監督の視線を通して我々に提供されているものに他ならない。

完全な客観性などというものが存在しないことは言うまでもないけれど、あらゆるメディアはそのメディアの主体たる人物(とか組織とか)によってある側面を切り取られたものでしかない。

この「バイス」もそれは当てはまることである。もちろん、本作で描かれる事態の中心にディックがいることは事実だろうけれど、しかし彼にそうさせたのは彼自身だけではなく周囲のあらゆる環境による相互作用にもある。

森達也が「A3」において語った言葉を援用するのであれば、ディック・チェイニーとは我々の可能性の一つでしかない。

誰もがああなる可能性はある。それを常に意識しなければならない。