dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

えいがづくりってたのしいね!(小並感)

久々にuplink渋谷に行ってまいりました。

まがりなりにも福祉を学んだ人間としても映画を観るのが好きな人間としても、じつに興味深い映画があったので、わざわざ渋谷にまで行ってきましたよ。ええ。

「ナイトクルージング」って映画でございます。

 

 

 

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 uplinkや恵比寿ガーデンシネマみたいなオシャンティーな映画館はこういうのを展示してくれるので嬉しいところ。

 

 

以下概要

「あぁ、見えてない。それがどうした?」

視覚がなく、光すら感じたことのない全盲加藤秀幸は、ある日映画を作ることを決める。加藤は、映画制作におけるさまざまな過程を通して、顔や色の実体、2Dで表現することなど、視覚から見た世界を知っていく。また、加藤と共に制作する見えるスタッフも、加藤を通して視覚のない世界を垣間見る。見えない加藤と見えるスタッフ、それぞれが互いの頭の中にある“イメージ”を想像しながら、映画がつくられていく。
加藤の監督する短編映画は、近未来の宇宙の小惑星を舞台にした、生まれながらに全盲の男と見える相棒が“ゴースト”と呼ばれる存在を追うSFアクション映画。それはまるで、映画制作の現場で浮かび上がる、「見える/見えない世界」の間に漂う何かとも重なる。ドキュメントとフィクション、二つの世界に漂う“ゴースト”を、捕らえることはできるのか。

映画監督・佐々木誠と、全盲のミュージシャン・加藤秀幸。
僕らの青春は、ジャッキー・チェン
でもなぜ全盲の彼と映画の楽しさを共有できるのだろう。

監督は、本作品の前作である『インナーヴィジョン』、『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』などマジョリティとマイノリティの境界線に焦点を当てた作品を多く手がけてきた佐々木誠。プロデューサーに、障害を“世界を捉え直す視点”として展覧会やパフォーマンスなどのプロジェクトを企画してきた田中みゆき。また、加藤が監督する映画『ゴーストヴィジョン』には、『シン・ゴジラ』『バイオハザード』シリーズのプリビズやCGの制作チーム、『ファイナルファンタジーXV』の開発チーム、国内外で活躍する現代美術家金氏徹平など、幅広い分野のクリエイターたちが協力している他、山寺宏一石丸博也など豪華声優陣、作家のロバート・ハリスもキャストとして参加。前代未聞の映画制作をめぐる冒険ドキュメンタリー

 

全盲の、というくだりしか知らずに見に行ったのですがまさか山ちゃんやら神奈延年やら能登麻美子やら石丸さんやらが出てくるとは思わなんだ。

石丸さんは演出の感じからして顔出しNGだったのかもしれませんが、「ゴーストヴィジョン」のアフレコに参加したほかの声優はみんながっつり顔出ししておりました。

専業声優ではありませんがJ-WAVEでおなじみのロバート・ハリス氏を起用しているあたりも、口述しますが加藤さんの非視覚者(便宜上、ここでは視覚障碍者ではなくこういう表記をしていこうと思います)としての世界観があったのだなぁ、と思ったり。

しかしリターンズで時間が止まってるとはいえ神奈さん老けて太ってましたね・・・ちょっと小堺さんぽい気のいい叔父さんみたいな風体でした。相変わらず声はかっこいいですし、「ゴーストヴィジョン」では山ちゃんとのバディということもあって吹き替え声優ファン(ってほどじゃないけど)としてはこの珍しい組み合わせだけで結構脳汁ドバドバでした。

あと能登可愛いよ能登(テンプレ)。能登さんのああいう精悍な女性の声は初めて聞いたのでちょっと新鮮でした。

声優に関してはそんなところでしょうか。

 

さて、この概要や記事から受ける印象だと、何か挑戦的だったり視覚者との間に齟齬や軋轢が生じて葛藤する(監督はそうならないようにしていたようですが)映画かと思われるかもしれない。

しかし、実のところこの映画の内容は「もの(映画)づくりの純粋に楽しい側面だけを抽出した」ものだったりします。いや本当に。

 

それはたとえば、サークルで同人作品を出そうとするときのみんなでワイワイ企画を考えるときの楽しさに近い。自分にも少し覚えがあるので、劇中で描かれる映画作りのプロセスには本当にわくわくしながら楽しめました。まあ、私の場合は企画が空中分解しておしゃかになったわけですが。

星を小道具で作る方法、CGの制作過程、スクエニが作ったイメージボード、モーションキャプチャーブルーバックを使っての車内撮影などなど。

なんとなくそのプロセスを知ってはいても、こうして映像として「観る」ことで物を作ることの楽しさを疑似体験できる。そういう映画になっているとは言える。

もっと普遍的な例に落とし込むのであれば、友達と文化祭の出し物の準備をするワイワイガヤガヤした楽しさ、でしょうか。もしくは「遠足は前日が一番楽しい」というアレに近い。

 

とはいえ、映画製作の過程なんて、どう撮っても少なからず似たり寄ったりになるでしょう。エイリアンシリーズとか地獄の黙示録みたいに過酷すぎる現場は例外としても。

けれど、本作には大なり小なり映画製作で語られるはずの過酷さというものはほとんどない。それはたぶん、加藤さんがまったくの素人(一応、前作にあたる短編「インナーヴィジョン」では映画製作のハウツーを学んでいたようですが)であり「ゴーストヴィジョン」が「非視覚者による」企画であるという、ビギナーズラックや周囲の忖度によるところがあるからだ、と言い切っていいと思う。

佐々木監督はこう言ってる。

『ナイトクルージング』を撮影するうえで意識したのは企画から完成まで、映画づくりの工程を忠実にカメラに収めること。見える/見えないにフィーチャーした描き方ではなく、映画の制作段階を丁寧に見せることで、クリエイター同士の会話の中で『見えない』ことによる問題がたまたま浮上する。そうすることで、おのずと見える/見えないという違いが出てくると考えました

この言質から考えるのであれば、10分ちょいの短編であるとはいえ本当に「忠実にカメラに収め」ていたのならば、映画製作の中で必然的に葛藤や問題は生じてくるはずだけれど、少なくとも私にはそれが感じられなかった。いや、視覚の概念を学ぶことは加藤さんにとっては大変なことなのだろうけれど、様々な施設を訪ねていく様は私にはむしろ学習番組を見ているようなウキウキしかなかったので。

もしも監督によってそのような場面がカットされたのでなければ、それは既述したようなビギナーズラックや忖度というものだと、意地の悪い言い方ではあるけれど率直な感想としてはやっぱりそう表現せざるをえない。もっと身も蓋もない言い方をすれば「偏見」となるのかもしれない。ただ、こればかりは非視覚かどうか以外の要素も強く影響してくるだろうから、なんとも言えないのだけれど。

 

ただ、監督の意図したとおりほかの映画製作についてのものとの違い、「見える/見えない」という加藤さんにしか生じ得ないものは確かに立ちあらわれてくるし、我々視覚者が当たり前なものとして普段は意識しないと思われている顔の形や色の円環構造なスペクトル性などを揺さぶってくる場面もある。

 

たとえば空間把握のとき、あるいは効果音をつける際の指示は、彼がシステムエンジニアでありミュージシャン(両方ともどの程度の水準なのかはわからないけれど)であることを勘案しても、映画作りのほかのプロセスに比べて明らかに効果を理解している。

ドアの締まる音、エディフとレスクの歩調の合わせ方、衣擦れの音などなど。あるいはサウンドコンテという解釈(実体としては要するに台本とか脚本ではないのかとも思うのですが)。

本編ではないですが、映画の後にちょっとだけ本人が登壇した際の発言からもそれはうかがえる。「サインはします。何がいいのかわからないけど」という言葉からも、逆説的に視ることへの相対的な関心の低さが伺える。当然と言えば当然なのだけれど、それをしっかり当事者が表明したことにこの映画の意義の一つとしてあるようには思う。

 

一方で「音」を使うことを極力避けたがっている様子もあって、それは多分「非視覚者

」であるで視覚者から受ける決めつけの視線によるものなのだろう。ステレオタイプというか。

しかし、本編の最後で監督から「何が一番楽しかったかか」と問われ「それは聞かれたらやっぱりアフレコだよ」と言っていたように、劇中の配信番組と格ゲーで対戦していたときの「100%音で理解している」という発言からも明らかなように、光よりも音にコミットしていることは逃れがたい。

それは個人的価値観とかそういうレベルではなくで、生存能力としての身体性の発露にほかならない以上、本人が望むと望まざるとにかかわらない不可避な特性なのでしょう。視覚者が光に大部分を依拠しているのと同じように。

だからといって音がすべてといっているわけではない。劇中で役者の顔を確認するときのように手で触れて認識するように、触覚にだってコミットしているし、それぞれ切り分けられるようなものではそもそもない。

 

映画の冒頭、カーテンが開きスクリーンが見えると、そこから12分は真っ暗での中「ゴーストヴィジョン」の音声が流れる。そしてゴーストヴィジョン本編が終わると最初の映画館スクリーン内部を映し出す。そこには数人の観客がいる。

全員、非視覚者たちだ。そして、彼らに対して好きな映画について語ってもらうシーンがある。各々が好きな映画について語っていき(20代くらいの女性が岡本喜八監督の映画が好きと言っていたのは笑ったが)、最後に加藤さんが応じる。

つまり、視えずとも映画を観て楽しむ人がいるということを、そしてそれが別に特別なことではないことを端的に示している。

そうやって視覚者と非視覚者に共通する普遍性と決定的な差異を提示してから、この映画は始まる。

 

だからというべきか、それを強調するかのように、この映画の中で2回「ゴーストヴィジョン」を異なる形で体験することになる。一つは非視覚者の「視る」「ゴーストヴィジョン」であり、もう一つは視覚者の観る「ゴーストヴィジョン」だ。

ドラマCD・ラジオドラマ的と言ってしまえばそれまでだが、はっきり言って映像のない冒頭の「ゴーストヴィジョン」の方が映像つきの「ゴーストヴィジョン」よりも違和感がない。それは声優の演技やSEという非視覚者にとっての世界がノイズなしで純粋に「映画化」されたものだからだろう。

しかし映像のある方は、前述したようにプリヴィズを持ってきたかのようなCGや間の抜けた(とみなされる)シーンや不可解な場面転換で占められている。これが加藤さんの望んだものなのかどうかすら判断できないのだけれど、少なくとも視覚者としてはとても優れた作品であるとは言えない。

矛盾しているけれど、こと「ゴーストヴィジョン」という映画においては、視ない方が洗練されているとすらいえる。それこそが、あるいは非視覚者たる加藤さんが持つ映画の「ヴィジョン」なのかもしれない。

けれど、よく考えれば映画を作る上では「何を描くか」と同じくらい「何を描かないか」ということも重要な骨子になってくる。であれば、非視覚者である加藤さんのヴィジョンである音でのみ描かれる(=何も映さない)「ゴーストヴィジョン」こそが、映像化されることでロスト・イン・トランスレーションされてしまった「ゴーストヴィジョン」よりも洗練されているのは必然であるとも言えるのではないだろうか。

そして、この「ゴーストヴィジョン」すらも映画として受け入れてしまう度量の大きさが映画というメディアの持つ強度なのかもしれない。いや、「こんなの映画じゃない」と言われたら「それは違う」と言い張れるほど自信はないのですが。

 

個人的には、映画よりもゲームでこそ、その本領が発揮されうるのではないかとも思っていたりするのだけれど。実際、今回のプロセスではゲーム会社の協力が大きい。

すでに「Perception」といった非視覚者の感覚(というか見えない恐怖)に近づけようとするゲームがあるくらいだし、インタラクティブメディアとしての可能性で言えばゲームの方に期待をしたくなる。

 

 

ただ、いくつか物足りない部分はある。

一つは、視覚者優位の世界・メディアにあって、非視覚者というアウトサイダーの視点から映画の可能性を模索することも可能だったのが、制作の中でインサイダー化していきマジョリティの文法の中に取り込まれてしまっているからだ。

しかしながら、ハウツーを知らずに全くの素人が映画を作ることはできなかっただろうから、ここに関してはいかんともしがたいのではありますが。

でもやっぱり、それはわたしたち視覚者に隷属させることのような気がしてならない。たとえ形無しになっても、アウトサイダーとしての作品は観てみたかった。映画の文法に縛られない映画。そんなものがあるのかどうか、可能なのかどうか知りませんが、その可能性を模索することはできたでせう。

けれど、当初の「非視覚者が映画を作ること」の是非の可能性を無限定に射程に対して、もっとも短距離な「作ることに意義がある(あった)」という結末に落ち着いてしまったのは残念なとこではある。

そういうことは意図していない、という部分も作り手側からは感じ取れるのだけれど、だとすればなぜ映画なのか、ということにならないだろうか。別にこの映画に限らなず、映画を観るときというのはそれがどんな映像になのかを想像するだろう。

や、だからこそのラストなのだろうし、ただ「作ることに意義がある」というスタンスは同人のそれに近い。だからこそ、この映画は「もの(映画)づくりの純粋に楽しい側面だけを抽出した」ように見えるのでせう。

だからこの物足りなさは、まあ、言ってしまえば私のないものねだりであるわけです。

もっとも、これからもまだ作るのであれば(というか是非そうして欲しくはある。能登さんの意味とは別の意味で)、やっぱりどうなるか見てみたい。

 

 

とはいえ発見も結構あった。たとえば、空の理解の仕方。ここ、個人的にはこの映画でもっともセンスオブワンダーだった。自分とはまったく異なる世界の解釈に、ちょっとウルっと来てしまったり。 

 映画を観ていく中で生じた問題や疑問も、新たな発見といえるかもしれない。

監督が映画のラストのラストで訪ねていたように「あの猫って何」という疑問。

いや、猫が登場したということよりも、なぜあの猫は平面的な存在だったのかということ。はっきり言って「ゴーストヴィジョン」の映像はプリヴィズ段階の映像を本編として使っているのではないか、と思えるくらいに完成度が低い。それゆえに、あの猫の表現がどこまで加藤さんの意図したものなのかという部分がまったくの未知であったり、そもそも劇中で指摘されているように完成したものを「視る」ことができない加藤さんは、映像メディアである映画に対してどう感じるのかなどなど。

パンフに収録されている「ゴーストヴィジョン」の科白と音声解説を読むに、音声解説でも「猫のカラダは厚みがなく、紙に描かれたようにも見える」という表現がされているから、おそらくは意図的なものなのだろうけれど。

そもそもライブアクションとアニメーションの違いについてどの程度把握していたのだろう? 一体「映画」というもの、それを作ることにおいて加藤さんはどこまで学びどこまで教えられたのだろう?

 また、観終わってからふと思った「どうやって夢をみるのだろうか」などなど、クオリアの違いというか、その辺は突き詰めていくともっと面白くなりそうだし。

 

 

ここまでは映画本編の話。

この映画本編で語られない側面を記したパンフ?を読むことで、映画では描かれなかった部分や気になった部分があったのでそれについても少し書く。

・私はこの「ナイトクルージング」の本編を「もの(映画)づくりの純粋に楽しい側面だけを抽出した」ものと書きましたが、パンフに収録されている鼎談では佐々木監督と加藤さんとの間でアフレコに関してのちょっとした衝突なんかが語られていたりする。

・前述の猫のくだりに対して、若林良の映画批評において「美学者の伊藤亜紗は~中略~資格の大きな特徴のひとつとして、「三次元を二次元化する」こと、すなわち「奥行きのあるもの」を「平面イメージ」に変換することがあると述べている」と述べ、続けて「つまり、この異様な猫はむsろ”健常者より”の猫であり、加藤の立場とは真逆なもの――「ふつう」の私たちのものつ、ゆがみの表象ともなりえるのである。」としている。この解釈は中々面白いなーと思うけど、これもやっぱりこちらがわの理論に基づく解釈でしかないことは留意しなければならない。

・作り手のスタンスはあくまで「見えない人が監督」ではなく「監督が見えない」というものであること。

 

・加藤さんの中に「楽しんでもらえる映画をつくりたい」という思いと「自分の頭の中にあるヴィジョンを映像化する」という思いの葛藤があったらしく、私が本編から感じるのは後者に傾いている、ということだったりする。

が、ここまで書いてきておいて、ふと「それって要するにこちらがわの文法に回収されることを拒んでいるってことなのでは? 脱構築できてるんじゃない?」と思い直す。

考えれば考えるほどよくわからなくなってきました。

そういう意味では、この映画の本質というのは「既存の、所与と思われるものに疑義を呈し再考させる」ところにあるのかも。

いやでもね、結局のところは帯谷有理さんの寄稿がてらいなし忖度なしの観た人の本意だと思うのですよね。ぶっちゃけこのパンフの帯谷さんの記述を読んだあとだと、ほかのインタビューその他が凄まじく欺瞞に思えてくる。私の言いたいことの本質を突いているし。

 

 

色々書いてきましたが、私も自分を投影したキャラクターの声を山ちゃんやら能登さんやらに吹き替えしてもらいたいものです。という欲望だらだらな感じで締めようと思います。