dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

中村和彦監督映画「蹴る」(ダイレクトマーケティング)

タダより安い物はない。というわけで無料の上映会があったので行ってきた。

タダで観れてしかも去年公開の映画なのにパンフレットまで買えて監督のトークも聞けて言うことなしでございます。金がなくて観たい映画をスルーすることは結構あるので。途中で製作資金が尽きて製作会社が降りて監督のポケットマネーで制作を続けた、という話を聞いて若干後ろめたくもあるのですが。まあ区の講座だから公的にお金が出ていると信じたい。

たまたま掲示板を見かけなかったらこの映画とも出会わなかったであろうことを考えると、一期一会の縁に感謝感激雨霰、恐悦至極でございます。

そう思えるくらい、観れて良かった映画。

 

 

間違いなく今年観た中でベスト級の映画。というか、この一年の中でもベスト級の映画でございました。


中村和彦監督のことを知っている人がどれだけいるのか分かりませんが、少なくとも私は今回の上映会まで寡聞にして全く存じ上げませんでした。

それにしても、こんな傑作を手掛ける監督がポケット・マネーで映画を作らなければいけないとはいやはや世知辛い。どうでもいい映画ばかりが取りざたされてこういう良い映画が埋もれていくのは困る。情弱な私としては特に。

中村監督の一連の監督作のテーマからすると寡作ではありつつも社会派な、特に障碍福祉分野にフォーカスしているようにも見えるのですが(例外的なのもありますが、3.11に関しては意識的な作り手からすれば避けては通れないのでしょう)、ウィキペディアの映画以外の仕事を見ると障碍福祉よりもむしろサッカーへの関心が先にあることがわかる。

というか、監督自身「もともとサッカー(を見るのが)好きの野球部少年で、その延長として障碍よりも色々なサッカーのゴールシーンを並べたくて、調べていくうちに障碍者サッカーの存在を知ったことがきっかけて一連の作品を撮ることになった(超意訳)」と言っていたくらいですので、サッカーに興味津々なのは間違いないでしょう。

(全く関係ないんですけど映画にかかわる人でサッカーに入れ込んでるという人が多い印象があるのですが、一体何が彼らを引き付けるのだろうか)

もしかすると、そうやって「サッカー」が「障碍者」に先立っているがために、この映画が障碍者を映したほかの凡百のドキュメンタリーや劇映画とは異なっているのかもしれない。そこまで障碍者をテーマにした作品を観ているわけではないですが。

この「蹴る」は電動車椅子サッカーを題材にしたドキュメンタリー映画なのですが、チームスポーツをたしなんでいた人や介護の現場について思いをはせたことのある人が観たらかなりくるものがあると思う。

実際、私はその両方の要素に僅かばかりとはいえかかわりがあって、だからこそここまで興奮している、というのは否めない。


けれど、そういう経験の有無にかかわらず、観れば圧倒されるはず。

この映画はすべてのプロのチームスポーツ・・・という枠を超えて「個人」と「組織」の間で生まれる二律背反、あるいは個人そのもの、そのシステムの中で身体障碍者ということからどうしようもなく導出されてしまう身体性、そういった極めて個的なものとその集合としての組織の持つ歪みといったものをつまびらかにしてしまうのだから。

それは私が都度都度名前を挙げるオリバー・ストーンの「エニー・ギブン・サンデー」にも通じる「プロ」「チーム」「スポーツ」の持つグロテスクさを、「エニー~」が資本主義的でホモソーシャルなマッチョイムズの清濁から切り撮ったのとはまた別の断面から見せてくれる。正確に言えば金の絡む話もラストあたりの東さんの発言なんかからも垣間見えなくはないのですが、「エニー~」のような個人の思惑を超えた制御不可能な大きなシステムとしてのキャピタリズムは立ち現れてこないので。

先に書いたように、この映画は電動車椅子サッカー取り上げたものなので、サッカーつまりチームスポーツの世界をカメラに収めたものであります。
ではそもそもチームスポーツとは何か? 個人のプロスポーツとは何が違うのか?
それは文字通りチーム=組織であるか否かということ。

組織ゆえに「個人」では生じえない「個々人」の葛藤が生じる。個人種目であれば競技上のすべての責任は己にあり、対峙するのは対戦相手という絶対的な他者のみ。

んが、チームスポーツにおいては、対戦相手以外にも対峙しなければならない「チームメイト」という相対的な他者がいる。そしてチームメイトという他者は、競技の内だけでなく外においても常に意識しなければならない存在なのでせう。

加えて、ただでさえ誤魔化しのきかない実力主義の競争原理がすべてを支配する(裏で色々な力が働いていたりするのでしょうが)「スポーツ」に、さらにその原理に拍車をかける「プロ」という要素が加わることで、「チーム(組織)」や「スポーツ」というものが本質的に内在するグロテスクな構造がより鮮明に浮かび上がってくる。

まあ、そもそも「スポーツ」というものが「闘争」の代替物であるというのはある程度の真であろうし、それが「チーム」という個を超えた集団となりその極北としての「国家」間の「闘争」が「戦争」なのだと考えれば、そのグロさというのは当然なのかもしれない。オリンピックで国旗を背負わされるアスリートの姿を見ていればその違和感のなさに違和感を覚える。

スポーツとは運動であり、人間の身体は運動によって健康を保ち、健康な身体というものはそれだけで病気などのリスクを減らし生存の可能性を高め、さらに立ち返れば我々ヒトの先祖はその健康な身体を駆使することによってエネルギー源としての食糧を得て、さらにその生存可能性を高めるようにできているわけで、人間・・・というか生物というものはその存在の根幹からして闘争(と逃走)を避けることはできないのではないか、とも思ったりもする。

だから戦争というものは、宗教的なイデオロギーとかそういうのとはまた別に人間の機構として組み込まれているものが、集団になることで増幅された結果なんじゃないかしら、と。

この辺の考えは一歩間違えるとレイシズムとかピーター・シンガーみたいなパーソン論に行ってしまうので気を付けなければいけまへんね。はっきり言って、だれでも植松聖になりえると思いますし。

それはともかく、そういう「スポーツ」の世界に健常者という変数の代わりに身体障碍者という変数を代入することで、健常であることに慣れた我々には見慣れない世界がスクリーンに映し出される。

そして、「組織」なるものはそういう「個人的」なものを覆いつくしてしまうということを、図らずも(とか書くと侮りすぎ?)この映画の構造そのものが体現してしまっている。


とはいえ、基本的にこの映画は個人個人に(特にこの映画のきっかけとなった真理さんに)焦点を当てているから、カメラに映し出される人たちを観て真っ当に感情を揺さぶられる作りになっている。

特に、私自身もかつてサッカー(部活動レベルですが)をしていたこともあって、セレクションの厳しさや後輩にスタメンを取られる悔しさなんかを思い出して胸が熱くなったりしましたし、東さんがトッププレイヤーの動きを観て感嘆するのにも「あるある」と頷いたりもした。

常に場面が流動し続けるサッカーなどの競技において、その一連の流れがゴールに結びついた瞬間の高揚感や羨望や憧憬は近ければ近いほどに強くなる。その点で、同じフィールドでプレイしていた東さんからすれば、ワールドカップのフランスVSアメリカの試合は特に強烈だったに違いないことは、その反応からも窺える。もちろん、だからこその悔しさや後述するような抗いようのない壁を痛切に意識せざるを得なくなるのだけれど。

これはもしかすると、観客として観ているだけでは伝わらないプレイヤーならではの共感かもしれない。そういうのは抜きにしてもVSアメリカ戦のフランスのダイレクトパスで素早く相手の守備を突いてあっという間にゴールに放り込むボール回しは誰が観ても圧巻のプレイングだろうと思う。

ほかにも試合用のマシンの調整を行う場面などは、シューズを選ぶときの「自分に適合したツールを見出す」わくわく感にも通じているし、細かいところで言えば1対1の練習や壁に向けてボールを当てて跳ね返ってきたボール(私の地元では「蹴りま」と呼んでいたっけ)をまた壁に返していく一人ラリーの練習もよくやることだった。

もちろん、いずれにしても全く同じというわけではないけれど、個人に焦点を絞ることによって、あまり取り上げられることのない些細な練習の風景一つをとっても、その風景が色彩を帯び観る者の記憶を掘削する。

 
一方で、それ自体がおいそれとした共感を阻む要素として身体の違いが厳然と横たわっている。この映画で描かれる電動車椅子サッカーの選手たちの思いは、そのほとんどが各人の身体と切っても切り離せないところにある。
たとえば電動車椅子一つとってみても、さっきは自分に合ったツールを選ぶわくわく、という風に表現したけれど、動きやすく蹴りやすくするというあくまで付加的なツールとしてのシューズを選ぶ健常者のサッカー選手に対して、彼女たちにとっては一口にツールと言ってもそれはもはや付加的なものではなく足そのものであるはずなのです。

冒頭で永岡さんが「そもそも歩いたことがないから歩き方がわからない」と言ったように。だから、気軽には選べないし(そもそも金がかかるし)入念に調整を加える必要がある。そこには楽しさ以上の懸念や憂慮なんかも多分に含まれていることだろう。

まあ、これは障碍者スポーツに限らないことだというのは、昨今のナイキの厚底シューズの問題が証明してもいるけど。今後もテクノロジーと人間の身体の関わりという問題はもっと避けがたいものになるでしょう。

もっとも、呼吸器のことからも分かるように、テクノロジーの存在は彼らにとっては健常者以上にその身体と不可分であるわけだから、采配の如何がもたらすものは厚底シューズのレベルではないと思うけれど。

これは何もスポーツのことだけではない。電動車椅子サッカーを取り上げつつも個人にフォーカスする(せざるを得ない引力を、彼ら彼女らの身体は有している)この映画は、選手の競技外の日常をレンズに収めていく。
そしてその日常においてこそ、彼らの身体が抱える生き辛さが前面に押し出されてくる。

メインに永岡さんと東さんという二人を据え、さらに他の選手にも二人ほどではないにせよ尺を割くことで、同じ障碍者競技の、同じチーム(ではないのだけど。厳密には)の中であっても、その身体には明確なスペクトルの違いがあることがわかってくる。ソーイングができる永岡さんがいれば、L字型のフォークを使い細かく切ってもらわなければ食事がとれない有田さんがいれば、「2001年宇宙の旅」さながらのペーストでしか食事ができず、しかも本当なら楽しみとしてあったはずの食事が苦痛となり、生きるための営為が苦しみと重荷に直結している東さんがいる(この辺に関してはパンフレットにも載っている東さんのブログの引用なんかを読むとその並々ならぬ思いが伝わってきます)。

だからこそ、PF1とかPF2とか、それらの区分の中でさえも違いあるような、その大きく多様なスペクトルがあっても、そんなものに関係なく一丸となって取り組めるのが電動車椅子サッカーだった・・・はずだった。

ところが、映画終盤、そのスペクトルのすべてを包括(インクルージョン)してくれると無邪気にも思わされた電動車椅子サッカーは、その実フィジカルの差が、電動車椅子であるがゆえに如実に現れてくるのかもしれないことがワールドカップの決勝戦で突きつけられてしまう。

だから東さんは一つの大きく絶対的な壁に打ちのめされてしまった。 東さんだけではない。肺気胸のリスクのせいでそもそも海外に行くことにドクターストップがかかり本人の意思や実力とは無関係に試合から降りなければならない人だっていた。
それは彼らの身体性から生じるものだ。

また「蹴る」が捉える日常風景の中には、健常者が当然のように営為する恋模様もある。

全体の比重としてはそこまで多くはないし、監督自身も障碍者の恋愛についてもっと描きたかった、と言っていたりするのだけど。

確かに、もう少しその辺を掘り下げることもできたかもしれないけれど、その短い尺の中でも見えるものはあった。そもそも実際の撮影期間は6年なわけで、それだけの時間があれば関係性も変容するものであるし、実際その変化を真正面から撮影している。

それに、短くとも東さん・永岡さん・有田さんら三者三葉の恋模様(有田さんは既婚だから少し違うんだけど)を並べることで浮上してくるものが確かにあった。1組だけに注力していただけでは見えてこなかっただろうし、かといってこれ以上の尺を取ることは難しかったのだろう。消去法としての取捨選択の結果でしかなかったとしても。

そして、それはやっぱり、健常者同士の恋愛とは違う世界なのだった。それにもかかわらず、その恋愛の中からは障害の有無に関係ない他者との関わりという普遍的な命題が現出してくる。

永岡さんと北沢さんの当事者同士の二人は、一見すると順風満帆に見える。けれど二人のデートにはヘルパーが付き添っている。それがどういうことなのか、どう二人が感じているのかまではわからない。ただ、健常者の世界に慣れた自分の感覚では、デートに交際相手以外の誰かが付いてくることに、違和感を覚えずにはいられない。

ただ、おそらく、こと恋愛模様に関しては永岡さんと北沢さんのペアよりも、むしろ東さんと有田さんたちのパートナーとの関係性について対置させて描きたかったのだと思う。というのも、恋愛だけではなくサッカーに対するスタンスにしてもこの二人はかなり対象的だからだ。

まず恋愛についてだけれど、東さんとその交際相手の健常者の彼女は、付き合い始めたきっかけを二人仲良くカメラに収まって話してくれていた。んが、撮影を進めるなかで二人は別れてしまう。

その理由は、介護しなければならない者としての自分と恋人としての自分の乖離でもあっただろうし、やはり永岡さんと北沢さんのデートでもそうであったようにヘルパーという第三者が介在することで二人きりの時間が取れなかったこと、あるいは東さん自身が明言していたようにサッカーを何より最優先する東さんの価値観に疲弊し、ついていくことができなくなったこともあるだろう。

果たして、これが健常者同士、あるいは永岡さんたちのような当事者同士だったとしたら、あのような結果になっていたのかどうか。

健常者としての感覚と障碍者としての感覚。その断絶に、二人は耐えきれなかったのではないか。ヘルパーの存在は、彼女にとってみれば東さんにとって必要不可欠であるとわかっていても(わかっているからこそ)二人だけの時間を阻む邪魔者でしかない。けれど多分、東さんにとってはヘルパーの存在は、ともすれば彼女よりも慣れ親しんた存在であったかもしれない。だとすると、そこには埋めがたい感覚があったことは想像できなくない。

当事者同士であり感覚を共有しているであろう永岡さんと北沢さんは、少なくとも劇中ではヘルパーがいても円滑に交際できているように見えるのだから。

だとしたら、サッカーに向ける情熱を彼女が理解しきることができなかったのも、やっぱりその身体性の差から生じるものなのではないか。

というのも、もし東さんが健常者だったとしたら、果たしてそこまで身を削ってまでサッカーにあれだけの熱量を持てたのかどうか疑念を向けざるを得ないからだ。

あれだけの熱意というのは、東さん自身の身体がもたらすある種の絶望を振り払うためにあるのではないか、と。

もし生きるためのよすがとしてあるのだとすれば、大げさではなく生き甲斐としてあれだけの熱量を持つことができるの当然だ。だって生きるためなのだから。

観客はそれを理解できるけれど、それは場外だからこそ客観的に観れることもさることながら、「死んでも構わない」と言うほどの、東さんと同じようにサッカーへの思いを、語り部としての永岡さんを通じることで東さんの情熱へ近接できる(けれど決してそこまでは到達できなない)からなのでせう。

それに、6年という撮影期間の間に亡くなった選手が何人かいたことを観客はすでに映画の中で知らされているから、というのもあるだろう。選手の葬儀が示すように、彼らの身体は健常者のそれよりも死が身近にある。だからこそ東さんがサッカーで全力に、それこそ狂気的に生きることに、その狂気を狂気としてではなく熱意として受け止められる。

食事という生存方法を捨ててサッカーという生存手法を選び取った東さんにとって、サッカーは文字通り生きるための術なのだろう。それは健常者でありヘルパーを必要とせず呼吸器を必要とせず車椅子を必要とせず食事を美味しく味わうことができる彼女には理解しがたい苦しみであり快楽に違いない。

サッカーそのものにかんしてもそうだけれど、内部にいては見えないもの、というのは確実にある。それこそが本当の意味での客観性、というやつなのだと思う。

うん。「さよならテレビ」でうすうす感じていたことが、さらにはっきりした気がする。


では健常者と障碍者の間の断絶は乗り越えようのないものなのだろうか。いや、そんなことはない(反語)。
なぜなら東さんたちが別れてしまった一方で、東さんたちにも在りえた可能性として有田さん夫婦がこの映画では描かれているのだから。

もちろん、すでに述べたように東さんと有田さんにしたってそこには障害の違いがあるしサッカーに対するスタンスの違いもある。だからこそ断絶を乗り越えられる、ということでもある。

それは障碍者だからとか健常者だからとか、そういうラベリングに囚われることなくその人個人を見つめるということだ。

とはいえ、それは言うほど簡単なことじゃない。有田さん夫婦にしたって、そこには前述したような東さんたちが直面したヘルパーという第三者との折り合いのつけ方だったり、夫婦であることによってより介護の現実に向き合わなければならなかったはず。

映画の中では、有田さんはすでに結婚していたから振り返る形ではあったけれど、それまでの葛藤の結実としての「夫婦」という形だけがスクリーンに投射されるからこそ、二人の「絆」(この言葉に含まれる二重性は、まさに二人に適していると思う)が示される。

有田さんは東さんに比べてリアリストな側面があって、自分の身体との折り合いをつけて生活のためにボッチャに転向するフットワークの軽さがある。それは東さんのサッカーに拘る一極集中の生き方とは違う。有田さんに比べると東さんの生き方は己を削りそのサイクルの中で他者を削るような常に全速力で燃え尽きようとする生き方で、それに身近にいながら共感し理解できる人はそうはいない。

そこに恋を芽生えさせたとして愛にまで育むことは難しいのかもしれない。東さんの生き方はほとんど漫画みたいなものだから。

誤解してほしくないのは、どちらが良いとか悪いとか、善し悪しの問題じゃなくて、それは生き方の違いでしかないということだ。ただ、その生き方というもの次第で、生き辛さを感じることもあるだろうし孤独になってしまうこともあるだろう、ということだ。

東さんの生き方はマイノリティかもしれないけれど、個人的にはむしろあのがむしゃらに全力で生きる姿にこそ憧憬を覚えるし、社会があの生き方をサポートできるようにあって欲しいと思う。

建前としてのソーシャル・インクルージョンなんかじゃなくて。まがりなりにも福祉を学んだ人間としては、そう思う。
まあ、当事者は「受け入れる、なんて何様だ」と言いいそう(というか言われた)だけれど。

これら個人個人の身体の発露はハリー・ディーン・スタントンの「ラッキー」を想起するほどだ。あちらは障碍ではなく万人に共通する「老い」についてのものなので、ちょっと趣は違いますが、晩年のル=グウィンが語っていたように、当事者の肉体があってこそスクリーンから濃密に照射されるものであることに違いはない。その意味で「蹴る」は同じ位相にあると言っても過言ではないと思う。

 〔余談ですが、障碍者の恋愛でいえば、ちょっと前に劇映画では車椅子のおっさん(リリー・フランキー)が精神障害の若人(清野菜名)と恋愛を繰り広げる「パーフェクト・レボリューション」とかありましたが、当事者はあれをどう観るのだろう。公開当時に観たときは「いい映画だなぁ」と思ったりもしたのだけど、今振り返ると性別と年齢差にそこはかとない危険ににほひを感じたりもするのだけれど〕

 
 しかし不思議なことに、そうして個人に寄り添い写し取っていくと、そのやりとりや独白によって彼らが織り成す「チーム」という形態の実体が、むしろ彼女らを囲ってしまう存在として浮かび上がり、個人を差し置いて全面に展開していっていしまうように見える。

 
それが極に達するのは2017年のワールドカップ

永岡さんを起点にしていたはずのこの映画が、あろうことにハイライトともいえるシーンで永岡さんにカメラを向けることがないのです。当然だ。あの場に永岡さんはいなかったのだから。

監督にはワールドカップではなく永岡さんに焦点を絞るという選択肢もあったはず。けれど、そうはしなかった。そうではなく、ワールドカップに出場した選手たちの総体としての日本代表というチームにフォーカスをした。そうせざるを得なかった。多分、誰が撮ったとしてもワールドカップの方を撮っただろうとは思う。

極めて意地の悪い言い方をするならば、それは個人を蔑ろにして組織に照準を定めたともいえる。

もちろん、永岡さんと並んで映画の中で存在感を放つ東さんがワールドカップに出場していたのだから、個人にフォーカスしていると言えなくもないだろう。ただ、もし仮に東さんが出場していなかったとして、監督はワールドカップを撮らなかったのだろうかと考えると疑念が残る。

勘違いされないように断っておくけれど、別に監督を批判したいわけじゃない。そういう個人の意思とかそういうレベルではない、その内部にいては知覚することのできない不可視で巨大な環境管理型権力の一形態としての組織(とそれが発生させる「大きな流れ」ーーこの映画ではワールドカップがその「流れ」)の持つ重力なのだと思う。

これがもし個人競技だったら、たとえ落選したとしてもワールドカップではなくその落選してしまった個人にカメラを向ける可能性が高い。それこそが組織と個人の違いであり、組織というシステムが内在する歪な構造なのだと思う。

 その歪な構造、チームスポーツ(=組織)が内在する二律背反が垣間見えるシーンはほかにもある。それは日本障がい者サッカー連盟会長の北澤さんと永岡さんの会話場面でのやりとりだ。

北澤さんは「代表っていうのは自分だけではなくて、人のためにやる場所」と言う。

もちろん、これはおためごかしでも欺瞞でもなくて厳然たる事実だ。チームスポーツはチームメイト全員の動きを把握してチームそのものに貢献しないと勝てないのだから。

だけれど、この北澤さんの言葉は、一面的には正しいけれどそれがすべてじゃない。もっと別の側面がある。そして、それはこの場面の前に、永岡さんが代表落ちしたことが物語っている。

代表落ちしたということは、ほかの誰かが代表になるということだ。それはオブラートに包まずに言ってしまえば、仲間同士での蹴落とし合いに他ならない。

強敵と書いて(とも)と読んだり、仲間と書いて(ライバル)と読むような週刊少年ジャンプイズムが全くないとは言わないけれど、純然たる事実として集まった仲間を出し抜いて己の実力を証明しその仲間を打ち負かさなければならないという非情な現実がある。

仲間を思いやりながら、その仲間を蹴落としていかなければならない。それがチームというものが持つ歪んだ構造の一つ。

草野球とか高架下のフットサルとかならまだしも、「プロ」スポーツともなればその選抜の闘争もより尖鋭化される。だからこそ、「蹴る」ではここまでその歪みが表面化したのだろうと思う。

結果として(といっても最初からサッカーに関心があったと明言するくらいだから、それはある程度自覚的なのだろうけれど) 監督も、その組織の重力に引っ張られてしまい、その証左と言わんばかりにワールドカップを撮り続ける。

だけど、それでもなおこの映画は最終的には個人にフォーカスしていく。それは監督の、「個」としての個人を撮ろうとという意志によるものだと思う。

システムとしての組織の中に巻き取られてしまう「個」というものを、かき消えないように繋ぎ留めようとしているように見える。だってそうじゃなきゃパンフレットであそこまで個人をフォーカスした作りにはしますまい(それと同じくらいサッカーへの関心も強いんだなぁという内容が載っていたりするのが笑う)。

すでに書いたけど、そもそもこの映画を撮ろうとしたきっかけが「永岡真理」という「個人」の発見だった(彼女だけ、というわけではない。為念)のだから、さもありなんといったところ。

それと、もしかしたらこの映画を編集するにあたって介護の経験が反映されたのかもしれないと推察することもできなくはない。なぜなら介護(というか福祉的な行為)は基本的に対人の仕事であり、目の前の個人という他者の命を預かることだからだ(だからセクショナリズムと福祉は本質的に食い合わせが悪いと思うのですが、公的な資源がなければ福祉が行き渡らないというモヤモヤ)。

そうやって個人に対して「個人」として向き合わなければならない仕事である以上、その経験を通じた監督が「個人」というものによりピントを絞る構成にしたかったからこそ、最後は永岡さんだったんじゃないかな、と思う。

プロダクションノートだと「もっと横浜クラッカーズの比重を高くしようと思っていた」と書いているのだけど、言葉通り受け取るのならばそれは個人ではなく組織にまで視野を広げることになるわけだから、劇中でクラッカーズに焦点があまり当てられなかったのはむしろ正解だったのかもしれない。

 とか書いたけれど、単純に映画を締めくくるためにはそうしなければならなかっただけかもしれない。だとすればそれはそれで、「物語」の持つ強度が組織の中の個人を救い上げることができるという証左なので個人的には喜ばしいことなのだけれど。

 あとついでに書けば、サッカーというのも結構重要な要素な気がする。サッカーというと、なんだかチャラいイメージがあったりシミュレーションというのがわかりやすい形で伝わってしまうのでアレなのですが、個人的にはアメフト(は言い過ぎかな)やラグビーに追随する身体接触の激しいスポーツだと思います。

と、個人的な経験則から思う。だからこそ、あそこまで身体性が如実に現れたのではないかな、と。
 

そんなわけでこの映画は組織と個人の対立を描いた大変な傑作だったわけですが 一つ気になることがある。
それはパンフレットの表紙がダサいことです(爆)。
なんかこう・・・玩具のパッケージ裏に描かれてそうな効果戦を入れているのがダサい。アートディレクター誰ですか?怒らないから手を挙げなさい。
永岡さんと東さんを素材にするのなら、もっと良い素材があったのではないですか。
いやね、中村監督はカツカツの中でやっていたようですし、パンフの表紙にまで気を配れというのは酷な話かもしれませんが。
 

とまあ冗談はともかくとして、この映画は間違いなく傑作でございます。

自分と絶対的に異なる他者の世界をみること。本来ならそれは恐ろしいことでもあるのだけれど、それでもなお一歩踏み出させようとする勇気をくれる。

こんな映画は、そうないんじゃないかしら。