dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

SF好き文系アニオタが考える理想の恋愛シミュレーション映画

気づいたら2週間以上も劇場に足を運んでいなかった。

何かそういう気分にならなかったから、という程度のことでしかないのだけれど、まあ8月に毎日1本最低でも映画を観るというようなことをやっていた反動なのかな、と思ったり。

ていうか観たい映画の数に対して私の怠惰さや劇場に足を運ぶモチベーションが維持できないというのがネックなのかもしれない。

しかも近場の映画館でやってないようなのばかりが気になってね・・・かといって一日に劇場で2本見ると確実に疲弊するというのが分かっているし・・・。

 

とかなんとか色々考えながら、久々に近所の劇場に足を運んで観に行ってきました。

HELLO WORLD

予告編がどんな感じだったか覚えていないのですが、これって電脳世界で繰り広げられる映画ってことを宣伝してましたっけね。
いやまあ、「HELLO WORLD」(わざわざ英語表記ってあたりとかも)ってプログラミングを少しでもかじった人ならわかると思いますけど、この映画のタイトル自体がプログラミング入門における、いわゆる名前記入欄に「田中太郎」とか「山田花子」と記載されているようなテンプレ的な文言なので、タイトルで落ちているわけですよね。
だから表現として、電脳世界だからフルCGというのはわかりやすいところではありますし。

個人的にはまあまあ楽しめたんですけど、実はこうだったという展開があるにはあるんですが、そこまで驚くことではない(脚本レベルではどうか知りませんが演出的にはそこまで驚愕の展開!って風に見せようとしてないしね、そもそも)というか読める範囲なので、ある意味では安心感があるというか。
SF(ハードだけでなく)を全く読まない観ないという人ならまだしも、メジャーどころだけを抑えている人からすれば「やっぱりな」という感じではあるのではないでしょうか。

ラストの展開と表現についても「まあ全編(ラストを除いて)CGで世界を構築してるんだから真の現実を描こうとするならそうなるよね」という納得感が驚きより先に来るというか。
冒頭の入りからして「ディアスポラ」(というよりはむしろ明言されてる「順列都市」かな)的な電脳の構築感みたいなものが露骨ですし。
自慢じゃありませんがあのCGとドローイングの使い分けという発想自体は6年前の私にもありましたし(まあオチに使うほどではないと思っていましたけど)、アニメの監督もCGが登場してからその発想自体は持っていたでしょうから、それがようやく使える段階になったのだな―程度でしかない。

だからなんというか、観ていて何かが大きく逸脱する瞬間はあまりない。
その構造的な理由は、最後に欠きますが。
 

あとはそう、絵面と言い設定といいメジャーどころから引用多すぎでしょう、と観ている間に笑ってしまくうくらい臆面もなく引用するし、それに対して開き直っているところがまた笑える。
現にパンフ読むと作り手も無邪気にでかでかと引用元さらしてるんですよね(その割に明らかな「ガメラ3」への言及がないのは解せぬ!)。

割と序盤に直美の世界がシミュレーション世界であることがナオミから説明されるんですけど、その説明の感じが「イーガンですかい」とこっち思った瞬間に直美が「イーガンぽいな」って言ったりしますし、パラメーターの名前に「バタフライ・エフェクト」が使われていたりね。

イーガンっぽいといえば人間存在についてのオプティミスティックな視座もイーガンっぽい。というかこの感覚はむしろ世代的なものであって、そう考えるとプロムガンプっぽいかな。


とまあ、そういう明け透けにするあたりの根本的なメンタリティが相いれない部分があるから、この映画に乗り切れなかったというのはあるやも。無論、かといってそれが映画の傷になっているというわけではないのですけれど。
今さらですけど、私の文章はまかり間違っても評論なんて高尚なものじゃなくてあくまで感想ですから、良し悪しというよりも好き嫌いの語り口しか持ちえないのでね、ええ。

そもそも映画自体が引用の産物なので問題はないんですけど、それでも自分を晒すことに対する抵抗みたいなものが自分の中にあるのですよね、自分としては。それって極端に言えば「情報の開示」なわけですから。
だから「スイスアーミー~」のレビューに書いたことにも近いのかな、この感覚は。

 
引用について、直接的な表現で言えばドラッギーな描写は、まあ古くはそれこそ「シンプソンズ」とかからあるのでしょうが、でもあの感じはほとんど「リック&モーティ」あたりだろうし、カラスがしゃべりかけてくる論理物理干渉野なる空間のシンメトリーなレイアウトはキューブリックでしょうし、そこに至るまでのフラクタルな感じはモロに「ドクターストレンジ」あるいは「コンタクト」の跳躍シーンあたりでしょう。あとは虹っぽい空間を通っていくのは「マイティ・ソー」のワープだし(この辺はパンフで作品の名前が引用されているのでまず間違いない)。

設定、表現の両方とも「インセプション」あたりからもほぼまんま引用しているところはあるし(町なり世界が折りたたまれるというビジュアルイメージを始めて観たのは実はボーボボすごろくだったりするのですが、あれをギャグとしてインプリンティングされてるから驚きよりも笑いがこみあげてきてしまうという弊害ががが)。

設定面で言えば「Fate/Extra」(というかこれ自体が古典SFの引用ですが、まあなんというかプログラムを擬人化するあたりとかはね)はオタク臭さみたいなものも含めてかなり直系な気がします。オタ臭さでいえばカラス=ナビ的な存在に釘宮さんを当てるあたりもすごいアニオタイズムを感じますな。釘宮の通な使い方と言いましょうか。

まあそれはともかく野崎さんがおっしゃる通りだし前述したようにイーガンはかなり大きなモチーフではあるでしょうけど、あそこまで飛躍していく話ではないです。あくまで恋愛メインなので。

エヴァからの引用もあるなーそういえば。世界崩壊に巻き込まれる場面の直美の顔のカットがどう見てもシンジくんだしね。色彩といい完全にシンジくん。多分、破の。

他にも「ぼくらのウォーゲーム」において細田さんが電脳空間におけるキャラクターの線をオレンジ色で描いたようなものもこの映画で使われていますし、鼻血だすところは「サマーウォーズ」「時かけ」だし。まあ伊藤監督はまさにその辺の細田映画の助監督でしたから直接的な影響があるのも仕方ないのでかもしれませんけど、にしてもそのまんま過ぎて笑えます。

デジモン繋がりで言えばフルCGで表現したという意味でも世界が崩壊するイメージという意味でも「DIGITAL MONSTER X-evolution」なんか展開はかなり似ているかな。ただ世界の崩壊(というか修正?)のイメージとしては明らかなエージェントスミスなプログラムよりも世界そのものが消えていく「X-evolution」の方が無慈悲な感じがしてそっちの方が好みではあるんですけど、あれはまあひたすら逃げる以外に無いから仕方ないかな。

多分見落としているけど他にも引用してるところあると思います。なんか、それだけでできているといっても過言ではないので。


「それって一行さんをコピペするんじゃダメなんですかね?」とか「脳死してる人が復活するっていうのはどうなの?」ってあたりは、まあ最後まで観ればそれ自体がシミュレーションの中にあった、っていう「マトリックス」と「マトリックス エヴォリューション」なオチではありますので無問題ではあるんですけど、どうにも気になる。
我ながらつまんない観方してるなぁと思いますが。


あ、忘れてましたが個人的には露骨な「ガメラ3」引用が爆笑ポイントでしたな。
だって京都駅ですよ!? 何の脈絡もなく京都駅ですよ!? 敵もあからさまにイリスの触手みたいなもので攻撃してくるし。
あそこまでてらいなく「ガメラ3」を引用しているあたり、あの博士の風貌も観ているうちに樋口真嗣に見えてきてしまう。あんなに澄んだ目はしてませんが、樋口さんは。

 
だからまあ、そういう引用をキャッキャウフフと混ぜ合わせてある映画なので、そういう引用を楽しめるかどうかがかなりのキモな気がする。

お話自体はいわゆるセカイ系でありがちなものですし、あとはCGの質感にさえ慣れれば割とオーソドックスだし。


ただ本で殴るっていうのはどうなのですか? いや、言いたいことはわかりますけど、それはむしろ知性の退廃・想像力の欠如ではないのですか?本好きが本を武器(物理)にしていいのですか!? 確かに広辞苑で頭を殴られると痛いですけど(経験談)、本の本質ってそういうことじゃないでしょう!
もちろん、本の本質である「知」の発露としての表現はブラックホールに託されているわけですので、作り手もわかってはいると思うのですが。
でもそれをやるなら最初からやれ、という話な気もするし、スマートさの表現という理解をすることは容易いしそういう意図があったのかもしれないけれど、そのために本をああいう使い方するのはどうなのだ?本好きと謡う直美的に。
物理で殴る、を最後の最後で使われる大一番あるいは最後まで貫き通すというわけではなくてせいぜい雑魚をあしらうときに使われる程度でしかないことからくる不一致感の気持ち悪さなのかなーこれは。

 

さて、そろそろ何故この映画が逸脱をしないのか、ということについて書きませう。前述したように、この映画は引用を楽しむ以外はほとんど予定調和的な展開しかなく、その意味でこの映画は過剰さも逸脱も有しない、と言ってよいと思います。

 古典力学において「三体問題」という用語があります(小説の方の「三体」ではないですが、多分小説の方もそれをモチーフにしてるはず、読んでないけど)。
もし宇宙に星が二つだけなら現代科学でも重力式からどのように運動するのか永遠に分かる(二体問題)が、星がもう一つ増えて三つになったら、それぞれの星の質量・速度・方向が完全に分かっていても全体としての完全な予測は困難になる、というものでございます。
まあ三体問題を持ち出すまでもなく、我々の存在する世界は三次元ですし図形を描くのに必要な点も三ですし、3というのはやっぱりナニかを形作るのには最低限必要なのですよ。

つまりセカイ系(と仮定して)であるこの映画において君(一行さん)と僕(直美)しか存在しえない以上、この物語が予測可能な予定調和であることは明々白々だったわけですよね。まあ私も観終わってから気づいたんですけど。
「いやいや、ナオミがいるじゃん」という指摘をされる方もおりましょうが、それは違う。何故ならどれだけ作り手がナオミと直美を分離しようとしていとも、二人は本質的に同一存在でしかなく、「君」と「僕」に影響を与えるほどの重力を持たず、その結果として物語はラグランジュ点のように予測可能な収まるべきところに収まってしまったのですから。

もしこれを逸脱しようとするのなら、真に予測不能な三体として何かを逸脱する瞬間を見せようとするのであれば、多分、それはナオミではなくアイドル的存在として登場しながら何一つ物語にかかわってこなかった勘解由小路美鈴さん(すごい名前だな)だったはず。

それを知ってか知らずか、制作陣は彼女をメインに据えているであろう小説版を「HELLO WORLD if ー勘解由小路三鈴は世界で最初の失恋をする」として売り出している。
メディアミックスの一環としての経営戦略上のことだから、はっきりとは言えないけれど、ただ、もし映画本編とは全く違う領域で働いた力がこの映画の、コンテンツとしてではなく一つの映画としての「HELLO WORLD」の可能性を殺してしまっていたとするのなら、ちょっと悲しいことだなーと思います。

あるいは、作り手すらそのことに気づいていなかった可能性もありますけどね。
描き方から考えると、キャラにポテンシャルは感じていたけど、あくまで単体のキャラとしてのポテンシャルだけであって、トリニティの1ピースとまでは考えていなかったのかな。
だとすればキャラクターそれのみに耽溺する昨今の潮流を地で行っていることに。
 
それでもそれなりに(あくまでそれなり、でしかないけれど)に楽しめたは楽しめたんですけど、「リック〜」の後でこれを大真面目に観るのは些か気恥ずかしさもあるなぁ。

 

本編に関してはそんなところ。

 

以下余談箇条書
・パンフレットの子安の写真がややZAZELみがあって笑える。
・パンフのキャラデザページに載ってる直美の色なしの顔アップがハナハルっぽい。
・千古の目が年齢性別に比して完全に少女のそれでちょっとキモい。だいぶキモい。

 

SF好き文系アニオタが考える理想の恋愛シミュレーション映画でしたね。逸脱を許さない、という意味でも。