dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

ミスっていた

どうやら非公開の方のブログに記事を投稿していたらしい。

ので、こっちのブログに記事を三本コピペします。

 

タイトル「クヒオ大佐

アベマの日曜ロードでやってたので。

 吉田大八監督の作品って「桐島、部活やめるってよ」しか観ていなかったりする。まあハゲ丸が褒めるのはイデオロギー的な部分でもあるんでしょうが、実は巷の評価に比べると私はそこまでハマれなかったりします。まあ今見直したら評価変わってくるんでしょうががが。

 二作しか観ていない中で比較するのもあれですが、個人的にはこの「クヒオ大佐」のほうが好きです。全体的にコメディ調で進むのも好みですし、今まで観てきた(そんな観てないんですが)堺雅人の中でベストアクトじゃないかと思います。最後の表情とか、嘘がバレちゃったときのどうしもようも感じとか。ファミレスのとこで「あー」とは思ったんですが、弁当食う部分の回想とそれと真逆の言動とか、冗談じゃなく泣いちゃいましたよ。結局アメリカ人設定貫くんかい!って泣き笑いしちゃいましたよ、ええ。

 個人的にはクヒオの方だけ毒を食わせていて、最後に死んじゃうくらいでも良かったとは思います。ていうかそれくらい回想のところで感極まってしまいました。

 満島ひかりも相変わらず健康的な体色に反して不健康そうな人間演じてたり、松雪泰子ジェンガ的な危うさをたたえた感じとか最高。熟女が好きとか顔が好みってわけじゃないですけど、松雪泰子ってメチャクチャにしたくなりますよねー(爆)

 個人的にはデッドプールと色々とダブる部分があったりしたんですが、こっちのほうが素直に楽しめる気がします。

ただハゲ丸のアメリカへのコンプレックスっていうのは穿ちすぎというか、それ半分以上は批評じゃなくてお前のコンプレックス投影してるだけだろーって感じがしなくもない。あの人早稲田出てるくせにルサンチマンだし、そのくせ時折人を見下すような言動したりするからまあ、分からなくもないんですが。

とまあそれはさておき吉田大八監督の新作が公開されるみたいですし、桐島以外にも監督の作品に触れられたのは良かったです。

 

眼下の敵

敵の敵は味方、という言葉がある。利害の一致による共同戦線を張ることであり、AVPにおけるスカープレデターとサナ・レイサンであるわけです。あるいはインセクトロンに立ち向かうメガトロンとコンボイ

 しかし、この「眼下の敵」におけるアメリカ人とドイツ人は明確に敵対しており、味方とは決して呼べません。事実は、両国の軍人たちは自らの任務に忠実であります。そして、その一点において両国の人物たちは同志であり友であるのです。そういう意味では、プレデターとサナ・レイサンもメガトロンとコンボイも根っこの部分では同志であるわけですが・・・。

この映画は、戦争に関わった人々に対してとても誠実なのではないかと思います。本作には、厳密には敵というものは存在しません。というより、敵という一元的なものに収斂されるような描かれ方をされていないわけです。ヒトラーに対する批判めいたものはなくもないですが、それにしたって個人的で卑近な視点から描かれるだけであり(しかもドイツ人側)、巨悪としてのヒトラーは登場しません。

この映画には、およそ地上というもの、そして地上にいる人間が映し出されることはありません。それは潜水艦映画だからというだけではないと、私は思います。意図的に排されているように、どうしても見えてしまうのです。地に足をつけていないことがどれだけの恐怖であるかは、一度でも深い海やプールに入ったことがある方々ならわかることでしょう。この映画の画面に映し出される人々は、安全圏たる地上から断絶した、その恐怖の中にいます。孤立した海上海中で、彼らは忠実に任務をこなしていきます。これは戦争映画としても上質な出来栄えなのだと思います。私は戦争映画なんて片手で数えられる程度しか見ていません。それでも、この作品の中に出てくる人々は常に全力を尽くし、相手の出方を予測し、最良の選択を行ないます。両者が全身全霊を尽くす様は、青春スポコン映画のそれともダブります。「聖の青春」における村山聖羽生善治の対局でもあります。前述の通り「任務に忠実である」という部分で両者どうしようもなく敵であり、どうしようもなく同志なのです。これは矛盾ではありません。

クライマックス、アメリカの駆逐艦とドイツの潜水艦が炎上する中でドイツ人を助けるアメリカ人の姿は、スポーツマンシップと同じです(誤解のないように付記しますが、これは決して戦争がスポーツであると言いたいわけではありません)。そこには戦争という憎悪と腐臭を撒き散らす地獄の中で、人々が持ちうる高貴なものです。画面に広がる青々とした大空と雲、一線を引く地平線。これを見て気持ちよくならないわけがないのです。

青空の下で立ち上がる巨大な水しぶきと爆音。アメリカ海軍が全面協力したというだけあって60年前の映画とは思えない迫力ある映像が楽しめます。不可能な映像ですら再現しうるCGではない、可能であるからこそ徹底してその可能性を描いた迫真の爆雷描写は昨今ではマイケルベイのガチ爆発くらいのものでしょう。98分というビッグバジェットの大作にあるまじき短い尺の中に物語は凝縮されています。最後にマレル艦長とシュトベルク艦長の交わす言葉。その青臭さは日本人がガイジンを見ることによる異化によって脱臭され、純粋な思いだけが浮き彫りにされます。ひねくれた人間である私でさえ「くっさ」と思うことなくただただ感動できます。

原題「The Enemy Below」。映画を観たあとでこのタイトルの持つ意味を考えてみると、なんともアイロニカルに思えてきます。

腕を無くしたり指を切断する人は出てきますし、それは決して生易しい描写ではありません(断面見えてたりするし)。けれど、それはなんというか、現実への目配せというか起こった事実に対する誠実さのようなものであって、それによって作品のトーンが著しく重苦しいものになるというわけではないです。プライベートライアンじゃないですし、これ。

戦争映画の古典的名作。観て損はないでしょう。

シュレック2の女王様と王様

の名前の元となった人物のドキュメンタリー映画「ハロルドとリリアン ハリウッド・ラブストーリー」を観てきた。

 ヒッチコックキューブリック、コッポラやスピルバーグらに愛された絵コンテ作家とその妻であり映画リサーチャーのリリアンがふたりで創った名シーンの数々!という予告編に惹かれて見に行ってしまいました。絵コンテが映画においてどのような役割を果たしているのか、そしてその絵コンテ作家の中でもハリウッドに愛されたハロルドの仕事ぶりとは・・・っていう話かと思っていたのですよ。スタッフロールに乗ることもない裏方の真実みたいなものって、その人だけでなくその人の仕事がどういう働きをするのかということが重要になってくると思うのですよ。しかし本作は「絵コンテ」という単語の説明が広辞苑から引いたような感じで説明されるだけで、絵コンテが実際に映画製作において具体的にどの段階でどう機能するのかってことが描かれた上で、ハロルドの才覚に技術的に切り込んでいったりするのかなと。パヤオ氏なんかは自分で脚本の代わりに絵コンテを切ってそれを元にストーリーを作っていく作家ですから、必ずしも絵コンテ作家というのが必要なわけではないわけで、やっぱり気になりますよね。アニメだと絵コンテはクレジットされることが多い気がしますが、実写映画となると途端にクレジットされることって少ないような気もしますし。ですが、本作はそういった技術的なことよりもこの二人のハリウッドで過ごした半生――というよりもはや人生そのものに迫った作品なのですね。ハロルドの仕事の中で絵コンテの役割なんかにも、触れられることは触れられるのですが、それも結局はハロルドという人物の中に消化されてしまうわけで、絵コンテ作家や絵コンテという仕事そのものには焦点は当たりません。

また、予告やチラシでは多くの映画作家に愛されたという宣伝文句がありましたがヒッチコックとの絡みがほとんどでキューブリックに至ってはほとんど触れられませんでしたし、コッポラにインタビューするならルーカスやスピルバーグのコメントも欲しかったですね。まあ後ろ二人は忙しいから仕方ないですし、コッポラやメル・ブルックスのコメントがあるだけでも良かったのかなぁ。商業作品として94分にまとめるためにかなり削ったんだろうなーというのが、存命のリリアンのインタビューのカットなどからも伺えたので仕方ないとは思うんですけどね。細かい部分を補うという意味では、パンフレットはオススメです。全部ではないですが二人が関わった作品の一覧と監督の名前(および作品の中でどういう仕事をしたか)というのが掲載されています。あと表紙が可愛いので。劇中でのアニメも手描けたパトリック・メート(メイトとの表記揺れがパンフ内にあったので両方表記しときますが)がパンフの表紙になった絵を描いたのかな? ともかく可愛いです。劇中だとカラーではなく白黒だったので、彩色されているパンフの表紙はよござんすよ。

ストーリーというか、本作の話の流れはパンフにそのまま乗っているで、時間がないという人はパンフを買うだけでもわかりやすいかも。

残念ながらハロルドは2007年に無くなっていて、その前年に撮影されていた彼の映像だけでしか動く映像としては存在しないのということもあり、私個人としてはリサーチャーであるリリアンの方に深く共感してしまいました。共感というより関心を持ったというか。まずこのリリアンさん、とてもキュートなのです。若い時代の写真も劇中で使われていてそれも可愛いんですが、米寿を過ぎた今もすごい可愛いらしい声でインタビューに答える姿とか笑顔がいいんですよこの人。あとリサーチャーというのがちゃんと仕事としてあるっていうことを今回初めて知ったんですが、資料に囲まれて映画に必要な情報をかき集める、こういう職業すごい憧れますね。あ、ちなみにリサーチャーというのは映画を作る上で必要な情報を調査・収集する専門家のことで、物語の構想を練る力の源泉になったり事実を裏付けることで物語にリアリティを与える仕事だそうです。

一口に資料といってもライブラリーにあるだけではなく、スカーフェイスを作るにあたって実際に引退した麻薬取引をしていたギャングのボスに会ったり、ありえない量の名刺から人脈を伝ってほとんど業界とも関係ない赤の他人から情報を受け取ったりと、インタビューの印象から受ける通りのアクティブさです。

ハロルドのエピソードも、絵コンテ作家として初めて依頼を受けたのが実は他人の作品を気に入ったコロンビアが間違えて彼に連絡をしてきて、それを彼が嘘をついて自分のだと言って仕事をもらったことがきっかけだったりとか、才人のくせにセコセコしているところとかもチャーミングでついつい笑ってしまいました。ほかにもリリアンが娼婦に間違われたエピソードやスタートレックを本当はやりたくなかったハロルドをリリアンが説き伏せた話などなど、見所はたくさんありましたし、ドキュメンタリー作家であるダニエル・レイム監督の編集の手腕もあってしっかりとまとまっています。

個人的にはエクソシストの現場で鬼畜フリードキンとどうやってハロルドが折り合いをつけたのかとか知りたかったり、物足りなさがないわけではないですが「名作の影には縁の下の力持ちがいた」的なものが好きな自分には楽しめましたし、ワンカットワンカットへの考え方を揺さぶられたような気がします。そういう意味で、見て損のない映画でしょう。

せっかくなので劇場のパネルとかの画像をば。

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大空港を観た

 本当はマンチェスターバイザシーを観に行こうと思ってたんですけど、雨が降ってたので止めました。で、その代わりってわけではないんですが、録画していた『大空港』を観ることに。

 や、普通に面白かったです、これ。いわゆるグランドホテル形式で、オールスターキャストのパニック映画の元祖ともいえる作品らしいです(ウィッキーさん参照)。1970年の映画ってことで、ほとんど半世紀前の作品なんで、今ではあまり見かけない映像手法を使ってもいたので、それも新鮮でしたね。まずはスプリットスクリーン登場人物が遠隔から話す場合(無線や電話)、必ずと言っていいほどスプリットスクリーンを使っています。ドラマなんかだと使われてる印象がありまうが、映画ではあんまり見かけないですよねぇ。だけどあまりにてらいなく使うので、逆に違和感はないという。ハリウッドの作品って会話の場面だと話す人物が変わるたびに話者のアップをカットで繋いでいて画面が忙しないんですよね。70年当時の作品でもここまでスプリットスクリーンを多用してるのってあんまりないと思いますけど。

 あと脚本が凄い。冒頭のアクシデントがちゃんとクライマックスに有機的に結びついているだけじゃなくて、一つ一つの小さな事件やら人物のやり取りの中でちゃんと人間を描けているっていうのが秀逸ですね。脚本の秀逸さで言ったらダイ・ハードにも引けを取らないんじゃないですかね。まあどこだどうすごいかとか、伏線に関してはWikipediaに乗ってるし普通に検索すれば解説してる親切な人がいると思うので、知りたい人はそちらに行くとよろしいでしょう。三宅隆太のスクリプトドクターでも『大空港』が取り上げられていましたが、これは納得。

昔の役者のことはそこまで詳しいわけではないのですが、どこかで見た顔や聞いた名前がある人がキャスティングされていて、観ていてまったく不安を感じないんですよね。よく子役の演技じみた演技とか、日本人でもわかる明らかない大根な外国人キャストなんかは、少し前の邦画でふっつーに観られましたからねぇ。最近でもちはやふるの子役がちょっと演技過剰だなーとか、シン・ゴジラの外人の演技だけ明らかにアレだよなーとか(どっちも好きな作品ですが)あったので。

 あとジョーケネディ。超高層プロフェッショナルではいきなり死んでしまう役柄にもかかわらず「こいつ良いやつだろ」オーラを放っていましたが、今作でもそんな人物をやっています。死にはしませんが。最後の飛行機に一言かけるところとか、めっちゃいいです。この人好きですわ、自分。

 メイン以外のちょっとした端役もいい味出してるんです、この映画。衒学的なクソガキとか、そいつのせいであわや作戦がバレてしまうかもしれないという中での機長の機転のきく切り返しとか。ほかにも神父さんが悲観主義の男に裏拳(だったかかしら)かますところとか、普通に笑えます。あと、不倫をさりげなく肯定的に描いているのもすごい良かった。肯定的というか、二人の気持ちの必然の結果という気がするので、納得しやすいというかなんというか。

 あとまあ、これは単純にフェティッシュなんですけど、「巨大な無機物と雪(雨でも可)」の組み合わせがすごい好きなんですよね。だから飛行機と吹雪っていう画面がもうね。ワイルドスピード・アイスブレイクも言いたいことは結構あるんですが、氷上カーレースとかすごいいいですしね。

 パニック映画ですし人が死んだりはしますが、随所に笑いが散りばめられているのでブルーにならないのもいいところですね。

 万人が楽しめる映画ってこういうことなのかなーと思う。

 余談ですが70年代を舞台にしたネットフリックスのアニメ「FはファミリーのF」でも主人公のおっさんが空港に勤務していたので70年代って飛行機がフィーチャーされてたのかなと。

ケープフィアーと超高層プロフェッショナル

を、観た。いや別に何か共通点があるとかそういうわけじゃなくて、単純に同じ日に二つ見たというだけなのですが。

 ケープフィアーは午後ローでやっていたのですが、まさかスコセッシの映画を午後ローでやるとは思わなかった。あの人の作品はディパーテッドとか沈黙とかもそうだけど凄い「何か」に取り憑かれた人の話が出てくる気がする。確か元々は牧師だったか神父だったか(かなり違う)になろうとしてた敬虔なクリスチャンだったらしいから、それがやっぱり作品に反映されているんでしょうね。しかしデ・ニーロ怖すぎ。レナードの朝をつい最近観たばかりだったのでその演技力の高さに驚いたばかりだったのですが、このマックス(役名)デ・ニーロはアンタッチャブルのデ・ニーロよりも怖いです。あと色々と面白いカットが色々あった気がします。マックスと弁護士(名前忘れた)との二回目の接触のときのカメラワークだとか、マックスの声を入れたまま次のカットにいったりだとか、あとは色の反転を多用していました。しかしこの映画と観ていると「正しさ」ってなんだろうかと考えさせられます。マックスの体に入った刺青の一つに「真実」と「正義」と天秤にかけた刺青があるのですが、この作品はまさにそこんところを軸にマックスと弁護士をお互いに相対化させるように配置しています。たしかにマックスは犯罪者で刑を受けましたが、「真実」に照らし合わせると過剰な刑罰であり、弁護士は自らの「正義」によって強姦という罪を犯したマックスを陥れました。さて、いくら公共のためとはいえ「真実」を捻じ曲げてまで「正義」を振りかざしてもいいのかどうか。カトリック的には「強姦」と「偽証」は同じく重大な罪であるわけなんですよね(同列かどうかはともかく)。それを考えると弁護士が生きているってことはやっぱマックスも生きてるのかなぁ。あとは娘の役回りがちょっと気になった。

午後ローだからかなーりカットされているので、ちゃんとしたバージョンを観たいかも。

 

超高層プロフェッショナルの方は、なんか普通に楽しかった。七人の侍のフォーマットを建築現場に持ち込んだらどうなるか、みたいな。実際、空撮とか鉄骨から眼下を撮したショットとかあったから、時代を考えるとかなりヤバイことしてたんじゃないかな、この映画。実際、クレジットでJ.A.バクナスというスタントマンが本作の撮影中にスタントに失敗して亡くなった旨の言葉がありますから。

 で、そもそも建築の映画ってあまりないと思うんですけど、それをさらに七人の侍形式でやるっていうのが新鮮で面白かったです。ていうか、仲間を集めて何かに立ち向かうっていうフォーマットって実はかなりワクワクするフレームワークなのですよね。ガーディアンズしかり。ただ、それが失敗するとスーサイドスクワッドみたいにモッサリッシュな映画になってしまうわけですね。七人の侍があれだけの上映時間でスースクと違って興味を持続できたのはやっぱり監督の手腕なのでしょうかね。

 この映画、わりとあっさりと、しかもなんのドラマもなく人が死にます。当然ですよね、あんな高いところで命綱なしで仕事してれば。そういった身近な恐怖と高所の恐怖っていうのは、やっぱりライブアクションならではだと思います。あと普通にビーチク出ててびっくりした。

メッセージを観てきた

第二回の投稿が『メッセージ』っていうのもよう分からんチョイスではあるんですが、まあ観てきたので感想を書き留めておこうと思ふ。朝一なのに(朝一だからか?)結構人が入っていましたし、二十代から七十代くらいの人まで幅広い年齢層の人がいました。

あ、普通にネタバレしていきますので、あしからず。

 

ヴェルヌーヴ監督の作品は『プリズナーズ』しか観ていなかったんですが、各所で話題になっていたので気になってイオンシネマ行ってきました。ポイント狙いな守銭奴な自分としては、なんでユナイテッドシネマでやらんのか本当分からん。そのくせ『君のまなざし』とかいう某宗教団体の『君の名は。』に乗っかったカルト映画はやるんですからねぇ…。まあそんな小言は置いておいて感想書きますか。

あらすじとかは面倒なんで省きます(爆)。ちゃんとしたフォーマットを設けていくつもりはないですし(点数とかそういうのね)。ていうかいらんでしょ、どうせ劇場に行けば分かるし、このブログが読めるってことはウェブに繋がってるってことなんだから別のタブでも開いて自分で調べろって話ですよ。

 

とりあえず簡単にまとめると面白かったです、はい。パンフレットの内容も、手帳サイズながら監督ほか役者含めたスタッフへのインタビューや評論家・ライター諸氏の解説なども入っていて充実していたので色々と理解の手助けになりました。まあ、最後までしっかり観ていれば内容そのものが分からないってことはないんですが、前情報なしで観ていくと途中で「え?」ってなりそうではありますよね。

なんたって映画の冒頭で劇中では到達しないルイーズ(エイミーアダムス演)の子どもの死までが描かれるのに、ルイーズがヘプ太=ポットくん(のび太くんみたいだな)の言語を学び彼らの時間認識の感覚を会得するまでルイーズに子どもがいる・いた描写なんてない。しかもイアン(ジェレミーレナー演)との会話の中で未婚であることが明かされるわけですが、そうなると「冒頭のルイーズの子どもの描写はなんだよ」って話になってくるわけですね。で、それこそがこの映画の話の重要なファクターの一つでもある「直線的でない時間」ということに繋がってくるわけですね。「直線的でない時間」というのは、要するに過去も未来も現在も等しく同時に認識するってこと(ぶっちゃけ人間がこういう認識を持つことって無理だと思うんですが、まあこの点に関しては後述しましょう)で、ヘプ太くんはそうやって時間というものを認識しています。簡単に言うと全裸の青いおっさんことドクターマンハッタンですね。彼のように超越的な力はない(少なくとも劇中でドクターマンハッタンのようなぶっ飛んだことはしない)んですが、ヘプ太は彼と同じ時間感覚を持っているわけです。で、もう一つキモとなるのが、その感覚を会得してしまうルイーズという人間の物語。ていうか、むしろこっちがメイン。

すっごい雑にまとめてしまうと、「ヘプタポットと同じ時間認識を獲得し、残酷な未来が待ち受けていると知ったとき、(ルイーズという)人間はどうするのか」って話だと思いますです。それとは別に人と人のコミュニケーションという点でも語れるとは思うのですが、自分は、というか監督も言っていますがルイーズの物語であるわけですし。

どうしてオーバーテクノロジーを持ったヘプタポットが人類に接触してくるのかというと、3000年後に地球人の助けが必要になるので、そのときに備えてコミュニケーションを取れるようにということなのですが、その助けが必要になる状況というものは具体的に明示されませんし、そもそもこの映画ではそこは重要視されていません。どことなくキューブリックっぽい画作りとか、サウンドデザインとか、エイミーアダムスの演技とか、いや全然文句ないくらい素晴らしかったですよ。あまりSFっぽくないテーマの話なのにちゃんとSFのフォーマットで、しかも従来のいわゆるジャンルとしてのSFではない作品としてウェルメイドな作品だと思います。本編140分らしいですけど、まったく退屈せずに最後まで楽しめましたし。

 

この作品を観たあと、サピアウォーフの仮説とかを考慮しながらばかうけの話題を改めて考えると、色々感慨深いものがあるなーと思ったり。

 

あとガーディアンズオブギャラクシーリミックスの4DXも観てきました。吹き替えがそれしかなかったんで。ただまあ、久々に4DXを体験したらほとんどアトラクションでした。特に文句なく面白かったんですが、マンティスの声優さんだけちょっと浮いてたかな?まあアメコミ原作だし作品のトーンがコメディというかアニメ的ではあるからそこまでではないけれど。

レミニッセンティアを観てきた

 記念すべき初投稿の記事は現在一部劇場で公開中の映画『レミニッセンティア』です。日本人監督による前編ロシア語ロシアロケによるインディペンデント映画になります。

 どうして初投稿の記事がインディペンデント映画の感想文なのかというと、書いてみるかと思い立ったからで、それ以上でも以下でもありません。いやまあ、なくはないのですが頭にもってくるようなことでもないですし、さっさと本題に入りましょう。

本題に入りましょうと書いておきながら前置きをしようと思います。あくまでこれは感想文であって評論というわけではないということです。そもそも評論なんてしたことないですし、しようと思ったら文献やら資料やら漁らないといけなくなってくるわけで、そんな面倒な(爆)ことをしたくありません、はい。そういうのは専門家に任せておけばいいのです。そんなわけで、この『レミニッセンティア』を観て自分がどう感じたか、できる限り読んだ人が楽しめるように書いていきたいと思います。

 

 あらすじ(以下チラシより引用)

ロシアのとある街、小説家のミハエルは愛する娘ミラーニャと二人で暮らしていた。彼の元には悩める人々がやってくる。

「私の記憶を消して欲しい。」

ミハエルは人の記憶を消す特殊な能力を持っていた。小説のアイデアは彼らの記憶を元に書かれてたものだった。そんなある日、娘との思い出の一部が無いことに気づく。過去が思い出せず、悩み苦しむミハエルは教会に行き神に祈る。すると、見たものすべてを記憶する超記憶症候群の女性マリアに出会う。彼女は忘れることが出来ない病気に苦しんでいた。そして、ミハエルと同じく特殊な能力を持っていた。その能力とは記憶を呼び起こす能力だった。ミハエルは彼女に取引を持ちかける。

「記憶を消すかわりに、娘との記憶を取り戻して欲しい。」

彼女の能力によりミハエルは記憶のはざまへ落ちて行き、そこで、衝撃の真実を知ることとなる。

 

 ぶっちゃけ、あらすじ書きながら「あらすじとか書く必要あるかなー余計なお世話じゃないかなー」とか思っています。まあ最近はうっかりWikipedia見ようものなら、あらすじに物語の結末まで書いてあったりするのである種の防衛網になってたりするかもしれないし……そういう意味では必要か。いやしかしこんなブログ読む人なんていないだろうしry

 

で、感想。

 実のところ、パンフレットを読むまでこの映画がどういう内容なのか、全く知らなかったんですよね。だから劇場でストーリーを知ったときは「おっ」となりました。というのも、人の記憶や自我というものに関する考察は、最近の自分のトレンドであるからです。自分の場合はもっと電脳とか人工知能とかの科学的なアプローチに興味があるわけですが、少なくとも本作の題材には関心を持つことができたので、そこは素直に良かったかなーと思います。ラーメン食いたい時にショートケーキ出されても困りますからね。

 どうなんだろう、これ。若干ミステリー要素が入っているからネタバレはなるべく避けたほうがいいのかもしれないけど、それなしにはこの作品の感想を書くのは難しい気がする。

 簡単に言ってしまえばファイトクラブとか、フジテレビの天海祐希主演でやってた刑事もののドラマにおける生瀬勝久とその弟の物語であり、直近で言えばシャマランのスプリットともある意味で被ってくる部分がある(スプリットの場合は極めて表層的な部分なんだけれど)。

 つまり、自分の見ている世界が果たして他者にとって同じ世界であるかどうか、ということ。手垢のついたテーマと言えばそこまでなんですけど、にわかにSF小説を読み始めた自分はドツボなわけですね。イーガンなんかはそこに科学的アプローチと専門用語を混ぜて読ませてくれるので毎度毎度読んでいて度肝を抜かれるんですが、この『レミニッセンティア』はどちらかというと自然科学ではなく人文科学の領域で語ろうとしています。

自分の場合は(文系ということも起因してるのか)科学的でありながら創作物の持つダイナミズムによってありえそうで実はありえない予想外の結論に導いてくれるイーガンのような作品に垂涎するわけですが、本作のように超能力という架空の(宇宙消失も一種の超能力ものですが、そこに明確な科学的アプローチで読者を信じ込ませるのがイーガンの手法)モノを使う語り口も好きです。ていうか一番回数見てる映画がトランスフォーマーシリーズって時点でわたくしがポンコツであることは自覚しているわけで。

 これはタルコフスキー映画でもあります。つまり、眠気を誘う作品でもあるということ。さよなら人類も眠かった。あれはカット数を極端に減らしている上に夢を見ているような感覚に陥るという点ではある意味正しいのかもしれないけれど。まあ故伊藤計劃タルコフスキーは寝れると申していますし。

 結局、最後のシーンのアレを考えると娘は実在したのかとか、全く触れられなかった(マトリョーシカを使って婉曲的に言及していましたが)母親(妻)の存在とか。まあ色々考えられる作りになっているので観たあとに誰かと話し合うのに向いてる作品だと思いますです。自分は一人で観に行ったのでこうして文にして自分なりに整理しているわけです。ええ。

演出とか撮影とか録音とか。

 人の喋る声とBGMのボリュームのバランスが普段見ているような映画とは違う感じがしたのですが、マイクの問題なのか意図的なものなのか。パンフを読む限りだと機材的な制限はかなりあったようですし、自分は編集作業によってどの程度まで音や映像に手を加えることができるのか知りません。しかし、ラ・ラ・ランドも試写の段階では受けが悪かったのを編集によって変貌させたということからも、作品の出来栄えを大きく左右するものであることは間違いないでしょう。実際、パンフには編集に一年以上かけたとの記述もありましたし、作り手がそれを意識していなかったということはないでしょうから、意図的にそうしたのかしら。自分にはその意図を汲み取ることはできませんでした、一回観るだけでは。

音に関して言えば、セリフにザーとした環境音のようなものが入っているような箇所があった気がしたんですが、あれはなんだったんだろうか。ミハエルがベッドでミレーニャに話しかけてるシーンだったかな。

あとBGMの感じとか映像的演出は――こういっていいのであれば――良くも悪くもCM的だったりテレビドラマ的なように感じる部分が多かったです。特に娘を被写体にブランコさせたり花に囲ませたりしているところはキャノンのカメラのCMとかでありそうだなーと。そういえばミレーニャちゃんが公園?の道を歩いているところ(ほかにもあった気がするけど)、多分カメラそのものに関することだと思うのですが、4Kで見ているような画面の質感になった部分はすごく違和感があった。いや別にこれは単なる慣れの問題なんですけど、そういった画面の質感がちょいちょい映画的でないものに変わるカットがいくつもあった気がする。これを意図的な演出と、あるいは下手な演出と断定できるほど自分は映画に対するリテラシーはないんで、そういう違和感を抱いたと言及するに留めます。

 でもオレンジジュースとか視線とか、あざとくなく割としっかりした演出を観るとやっぱり意図的なものなのかなと。あーでも明らかに不自然なカットの繋ぎとかもあったのがなんとも。

 ロケーションとキャスト。これに関してはパンフにも記述があったので監督もSFを撮るにあたってロケとキャストをロシアにしたことの効果を狙っていたのでしょう。

伊藤計劃も言っていましたが、日本人の顔はSFに向いていないというのはやはりそのとおりだと思っています。押井守がアヴァロンをわざわざポーランドで撮影したのもそれが理由ではあるわけですし。これは突き詰めると文化的な側面とか色々含んでいるような気もするんですが、まあそれは置いておきましょう。だから、SFをロシア人とロシアの土地で撮影するという井上監督の判断は正しいのだと思います。

しかし、この『レミニッセンティア』において撮影されたロケーションには、SFを観るときの異界感はないような気がします。それは、そもそも本作が厳密にはSFではないからでしょう。SFではないというのはどういうことかというのは、正直自分の中で言語化して表出するにはあまりに面倒なので省きます。まあ観た人なら感覚的に分かると思いますが、本来なら私のような日本生まれ日本育ちの日本人がロシアの土地を目にするとき、そこには異なる世界を見るわけです。が、どうして本作ではそう見えないのかと言えば、老いたロシア人の作家であるミハエルの中に異界的風景が閉じ込められ、日常化されたロシアの風景を見てしまうからではないでしょうか。そりゃロシア人がロシアにいたって、それは日常以外のなにものでもないわけですよ。

というか、SF要素を打ち出すために井上監督は貨物列車置き場やロシア正教会ヴォルガ川ソ連時代からのガス工場などの古い建造物を出したとのことですが、私にはどうにも見覚えのあるものにしか見えませんでした。そりゃあ厳密にはこれSFじゃないわけですし、それは間違った見方ではないと思うのですよ。いやーどうなんだろ。大学時代にロシア語とロシア文化について少しだけ勉強してたからっていうのもあるんだろうか…?

ロシア人が見た場合はどういうふうに映るのか、ちょっときになりますね。実際、劇場にいたロシア人と思しき女性二人組のリアクションと日本人である自分とのズレを感じましたし。

一回しか観てないので見落としている部分は多々ありますが、とりあえず映画を観た感想はこんなところでしょうか。前情報をいれた上でもう一回観たらまた印象も変わってくるんでしょうが、またお台場まで行くのはさすがにキツいし・・・守銭奴だし、わたくし。

 こういうインディペンデントで低予算の映画を観ることで、逆説的に普段当たり前のように観ているハリウッドビッグバジェットのスペクタクルな映像を作ることの大変さというものを痛感した気がする。

 

あとチラシのイッセー尾形の寄稿文。これ褒めてないでしょ(笑)