dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

イチャイチャ映画2連続。シュワとスタローン/ミニーvsモスコウィッツ

 そんなわけで「大脱出」と「ミニー&モスコウィッツ」を観ましたが、両方とも男女(男男)がイチャコラする映画ですね、はい。

 大脱出に関しては言うまでもないか。ともかくシュワとスタローンのイチャイチャを堪能するだけの映画です。できれば吹き替えで。こちらは極端にカリカチュアライズされたイチャコラ映画であり、801でもあるのでそういう楽しみ方をするのがベストだと思う。

 で、その直後に観たのが「ミニー&モスコウィッツ」っていう映画だったんですけれども、なんというかいろんな意味で対照的な映画でしたね、これ。なんなんでしょうかアレは。本当に身も蓋もない説明をすると面倒くさい男と面倒くさい女が紆余曲折を経て結婚する話なんですが、なぜかこう笑ったりしつつそんなに笑えない。すごいインデペンデントな臭いを醸しているのとか、通常のハリウッド的な映画の撮り方とはまったく違う感じで、すごい登場人物二人を描くためにテンポを排除しているというか。

 イチャコラとは書きましたが、ほとんどバトルに近い。っていうのも、この映画の中で都度都度衝突するんですよ、本当にくだらないことで。それこそ、普通の恋愛映画であればここまでしつこく描かんでしょうというくらい。ぶっちゃけ、観ていてこの二人に共感することは難しいでしょうね。本当に、ガキみたいで。

 でも、それってミニーとモスコウィッツは多分両方ともに自分に素直であるだけなんですよね。実際、ただ面倒なだけの人間として描かれているわけではないのは、それまでの描写でもわかります。ただ、こと二人の間にだけは全力で欺瞞もないからこそお互いがお互いのその場その場の主張を包み隠さずにぶつけてしまうから舌戦になってしまう。たしかに、自分の衝動や欲望をありのまま包み隠さずぶつけてしまうことは子供じみているかもしれません。ですが、言い換えればそれは純粋であるとも言えるんじゃなかろうか。大人のように欺瞞と打算によって一夜だけの関係になるよりは健全でしょうし、大人ってようするに汚穢を啜った人間ですから、年齢を積み重ねても子供のままでいられるというのはとても奇跡的なことで、そんな二人が最終的に結ばれるというのは至極当然の帰結だったのだろう。

消化録

BSの名女優特集「乾いた花」

監督の篠田正浩フィルモグラフィーでは不幸なことに「梟の城」しか見たことがなく、この映画もはっきり言って残念な出来栄えだったのでどうかと思ったんですが「乾いた花」は普通に良かったです。ラストシーンの階段を登っていく中でのオペラと殺人という組み合わせは時代を考えるとかなり先駆けていたんでないでせうか。

 

「大冒険」

 クレージーキャッツのアイドル映画。ザ・ピーナツも出ている。もちろん、両方とも知らない(ピーナツに関してはモスラ関連でちょこっと知っている程度)わけなので、当時の人が見たようにはこの映画を観れるわけではないのですが、今の目線で見るとどうなのだろうか、これ。

 基本的にはスラップスティックコメディで、アイドル映画といっても映画としての骨子はしっかりしている。が、やはり画面中に当時のにおいが蔓延しているわけで、それがさらに笑いに拍車をかけている側面があると思う。

 普通に言っているけど、ホテルメリケンって今じゃ狙った笑いとしてしか描けないのだろうけれど、当時はたぶんそれが普通に使われていた言葉で、それを今の目線で見るからこそ笑えるという部分もあるし。当然のように同居する差別用語というのは、やはり当時の作品ならではだと思う。

 それと、徹底したコメディ空間が生じさせる狂気というものもこの作品にはある。人がビルから落ちてきているのに、通行人は見向きもせずに素通りしていくという。背景と焦点あたっている部分が完璧に乖離しているがゆえに「なんだこれ」となる不思議な感覚。

 ほかにも見所はある。馬と汽車という西部劇には溢れた組み合わせが日本人の顔と日本の田舎という背景に置き換えられたときの奇妙な笑いや、ナチス要素など。なにげに円谷特撮もありますからねーこれ。あと主役の植木等が走りっぱなしなのも観ていて気持ちいいです。全力で馬鹿をやっているので嫌味がなくすっと楽しめる映画というのもたまにはいいんじゃなかろうか。いや、ギャグはさすがに古いというかコテコテだし傑作とはいわんけど。

 

プラネタリウム

そんなわけで「プラネタリウム」の感想をば。

 

まずは役者から軽く触れてこうかしらしらしら。

 はい。昨日のエントリーでも触れたからにはまずこの人から紹介すべきか。我らがナタリー・ポートマン。才色兼備の

 リリー・ローズ・デップ、「コンビニ・ウォーズ」とかいうB級映画に出たと思えばこんな重苦しい(仮)映画にも出るし、よくわからんですな。まあ「コンビニ・ウォーズ」の監督は「ドグマ」なんてガワはバカっぽくしつつ割と真面目(?)な映画を撮る人ではあるんですが。どうも次の作品で監督引退するらしいですが。「コンビニ・ウォーズ」も「mr.タスク」もまだ見れていないんだよねー。どうでもいいんですけど、リリー=ローズ・デップって芸名なのかしら。いや、どちらにせよかなり輝度の高い名前ではあると思うのですが。特にリリーとローズを「=」で繋いでるあたりが。いや、外国人の感覚としては名前を「=」で繋ぐのはごく自然のことなんでしょうが。字面上はすごいキラキラしてるので。

たしかに浮世離れして達観しているような顔つきは魅力的ではありますから、使いたくなる気持ちもわかる。陽の超然性を持つのがダコタならば陰の超然性を持つのがリリーローズとでも言うか。デップに似てるのは当然なんだけど、エミリー・ブラウニングにも少し似てる気がする。あっちはもっと顔が角張ってるけれど(他意はない)。

基本的にはこの二人がメインなんだけど、どうしても物語上ーーそんでもって個人的にこの二人と同じくらい気になるのがエマニュエル・サランジュ。フランス人俳優ということでこの人についてはまったく知らなかったんですが、この人の顔とか演技とかかなりこの映画に貢献していると思ふ。あのギョッとした目が大きく見開かれて見つめてくるところとか割と怖いし。

ただ、こう、パンフの写真を見直していて思ったのがアンソニー・ホプキンスジョン・タトゥーロのハイブリッドっぽい顔つきなんですよね。この両名は個人的に好きな俳優ですから、もしかすると単に顔が好みなだけだったりするのか?!

余談ですがルイ・ガレルさんが大学時代のゼミの教授にちょっと顔つき似ている。

 

 お話の設定は中々面白く、1930年代(名言されてないけどセリフ的に第二次大戦前)の霊媒師・・・じゃなくてスピリチュアリストの姉妹と映画プロデューサーが出会ったことで両者の間に色々な変化が生じてくるという感じ。

 面白いといったのは、姉妹の話も映画プロデューサーの話も年代こそ違えど事実をベースにしていて、それを組み合わせたのが本作であるということ。ケイトとローラ姉妹の元ネタとなったフォックス三姉妹は19世紀中頃に活躍したスピリチュアリストで、「とある裕福な銀行家が亡き妻の霊を呼び出すために、姉妹の1人を雇った(パンフより抜粋)」エピソードを元にしているらしいです。同じ箇所でヒッチコックに言及していたけれど、そういえば「めまい」っぽいシーンがありましたねー。で、もう一つの方は映画会社パテの映画プロデューサーであるベルナール・ナタンという実在した人物のエピソードを元ネタにしているとのこと。

  36歳のナタリーと18歳のデップ娘を姉妹役っていうのは結構挑戦的というかなんというか。ギリギリ親子にも見えるんですが・・・しかし深読みすれば母子にも見えるという部分を意図したものとも取れる。実際、彼女らは顔は似ているから血縁を感じさせることは容易だし。で、その意図というのは何かっていうと、親のいない姉妹にとっての妹の保護者という役割(ロール)を背負わせているんじゃないかということ。なぜ母親の役割なのか。それは妹を庇護するためで、そのためにはつまるところ現実と向き合わなければならないからだ。

誤解を恐れず書くと、感情的な映画だと思った。見えないものを見ようとし、それを信じる純粋な心とあくまでそれを打算的な道具として扱っている怜悧さが同居し、その葛藤と前者の敗北を描いているんじゃないだろうか。しかし、それは完全なる敗北ではなく怜悧な視線をもつ後者へ継承ーーーーではなく憑依することで生きながらえていくのではないか。コルベンとケイトの末路とそれに連なるラストシーンを見ていると、そう思わざるを得ない。パンフに寄稿している富永由紀氏には概ね同意するのだけれど、タイトルとなっている『プラネタリウム』に関しては見解がちょっと違う。いや、違うというか、さらにその裏があるような気がする。

なんで「プラネタリウム」なのか。だって、プラネタリウムって作り物の夜空でしょう? 作り物、つまりフィクションであり、そのフィクションの上に散らばっている星星を見せているということにほかならない。つまり、スピリチュアルがフィクションであると理解した上で、それでもなおそんな世界を信じようとするある種の抵抗でもあるんじゃないかと思ったりするのです。だからスピリチュアルに殉ずるコルベンとリアルを生きるローラを繋ぎ止めるケイトがいるんじゃないだろうか。

「カメラは生きているものを捉えるものじゃなくて、なくなっていくものを記録するものじゃないか」ということを、デジタルカメラを今回なぜ使用したのかという質問の中で答えている。わたくしめの意図とは異なる意図をもっての発言であるということに注意しつつも、リアリティとハイパー・リアリティに変えてくれるという発言もやはり「超現実」というスピリチュアルを描こうとしているとしか思えない。だとすると、現実の対極としてのスピリチュアルではなく現実の先にあるものとして最新鋭のデジタルを導入したのかもしれない。そう考えると、これは監督にとって次なる挑戦的な作品なのやもしれません。

まあ批評くさくなってしまっているけれど、一個人の感想でしかないので見当違いな駄文を書き連ねているだけかもしれませんが。

 

 

 うん、まあ色々書いてきたけどナタリーの七変化とリリー=ローズ・デップのうっすら生えた腋毛が観れるから、そういう趣向のある人は観ていいと思う。特にナタリー(あえて本名で書きますが)がいい年したおじいさんのコルベンと妹のケイトに嫉妬している姿がねーすごく可愛らしいんですよ。ロリコン紳士はお気に召さないかもしれませんが。ほかにもコルベンの噂を知りたいがために浮薄な俳優とセックスしちゃう度胸があるくせに、それがコルベンの悪口だと知る(っていうか男娼にナニをさせていたという事実を知ってしまったことのショックの裏返しだと思いますが)やいなやピロータイムもなしに感情的に追い出していくところとか。この直前でこの浮薄な俳優とのキスシーンがあるのですが、窓枠に被って顔面が見えないことから彼への気持ちがないことを映像的に表現していたり、さすがアート志向なフランス映画。

まあエマニュエルとリリデプが部屋で降霊術をやっているところなんか、どうかんがえてもセックスの暗喩としか思えませんでしょうし、嫉妬云々以前にアレではありますが。

 何が言いたいかというと、アート映画としても楽しめるしナタリー萌え映画としても楽しめるということです。あとしつこいようですがリリデプの腋毛も観れるので気になる人は劇場に急げ! 

ナタリーに萌え萌え

プラネタリウム」を観てきたんですが感想は明日に持ち越し。

ただナタリー萌えの人は観ていいかも。もういい年だけどあの人。

まあ実はシートに座ったあたりから睡魔に襲われて数分ほど意識が朦朧としていたりもしたんですが・・・ちゃんとパンフも買ったから大丈夫だろう(何がだ)

翻訳で失うもの

というわけで(どういうわけだ)「ロスト・イン・トランスレーション」を観ますた。

コッポラ女史の監督作品ということですが、なんというか日本人的には色々とむず痒くなるところのある映画でしたね。同じ時期の映画として外国人監督が日本を(時代は違いますが)描いた作品としてズーイックの「ラスト・サムライ」がありますが、あれともまた違う異邦人から見た日本というのがありありと映し出されていてむず痒いのですよねぇ。コッポラが日本に滞在していたときの体験を元にしているということから、かなりリアリティがあるのもうなずけます。

 あとスカヨハね。ちょっと垢抜けない感じのスカヨハがむしろ新鮮で中々よかったです。あの人って意外と内面が複雑なキャラクターを演じることが多いですからねー。アベンジャーズの未亡人にしたって大きな過去を抱えていますし。あとゴースト・バスターズの印象が強いせいでビル・マーレイがあんなに大人な演技ができることに驚き桃の木山椒の木。

 あとすごいインデペンデントなカメラ使いというか、街に繰り出したときの人物との距離感がすごいそんな感じ。

 言っていることはすごく単純ではありますが、割とソフトな描き方をしているのでリドスコあたりが悪意を持って描くとすごいことになりそうだなーと。

完璧な革命

 うーん、なんだか不思議なバランスの映画だった。「PERFECT REVOLUTION」。

 慇懃無礼とでも言えばいいのだろうか。低姿勢で悪口を言ってくるタイプというか。オナニーがロックであるということを証明しているというか。バランスを取りつつそのバランスを破壊しに行っているというか。

 主演の一人の清野菜名の演技を見ていて、なんか話の「愛のむきだし」っぽさも相まって園子温こういう役者好きそうだなーと思ったら「トーキョートライブ」がデビューだったんですね。土屋太鳳の清廉さと上野樹里のくたびれた感じをミックスしたような顔つきで、本作の役柄にはピッタリだと思います。最初の方はミツのカリカチュアされた感じが少し鼻につく感じもあったんですが、リリーフランキー演じるクマがとても冷静に冷めた対応をしてくれているので上手くバランスが取れていました。おかげでそこまで気にならず。でもまあ、個人的には小池栄子が絶妙で素晴らしい塩梅の演技を見せてくれていたからこそ、このカップルを観ていることができたんじゃないかなーと思う。というのも、暴走しがちなクマミツカップルをより理性的な立場から見守ってくれているのが小池栄子演じる恵理だからです。ていうか、この人がいなかったら映画として成立しないような気もする。そうでなくともマスターベーションであるわけですから。

 で、この辺からわたくしめは前述のバランスという部分が気になった。この映画は恋愛映画である。それは作り手がはっきりと明言している。とはいえ、恋愛映画とはそれそのものがエゴというか独走性とも呼びたくなるものがあるわけで、作り手はそれを極力地に足付いたまま描こうとしているようなバランスを考えているんじゃないかと思うんですよね。

 たとえば衝動的・欲望的に行動するミツと対比的に理性的な人物として恵理を置いている。それはたとえば服装からもわかる。ミツは色合いの強かったりキュピってるような服装をしているのに対して恵理はグレーや白、色味の強いものでもグリーンだったりするわけで、どう見ても対比的に配置している。劇中での役割も同様に。だから、ポップに恋愛を描いていつつも実のところはかなり冷静に観ている節がある。とはいえ、ほとんどが人物の顔アップと手ブレカメラで撮っていることから、あきらかに登場人物に寄り添った撮り方をしていることもたしかですのよね。

 どうしてそうなるのかと考えたときに、そこにはもしかすると健常者である監督と障害者であるクマ(のモデルとなった熊篠氏)の間に埋めがたい解離があるからじゃないかと思った。

 だから、完全に同一化することはできず理性的な一線を引いているのではないか。しかし、一方で熊篠氏(へ)の強い思い入れもあることから、マスターベーション映画としての要素もふんだんに盛り込まれている。ていうか、クマのオナニーを動画に撮るという映画の描いていることそのものずばりを劇中でやっていますからね。

 つまりこれ、ほとんど熊篠氏の映画と言っても過言ではないのではないかと思う。もっと有り体に言ってしまうと熊篠氏のオナニー。それを補助する役割として監督の松本氏がいるのではないか。終盤も終盤のダンスシーンで二人以外が消失する場面、テルマとルイーズを思わせるラスト。

 そう思わざるを得ないような、不思議なバランスの映画だった。

 

 

「ヒドゥン・フィギュアズ」(邦題:ドリーム):正統派な私TUEEEEEE映画として

 たぶん間違いなく日本ではヒットすると思う(ていうかしてほしい)。なぜなら実録もので、正当な成り上がり人間ドラマであり、俺TUEEEEの系譜であるから。

 俺TUEEEの基本的な流れとして、無双する主役たちがまずは新しい環境で見くびられることから始まり、力を見せつけることで彼らを見返し、最終的には同一の目標に向かって取り組むという流れがあると思うのですが、それをまさに地で行く映画です。

 もっとも、不出来で安易で葛藤のない妄想垂れ流しのそこいらのラノベとは違い脚本も演出もピカイチであります。その意味で、わたしは「正統派」と呼びたい。オデッセイなんかもそうなんですけど、天才たちが何やら難しい話しをして、それが解決につながっていく場面というのは言葉のあやとかではなく鳥肌が立つんですよねー。それが自分の理解できない領域であればあるほど、人間の歴史が培ってきた「知」を見ているようで。葛藤や軋轢、逆境の中で「強さ」を見せられるからこそ俺TUEEEというのは映えるのであって、それをわかっていない作品がどれだけ粗製濫造されていることか。

 

  まずは配役について。主演三人はいわずもがなですが、脇を固める役者陣も軒並み素晴らしいです。ケビン・コスナーは歳を重ねてますます魅力を増しており、本作でも良い意味で実力主義で有能なチームリーダーを演じていて、劇中での彼の働きにも是非注目してもらいたい。ビッグバン・セオリーで物理学の天才ギークであるシェルドン・クーパーを演じていたジム・パーソンズが典型的なミソジニーを演じていて、そのくせキャサリンに常に先をいかれて狼狽しているのが、シェルドンがもっと差別的で嫌な奴だったこんな感じなのかなーと思ってちょっと笑えますが、ブロードウェイなどでも活躍しているということもあって演技はしっかりしています。キルスティン・ダンストもねー、地に足付いた嫌な女をやらせると本当にうまいですね。最近だと「バチェロレッテ~」でも嫌な女をやっていましたね。彼女、コーエン兄弟のドラマ「ファーゴ」にもレギュラーで出ているらしい。「ファーゴ」気になっているんですがまだ見れてないのぉ。「ムーン・ライト」で父親のロールを演じたマハーシャ・アリも主要メンバーに比べると出番は多くないですが、それでもしっかりとキャサリン(タラジ)に貢献しています。

 

 本編については、まあ見れば分かることではありますが演出や衣装、レイアウトなど全体的にレベルが高いです。

 たとえば差別描写。コーヒーポッドやトイレといったわかりやす描写もさることながら、さりげない差別描写がきついです。タイトルが出るまでの冒頭のシーン。エンストで車が止まってしまっただけなのに、通りかかったパトカーを見るやいなや彼女たちは車の外に出て並ぶのですから。いかに強制をさせれているか、背景が浮かび上がってきます。きついと言っても残酷だったり凄惨だったりということはなく、むしろ彼女たちはジョークを飛ばすことでコミカルな風にも見えます。が、部屋に入った瞬間に視線が集まる場面などはぞっとするものがあります。

 衣装について特に見て欲しいのは、ニグロ女性たちの服装です。そこには統一感が自然と浮き彫りにされています。もちろんそれは、劇中で言及されているとおり、黒人差別からくる強制ではあるのですが、それゆえに団結の証として、なおかつ個々に違うことを示すように様々な色合い・身長・模様の服装で彼女たちはibmの部屋へと闊歩します。衣装デザイナーのカルファスは当時のカタログの百貨店のカタログを参考にしたということもあり、まったく違和感がないだけでなく直接的に演技者たちの演技に貢献してさえいます。それがどういうことかというと「姿勢」です。彼女たちを見ていればわかると思いますが、皆が皆姿勢がいいのです。これはもちろん役者陣の意識もあるのですが、洗練された姿勢という時代を視覚的に表現するためにカルファスは主演の三人にガードルをつけさせたということです。それによってすらりとした姿勢は、彼女たちの力強さを表現することに一役買っていることは間違いないでしょう。

 

 カメラワークも実に繊細かつ適切で、ある女性キャラクターの背中をゆっくりと引いて撮っていたりとても印象的でした。本作では「何か」越しに人物を撮ることが多いのですが、これに関してセオドア・メルフィ監督は撮影監督のマンディ・メルフィについて『私たちは、ドアや窓を通して、あらゆる障害を超えて撮影する方法について話し合った。物事を通して、美しさや感情をみつけようとした。やりすぎることはなかったが、できるときにはいつでも、そういう方法でアプローチした(パンフレットより抜粋)』と答えています。個人的にIBMが持ち込まれる部屋の窓が四つに分割されていて、それぞれの窓に一人一人が収まるような、それこそ個々の見方の違いなどを表しているような演出がとても印象的だったのですが、やはり計算された画角だったらしいです。そういう意図を理解した上で見てもらいたいです。ここはちょっと相米慎二監督の「あ、春」の山崎努と孫(息子だったかもしれんですが)の撮り方にもちょっと似てます。いや、似てないか。カメラの向きも違うし。 

ダンスト演じるヴィヴィアンに対して「そう思い込んでいることは」と言った直後、鏡の前のダンストをやや俯瞰気味のカットで映し出します。これ以上ダンストをいじめてあげるのはやめたげてよぉ!と思いたくなるような見せ付けられる撮り方。しかし、念頭に置いておかなければならないのは彼女もまた「女性」であることで男性から線を引かれているということ。つまり差別者でもありながら被差別者でもあるということです。少なくとも、インタビューを読む限りではダンストはそういう人物としてヴィヴィアンを演じています。そういった多層的な差別構造があることを考えると、ヴィヴィアンを単純な嫌な女として見ることはできないでしょう。ともかく、そういった人物を多角的に撮るのがうまいです。

 個人的にベストなシーンはチョークが手渡されるシーン。冒頭、キャサリンが少女だった時代に黒人の教師からチョークを手渡され、問題を黒板に解いていくのですが、後に会議にてケビンコスナー(白人)からチョークを手渡されるシーンと重なります。「幼子われらに生まれ」でもあったような手と手のシーンもだいぶキたんですけど、上手さという意味ではこちらのほうが上かもです。よりそっけなくしかし確実に描いているという点でも中々好印象ですし(まあ「幼子~」は場面的に湿っぽくなるのは仕方ないのですが)。先ほどは話の構造が日本のドラマ的と言いましたが、日本のドラマだとこの辺をベタベタくどくどと見せそうですからね。これくらいあっさりでいいのです。それで十二分に伝わるのですから。

 そして最後のカット。だんだんとカメラが引いていき宇宙特別研究本部のオフィスの、「開かれた扉」ーーいや、「彼女たちが開いた扉」ごしにキャサリンが映されて幕を閉じます。これほど明快で綺麗で作品テーマと一致しているラストもそうそうないんじゃないでしょうか。

 キャサリンが思いの丈をぶちまける場面が胸にくるとか、「中学生か!」と思うような三人の恋愛援助(笑)シーンなど愛らしくコミカルな場面など言及できる部分はいくつもあるのですが、ともかく見てもらうのが一番だと思いますです。