dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

年明けの二作

BSはこういう自分の目に付かない傑作がやったりするから侮れない。もはや午後ローでは満足できないのである。

 

そんなわけでBSでやっていた2本の邦画について感想をば。ほとんどの日本人はその存在すら知るかどうかわからないけれど、少なくとも今現在のシネコンにかかっている大半の邦画よりは見応えのある2本であったことだけは言える。かくいうわたしも、BSでやってくれなければ知ることすらなかっただろう。だからこそ、わたしは知らないものこそ拾っていきたいと思っているわけで。

その2本とは「太秦ライムライト」と「合葬」。

 

太秦ライムライト

普段はあまり引用したりしませんが、公式サイトからあらすじの引用をば。

 

かつて日本のハリウッドと呼ばれた京都・太秦
香美山(福本清三)は、太秦の日映撮影所に所属する斬られ役一筋の大部屋俳優。
大御所の時代劇スター尾上(松方弘樹)の時代劇も打ち切られ、出番がない日々が続く中、
香美山は、駆け出しの女優・さつき(山本千尋)と出会う。

さつきは香美山に殺陣の指導を請うが、
「女優さんに立ち回りの役はありまへんで」と言い断る香美山だったが、
さつきの熱意に負け、やがて二人はともに殺陣の稽古をする師弟関係となる。

香美山との稽古の甲斐もあり、時代劇でさつきはチャンスをつかみ、
スター女優の階段を昇るべく、東京に旅立った。

・・・時が経ち、さつきが主演を演じる大作時代劇の撮影が撮影所で行われることになるが、
香美山の姿もなく、お世話になった人が皆引退してしまったことを知り、
いつしか大切なものを見失っていたことに気づく。

体調を崩して引退して故郷で余生を送っていた香美山のもとを、
さつきは訪れて復帰を懇願する。
かたくなに復帰を拒否する香美山にさつきは稽古を申し込む。

一ヶ月後・・・
香美山は撮影所にいた。
最期に尾上を刀を交わすために。

そして、最愛の弟子さつきに斬られるために・・・。

 

そんなわけであらすじを引用しましたが、話にフックがあるようなものではないとはいえほとんどラスト近くまで書いちゃってます。時代に取り残された老人の悲哀やら哀愁やら、そういうものかと思いきやそうでもなかった。もちろん、そういうものもあるんだけれど、むしろ、わたしの印象としては「クボ」に近いものを感じ、けれどやはり「クボ」とは違うものであるということを確信する。

 

冒頭、チャップリンの「ライムライト」と同じように「ライムライトの魔力 若者の登場に老人は消える」の文字が浮かび上がると、障子越しの影だけによる殺陣が始まる。

殺陣に始まり殺陣に終わるのがこの映画なのですが、こういう言い方で合っているとすれば、主人公の香美山=福本清三に寄り添った映画だろう。もともとのコンセプトからしてそうであることは否定しようのない事実ではあろうけれど、似た気質のある「俳優 亀岡拓次」のどうしようもなさに比べるとその完成度は月と鼈である。あれはヤスケンじゃないと見れたものではないんですが、ヤスケンのせいでダメな映画になっているという側面もあったりするのですが、「太秦ライムライト」は違う。

何が違うか。それはひとつに演出。

特に前半の魂の継承者たる伊賀さつきとの交流が描かれるまでの、時代に取り残された香美山の哀愁を出すために、徹底的に彼の背中を撮っている。そして、どこかおぼつかなさすら見いだせてしまいそうな福本清三の佇まいと相まって、この背中を見るだけで胸を締め付けられるような思いになった。

邦画にありがちなウェット(というかベタベタした心情描写)でダッサい演出が少なく全体的に落ち着いた空気に満ちている。それは福本清三の顔がそうさせている部分が大きい。香美山のセリフを極力排しているのは、監督を含めた制作陣が彼の顔だけでイケると踏んだからだろうし、それは正しい。クールな演出と顔に刻まれた無数のシワが紡ぎ出す老人のリリックは、大きな話の起伏やどんでん返しなどなくともそれだけで引き込まれていく。ただまあ、ウェットな演出がまったくないということではなく、全体的にクールに仕上げているからこそ、その些細なウェット描写が際立ってしまうという残念ポイントもなくもないのですが。

 

あの若手監督とかアイドル俳優とかプロデューサーのくだりは、あまりにカリカチュアされすぎていないかと思いつつ、でも実際にああいうことってあるのだろうなーと納得できてしまう芸能界の闇深さに思いを馳せたり。そんなこんなで伊賀さつきは出世街道をまっしぐら。一方で香美山は時代劇の激減に伴い仕事をなくし、お払い箱になった彼はカメラの前からパークのチャンバラショーに居場所を移していた。老いと長年の殺陣による肘の故障に悩まされ竹光(なのか模造刀なのかわからないけれど)すら握るのが難しくなってくる。同じ稽古場で木刀を降った仲間も斬られ役を引退してラーメン屋をひらいたりと、ともかく世知辛さを描く。

そんなおり、東京で売れた伊賀さつきが京都に戻り時代劇映画に出ることになり、彼女は是非とも香美山にも出て欲しいと頼む。しかし彼はすでに引退して農作をしていた。

で、自分はこの伊賀と香美山の一連のシーンが個人的に結構好きで、子供時代の香美山がシームレスに繋がっていって丘(?)の上で二人が夕日をバックに稽古をするところなんかは、そのシーンだけをとるとギャグっぽくもあるんですが積み重ねのおかげでジーンとくる。

 

とかま色々とぐだぐだと書いてきましたが、ひとつだけ本当にハッとするカットがあって、それが個人的にこの映画に胸を打たれたといっても過言ではない。

それは、香美山の稽古のシーン。背中から倒れていって「地面に水没」すると過去に直結するというあのカット。ここは本当に素晴らしいと思う。これだけでもこの映画を観る価値はある。

ほかにも、最後に松方弘樹に斬りかかるところの師弟だからこそ通じ合えた本番のアドリブとか、そこからのラストの切られるカットとか、福本清三の黒目がちな目と相まってともかく良かった。

あとやっぱり松方弘樹の殺陣がすごいです。晩年にいたってもそれを再確認できる貴重な一本でもあります。

実はこの映画を監督した落合賢氏には「タイガーマスク」という前科があったりするのですが、あっちは色々とゴタゴタもありそうですし、そのときの経験がこの映画にも生かされていそう(笑)ですから忘れてあげましょう。

北野映画とまではいかないけれど(あそこまでいっちゃうとリリックどころかエピックなので)、もっと徹底して抑えてくれていたりちょっと抜けたシーンがあったりしたので、その辺がなかったらなぁーと思ったりしましたが、かなり良い作品であることは言えると思いますです。

 

 

続いて「合葬」。こちらは「太秦ライムライト」ほどの感動を覚えたわけではないのだけれど、結構アイロニカルだったりして面白いと思いますよ。自分がアップじゃないときも顔芸を欠かさない柳楽くんとか見所もありますし。「銀魂」とかいう映画ではないのに映画館にかかっていた物体Xがありましたが、あれの柳樂くんはまあ、うん。嫌いではないですが。

さて、この「合葬」は原作漫画ありきの幕末ものなのですが、わたくしは自慢するわけではありませんが日本史・世界史が壊滅的に無知であり、明治維新とか徳川とかそのへんもあんまり、というかまったくわかっていない。もちろん、映画を見ていて大政奉還とかを多少なりとも知っていればそれほど問題はないのですが。

例のごとく原作未読で挑んだわけですが、それはそれで良かったのかもしれないと映画レビューサイトの感想をちらっと読んでいて思った。ただ、原作者が「百日紅」の杉浦日向子ってことでちょと食指が動くのですが。

 

基本的には三人の若者の話。時代に翻弄された、なんて書くとNHKじみてきてちょっとアレなのですが、決して間違っているわけではないでしょう。してその三人というのが秋津極(柳楽優弥)と福原悌二郎(岡山天音)と吉森柾之助(まさのすけ/瀬戸康史)なのですが、柳樂くんは言わずもがな岡山くんと瀬戸くんもよござんしたよ。ぶっちゃけると瀬戸くんはこういう時代ものだとかなり浮いてしまうんじゃないかと思ったんですけど(ていうか見ていて少し思ってはいたのだけど)、自分のないキョロ充的側面を持つキャラクターということもあって割と合っている。あと岡山くんの、逆顔面センターな顔とかも、学級員とかやっていそうで今回の役どころにも合っている。「パーフェクト・レボリューション」にも出ていましたね、彼。

 

とりあえずあらすじをば。

幕末。将軍徳川慶喜の身辺警護と江戸の秩序守護を目的とした武士組織・彰義隊は、大政奉還によってその存在理由を失った。だが、彰義隊の構成員である青年たちはこの流れを認めず、依然として暗雲立ち込める江戸に居座っていた。

そのひとりである秋津極は、友人福原悌二郎の妹で婚約者である砂世へ別離を言い渡す。それは悪評の立つ彰義隊に夫が腰を落ち着けることで、砂世が蒙る迷惑を案じてのことであったが、悌二郎は納得しなかった。だが極は自らの決心を覆そうとはせず、さらに養子縁組をした家より追い出された青年、吉森柾之助をも隊に引きずり込む。憤懣やるかたない悌二郎は極の上役である森篤之進に極の解任を求めるが、もはや異常なまでに膨れ上がった隊の歯止めになるのは悌二郎のような男だ、との森の言葉に乗せられ、彼もまた隊列に加わるのだった。

その間にも新政府の兵士と隊士の対立関係は悪化し、徳川家は彰義隊との関係を持たないと宣言、隊は江戸警護の任を解かれる。これに従おうとしない隊の若者たちと政府軍との衝突を案じて、穏健派幹部は希望者の脱退を許可すると決定、異議を唱えた森は隊士たちに粛清される。そして戦乱は避け得ない運命として彰義隊を呑み込み、ついに新政府軍との一大合戦、上野戦争が始まる。酸鼻を極める戦闘によって、青春を謳歌していたはずの若者たちはつぎつぎと地にくずおれてゆくのだった。

 

同じ場所にいながら、それぞれに異なる思想を持った三人の生き様・・・というよりは死に方を描きたかったのだろう。秋津極(柳楽優弥)は陶酔脳筋馬鹿で徳川の名のもとに戦を仕掛けようとし、福原悌二郎(岡山天音)はそんな阿呆な友人を止めるために長崎での勉学の経験を使って穏健派の森篤之進(オダギリジョー)を慕い、吉森柾之助(瀬戸康史)は家から追い出されたからとりあえず彰義隊に入る。

そして、それぞれが当初思っていなかったであろう最期を遂げる。

泰平を望み勉学によって調停を図ろうとした男は友を見捨てることができず真っ先に死に、放蕩三昧で威勢だけは良かった男の刀は友の首と自分しか切れず、苦しむ友すら切れなかったなまくらを抱えて生き延びた男。

皮肉が欲しいときは、これを見ましょう。

 

 

 

ザ・普通の映画

しかも機を逸しているという始末。

そんなわけで、十中八九今年の見納め映画となるである作品があまりパッとしないブレット・ラトナー監督の「天使のくれた時間」でした。クリスマス映画なのにクリスマスを過ぎた後に見るという体たらく。いやまあ、普通の人はクリスマスに映画なんて見てないで団欒なり乳繰りあったりするわけで・・・どうでもいいか。

 

さて、ブレット・ラトナーといえば「ラッシュアワー」の監督と考えるか「X-メン ファイナルディシジョン」と考えるかで評価が割れそうな気がしますが、どちらにせよそこまで知名度があるというわけでもない感じなのですが、この「天使のくれた時間」もそんな感じでした。

決して悪いというわけではないのですが、これといって良いわけでもない、ある意味で一番感想の書きにくい映画であったりするわけで。それでも、この映画を今このタイミングで見直すことができたおかげで、色々と考えたことはあったのだけれど。

「天使~」は「素晴らしき哉、人生!」を原案に二次創作的にIFを描いたものらしい。そういえば日本ではすごく地味に「素晴らしきかな、人生!」というウィル・スミス主演の映画が割と最近やっていましたが、あっちもパッとしませんでしたな。「素晴らしきかな、人生!」はおそらく日本の配給会社が勝手につけただけであってリメイクというわけではないのでしょうな。原題は「It's a Wonderful Life(素晴らしき哉、人生!)」と「Collateral Beauty(素晴らしきかな、人生!)」なので。ややこしいなー本当。

あれか、クリスマスを舞台に夫婦の着くか離れるかを描けばそれっぽくなるのか。

 

えー割と「ニコラス・ケイジの甲高い声笑えるなぁ」とか「ティア・レオーニって女優さんトム・クルーズに顔似てるなぁ」とか、そんなしょうもない感想しか出てこなかったんですよね。

もしもあのとき別の道を選んでいたら、というIFの世界を何らかの方法(SF的解釈なりファンタジックな解釈なり)で描き、最終的には今の人生を肯定するなりアウフヘーベンするなり、という形に収まるという基本フォーマットがある。と思う。例を挙げろと言われると意外とでないんだけど。

この映画はそのフォーマットを本当に正しくそのまま踏襲してしまう上に、割と過程の描き方が退屈(下手ということではなく。いや、下手なのかな)だったのが自分の中で「どうでもいい」感じになってしまっているのは否めない。まあ民放BSで30分はカットされていたから、其の辺を埋め合わせるとまた別の評価になるのかもしれませんが、まあそんなことはないでしょうな。

個人的にはアイアンマンからMCUに入っていた身からするとドン・チードルが天使役というところで、なんとなく納得したというか。「ミリオン・ダラー・ベイビー」におけるアンソニー・マッキーを見つけた時のような「お得感」とでも形容したくなるようなものがあって、それで元を取ったというか。

 

そんなわけで、本編に関してはそんな感じなのですが、これをBSで観ていて思ったのは、フィルム撮影でフィルム上映というのがいかにデジタル撮影と違うものなのかということ。

まず色調。これがもう、暗いのなんの。陰影とか少し粗い部分なども相まって、なんだからJホラーを見ているような気分になったです。で、実のところJホラーの怖さってこういう部分に依拠していたりしたんじゃないかと思った。Jホラーに限らずサスペンス・なりミステリーなり、緊張感や不安感を煽っていたのはこの映像の質感そのものにあったんじゃないかなーと、デジタルに慣れた今の目で見ると強くそう思った。

昔の映画のトレイラーなんか見ていると、特にそういうの感じますしね。最近だと「22年目の告白」でそれを意図的に使っていたりしていましたし。

こどもつかい」が恐ろしい程に陳腐に見えたのもそういう部分があったのかなーと思ったりしたのでした。

 

 

フィラデルフィア物語と青い山脈

別に関連性があるというわけではなく、単に連続で見たからという理由で二つセットで1つの記事にしました。

 

一つ目の「フィラデルフィア物語」ですが、実際に観るまで作品名も監督についても全く知らないまっさらの状態でした。ていうか、基本的にそういうスタンスで見るのがほとんどなんですけど、これに限らず古い作品を見るというのは中々骨が折れるんですよね。理由はいろいろとあるんですが、やっぱり「慣れていない」というのが大きい気がする。言うまでもなく、それでも本当に面白い作品は集中して観れるんですけれども。

では、この「フィラデルフィア物語」はどうだったのか。

 

ロマンティックコメディとしては、中々面白いんじゃなかろうか。実際、向こうでは古典的名作として知られているっぽいし。自分はそこまで強烈な印象を抱いたわけではなかったけれど、やはりゴシップというのはいつの時代もあるのだなぁと痛感させられたり、その割に変にギクシャクしたりドロドロしたしりない(ブラックコメディではないので)からカラっと楽しめる。

本編開始早々、デクスター(ケーリー・グラント)とトレイシー(キャサリン・ヘプバーン)の夫婦喧嘩が始まって何事かと思ったら時間が飛んで新聞記事のアップという掴み。この夫婦喧嘩のところも中々強烈で、トレイシーがクラブ(?)を折ったりデクスターは彼女の顔掴んで押し倒したり「オイオイオイ」となったり、冒頭から驚かせてくれる。

しかも次のシーンではトレイシーが別の男との明後日の挙式について母親のマーガレット(マリー・ナッシュ)と妹のダイアナ(ヴァージニア・ウェイダー)と話していて、最近の作品にはない奇妙なテンポ感がある。

そこから先の話の展開も色々と面白いんですが、個人的にこの「フィラデルフィア物語」は意外に大人なことを語っているようにも思える。

この映画には多くの男性が登場し、彼らはトレイシーを軸にドタバタ動き回ることになるのですが、それぞれの彼女へのスタンスが彼女と最終的に結ばれるかどうか、ひいては女性ーーというか他者ーーとの繋がりというものに関わってくるのではないかと。

一人は醜な部分も知り、一人は理想を押しつけ理解には遠く、もう一人はそれ以前の問題。全身タイツのパペットマペットも仰っていましたとおり「憧れは理解から最も遠い感情」であるわけで。

いろいろあったけど、丸く収まってめでたしめでたし。

 

 

 

2つ目の「青い山脈」なんですが、ちょっといろいろな意味でびっくり。

原節子が主演ということで見たんですけど、この1949年の映画ですら言われていることが未だに放置されている日本社会、というか世界の在り方に少し絶望してくる。

ここ最近、大林宣彦のドキュメント番組とか彼の話を少し耳にすることがあったりしたんだけれど、そういうのと照らし合わせてこの映画を見るとそれだけで少しウルッとくるものがある。

戦後まもないこの映画も、小津の映画も、そして大林宣彦の映画も、その全ては「戦争」というものが根底にある。この映画の、小津の映画の、一体どこに戦争があるというのだろうか。多分、この時代の映画には直接的に描かれずともただ劇中で「戦争」を匂わせる何か(セリフだったりポスターだったり服装だったり、カタチは問わない)が現出するだけで観客はわかったのだろう。なぜなら、当時の観客も戦争を体験した人々であったから。そして、戦争という道を突き進ませた広義の意味での「大人」や彼らが作り出した制度・社会というものへの怒りがあったのだろう。上野に集まった戦争孤児たちの、戦争で死んでいった青年たちの理想としてこの映画はあるのだろう。

監督の今井正は「戦時中抑圧されていた若い男女が一緒に町を歩く、それを描くだけでも意味がある」と言ったらしい。

この映画で描かれる愛校心とは、言うまでもなく愛国心というやつだ。ただ女の子が青年と歩いているだけで、同じクラスの女の子から非難される。しかも、愛校心の名のもとに。

そんなふざけたことを唾棄すべき悪習と、原節子は学校と相対する。

原節子の掲げる革命に賛同する者たちと、学校側の連中の酒の席の話の内容の雲泥の差など、立ち位置としてこの映画は反体制であることは疑いようはない。けれど、反体制というにはあまりにまっとうなことをただ述べているだけにも思える。それほどに、この既存の風習・制度というやつはおかしいのでせう。

本作だけだとあまりに救いのないバッドエンドなのですが、どうも「續青い山脈」というのがあるらしいので、こっちを見ないことにはなんとも言えませんです。

ティム・バートンと書いて愛い奴と読む

前々から思ってはいたんですけど、バートンはやっぱり「オタク」という言葉がしっくりくる気がする。向こうにも似た言葉として「ナード」や「ギーク」といった言葉があるのは知っているけれど、やはりそのメンタリティは正しく「オタク」であるのだと、「シザーハンズ」を観て思った。

いまや言葉だけが一人歩きし、その精神性が失われて久しい「オタク」ですが、そんなオタク=フリークの生き方がこの映画にはあった。オタクとは、諸々の詳しい部分を端折って説明するのであれば「二律背反の中でもがきながらもそこに快楽をも見出すマゾヒスティックな変態」であると思う。

今のオタクの中に、その歪みに悶えることのできる自覚的なオタクがどれだけいるのだろうか。

や、まあ、丸屋九兵衛氏とかいるけど・・・どうも動画の印象からは、元来オタクに求められていたスキルという点では申し分ないオタク(ていうか普通にプロ)なんだけど、精神性はどっちかというとスポーティ寄りな気が。

 

それはさておき「シザーハンズ」は傑作である、と言っていいでせう。

世界に馴染めないフリークたるオタクの願望を、メルヘンなおとぎ話として美麗に、悲哀に、そしてときに恐ろしささえ湛えた語り口で綴る。

シザーハンズ」は彼のその作家性の急先鋒といっても過言ではないのではなかろうか。少なくとも、これはバートンの魂の映画であることに疑いようはない。

正直、「シザーハンズ」を観るまではバートンのことはオタクの才人であるという程度の認識でそこまで意識してはいなかった。まあ、映画を観るようになったのがかなり遅かったというのもあるんだけれど、初の出会いが「チャーリーとチョコレート工場」で劇場でリアルタイムで体験したのが「アリスインワンダーランド」(しかもまだしょぼい時代の3Dということもあって酔った)ということもあって、これといって印象に残るタイプではなかった。もちろん「ナイトメアビフォアクリスマス」については人並みに知っていたし、ウーギーブーギーのデザインとか好きなんですけど。

まさか、ここまで衝撃を受けるとは思わなかった。ちょっとバートン舐めてました。

 

 

シザーハンズ」は御伽噺であり、ベッドタイムストーリーであります。それはこの映画の本質でもあり、映画内の構造としてもそうあるはず。なぜならオープニング直後(このオープニングも最高。20世紀フォックスのロゴまで雪が降っているという凝り具合)に 老女のキム(ウィノナ・ライダー)が孫娘を寝かしつけるために、文字通り「御伽噺」としてこの映画を、エドワード・シザーハンズ(ジョニー・デップ)のことを語り始めるのです。物語の始まりがキムではなく彼女の母親の視点から始まることを考えると、キムすらも御伽噺の中の住人とも考えられるのですが。

彼女が語り始めると、窓の外の雪が降りしきる町へとカメラがうつっていき、いかにも作り物然とした白銀の世界が続いていき、家から雪の積もった町を見せてからーのトランジッションでエドワードに繋ぐ、あの一連のショットは 実に美しい。

一気にバートンの世界に引き込まれたと思いきや、御伽噺としてはやけに現実味のある化粧品のセールスの女性ペグ(ダイアン・ウィースト)が登場。しかも「トゥルーマンショー」のような凄まじい作り物の臭いを発する褪せた極彩色のサバービアの町並みとセットになることで、奇妙な感覚に陥ります(驚いたことに、セットじゃなくて実際にある場所で撮ったとか)。メルヘンにしては、あまりに現実の臭いが残っている。車なんてものはその最たる例だと言える。そのくせ、町外れの山の上の屋敷という、それだけでファンタジーの匂いを発するのに博士に作られた人造人間が登場する。このちぐはぐ差はなんだろう、と思うかもしれない。ていうかわたしは思った。

けれど、何ら問題はない。だってこれは、御伽噺だから。

そんなわけでペグは屋敷にまで赴くわけですが、この屋敷の寂れた色合いなんかはもう町並みへのあてつけかと思うほど色彩を欠いていて(エドワードが手を加えた庭は色づいている)「ああ、バートンはなんてひねくれたやつなんだ。可愛いなぁ畜生」と思うのです。エドワードはバートンであり、彼の屋敷はバートンの世界であるはずだ。色に溢れているのに、そのどれもが褪せている町=現実というオタク特有のひねくれた見方。

現実からの使者としてペグは彼の屋敷に足を踏み入れるわけですが、エドワードの部屋(?)に貼られていた新聞の切り抜きなどがすべてフリークスのものであるのも、心をえぐられる。そうしてペグに連れられて町に降り立ったエドワード(車とエドワードのミスマッチ感とか、車内でのアクションとかすごく可愛い。目の感じとか、なんというかもうほとんどチワワ)は噂になり一躍町の人気者になっていくわけですが・・・。

細かい演出でいえば、エドワードがワイシャツをきれなくてわしゃわしゃしてるときの動きとか、アレどう見ても怪獣特撮で怪獣がやる動きで思わず笑みがこぼれました。昭和ゴジラでああいう感じの動きを何度も見ましたもの。ミニラとか、あんな動きしてたでしょ。それと、アニメーター出身らしくアニメっぽい演出も散見できて、それがまたメルヘンでイイ。ウォーターベッドに穴開けちゃうところとか、 テレビ出演のシーンでひっくり返ったイスに座るエドワードの上半身をカメラで隠してみたり、そこかしこにクスっとくる画面がでてくる。

町に降りてからの町民たちの一連の流れは、個人的に見世物小屋のような印象を受けた。なんというか「カラーパープル」における市長婦人というか、「怪物園」におけるクレオパトラというか、そういうマスターベーションの道具として扱われているような気がした。この辺も、やっぱりバートンの思いがあったりするような気がしてならない。

ペグの娘のキムに恋心を抱くことで、最後の結末になるわけですが、もうここまでオタク魂全開だと清々しい。少し考えると、エドワードが追いやられるきっかけを作ったのはキムにもあるわけで、もっと作劇の上で彼女を責めることもできたはず。それどころか「わたしは止めようとしたの」と言い訳をする始末。言い訳というか、まあ事実ではあるんですけど。

けれど、バートンはキムへの責任の追及はしない。この言い訳にしたって、キムを責め立てるような演出ではないし。ただ、個人的にこの髪型のウィノナがあまり好きじゃないっていうのがあって、そういうふうに見ている自分もいるからかもしれないけれど(エイリアン4のは好きなんだけどなぁ)。

  でも、やっぱり「綺麗なままの私を覚えていて欲しい」なんてセリフをキムに言わせたり、オタクが理想とする美しい別離を臆面もなく描いちゃうバートンだから「好きな女の子を責める気はない」って宣言だと思うのですよね。

そして、そんな無邪気なバートンに萌える。

そんなわけで、バートンを愛でる映画でした。

還暦間近のおっさんに萌え悶える自分はおかしいのだろうか。

  

ここからは少しどうでもいいこと。

シザーハンズ」だけでなく「ダークナイト」でも思ったのだすが、フリークを「化物」と訳すのは少し短絡的すぎるような気がしないでもない。「化物」という単語の持つ懐の広さを考えれば決して間違えではないのだけれど、広いがゆえに不必要な奥行を持ってしまってフリーク性が希薄というか。それこそ「怪物園」というのがあるのだから「怪物」のほうが合っている気もする。並外れた何かを持つ人を「怪物」と形容することも表現としてあるわけだし、「人であるのに人ならざる者」として見られるフリークを表すのに合致している。ように自分は思う。

 そういえばクレジットに「カメラスクリプター フランクミラー」ってあったんですけど、これは同姓同名の別人なのかな。

それと、ソフト版の吹き替えが塩沢さんということでかなり気になり始めている。

 

ウェインとフォードとep8

週末に劇場で見たり録画を見たりしてたので、それについてのまとめをば。

エントリのタイトルだけからだとかなり重い作品があるし、それぞれ個別に記事をまとめてもいいとは思うんだけれど・・・特に「ダークナイト」は色々と思うところがあったし。それでも「とりあえず」ということで一緒くたに備忘録的に書いておくことにする。

 

まずはジョン・フォードの「捜索者」

ウィッキーさんに情報が充実しているので、ほとんどそれを読んでしまえばこの作品についてのことは大体わかってしまうのですが、自分のこの映画の見方がジョン・フォードの考えと大体一致していたので、そこまで言及することもないかなと。

これは家族の物語だということ。

戦争は直接描かず、しかし確実に戦争によって何かを狂わされてしまった男の話として、この「捜索者」はあるんじゃないかということ。第二次大戦の参加者としての視線が確実に入っているはず。

「捜索者」におけるジョン・ウェインは「大いなる西部」におけるグレゴリー・ペッグのダークサイド・・・と言ってしまうとかなり自分の伝えたいこととはかけ離れてしまう。対の存在とかそういうのではなく、暗黒進化というべきか。そもそも双方ともに南北戦争の生還者ではあっても、個人としての人間の捉え方の側面が違うので単純な二項対立はできないのですが。

しかし、そう来るとやはり「大いなる西部」におけるパックがなんともやるせないなーとしみじみ思う。彼は戦争を知らない(というよりは性格上、積極的に避けてきたはず)人間であるものの、自身の虚栄心からイキる。けれどもやっぱり、その性質から卑怯な雑魚としてしか在り得なかったのだから。ジョン・ウェインにもグレゴリー・ペッグにもなれなかったどうしようもない塵芥。

そんなわけで、自分は「大いなる西部」と横に並べてこれを観ていた。

あとは風景というかモニュメント・バレーの撮り方がすごい印象的というか見ている間に不思議と胸にくる感覚があったなーとか。

それと、なんとなく序盤の家族を写し取るシーンのカメラの配置がすごい「家族ゲーム」の家族の切り取り方を想起させたんですけど、森田芳光監督はここを参考にしていたりするのだろうか。「家族ゲーム」の細かい部分は覚えていないんですけど、家族の物語だし、ある家族への闖入者として括れば松田優作ジョン・ウェインをつなぐこともできそうではある。まあ、これは極めて私的な指摘なんですが、筒井御代も「自分が狙って書いた以上のことを読者が読み取ったのならそれこそ云々」と仰ってたとか仰ってなかったとか風の噂で聞いたような気がしたので、深読みされることはクリエイターにとって御の字なのだろうから、こういう深読みもといこじつけも十分アリなのだろう(適当)。

 

ep8については、そもそもswにそこまでの思い入れがないので、すごく表層的なものになってしまうというか。みんなみたいにやいのやいの言えないのが少し残念だったりもしますな。模範的映画ファンにとってのスターウォーズが自分にとってはトランスフォーマーという、ある種の不幸というか(自分はそれも含めてtf大好きなんですが)、すでにからして半笑いで済まされる立場にあるわけで、鬱屈とした思いがswに対してなくもないんですが・・・。第一にtfを追っている人は映画ファンじゃないとか色々あるんですが、それは脇に押しやってep8について。

 

すでに述べたとおりスターウォーズに大して思い入れがない自分は、粗もそこまで気にならない分、普通に楽しめましたでござい。もちろん、みんなが言うとおり「ローズかわいくないなー」とか「結果論として牢屋に入れられただけなのに、それでいいのか」とか「吹っ飛んだ直後まで間近にいたのにやたら遠くから歩いてくるな」とか「修行感ないな」とか「そんな作戦があるなら先に言っとけばいいのに(これに関しては、冒頭でポーがやらかしているので、それを憂慮して黙っていたのでしょうが、そもそもファンとしてはポーのやらかしがどうなのと思うのでしょう)」とか「そんな堂々と密集して逃げたら撃墜されるだろうに、どうしてそんなに余裕しゃきしゃきなのよレイア」とか(思ったら案の定やられてるし)とか、スノークの成金バスローブとか不意打ちとか「君らはスノークを守るためにいるのに殺されたあとに動き出してどうすんの」とか色々あるんですけれども。

それでもアガる場面は多い。

ひとつはなんといってもカイロ・レン。ちなみに言っておきますが、みんながep7のときにレイやフィンやポーを推しているときに、自分は一貫してカイロ・レンことベン・ソロくんを推していましたよ、ええ。ネタ的にも一人のキャラクターとしても。それがどうしたことか、みんなep8で「アダム・ドライバーよかったねー」とか言い出してるのがちょっと不服。こちとらおめーらがおもちゃにしてたレンくんのことが2年前から一番好きだったんだよゴラァと言いたい気持ちもある。なんかね、アダム・ドライバーが今年(去年も含め)に色々な作品に出て成長したからep8におけるアダム・ドライバーの演技を称賛してる人がいますけどね、それは順序が逆なんだとep7からのレンくんひいてはアダム・ドライバー推しの自分は言いたい。

それはいいんですが、やっぱりレンくんが持つ本来の複雑な内面を見事にアダムは演じきってくれていると思います。ep8の予告が出たときからあの顔つきに「おや?」と思ってましたが、我が意を得たりといった感じ。

本作では数少ないライト・セーバー戦もかなり荒々しい感じになっていて、そこも個人的には好感触。セーバーの使い方も工夫が凝らされていましたしね。もちろん、ジョン・ウィックとかアトミック・ブロンドみたいなスタイリッシュかつ生臭いっていうワンカットのような美しさとかはありませんが、それでもやっぱりアクションの見せ方が上手いと思うのは、今上げた二つのような長いワンシーンでなくともカットの割り方やタイミングなどが適切に作用しているために違和感がないということ。96時間とか、じゃない方のイップマンとか酷いですからね。

あと、スノークの部屋のデザインとかレンくんとルークがやり合う星の色彩設定はかなり関心しました。塩の下の血のような地というのは中々絵的にも見ごたえがあっていいですよね。雨宮監督のハカイダーのラストバトルもこんな感じでしたね、そういえば。

あとはルーク関連はまあ、確かに文句が出るのもわかる感じはしますが最後の戦いでちょっと許せちゃうくらいのスターウォーズへの思い入れなので、あれはあれでアリかなと思います。

あとハイパースペースの突撃の瞬間のカット。あそこは本当に良い。細かい部分を除けばあそこは滾りますです。ハイパースペースって、てっきりワープみたいに空間をてんで繋いでるのかと思ってたので、やや違和感はありましたが。

とまあ、ep8についてはこんなとこでしょうか。映画を趣味にしている人にとっての祭事みたなものなので次も当然見に行きますが、どうやってケリをつけるのか気になるところ。

 

あとようやくダークナイトも見たんですけど、もう一度ちゃんと見たい気がするのでダークナイトに関しては別の記事で書こうかしら、と。

とりあえずダークナイトに関してはノーランで一番好きだと思う。ていうか単純に飽きないし。

 

 

 

日常的な歪み

そうかと思えば、一気に「命」の話になっていく。

普段、わたしたちは「命」というものを意識することはない。自我とか意識とかいうものを持つ我々は、それを所与として考えているからだ。というか、「当然」と思い込んでいるから考えないのだろうけれど。

それは「1+1=2」という計算式に何も思わないことに近い。実際は「1+1=2」を証明するために考えなければならないことは山ほどあるというのに。検索エンジンに入力すればわかることですが、現に「1+1 - Wikipedia」という記事があることからもそれは自明なのでせう。この自明というやつが厄介で、それゆえに我々は思考を停止してしまうことがあるわけで。

 

人間とは、家族とは、女とは、男とは、命とは。そんな七面倒臭い疑念を抱くような人がほかにいるのかどうかはわかりませんが、わたしは「山の音」を観てそんなことを足りない頭で考えたりした。

川端康成原作で成瀬巳喜男監督というビッグネームの組み合わせですが、両方とも名前しか知らんです(恒例行事)。ただ、作品が作品だけに解説などは充実していて、それを読むに原作とは違ったものに映画はなっているように思う。

ま、原作読んでないのでどこからどこまでが原作にあった部分なのかわからないので、あくまで「山の音」という映画から得たことを書くだけなのですが。

 

大学の授業で「東京物語」と合わせて部分部分を見せられたことは覚えているんですが、そのときはかなりギミックとして「影」や「道」について言及されていたので物語全体は把握していなかった。実際に全編を通して見てみると、閉塞感のようなものがある。もっとも、これはこの映画に限らずこの時期の一部の監督の映画全般に対してわたしが思うことなんですが、大体が窮屈な日本家屋ばかりが映し出されているせいなのだろう。

ただ、この閉塞感はこと本作に関しては家族というコミュニティにおける息苦しさやどうにもならなさに通じているように思う。

それが、とてもやるせない。

一見すると、尾形信吾が全ての元凶のようにも思える。そりゃまあ、菊子(原節子)という嫁がいながら浮気をして浮気相手を孕ませるわ、その浮気が原因で菊子は自ら堕胎するわでそう思ってしまうのも無理からぬ話ではあるわけですが、しかしよく考えると修一にも責はある。それに関しては、保子や英子から劇中で指摘されるとおりなわけだけれど、だからといって石を投げられるかというと自分にはできない。誰かを贔屓することなんて誰にもでもあることだし、たとえそれが血を分けた子であろうとそうでなかろうと。

そんな、普遍的で極めて日常的な歪みは、しかし生まれてくるはずの子どもの命を奪ってしまう。その話の直後のカットで義姉の赤ちゃんを抱いていたり、成瀬自身はどちらかというと菊子に同情的な描き方をしているのだろうけれど、部外者としての観客であるわたしは別な見方をした。最終決定権を持つ菊子が自らの判断で子を堕ろしたという事実への罪過を。彼女をそこまで追い込んだのは慎吾だけれど、菊子を許してしまっては生れず堕ちた子を諦めることになる。もちろん、菊子を許したい気持ちはあるけれど、歯ぎしりせずにはいられない。

浮気とか女遊びとか、親子間の扱いの差とか、問題にするにはあまりに大袈裟かもしれないけれど、それが導く結果は決して小さなものではない。

「子どもで繋ぐのは男にも女にも卑怯な考えだ」と修一は言うわけですが、これは逆説的に子どもを道具として見ているとも受け取れるわけで、なんとなく当時の価値観のようなものが浮き彫りになっているような気がしないでもない。

 

ラストのシーン。開放的な外の道で菊子と修一が歩いて行って終わるわけですが、やっぱりこの辺なんか見てると菊子に対する優しさのようなものを修一という人物を通して描こうとしている作品なんじゃないかなーと思ふ。

それは悪いことじゃないし愛のある終幕だとは思うけど、なんの解決にもなっていないんじゃなかろうか。

 

映画化された時点では原作が完結していなかったために脚本の水木洋子がオリジナル展開にしたということだから、むしろこれは水木洋子の思いが強く作用したのかもしれない。

 

あとやっぱり原節子って原節子だなーと思う。

賢いつもりでいると痛い目みるわよ

ところがどっこい、痛い目みたのは彼ではありませんでした。

ジョン・ヒューストンの「マルタの鷹」

エントリの題名は主人公のサム・スペードに対する劇中のある人物の発言なのですが、自分にとってはかなり警句に聞こえてしまったのでついつい記事の見出しに使ってしまいました。

ほかにも「2度もぼくを殴るなんて!」というセリフとか、実はガンダムの元ネタはここからあったりするんじゃないか、とかどうでもいいことを考えてしまうセリフがあったりしたんですが、それはさておき本編について。

フィルムノワールの古典とされているらしい本作ですが、地味にミステリー要素もあったりする。しかも、物語の本筋としてはそのミステリー要素は比較的どうでもいいというか脇に置かれているというか、そちらに言及することなく物語が進行していくという構造になっている。だのに、オチの部分はそこが重要な要素に(それ自体が、というよりはそれによって裏打ちされるある人物の人間性か)なっているという。

ミステリーとかサスペンスとかはあまり見ないし読まないんですが、ノワールは割と好きな自分。しかし、ノワールって何をどうもってノワールなのかという気がする。これがノワールというのは、要するに最後の最後の部分だと思うのですが、それ以外はハードボイルドとして見ることはできてもそこまでノワールという気はしないんですよね。

色調とか影といった撮影の仕方は確かにそう感じますけど。しかしそういうジャンルというかカテゴリー論を体系的に語れるほどではないので、この辺にしておこう。

 

小説原作ということで映画に置き換える際のコンバートは結構上手いんじゃないかと思う。前半のテンポがあまりに軽快なためにマイルズというキャラクターとスペードの関係が少々「え、お前そんな感じに思ってたのか」と思わなくもないのですが、終わり良ければすべて良しといった言葉もありますから、最後にかっこよく締めることができればいいんですな。ハードボイルドだし。

 

 

 

ラストのエレベーターの格子は明らかに牢屋のソレ