dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

それじゃデッドプールただの神じゃん

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本当は昨日の夜に投稿するつもりだったんですが、記事の作成中にPCが落ちて一気に萎えてそのままふて寝してしまい、日をまたいでしまった。

画像は戦利品なのですが、時間と体力と金銭的な都合から「バーフバリ」に関してはパンフのみを買って本編はまだ観ていない状態だったりします。

 

ていうか「犬ヶ島」「ファントム・スレッド」の感想も出だししか書いていないのにどんどん新しい映画を観るというのもどうかとは思うんですよね。しかしほかにも「友罪」とか「狐狼の血」とか巷ではマッドマックスと呼ばれている「ピーター・ラビット」とか、ほかにも近所の映画館ではやってないのがたくさんあって時間が足りないです。お金も足りないです。

 

で、「デッドプール2」の感想なんですね。

一応、前作も劇場で一回だけ観てはいて、それなりに好きな映画ではあったわけなので今回も観に行ったんですが、なんていうかデッドプールが神様みたいでちょっと気持ち悪かったです。あと、これはすでに前作の段階で思っていたことではあるんですが、そろそろ限界じゃないかなぁ、と。

神様、というのは漫画・ラノベ・エロゲ脳な人々が考えそうな「さいきょうのきゃらくたー」といった意味ではなく、救済者としての神というかジーザス的というか、どんな人間も抱き寄せて包摂してしまうようなキャラクターになっているわけですね。もちろん、バンバン人を殺すんですが聖書でも神の殺傷率高いことは無神論者でもなんとなくわかっているところではあるわけで。

「_∧ ( ゚ω゚ ) (人類の罪の精算という意味での)支払いは任せろバリバリ」

てな感じでしょうか、今回のデッドプール。あと家族押しがすごいヴィン・ディーゼルfeatドゥウェイン・ジョンソンです。いや、大切なことなんですよ、アタッチメントのこととか考えると。しかしデッドプールにはもっと理解不能な部分を求めている自分にしてみると、今回のデッドプールというキャラクターは筋が通り過ぎていて退屈であるとも言えるのかもしれません。そもそも、一作目からして前評判に比べると「あ、意外と普通のキャラなんだな」という印象があったんですが、今回はそれにもまして人間に寄り添っている気がする。

そりゃ元々人間だしね、うん。

まずいです。カートマンという魅力的なキャラクターを先に知ってしまったわたしにしてみれば、正直デッドプールは理路整然としすぎているのかもしれない。

そう考えると、もしかするとデッドプールというキャラクターのあり方がそもそも好きじゃないのかもしれないな、と今回2を観て思った。なんというか「銀魂」的なスタンスに見えてしまうのだ。

監督は「ジョン・ウィック」のデヴィッド・リーチということでアクションシーンはやっぱり楽しいですが、「ジョン・ウィック」や「アトミック・ブロンド」ほどのケレン味は薄め。まあ基本的にはギャグだし超能力モノでもあるのでフィジカル要素なんかは減退している。あと予算が明らかに超過しているのだろうと思わせるCGの粗い部分が結構あったり(ブラック・パンサーにも散見できましたが)したかな、と。監督の統御がどこまで行き届いているのかはわかりませんが、デヴィッド・リーチはCGを全面に押し出す絵ヅラはそこまで得意ではないのかもしれない。

それでもカーチェイスシーンの閉所空間での肉弾戦やドミノのラッキー描写(ここのCGがやや粗めなのがちょっと残念)をカットを割らずに見せていたりするのは「アトミック・ブロンド」のタクシーシーン的で見ごたえはあります。ただ、デッドプールは劇中で「ラッキーは映画的に面白くない」みたいなことを前フリ的に使ってはいたのですが、実のところわたくしは「え、そうかな?」と思った。

えー「ニセコイ」で悪名高い古味直志先生の読み切り「恋の神様」でとびきり運の良い(正確には神に愛されているため万事が良い方向に向かってしまう)女の子と男の子のラブコメがありまして、そこでまあデッドプールで描写されたのと似たような派手な幸運描写があったからですね。とはいえ、ライブアクションと漫画・アニメを同列に語るのは愚劣なわけですし、純粋に見せ方として「デッドプール2」のほうが上手なわけですが、だからこそCGをもっと実写映像としての違和感なく作りこんだほうが良かったのではないかなーと思ったりした次第です。

 

なんかネガティブな感じですけど、全然普通に面白いんですよ。

しょっぱなからローガンネタで笑わせてきますし007のアバンパロとか氷の微笑とか色々笑えるところは多いですし、本編でのタイムマシン装置を使ってポストクレジットで歴史改変を行うのも(ギャグとしては)面白いですし。

前知識が必要とはいえ笑いどころはありますから、楽しめないということはない。映画ファンは。

ただ、今回の脚本はあまりに「デッドプール」であることにおんぶにだっこになりすぎているきらいもあるんですよね。一作目でデッドプールを周知させているから行けるだろうという判断なのかもしれませんが。よく言えばテンポ優先ととれますし、あくまでお笑い映画なのでそこまで脚本にツッコミを入れるのも野暮かとは思うのですが、この「野暮かと思う」と思ってしまわされる映画の構造があまり好きではない。

ただ、前作にはなかった続編ならではの魅力というのもはっきりあって、デッドプール以外のキャラクターという部分が大きい。一作目でオリジンを済ませていますからほかのキャラクターとの絡みが増えていました。

特にオッサンスキーなわたしとしてはコロッサスとケーブルがかなりツボでした。この二人のカップリングないかな、ないかしら。あんまり本編での絡みはなかったんですけど、ここにデッドプールを加えて三つ巴の絡みがあるとなおよし。

コロッサスの正義漢な割に繊細そうな部分とか、あの巨大でベッドにふて寝ポーズしているのとか可愛いですよねぇ。

それと、いい意味でケーブルの使い方が裏切られました。今回だけのキャラクターかと思っていたので。いやまあ、タイムマシンのくだりとか歴史改変による描写が80年代すぎてさすがに古いわとか色々言いたいこともなくもないんだけど、ケーブルが残ってくれたのでOKです。ケーブル自身はちょっと寂しいかもしれないけど。

反対にユキオちゃんは出番少なかったですね。ネガソニックなんちゃらちゃんの恋人という以上の役割は特になく、ほとんどマスコットキャラクター(ビジュアル的にも)な側面が強いのがちょっと物足りないかなぁと。

個人的にはあの読めない表情通りに、内面がめっちゃサイコパスなキャラクターだったりすると面白いんですけどね、ユキオちゃん。

 

あ、あとブラピはわかったんですがマット・デイモンはわからなかった。

ブラピも一瞬だからわかりづらいといえばわかりづらいんですが、それ以上にデイモンは完全にメイクしているので初見で気づく人はそうそういないんじゃないかな・・・

ラグナロクはわかったんだけど、デイモン好きとしてはちょっと悔しい。

 

 

 

 

社会派のキャメロン

みたいだなーと「エリジウム」を観て思った。

なんかところどころでターミネーターっぽい絵ヅラがあるというのもそうなんだけど、ガジェットとかマシーンの挙動がT-800系っぽいというか。あとこれは特定の映画というよりは80年代あたりのアクション映画の特徴なのかもしれないけど、やたらとモーションブラーを使うなーという印象。

今はつべで「ADAM: The Mirror」なんて短編を5ヶ月で作って無料公開してたり、あるいは脚本だったりCGモデルだったりを提供している慈善家(でもないか、有料だし)なわけですが、そこまで作品数は多くないのですな。

「チャッピー」はまだ未見なんですけど、この人の映画ってスラムと綺麗所を舞台に立場を逆転させるという話なんですよね。プロムガンプがヨハネスブルグ出身ってことで、まあそこにはアフリカ最大と言われるスラムがあるわけですから、もしかすると原風景としてあるのかもしれない。原風景というか、日常として。

「第9地区」はまさに身体そのものが変異してしまうことで貧困・被虐の立場に「落ち」てしまい、それによって理解するということなのですが、「エリジウム」はその逆で、それがちょっとありがちな展開になってしまっているのは否めないかなぁ。そういえば最後の自己犠牲のところなんかも「ターミネーター」ぽくはあるかな。

細かい部分を指摘しだすと、医療ポッドが万能すぎるとかあるんだけど、基本的にはこの映画で描かれていることはメタファーでしかないのでツッコむだけ野暮なことではある。

彼の出自なんかを考えると貧富の差(それに付随する医療格差や衣食住の格差)に関心があるのも納得がいくし、それを描くための舞台建てとしてSFというのも親和性がある。センスもあるし。

 

キャメロンを引用しておいてあれなんですけど、こういうところがむしろキャメロンと違って面白いなーと思うところだったりする。それと、テクノロジーへの考えという部分でも、差異がある気がする。これはジェネレーションギャップのようなものなのだろうけど、キャメロンみたいにテクノロジーそのものへの、言ってしまえばホーキングやイーロン・マスク的な恐怖(から転じたテクノロジーへの責任)のようなものはない。

テクノロジーそのものへの恐怖ではなく、それ自体はむしろ所与のものであり、それを使う人間に責任があることを間接的に描いているような気がする。これ自体は以前からある立場ではあると思うんだけど、プロムガンプの映画だとガジェットやテクノロジーが割と自然に世界の中に同居しているんですよね。エクソスーツの外科手術とはいえかなりお手軽な感じとかからもなんとなく伺える。テクノロジーへのパラノイア的な言及がなされないというか。「ターミネーター」なんかはむしろ未来という異界からの掌握不能な異物としてのターミネーター(テクノロジー)を描いているわけですから、その描き方の違いは結構はっきりしている。

プロムガンプはテクノロジーを人間が掌握していることを前提に、そのテクノロジーの使い方を問題にしているのだと思う。だから、ラストでエリジウムのシステムを反転させるんですよね、ダウンさせるのではなく。そりゃ娘っ子を助けるためという目的があるから、ということではあるんですが。

まあ、どんだけシステムを一元化したらあんな簡単にひっくり返るんだ、という野暮なツッコミもできるんですが。

 

「第9地区」はよく考えると「アバター」と基本構造が同じというのも面白い。描き方は違うけれど。

恋のゆくえとかそういう矮小な問題に押し込もうとするからいかんのです

邦題のダサさときたらまったく・・・。

あまつさえ、原題の前にくっつけてくる面の皮千枚張りっぷりには乾いた笑いが出てくる。

「恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」

原題はスラッシュの後ろの部分だけなんですが、これ別に恋のゆくえそのものがメインなわけじゃないんですけどね。

監督・脚本はスティーブ・クローブスという聞きなれない名前の人なんですが、どうもハリーポッターシリーズの不死鳥意外の全てに脚本で参加しているというよくわからない経歴。あとファンタビにも製作として参加してはいるみたいですが、それ以外に目立ったフィルモグラフィーはないんですな。

そんな彼の監督デビュー作がこの「ファビュラス~」なわけですが、まあバーカーの方の元ネタという部分に反応しただけでそこまで期待していなかったのですが、思いのほか良かった。

 

映像的にすごく印象に残るっていう部分はないんだけど(それでもホテルのベランダで三人が話しているときに背景としてちょっと映る夜景とかいい感じ)、すごく普遍的な話ではある。30~50代くらいの働き盛りの人が観たらかなり共感するような部分があるはず。

それなりにピアノの才能がある弟ジャックと、彼のような才能はないけどマネジメント力があって世渡り上手で家庭もある兄のフランク。この二人は連日連夜バーだかホテルだかでピアノを演奏してカネを稼いでいるしがない兄弟のピアニストコンビなんですが、諸行無常から映画の早い段階で「来週から来なくていいから」と肩を叩かれてしまう。ここで契約を切られてしまう理由がひとえに集約されていないというのもまた地に足がついているバランスで好感が持てる。

そういえば、この映画はジャックがワンナイトスタンドを終えて着替えているシーンから始まるのですが、一夜を共にした女性が「あなたの手、最高だったわ」と言うのが粋である。粋、というかオヤジギャグではあるんですが、このあとにジャックがピアニストであることが判明するという中々こじゃれたオヤジギャグではあって、こういう些細な部分が割と自分は好きだったりする。普通に乳首が見えていたのですが映倫はどうやってレート決めたんだろう。

ジャックがピアノ演奏しながらタバコを吸っているというのも一つの要因ではあるだろうけれど、それだけではなく「ラジオスターの悲劇」的な要因だったり、ベイカー兄弟の問題やオーナーの人格という人に起因する問題だけでなく、それらの人が集まる「場」そのものが変容しているがために、というのがそれとなく指し示されてもいたりする。ま、単純にオーナーの人格的問題がでかいような気もする箇所もあるんですが、これが後々意趣返しされる展開はベタだけどスカッとしますし、いい感じではないでしょうか。

そんなわけでピアノだけでは(´Д⊂ モウダメポとなったベイカーズは歌手を向かい入れることになるわけですが、「シング」並のテンポでオーディションシーンが展開されていき、「主役は遅れて登場するもんだろ?」と言わんばかりに90分遅刻してきたスージーが横柄な態度で二人の前で歌うのである。

ええ、ベタすぎる。30年前の映画とはいえ、この展開はあまりに王道すぎて逆に今時珍しいくらい(今時じゃないから当然か)です。

で、ここから3人ユニットで大活躍を見せるわけですが、兄の忠告にもかかわらずジャックがスージーとファックしてしまい、雲行きが怪しくなっていく。スージーは引き抜かれ、ベイカーズはまた振り出しに戻り地道な営業から始めなくてはならなくなる。しかしそんな折に舞い込んだ深夜のテレビの仕事でコケにされたジャックはとうとう堪忍袋の緒が切れてしまう。

もちろん兄貴も怒ってはいるものの、彼には家庭があってローンもあって、安定した収入を得なくてはならない。だからせっせとマネジメントして仕事を食いつないできた。

それとは対照的なジャックが衝突するのは必然だったわけで。

個人的にはここの二人の言い合いからのだっさい取っ組み合いが好き。二人の不器用さとか、どうしようもないけどそうやって生きるしかない体たらくが。

イカー兄弟というのは、誰もが持っている両価性を二人の人間に分けてできたキャラクターであるはずですから、どちらも基本的に間違っていないというか共感できる部分があるというのがやさしい作りだなーとわたしは思いますです。

それに、このあとにいやいやだった仕事のことを笑いながら話しあって、酒を酌み交わしながら小さなピアノを弾いて・・・という展開があったりもするんで。

スージーとジャックの最終的な距離感というのも絶妙だし、そこで終わらせるというのもそれぞれの新たな出発としていい塩梅ではないでしょうか。

基本的には生暖かい監督の視線に溢れる作品だと思うので、それが合わないという人もいるやも。とはいえかなりテンポはいい映画ですし、前半は特に30分でスージー合流からの一時的な成功まで描かれちゃうくらいなんで飽きるということはない。ただ、先程から書いてきたようにベタベタで展開が読めてしまうので、そこはまあちょっと合わない人もいるかも。そういう意味では、やや教科書的すぎるきらいのある映画ですが、それでも誰もが思い悩むような問題を提示しつつ、それでも「なんとかなる」感じ(決してハッピーエンドでもビターエンドでもない)で終わってくれる良心的な映画だと思います。

ブラックコメディとしてはそこそこ楽しいけれど・・・

「サバービコン 仮面を被った街」を観てきました。

本当は「アイ、トーニャ」が観たかったんですが時間が合わなかったので延期。代わりに、といってはアレですが、そこまで観たいわけではなかった「サバービコン」に切り替える。BS海外ニュースでジョージ・クルーニー監督、マット・デイモン主演で映画を撮るというのは結構前から知っていたんで気になっていたといえば気になってはいたんですが、優先順位的にはそこまで高くなかったし。

 

相変わらずダサい副題をつけるのが好きですねー日本の配給は。映画で描かれてるかぎりだと街というよりはむしろ家族なわけですし・・・ってこれネタバレだろうか。かなり序盤で種明かしされるとはいえ(そしてそれゆえにやや物語的な牽引力を弱めているような気も)、「あ、そういうことだったのか」となる部分はありますからね。
ここではネタバレなんて気にせずつらつら書いていきますが、もし見る人がいたらなるべくネタバレは回避したほうがいいと思いますですよ。

率直な感想としては「予想通り予想を超えてこないダメよりなフッツーの映画」ではあるかな、と。あーでも、製作陣がセーフをかけてる気はするけどなにげにグロだったりエグい場面があったりするので、そういう意味では楽しい部分もあるんだけど、結局のところは全体的にとっちらかったまま終わったという印象。
元の脚本がコーエン兄弟だけあって、そこそこサスペンスな部分はあるんだけど、黒人差別の部分とかは前時代的というか、やっぱり脚本が書かれた80年代のうちに映像化しておくべきだったなーとは思う。ただコーエン兄弟が映画化しなかったのは、やっぱり脚本に納得行ってなかったからじゃないかなー。「デトロイト」のように実際の出来事を巧みな演出で再現し再考させるというものでもないし。一応、本作も50年代の実話をモチーフにしているという話ではあるようですが。街ぐるみの黒人差別をちゃんと描ききれていない割にそっちにやたら尺を割くんだけど、メインとなるデイモン一家の話とまったく絡まないのが痛いですね。サバービアの嫌な感じだったらよっぽど「トゥルーマン・ショー」のほうがいいかなー。

演出的にも、説明的な映像がちらほらあったのが痛い。黒人一家が白人だけの街であるサバービコンに引っ越してきたところから始まるんですが、黒人の一家に手紙を届けにきた郵便屋さんの態度が表情の機微や手紙を渡しそびれる=黒人は召使いという認識を持っているといった部分を描くのは(やや戯画化されているきらいはありますが)いい感じなんですけれど、そのあとに街の集会所みたいなところでホワイトトラッシュガイズが集まって黒人がいるではないかとやいのやいの言って、黒人一家の家の周りに柵を立てるということを決めるのですが、ここ入れてしまうのはスマートではないですかね。
あそこは丸々カットして、いつのまにか家の周りに柵を立て始めているというふうにすればもっと気味悪くできたのでは、と。

ほかにもちょいちょい黒人差別の描写は出てくるんですが、描くだけで終わってしまっているので、物語に直接関わってこないのであればそういう描写を背景的に描くだけにとどめるべきだったのではないかなーと。
てっきり黒人との友好を結んだ息子だけが生き延びるというような展開かと思ったら全然そんなことはなかったし。

 
ジュリアン・ムーアのバカっぽい演技とかマット・デイモンが夜道を幼児用自転車で漕いで行くのは面白いんですけどねー。地下室で卓球ラケット持ってジュリアン・ムーアスパンキングしながら立ちバックするところを息子に見られたりするシーンなんかもまあ普通に笑えましたし。部分部分で笑えるところはあるんですが、やっぱり単一の作品として見た場合はちょっと首を傾げざるを得ない。

殺された母ではなく殺した側の叔母が黒人の子と遊ぶように促したおかげで息子が拠り所を失わずに済んだというのは、皮肉じみていてそれなりに納得はいくんですが、どうせならマット・デイモンに息子を射殺させてから夜が明けたら毒でデイモンも死んでいてロッジ一家全滅みたいにしたほうがよっぽどブラックコメディ的ではありますけんどね。ギャグ日の「アンラッキーシリーズ」みたいに。

 

 総評としては、面白い部分もなくはないですが、トマトの評価通りの出来栄えだとわたくしも思いますです。
どうでもいいですが製作総指揮にジョエル・シルバーがいるというのが地味に笑えました。

どっちが死んでるのコレー

黒沢清の「岸辺の旅」

毎度のことながらこの人の映画ってなんか独特ですよね。黒沢清「叫」で初めて知ったときはそういうのを感じ取るセンサーよりも「なんかつまらないような」といったネガティブセンサーが発動していたのだけれど、少なくとも「岸辺の旅」は奇妙に面白い作品ではあったどす。奇妙だから、というべきなのか。

やたらと音楽が目立っていたなーと思ったら黒沢映画で初めてのフルオケだとのこと。音楽の使い方もなんか普通じゃないんですよね、あれ。「その場面でその音?」という気味悪さというかズレというか。 

この映画全体がそういうズレ・・・みたいなものを意識させる作りになっているように思えてしょうがない。

作品の基本プロットは「妻の前に死んだ夫の霊が現れ、生前に夫が訪れた人々を再訪する」という、なんというか心温まる系にありがちというか想像しやすいものではあります。だけどですねーこれ、普通にホラーですよ。こんなハートフルっぽいガワを使って生と死の垣根を曖昧にさせようと(しかもいつもの黒沢節で)し、現実と幻の境目を不明瞭にさせていく。

深津絵理が何度もベッドから起きるシーンに象徴される(しかも最初の起床シーンで「変な夢」と言わせている)ように、そういう諸々の線引きを曖昧にさせてこようとしているわけですよ。

まず冒頭で深津絵理が女の子にピアノを教えてるシーンなんですけど、顔が映らない。顔が映らないだけでここまで不安を煽れるというのは中々新鮮な体験でしたが、ともかく深津絵理が死者なのかと思うくらい顔が映らない。死者であるはずの浅野忠信の明瞭さと対地させている狙いはあるはずなので、あながち彼女を死者のように見せているというのは外れてはいないでしょう。服装も浅野が暖色だったり(そうでなくとも色味の強い服ばかり)するのに対して、深津は色もグレーだったり服飾そのものも代わり映えしないものばかりで、本当は死んでいるの深津の方ではと思いましたよ。

浅野忠信は水飲んだりぜんざい?食べたり林檎食べたり(なんか肉とか米じゃないとこがまた生と死をあやふやにしてる感じがあったり)してるんですが、深津絵里は何も食さない。蒼井優とバトるとこでお茶飲んでたり、後半でちょっとしたお菓子みたいなのをつまんでいたりはしましたが。それに、テーブルを囲んでるシーンはあったりもしますが。

あと何が怖いって、こちらのわからないロジックが厳然と存在しているのに劇中ではそのロジックの原理がわからないところ。だから観客はそのロジックを想像して安心を保とうとするわけで。これはわたしが観てきた黒沢清の映画の大体に通じる部分ではあると思うのですが、これは特にその傾向が強い気がする。カットの切り替えだけで存在の有無をスイッチングするのとかもそうですけど、もう幽霊がそこに突然現れても動揺とかはしないし、なんだかもうともかく面白い(適当)。

ライティングだと、暖色と白色の電灯の使い方なんかも露骨に使い分けていたり、ガラスや窓越しだったり窓の外の光が尋常じゃないくらいの光量になっていたり(笑)、露骨といえば露骨ではありますか。

 

細かい部分を挙げていくとそれこそザ・黒沢清なところはたくさんあるんで割愛しますが、普通に良い話に収まったという意味では「ニンゲン合格」ぽくもあるような?

 

役者はみんな素晴らしいんですが、深津絵里が個人的にはかなりキマシタ。エロい・・・というとリビドー的な意味合いから齟齬がありそうなので、あえて艶かしいと表現しますがともかく魅力的なんですよね。こう、抱きしめて支えてあげないと消えてしまいそうなおぼつかなさと、後半でそれを払拭していくのとか。

あと蒼井優ね。あの人の顔はどうしても好きになれないんですけど、やっぱり女優としてはずば抜けている。カメラワークやセリフの応酬(ほぼカット割らないのとかも相まって)では食い気味だったり、ここはともかく色々な意味で楽しい。

浅野忠信もかなりはまり役だったし。

 

散歩する侵略者」の宇宙人たちのツーリング場面を除けばこっちの方がすきかもしれない。

秩序は人間の尊厳を脅かすのか

時計じかけのオレンジ」と似たようなテーマといってもいいかもしれない。あそこまで露骨(というか露悪?)ではないにせよ。
コミュニティ内の平和と秩序を優先することとそのコミュニティを形成する個人(要素)の自由とのコンフリクト。まあ平和と秩序といっても表面的なものでしかなく、そもそもそれが完全に達成されること自体が仕組みとしてありえないわけで、社会システム論的な命題を要素としての個人を優先した映画というべきか。

まったく事前知識なく観たんですが、作りが割としっかりしているというか気が利いていました。マックが最初の方に行うある未達成の行為をチーフが継承して行うのとか。実は境遇からして二人は同じだったというのが中間で明かされてからの「最後のガラスをぶち破れ~」ですからね。
 にしてもジャック・ニコルソンですよ。この人は本当になんか気が狂ってそうな感じがして怖い。本作の舞台は精神病院なわけですが、ニコルソンが演じるマックは狂人を装って精神病院に送致されることで刑務所の強制労働を逃れようとしている、いわば健常者なわけです。が、ほかの精神病患者の役と並んでも遜色ない。といっても、ほかに比べると明らかに自我がはっきりしていますし話が通じる(それでも隠しきれないヤバさ)ぶんそこまで病的な振る舞いがあるわけではないんですが。遜色ないというか、馴染んでいるというべきでしょうか。

社会的規範にならえば悪とされるマックですが、しかしそれが精神病者たちにとっては救いの手であるという葛藤。矛盾ではなく、あくまで葛藤だとわたしは思いますが、そういうのを感じさせないくらいこの映画はマックを生き生きと描いている。
だからこそ柵を乗り越えてみんなを釣りに連れて行くシーン・釣りをするシーンはとてつもない開放感がある。
この直前のバスのシーンでマックが連れてきたキャンディがバスに乗った精神病者たちを見て「YOU ARE ALL CRAZY?」と言うわけですが、ここを「みんなお仲間?」と訳す字幕のセンスも中々イケている。
ただ、後半になっていけばいくほど辺の秩序と個人のバランスが絶妙に均衡してくるように思える。そもそも、婦長を明確に悪としては描いていないところからも、ミロス・フォアマン監督は単純な二項対立の図式ではあっても簡潔な善悪として分けているようには思えないのですよね。

確かに婦長の強権的な振る舞いによってマックが可愛がっていたビリーが自殺するとはいえ、そこにはマックの行動の結果が大きく起因している。それに、少なからず悪い結果になることは予期できたはずだし。それを棚に上げて婦長を絞め殺そうとする(ニコルソンだからこそこの辺に説得力がある)わけで、その憤りに共感は出来ても体制下に生きる我々にはマックに対する疑念や恐怖といったものを少なからず抱いてしまう。

だから、ロボトミーには悲しさや落胆みたいなものと同時に「そりゃそうなるよね」とも思ってしまう。それを最後の最後にそれまで自発的に行動することなく、いざというときに慄いてしまっていたチーフが「最後のガラスをぶち破れ~」となるからテイバーと観客の心は一体となり叫ぶのですよ。

 

雑ソウ記のほうで書いたのは、このニコルソンの行為すら精神病院側が許容(ことによっては歓迎すら)してしまう気持ち悪さにあると言っていいかもしれないなーと書きながら思った。

 

ま、現実問題としてどちらが悪いとか良いとかではなく、バランスの問題だとは思いますが。大空レイジが言うところの「右でも左でもなく真ん中が一番良い(意訳)。どら焼きだってサンドウィッチだって真ん中が一番おいしいだろう(直訳)」理論はつまるところ中庸ですし、個人的にはこれに賛同。もっとも、アバさんは「中庸は現実の前に無力なんだよ」と仰っていましたが。

あとDVD特典のギャラリーで映画化にあたってのダグラス親子の偶然とか、ロケ場所の病院の話とかキャストが事前に3ヶ月ロケの病院で生活したとか、そういう話があって結構面白かったです。

 

それと先月の13日に監督が亡くなっていたようですね。だからなんだという話なんですが、つい数日前まで生きていた人の映画を観たというのが妙な気分であります。

 

R.I.P

 

 

インフィニティうおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!

久々に胸を張ってこう言い切れる映画を観た。

 

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            ///)
           /,.=゙''"/
    /     i f ,.r='"-‐'つ____     こまけぇこたぁいいんだよ!!
   /      /   _,.-‐'~/⌒  ⌒\
     /   ,i   ,二ニ⊃( >). (<)\
    /    ノ    il゙フ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
       ,イ「ト、  ,!,!|     |r┬-|     |
     / iトヾヽ_/ィ"\      `ー'´     /

 

 

かっこよすぎて泣きかけた(ぎりぎりで持ち堪えたけど!)数少ない映画の一つになりますた。ともかくハイパーテンションの映画でおまんした。
映画を見て家に帰ってきたら壁に飾っていた「ジャスティス・リーグ」のポスターが傾いていて思わず吹き出してしまった。DCEUの行く末を暗示しているようで。

それにしても超攻撃特化の映画でした。映画の姿勢というかなんというか、本当に攻めまくっていて攻撃こそ最大の防御を体現するような、そんな感じ(あやふや)。
しかし、これって案外難しいことではないでしょうか。まして、この規模の映画ともなれば。
よく「頭空っぽにして楽しめばいいんだよ」とか「細かいことは気にせず見ればいいんだお」とか「何も考えずに楽しめばいいんだよ~」と言う人がいますが、そういう言葉にはその映画の世界に没入させてくれさえすれば」という暗黙の了解としての枕詞があることをあまりわかっていない。わかった上で「だって好きなんだもん!」と反駁してくれるくらいの熱量がその作品に対してあるのならばいいのですが、大抵の人はただ単に何も考えずに「何も考えずに楽しめよ」とかのたまう。
それはただ単に思考停止しているだけで、決して夢中になっているわけでじゃない。
少なくとも、本当に「細かいことを考えずに楽し」ませてくれる映画にはちゃんと作り手に気概がある。バランスの問題だったりもするけれど。


だからこそ「インフィニティ・ウォー」は面白いのだ。そういう細かいことを感じさせる前に映像としての迫力や最低限の話の流れを組み立てキャラクターの描写も行った上でちゃんと燃える展開を用意してくれているのだから。
たとえば、ソーがストーム・ブレイカーを手に入れるくだりは、はっきり言ってソーが身を呈す必要は脚本上は不要といえば不要なのです。けれど、「シビル・ウォー」でわざわざ刑務所に立ち寄る場面に迫力を演出したルッソ兄弟は、そういった部分にも熱量を持たせるためにあえてソーの自己犠牲を選んだ。もちろん「新しい武器を手に入れるのになんの苦もないとあまりに単調すぎるから」という計算の下で派手さやエモーションを優先したに違いない。そこに繋がっていくのが、序盤では反抗期真っ盛りだったグルートが、ただロケットに言われてついてきただけのグルートが、ソーのふんばりに応えるシーンというのも泣けるではありませんか。
ほかにも細かい部分で言えば、バナー博士がキャプたちと合流する場面。画面の外から現れるバナーを映した直後にナターシャを画面の中心に据えてカットを切り替える二人の特別な関係性のそれとない演出。

二度流れるアベンジャーズのテーマに、わたしはかっこよさのあまり鳥肌が立ち涙腺が緩んだ。だってかっこいい登場をかっこよく演出してくれるんだもの。

 サノス意外の敵で言えばマウさん以外はあまり目立ってはいませんが、サノスが魅力的に描かれていたので仕方ありませんね。マウさんのやられ方がかなりまぬけというか「あ、そんなへんてこな宇宙船の形状してるけど物理法則は普通にあるんだ?」なエイリアンパロのくだりは笑いましたが。本当にマウさんがエイリアンと同じ末路(「エイリアン」のゼノモーフのラストと同じ構図だったような…)というのも呆気ないといえば呆気ないですが、ほかの物理に全振りしてた(少なくとも演出上は)ブラックオーダーよりはかなりおいしいでしょう。

なんだかんだでヒーロー側の強さを相対的に感じさせてくれる程度には引き立て役として機能していましたし。

スパイディが消滅するところにしたって、最初から彼が宇宙についてきてしまったことに怯えていたりそのあとにスタークにアベンジャーズとして認めてもらったから、という色々な組立があったからこその悲壮感であるわけですし。

サノスがただの「ちからこそぱわー(^p^)」で「ぐははは、おれさまがせかいをしはいするのだー」な魅力のない悪役じゃないというのも良かった。なんだかんだで人間臭いサノスが、実はこの映画で一番美味しい役どころだったのではないかと思います。

ラストで完全に賢者モードで隠居しそうに畑みたいな場所で座っていたのは笑っていいのか同情していいのか・・・


バッドエンドですしキャラクターも死にますが、随所に笑いもあったり、湿っぽくなりそうなタイミングでドラックスとかがちゃんと引き戻してくれたりするので、終盤の展開に至るまでは良い意味で安心して見ていられます。それだけにラストの展開が胸にくるというのもありますし。
ジェームズ・ガンが構築したgotgのメンツのキャラクターを上手く描けていたのも、ルッソ兄弟の力もありますがやはりマーベルスタジオの手腕も大きいのでしょうね。
ガントレット奪取の戦闘場面でクイルの背後でアイアンマンとスパイディがえっちらおっちらとガントレット奪おうとしている様は緊迫した場面にもかかわらず笑ってしまいましたけんど。しかも結構長いんですよね、ここ(笑)。


MCU10周年のご褒美(有料)という側面もあるので、CGふんだんに使いつつインファイトも結構あったり、ともかく派手派手にしようということだったのでしょうね。もちろん、最低限押さえるところは押さえて。
そのおかげで戦闘シーンの多い中でも何一つ飽きることなくそれぞれを楽しむことができましたし。またアイアンマン好きとしては今回かなり活躍してくれるのでそこも嬉しかったですねー。

早く続きが観たい…