dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

こんな時期に試写会かよ

いや本当は試写会に行ってる場合じゃないんですけどね。マジで。

とはいえ当たったものは仕方ないので(何様だ)「盆唄」をユーロライブで観てきました。

 

 

本作を手掛けた中江裕司監督についてはほぼ真っ白な知識。
会場に着くまで知らなかったんですが監督と映画評論家の松崎健夫氏とのトークショーがあって、そこでの質問でほぼ沖縄を題材に撮り続けていたのが、今回初めて(?)福島を題材にしたことが判明。ファーストコンタクトがその作り手にとっては異質なもの、ということもあって監督について図りかねている部分が大いにあるのですが、とりあえず今までの試写会のトークショーの中では一番面白かった。まあ監督の人柄による部分が大きいのでしょうが(それと観客)。あとトークショーの司会進行の女性の方が吉岡里帆神木隆之介を足して一般人で割ったような顔をしていてお綺麗でございました。
まあでも、私のようなパンピーは知らないのも当然なのかな、とウィキペディアの「とりあえず作品一覧だけ作っておきました」感から伝わってきました。初期の2作以外は個別記事ないんですもの。

映画評論家の松崎氏に関しては寡聞にして知らなかったのですが、町山智弘とも面識があるようですしくだけた監督の所作に反して割ときっちりしていましたし、信頼のおける人なのでしょうか?

トークショーで監督や今回プロデューサーを務めた岩根愛さんの話で、映画の感想を書く上で直結する部分もあるので、本編について書きつつトークショーについても触れていこうと思います。


タイトルそのまま盆唄に関するドキュメンタリーってことなんですが、簡単に公式サイトからあらすじを抜粋。

2015年。東日本大震災から4年経過した後も、福島県双葉町の人々は散り散りに避難先での生活を送り、先祖代々守り続けていた伝統「盆唄」存続の危機にひそかに胸を痛めていた。そんな中、100年以上前に福島からハワイに移住した人々が伝えた盆踊りがフクシマオンドとなって、今も日系人に愛され熱狂的に踊られていることを知る。町一番の唄い手、太鼓の名手ら双葉町のメンバーは、ハワイ・マウイ島へと向かう。自分たちの伝統を絶やすことなく後世に伝えられるのではという、新たな希望と共に奮闘が始まった――。 映画は福島、ハワイ、そして富山へと舞台を移し、やがて故郷と共にあった盆唄が、故郷を離れて生きる人々のルーツを明らかにしていく。盆踊りとは、移民とは。そして唄とは何かを見つめ、暗闇の向こうにともるやぐらの灯りが、未来を照らす200年を超える物語。

で、本編を観終わってからこれを読んでいて思ったのは、すさまじくとってつけた感じがするということでしょうか。いや、間違いはないし実際に描かれているということではあるんだけれど、ほぼ前半部のことしか具体的には書いていないんですよね。というのも、これは映画の構成に問題(と書いていいのかしら)があるからなのですよね。

ここでトークショーの話題を出すのですが、面白かった理由の一つに観客の一人がドストレートな意見を監督にぶつけていたからなんですよね。そのドストレートな意見というのは「前半はすごい良かった。移民の問題について触れていたりとか。けど、後半は怠いアニメのあたりから本当に怠い。最後のやぐらの踊りも30分は長い。あそこをカットして90分くらいにまとめていたら良かった」と。まあ一字一句間違いなくとはいきまんしやや意訳は入っていますがおおむね同じようなことを言っていました。それに対して別の観客が「あれがなきゃ収まらない」といった擁護が飛んだり。

よくもまあ作った本人と評論家のいる前で言えるなぁ(皮肉とかではなくその胆力に素直に驚いている)と思いつつも、賛同する部分もあり、それが前述の構成の問題に繋がっている部分があるのかと。確かにこの映画134分もあるんですよ。ぶっちゃけわたしも途中で挿入されるアニメーション終わったあたりから少し寝てしまいました。

しかも監督自身がこの意見を受けて「私も常々、映画は90分に収めるべきだと言ってきたのですが、その当人がやってしまいました」というようなことを言っており、やはり今作は監督にとって例外的な作品でもあったようなのです。が、別に長いから怠いというわけではありません。

確かにドキュメンタリーで2時間越えというのはなかなかボリュームがありますが、別にそれ自体は問題ではないのです。この映画は、構造的に後半部の誘因というかモチベーションがかなり薄いんですよね。

なぜならこの映画にはメインとなる軸がないから。軸がない、というと語弊があるのですが、具体的な命題や問いかけたい問題が常に掲げられているわけではないからだと思います。

前半部では福島の盆踊りとハワイに移住した日系人の間で継承されている盆踊リストたちの交流を描き、その中でルーツが明らかになっていくのですが、ではその明らかになったルーツが後半になって有機的に絡んでくるかというとそういうわけではないのです。ハワイの日系人たちとの交流によって逆輸入されたボン・ダンスを踊るとかそういうことでもないし、かといってルーツを明らかにすることそのものを目的としているわけでもないからです(そも、それが目的なら前半部だけで完結しています)。しいて言えば交流そのものが目的だった、のでしょうか。

じゃあこの映画が描こうとしてるのは何か。それはもう監督自らがおっしゃっているように人の情や愛といったものだろう。監督の自論としては、映画は愛や情しか描けないし自分の関心としても人にしか向いていないということを言っていたし、それは私もそう思う。
確かに松崎さんが言うように、人を描くことでどうしようもなく社会問題が表出してくる、というのはある。実際、前半部のハワイの日系人たちとの交流を描こうとすれば真珠湾に絡めて日系人収容のことやそれこそ移民の問題というのはどうしようもなくたちあらわれてくる。けれど、それは裏を返せば社会問題そのものへの関心があるわけではないということの証左では。
真珠湾攻撃の映像をインサートしたのだって、それは戦争の問題に関心があるというよりも日系人たちに触れるにあたっての義務や礼節以上のものではないだろう。現に、映画の中でそれ以上の深堀がされるわけではない。もっとも、クライマックスの盆踊りのシークエンスで福島の町の商店街(?)のアーケードの入り口の「未来のクリーンなエネルギー 原子力」といった文言のアーチらしき写真を挿入していたり、福島原発への問題に対する皮肉だったりという視線はあるのだろうけれど。

だから前半分は観ていてわくわくするのだ。地域も言語も違う人と人が盆踊りを通して交流し、監督の「情」というフィルターを通すことでその共通性・同一性が映像表現として観ていても楽しかったし。
たとえば、福島とハワイの物理的な距離感のなさの演出。福島にいたのが次のカットではもうハワイの空港らしき場所にいたりするのは、やはり両者の心理的な距離の近さだったり監督が同一のものとしてとらえているからだろう。普通なら、飛行機に乗っている場面や空港から出発するシーンを残しておいてもよさそうなものなのに。

まあ、トークショーで監督は「バシバシカットするのが好き。大事なところからカットする(そうすることで浮かび上がることもあるから)」とおっしゃっていたので、そこまで意図していたのかは微妙ですが、少なくとも私にはそう感じられました。

が、しかし福島の双葉町とハワイのマウイ島を同一視しているのは間違いないでしょう。たとえば福島で海を撮り、墓を撮り、震災によってさびれてしまった家々を撮ったように、ハワイでも海の景色を、墓地を、閉鎖が決まったサトウキビ畑をカメラに収めたのだから。
だから、この前半部が特に観ていてわくわくするのは当然なのでせう。

が、後半。アニメーションによって過去が語られ始めたあたりから、どうも視点があやふやになっていくのは否めないんですな。要するに、前半部でほぼほぼまとまってしまっているがために後半部の導入あたりから「これどうやって終わるの?」という着地点の不明瞭さがそのままモチベーションの低下に直結してしまっているのです。
これは監督自身も認めていることなので、あえて言及するのも野暮でしょうが。

ただ、この映画を観て思った自分の思考の収穫としては結構大きいものがありました。それは、盆踊りひいては祭りごとの楽しみって何だろうか、ということ。

自分が近所の祭りの風景や盆踊りの太鼓の音に感じていたもの。それはたぶん、非日常的な空間がだらだらとそこにあり続けることだと思う。似て非なるものとして放課後の人気の少ない教室で友達とだべっている時間・講義が終わった後に部室で無為に時間を過ごすアレ。もっとも、祭りが非日常の空間であるのに対し後者たちは日常の延長としてのだらだらなのでへだたりもあるのですが。
思うに、祭りだとか盆踊りだとか、そういう慣習的な伝統の文化というやつはダラダラと在り続けてしまった産物なのではないだろうか。だって、別に必要なものではないんだもの。特に、この資本主義社会にあっては、それは非合理ですらある。

だからこそ必要なのだろう、と思う。徹底的に合理化を求め、それゆえに人が摩耗するこの現代において、このダラダラとした、延々と繰り返される太鼓の音は、永遠と在り続けてほしいその空間こそが必要なのではないか。

や、もちろんほぼ逆機能でしかない珍妙なマナーだとかああいう搾取のためだけの糞の役にも立たないどころか害悪ですらある価値観は無用ですが。
だらだらと続くもの。それが盆踊り=伝統芸能的価値物であるとするのなら、終わりどころが見えなくなるのも至極当然のことだろう。
だからこの映画の内報するだらだらというのは、そのままこの映画がとらえようとするもののだらだらさに他ならないのではないか。それを証明するかのように、まだ空が明るかったやぐらでの盆踊りは歌い手や太鼓をたたく人が入れ替わっていき、いつの間にか夜になっている。ダラダラと、続いていた。

最後にあの真っ暗な空間で完全に作為性をもって描いた盆唄が異質で、明らかにこの映画の締めのために用意されたと言わんばかりの主張は好き嫌いが出るところではあるだろう。
個人的にはぴったりと終わらせるのではなく、音楽を流したまま徐々に音が遠のいていって場面が暗転するといった方が終わりを感じさせずに盆踊りのだらだらが表現できたのではないかとは思いますです。

ドキュメンタリーだから客観性が担保されると考えるようなバカではないですし、そもそも撮るという行為自体が否応なく恣意が働くので、それが劇映画であれドキュメンタリーであれ、作り手の恣意性が表出するものだとは思いますし。


でもまあ、そういう作品として完成度の高いものだけではなくこういう構成として破綻したものですらも強烈に何かを伝えることができる、というのが映画というものの懐の広さであると思うので、そういう意味ではやっぱりこの映画を観れて良かったと思いますです。
それに普段の私であればあまり食指の動かないジャンルではあるのでこういう機会で観れたのは良かった。



ここから先はトークショーでの覚書

・劇中で歌を歌ってくれた日系人のフェイさんは劇中でもがんであることが言及されていたのですが、この映画の完成後に亡くなったそうです。

で、このフェイさんが歌うシーンは撮影に5日かかったそうで、本人は歌いたかったもののなかなか気力が持たず5日かかってしまったとか。そのうえ、本筋から外れるから当初は編集でカットしようとしたのですが、フェイさんの「情」のようなものに打たれて残したのだとか。個人的にそれは正しかったと思います。少なくともこの映画においては。

・ハワイの盆踊りの囃子の掛け声で「べっちょ」というのがあったが、あれは福島の方言で女性器や性行為を意味するらしく福島の方では使わないとか。ただ、ハワイに移住した人たちが使っていたのでそのまま定着したとか、だったきがす。

・アニメーションを挿入した理由は相馬移民を通して人の営みを肯定的にとらえたかったとか。あとは伝えやすいのと、実写映画ばかりでリップシンクにとらわれていたので、リップシンクにとらわれないことをしたかったとのこと。

・回転式パノラマは写真で時間を表現できるのがよい。

イントレランスという映画について言及

・最後の盆踊りのシーンは未来をイメージした。数万人の人に囲まれている中でやっているイメージだとのこと。確かに声とか編集で加えていたしね。

・今回プロデューサーも務めた岩根愛さんのパノラマ写真は出来上がりまでに4万円かかるので写真集を買って金を落としてほしいとのこと。

余談ですがこの人どこかで見たことあると思ったんですけどNHKのBSでドキュメント番組やっていたらしいので、たぶんそれかもです。




あ、あとこれ公開前情報らしいですけど2月16(15だっけ?)日のテアトル新宿で公開記念イベントやる(予定)らしいですよ

キートン・ウォーズEP1~EP5

さて、ということで新年一発目はBSテレ東でやってた「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」をば。

本当は新年一発目に観たのは同じく録画していたFate桜ルートだったんですけど、完全に一見さんお断りだし分割だしで、単独で記事をポストするほどボリュームを持たせられないなぁと思い、キートンを一発目にした所存でございます。や、Fateの映画自体はあまり語る余地はないと書きつつ、Fate自体はそれなりに語ることはできるんですけど、数年前ならいざ知らず今はそこまでの熱量持てないですし。

 

「ファウンダー~」は公開当初から気にはなっていたものの、公開館数がそこまで多くなかったので中々足を運ぶ機会に恵まれなかったんですが、本当にテレ東は地上波もBSもいい仕事してくれます。しかも吹替新録ということでしたし。そもそもソフト版には吹替はなかったみたいですね、ウィキさんによると。

さて、そんなわけでCV山寺なキートンということで中々新鮮なキートンではあったんですが、正直なところ後半の演技はもうちょっと声低めでもよかったかなぁと。見ればわかりますが、今回のキートンはかなり野心家なところがありつつもある種純粋でもあるので、比較的今回の吹替では山ちゃんの声が高めだったので、侵略を開始するあたりはもうちょっとダーティさを出してもよかったかなーと。いやしかし、ダーティというのは小手先の問題であってレイ・クロックは割と純粋(悪)な印象も受けるのでかなり難しい気もしますが。ただまあ、記事タイトルからもわかるように、この映画のキートンもといレイ・クロックは、割と本気でアナキン・スカイウォーカーダース・ベイダー的でもあるので、浪川→大平透並みに声を変調させるのもありっちゃありだとは思うんですよね。いやないか。

まあでも、よく考えたらシュワルツェネッガー玄田哲章みたいにもはや本人の声に違和感を覚えるような決定的なフィックスはキートンにはいないし、良くも悪くもイメージに引っ張られすぎないというのはあるのかも。

すさまじく余談ですが、ジェイク・ジレンホールの吹き替えも最近は高橋広樹が多くなっているのですが、かと思いきや山ちゃんだったりするあたり、キートンと同じような理由からフィックスがなかったりするのかも。

 

ちなみに、キートン吹替に関する面白い記事があったので、下記のリンクも読んでみるのもよろしいかと。

video.foxjapan.com

 

さて、キートンを連呼してきましたが、脇を固める俳優もいい感じ。レイ・クロックの(元)妻を演じるのは「最後のジェダイ」でローズに次ぐヘイトを買ってしまったローラ・ダーンですし、マクドナルド兄弟を演じるのは去年「ラッキー」で映画監督としての手腕も見せつけてくれた名俳優ジョン・キャロル・リンチとドラマでも活躍するニック・オファーマンなどなど。

 

マクドナルドを今の地位に押し上げた立役者であるレイ・クロックを主人公に据えた伝記映画ということなのですが、まあなんというか昨今のアメリカ(を中心とした資本主義…ポストモダンへの問いかけ)の情勢などを考えさせる映画だけにすっきりする終わり方とは言えない。

そもそも、主人公であるレイがほとんど悪役に近い存在であるだけに、彼の成功を描くことは悪の勝利でもあるわけで。

ただ、既述のとおり彼をダーティな悪役と単純に考えるのは早計ではあると思うのです。確かに、映画の最後に実際のレイ・クロックの映像が流れるのですが、キートンよりもふくよかで柔らかな顔をしているのです、怖い顔のおっさんの筆頭株であるキートンを配役している時点である程度の汚さみたいなものをキャスティングの段階でイメージしていたのでしょうが、むしろ実際のレイに近づけすぎると柔和な顔でああいうことをすることで余計に汚さが際立ってしまうはず。そこをすでに顔のがダークなキートンを配することで相対化し、より純粋さを表現させようとしているのではないだろうか。

現に、劇中で描かれるレイは、少なくともドナルド兄弟と出会うまでは客のことを考える(あくまでビジネスマンとして、ですが)視点を持って様々な場所に営業を行う努力家ですし、マクドナルドを広める段階で投資をしてもらおうと銀行に行った際は、実は何度も新たなビジネスをしようと融資を頼んでいたことが判明するトライ&エラーを繰り返していた野心家であることも描かれます。

そう考えると、やはり単純な悪として断定はできないのですよね。というより、この時点ではまだ成功を夢見る50の営業マンといった感じでしょうか。

レイが当初は純粋だったというのは、その服装の変化からもわかります。当初の彼は営業に回る人間として白いYシャツにタイだったんです。が、マクドナルドとの接触によってグレーの背広を着るようになり、最終的には黒いスーツを着ることになります。これはSWでシスを黒・ジェダイを白として善悪を表現したのと同じで、それが割と露骨だったから引用したまでなんですが、実はこれレイにだけ及んでいるわけではないんですよね。

ドナルド兄弟もダース・キートンと紳士協定を結ぶときにやや暗めのスーツを着ていくので、彼らもダークサイドに加担しつつあることを描いてはいるのですが、ここで面白いのは兄弟のスーツは暗い色ではありつつも濃いめのブラウンであるのに対し、キートンははっきりと黒いスーツというのが細かい。

まあ、キートンが一番シスになっていたのはマックが糖尿病で入院していたときにダメ押しとばかりに形だけの見舞いをしにきたときの服装で、黒いスーツに赤い色のシャツという、完全にシスの色合いであった瞬間なんですが。

また、よく考えるとレイもドナルド兄弟も厨房で動いているときは白いYシャツでいることが多いというのも、なかなか興味深いあたりだと思います。

 

ただ、じゃあレイはマクドナルドとの出会いによって資本主義の鬼となってしまったのか、というとそれはそれで違う。違うというか、最初からレイの裡にはダークサイドへの素養があったのではないか、ということです。

その証拠に、帝国の誕生を予感させる演出は最初からあるんですよね。というのも、映画の冒頭からボレロっぽい曲がBGMとして流れているんですよ。ぽい、というのはかなりアレンジが加わっているので厳密には違うとは思うのですが、要するにボレロの意味するところは徐々に盛り上がっていくところで、それが極北に達するのが帝国の完成なわけです。

そうしてアットホームな店だったマクドナルドはキートンの手腕によって拡大を続け、最終的に彼によって買収させ創始者たるマクドナルド兄弟は自らの店にその名を冠することができなくなるのだった。

 

それと最後の方で、まるで観客に向けて言うかのようにキートンの正面からのアップで演説が始まるんですが、これはシーンとしては鏡の前で演説の練習をしているのですが、その演説の内容も実にアメリカンスピリッツというかアームストロング上院議員的な単純さというか、それによって騙くらかそうと(本人は信じているのでしょうが)している感じがある。「才能がなくても、その粘り強さによって成功を勝ち取れる(意訳)」ということを述べるのですが、ただ、この演説はレイ自身のことを指していると同時にドナルド兄弟のことを指してもいる、というのが実に面白い部分。

そう、実のところレイもドナルド兄弟も同じなんですよね。レイが何度も新たなビジネスを始めようとトライ&エラーを繰り返したように、ドナルド兄弟も同じく何度も失敗を繰り返し成功したように。

シスとジェダイが本質的には同じであるように。

両者は背中合わせ、というよりも鏡像関係にあるのです。それが、この映画の一番面白いところだと思います。

 

細かい描写とかも結構気が利いていて、紳士協定を結ぶときに握手をするシーンでモーリスの顔だけを映すのとかイイですよね。

 

新年一発目になかなかいい映画観れてよかったですぞ。

 

 

 

マキシマムホモソーシャル

 長いのにほとんど集中して観れた、というだけで自分の中ではそれが面白い映画であったわけですが、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」もそうでしたよ。

 BSでやってたやつなんですがCMを抜いたら200分くらいだと思うのでおそらく劇場公開版でしょう。どうもほかに完全版・レストア版・エクステンデッド版というのがあるらしいのですが、一番長いレストア版で270分あるとか。劇場公開版でさえ贅沢な時間の使い方をしているのに、そこからさらに中編映画一本分くらい足されているとかどういうことなんでしょうか・・・。まあ長くなればいいというわけではないことはザック・スナイダーの一連のヒーロー映画を観ればわかることではありますが。

 禁酒法時代を描いた映画では「アンタッチャブル」もかなり面白い映画(あっちにもデニーロ出てたっけ)ですが、こっちもこっちで面白い。

 

 さて、完全に初見とはいえその名前は聞いたことのある名作のうちの一つである「ワンス~」でありますが、かなり情緒的な映画でありんす。その情感をたっぷりの間を使って、遠景やスローも使って大胆に演出していくんですが、構造として一番凝っているのはやはり時系列の入れ替え(タランティーノリメイクも、この辺の親和性があるので結構よさそう)。

冒頭で女性が殺されるシーンからファット・モーの店でヌードルス(デ・ニーロ演)の回想が始まるまで、いったい何がどうなっているのか全くわかりません。そこからは直線的に進んでいくと思いきや、ちょくちょくと現代のヌードルスが回想から戻ってくるので、過去と現在を行ったり来たりする。もっとも、現代のヌードルスに戻ってこないと逆にわかりにくくなるとは思います。

回想が始まるまでで30分(ここまで、観客は事態を呑み込めない。焼死体のことも殺された女性のことも)かけ、そこから大胆に子供時代のヌードルスたちを描いていく。たち、ということでようやく構造が見えてくるわけで、後からわかるのですが冒頭で殺された人たちは子供の時からつるんで悪さをしていた仲間たちだったんですね。悪さといっても、それは生き抜くためのことでもありました。

この映画はこの少年時代だけでもう十分なほど胸に来ます。長さからしても、少年時代編と分けることもできなくはないでしょう。しかし、入れ替えの構造にしたことで単体としての作品の質を高めることに貢献したこの映画は、今の時代では難しいでしょう(「IT」を睥睨しながら)。

少年時代のヌードルス一派の卑近な欲望のままの行動は、あまりにもいじらしい。性欲か食欲(ケーキ)のシーンの、葛藤の末にケーキに手を出してしまう。あと少し辛抱していれば、というほほえましい笑いと悲しさ。

少年たちのセックス=童貞卒業を巡る物語というのは、往々にして青春映画の、それこそクリシェ敵に用いられることもありますが、ことこの映画においては青春というよりももっと根源的な欲望同士の衝突として描かれているがために、そこにどうしようもないやるせなさを見出さずにはいられないのだ。

また、マックスとの出会いの粋っぷりは、ちょっと本当に見ていて顔がニヤニヤしてしまうくらいイイ。敵の敵は味方理論を同じ穴のムジナとして共鳴している二人だからこそ即興で息を合わせることができたあのシーン。そこから一気に仲良くなる掛け合いの妙は、ちょっと本気でゾクゾクしました。後のシーンで再会を果たした二人の「叔父さん」のセリフで私はもう濡れ濡れでした。

マックスと出会い、その邂逅の際に生じた警官との因縁を二人の童貞卒(いや童貞じゃないのかもしれないけど)と絡めてくるのもしゃれている。ペギーとグルになって汚職警官を嵌め、そこにおいてこそヌードルスがペギーをセックスをするシーンは、逆説的に清々しい青春のシーンとして観れるのではなかろうか。

この辺、石田衣良の「4TEEN」をちょっと思い起こさせますよね。

 

それから紆余曲折あり、マックスを仲間に加えたりファット・モーの妹のデボラとの色恋沙汰とか色々あって、トランクケースの誓い(勝手に命名)という最高にテンションの上がる(よく考えたらこれって死亡フラグだったのかも)からの仲間の一人が敵対勢力に殺される急転直下の展開。その場で敵を討つもかけつけた警官まで刺してしまうもんだから、ヌードルスは豚箱にぶち込まれてしまうんですが、この一連のシークエンスの引きのショットとスローがすごくいい。建物と建物の間から見える橋とか、ヌードルスがドナドナよろしく連れてかれるシーンでの仲間たちの背後にあるレンガの壁とか。

 

それで彼らの子供時代は終わってデニーロの出番になっていく。刑期を終えたヌードルスとマックスの再会は先に述べた通りで、仲間が全員揃っているうえにちゃんとペギーがいるというのもポイントが高い。まあペギーは子供時代の方が明らかに良かったですけど。それはともかくとして、マックスと再会したときのペギーのセリフなしで表情だけをうつす余韻のカットとかもいいんですよね、ここ。

で、またつるんで悪さをしていくわけですが、まあ色々あってマックスとヌードルスが対立(というと語弊があるかな)していって、それが現代にまで尾を引いていて最終的に死を偽装したマックスがヌードルスに自分を殺すようにもちかけて、それを拒否するヌードルス。あのごみ収集車の中にマックスがいるのか、正直そこはわからないけれどテールランプからのトランジッションといいおしゃれな演出が多い。

 

とまあ色々書いてきましたけれど、この映画の何が素晴らしいか(そして何が危険か)というと、要するにエントリーのタイトルにもあるようなすさまじいまでのホモソーシャルなのですよね。

それはマックスのキャロルに対する態度(ヌードルスとのホモソーシャルな関係に相対化されるためだけの存在として)やイヴの取ってつけた感、あるいはマックスのヌードルスの楔としての役割しか果たしていないデボラ(あんだけヌードルスとの出会いを時間をかけた割にすさまじくキャラが薄いのはそのせい)だったり、すべての女性キャラクター、どころかほかの男性メンバーでさえもマックスとヌードルスホモソーシャルに回収されていくのですから、それはもうすんごい濃厚ですよ。

なので、今の目線で観るとフェミニズム的に危ういものがあるのは否定的ない・・・が、それでもはやりこの二人の関係には萌えざるを得ない。

 

悲しきスタアの死と誕生

レディ・ガガだと思った? 残念、ジュディ・ガーランドでした!

というわけでスタチャでやってた「スタア誕生」を観てました。ここ最近、なんだか劇場に足を運ぶ気力がなく、そうこうしてるうちに「ヘレディタリー」が「ニセコイ」とかその他いろいろなものに食われて公開終了していたり、余計に劇場に行くモチベーションが下がったりしてた一方で、自宅で録画していたのを観ていたり。

 

スタア誕生」も12月のまとめの方にやってもよかったんですが(ってこれ毎回同じ前置きしてるなぁ)、何となく最後の方が好きだったので。

ジェームズ・メイソンの寄る辺なさとか、入水自殺のシーンなんかはちょこっと「ガタカ」の水泳シーンを思い出したり。

要するに、物悲しいのだ。

 

ノーマンにとってのエスターはまさに太陽で、彼女がなければ彼は生きていくことはできなかった。けれど、イカロスがそうであったように太陽に近づきすぎればその身を焼かれてしまう。妬み嫉みだけであれば、そして嫉妬を抱く者の矛先が、その者にとっての明確な敵対者に向けられるのであればこれほどわかりやすいものはないでしょう。だからこそ、いわゆる昼ドラというのは受けるのだから。

けれど、ことこの映画に限ってはその対象が愛情を抱く者に対してであり、さらに言えばその対象を見出し手塩にかけて支えてきたのがほかでもない自分自身でもある。

その懊悩は、かつてヴィッキーの立っていた場所に自らが立っていた分、はるかに深いものだったことでしょう。

これは間違いなく、ノーマンの物語でしか在り得ない。それは最後のシーンに至って、エスターが「エスター」としてノーマンの妻であることを表明したことからも明白だし、それをとって女性蔑視的だと言うこともできるでしょう。けれど私は、ノーマンの物語にどうしても感情移入してしまう。この映画からジェンダー的に社会論を論じるのは、無粋に思えるのです。それこそが男性優位に依って立つ思想だ、と言われると弁明の余地がないのですが。

いや、より正確に言えば、エスターにもエスターとしてノーマンの軛から逃れるルートもあったのかもしれない。そう思わせる程度には、この映画から読み取れるものはあった。

さて、言い訳がましい言い訳を並べ立てたところで、この映画の魅力は伝わらないので本題を続けましょう。

なぜこれがエスターの物語ではなくノーマンの物語であると私が思うのか。それはエスター周りのの描写からだ。

なぜエスターに「ヴィッキー」という芸名が与えられたのか。それはハリウッドの慣習であるから。あるいは名を得るシーンを描くことで彼女の女優としての一歩と喜びを表すためだから。もちろん、それはそうだろう。

けれど、そこにはもっと、文字通り二面的な意味合いがある。それは彼女自身にとっての、というよりはノーマンにとっての、という意味で。ノーマンにとっての「エスター」とは愛する妻であり幸福の象徴である。一方で「ヴィッキー」とはシンデレラストーリーを体現しかつてノーマンが立っていたスポット・ライトを一心に浴びるスタアであり、彼の羨望と嫉妬の対象であるのです。

だかこそ、前述したような太陽なのです。太陽がなければ人は生きて行けず、しかし太陽の熱と光は身を焼き尽くす毒でもある。ただ、太陽とは本来人の手に届かないもの。しかしエスター/ヴィッキーはノーマンにとって手の届くもの(そればかりか自らが生み出したといっても過言ではない)であり、それゆえに一層のこと苦悩が強まっていくのです。

かたや自宅で「エスター」とノーマン二人きりのときの、二人きりの刻の幸福の絶頂でなければ到底できないで恥ずかしいスーパー☆ハイテンションタイム(各国のステレオタイプな表現に笑う)な夫婦の、ひいてはノーマンの絶頂シーン。かたや役者としての「ヴィッキー」の最高の瞬間であるオスカーの受賞のシーンでの、あまりにだらしなく羞恥心も自尊心もないノーマンのクラッシャーっぷりの対置。

一人の女性によってもたらされる最大の幸福と最低の劣等感。その板挟みの中で、彼が選択するのが自死であるということに、彼女をどれだけ愛していたのかがわかることでしょう。少なくとも、劇中で描かれるノーマンは放埓なだけで見ているこちらは過去の栄華をうかがい知ることはできない。でも、だからこそ、そんな放縦で自分本位な彼が自らを殺すことしかできないほどに、「エスター」を(そして「ヴィッキー」を)愛していたことの証左となるのです。

ではエスターとは何だったのか?

それまで良くも悪くもノーマンに振り回され、彼の最期にいたっても(というか最期によって)振り回されはしたけれど、それを彼女自身の悲しみによって受け止め泣きつくし、彼女自身のその感情を大事に抱きステージから離れることもできたはずです。それこそが、人間的感情を有するエスターという一人の個としての振る舞いであると私は考えたからです。

しかし、そうやって自らの感情を尊重しようとした折に代理人から「ヴィッキーがノーマンの宝だったのに、すべてを失った彼の最後の宝であるヴィッキーをお前(エスター)は奪おうというのか?」と発破をかけられます。

この男にとっては徹頭徹尾ビジネスライクなセリフでしかないのでしょう。しかし、その言葉はすべて真実であり、それが残酷さをことさらに際立てる。

その言葉を受けて、彼女は舞台に立ってしまうのです。ノーマンのために。ノーマンの物語に貢献するために。

もしもここで彼女がステージに立たなかったのであれば、彼女はノーマンの軛から逃れることができたといえるでしょう。しかし、ノーマンの物語である「スタア誕生」はそれを許さない。しかし、再三書いているようにもしもエスターの物語としてエスターを主体とするのであれば、その道もあったでしょう。もっとも、そうなればノーマンの物語として進んでいたこの映画の完成度はエスターという個を引き立てるために低くなることもあったでしょう(それこそが「スーサイド・スクワッド」が表面化させた問題でもあったわけですが、もちろんそれを両立させる映画はたくさんあります)。

そしてこの映画の最後のシーンにあらわされるように、エスターはノーマンに、ノーマンの物語に貢献するピースであることを選択する。

だからこそ余計に物悲しいのかもしれない。ノーマンの人間的な悲哀と、エスターという人間の中心と周縁を巡る葛藤の末に導かれた必然的な結果への抗いがたさに。

 そう考えると、非人間化された「スタア」の誕生というこの映画のタイトルは、まさに的を射ているのかもしれない。

 

全ては愛

久々のティム・バートン映画。猿の惑星あたりから世間的にはいまいちパッとしない印象の強い彼ですが、少し前の映画はやはり良い。なんて懐古主義なこと言いつつも「ペレグリン」も嫌いじゃないんですけどね。ダンボも楽しみだし。

で、今回見たのは「エド・ウッド」。なんていうか、やってることがリーブ版のスーパーマン並みに強引で涙しつつも笑える。要するに愛なんですよね、この映画。

一応、その名の通り史上最低の映画監督として名高いエド・ウッドの伝記映画ではあるんですが、どちらかといえばファンタジー映画。

しかしやはりバートンは世界構築に関してはすさまじく、「シザーハンズ」と同じ手法でもって冒頭にハリウッドを見せつけてくる。ちなみに、あそこのミニチュアシーンの制作だけでエド・ウッドの映画のすべての製作費を合わせたものよりも金がかかっているそうで。

エド・ウッドの全面肯定であり、彼の幸せだけを詰め込んだ映画である。だからオーソン・ウェルズとの出会いもねつ造するし、プリミア上映の会場もねつ造する。否、ねつ造ではなく、夢想だろう。

確かにバートンがフリークスに向ける悲哀のようなものはあるんだけれど、それ以上にエド・ウッドと愉快な仲間たちの幸福な時間を堪能する映画なのでせう。

ウェルズとウッドを対置させるのはある種「タケシーズ」のそれに近い。

エド・ウッドを一言で表すのであれば「下手の横好き」だろう。しかし、そんなものは九割九分の人がそうだろう。ウェルズのような非凡な才人は一握りだ。そしてバートンも明らかにウェルズよりな人間だ。

けれど、彼はウッドに生暖かい眼差しを注ぎ愛してくれる。そのポンコツっぷりを。だから酒に溺れて落ちていく晩年のウッドをこの映画は描かない。バートンの夢想したウッドの絶頂で幕を閉じる。IF、ではなくバートンなりの想像として。

まあね、才能のあるバートンがウッドのようなポンコツ(要するに大多数の凡人・・・エド・ウッドの場合はポンコツっぷりが突き抜けているのである意味それも才能と言えるのかもしれませんが)をコミカル()に描くというのはともすれば上から目線にも思えなくはないのですが、まあ難しい命題ではあると思う。この辺は常に自分の中にある葛藤になってくるのであまり深くは突っ込まないでおきたい。

 

とにもかくにも本当にバートンは愛いやつである。ここいらでそろそろ一発ドカンとやってほしいところですね、バートンには。いや、好きなんで、バートン。

11月のおまとめを

劇場で観るのと違ってどうしてもながら見だったり睡魔に負けて微睡んでしまうときがあるので、いかんせんテレビで見るものは文章量に如実に表れてしまうのがつらい。

まあ本当に良いと思ったのは単独でエントリーしたりしますが、この辺が今後の課題かなぁ。

 

「先生を流産させる会」

バランスを撮りきれていない映画でしたな。

正直いえば気の抜けた絵面は多かったり、あまりにオーバーアクトだったりとか科白の演技演技っぽさとか、予算面以外でどうにかなりそうな部分はあるんですけど(先生が暗がりから歩いてくるときのモデルウォーク、急かす音楽なのに保護者とチャリで並走する先生を真正面から撮っていたり、「知らん!」とか)、それはそれで笑える場面になっていたりしたのでオッケーとしましょう。

あとはまあ、「先生を流産させる会」の「先生」が「センセー」とかならより反逆心を演出できそうですが、彼女らにはそこまでのユーモアはないしそれはそれで実写映画としてはクサいですし。

しかしアニメ制作会社というかゴチャゴチャしすぎな職員室(最初の場面と次に出てくる職員室っぽい場面でなんか違うのでもしかしたら職員室じゃないのかもしれませんが)や担任が理科の実験やってたり(?)、意図的ならばどこか寂れた田舎の学校とかを元ネタにしていたりするのだろうか。

ほとんど小学生的なセンスの服装とか生理描写とか、やっぱりあの主犯格の女の子だけは色物感出てますな。

女の子グループのはずなのにやってることが男子中学生ぽい感じとか、もしかすると田舎の方だとああいうことするのかもしれませんがちょっと違和感。

「女は気持ち悪い生き物なの」という科白は今なら(当時も?)確実に炎上案件ですが、まあ言いたいことはわからなくもない。というか、生物に対する気持ち悪さのようなものだろうか。

しかるに、あの主犯格の女の子はなるたるにおける須藤くんに近しいのかもしれない。や、こちらはリビドー的に還元してそうなので須藤くんと根本は違うと思いますが。

でもやっぱりあの年頃の子って妙なエロスがありますな。

それは多分、可能性を内包してそれが羽化しようとする思春期・成長期にのみ見られる一瞬の輝きの持つエロスなのだと思う。「LAW」の

いろいろなエロスがあるなぁ、と思う今日この頃。

 

「三大怪獣 地球最大の決戦」

ゴジラに関しては幼少期にVHSで結構な(少なくとも平成シリーズはほぼ制覇している)作品数を見ていたと思ったのですが、これは抜け落ちていた作品でした。

このタイミングでこれがBSで流れたのは間違いなくレジェゴジ続編とアニゴジの方の関係性なのでしょう。

しかし今見るとテンポは早く微妙に電波な脚本だったりとぶっ飛んでいて面白い。ザ・ピーナツってあんな卑俗な感じでしたっけ、と思ったり。

キングギドラが出てくるときの特撮とか今見てもかっこいい。もしかしたらレジェゴジの方でこちらのパロが出てくるやもしれませんね。

 

ロング・グッドバイ

ハードボイルド、でいいのだろうか。

観ていて面白いんですが、名前すらない端役で出てきたシュワちゃんの存在感にすべて持ってかれてしまった。

 

メリーに首ったけ

今見るとポリコレ的にまずい部分が結構あるんですが、やっぱりこの頃のキャメロンはキュートではある。最近だと嫌味なおばさんの印象がちらつくのですが。個人的にはそろそろ101のクルエラができそうな熟れ具合だと思うのですがどうでしょう。

ベン・スティラーも結構好きなんですよね、陽気なスティーブ・カレルというか、馬鹿なんだけど真面目そうなところがこの役にはぴったりだと思う。

 

 

ブロンクス物語」

デ・ニーロ監督ということですが、マフィアがメインで絡んでくる割に意外と血みどろは少ない(全くないというわけではなく)

しかしファミリー感は凄まじく伝わってくる。まあ「ゴッド・ファーザー」の印象が強すぎるというだけではあるのですが。

黒人要素というのが取り入れられていたりするし、トランプへの強い反感を表明していたりかなり真面目な人なのだろう。

あと奥さんがエロい。

 

「2010」

 一応、話としては「2001年~」の続編ではあるのですが、まああちらとは完全に別物ではある。

この2作品は「雄弁は銀、沈黙は金」という言葉がそのまま当てはまる。出来栄えである。のですが、それはあくまで相対的な評価であるわけで、じゃあ「2010」がつまらないかというと別にそんなことはない。むしろ、結構好きだったりする。

とはいえ、やはりキューブリックの方に気の抜けた画面が一つもないのに対して、ハイアムズの方にはいささか気のきかない場面がある。まあ、2010年を通り過ぎた今見れば実は違和感がなかったりするのですが、当時の目から見てなぜちらっと映る地球の場面があそこまで未来的でなく現代的なのか、というところはもうちょっとどうにかならなかったのかと。

あと話が小さくなってたりね。米ソ対立なんて2001ではほとんど出てこなかった気がしますが、こちらではまあまあなおおごととして描かれているし。そういう意味でもスケールダウンしているとは思う。

だけど宇宙での宇宙船周りの特撮はかなりいいですよね。いや、結構好きですよ、この映画。全部口で言っちゃうけども。

 

マリー・アントワネット

ソフィア・コッポラって本当にダンストが好きなのですね。

なんというか、ソフィア・コッポラ作品以外でも結構オサセな役どころが多い気がするダンストですが、今回に限って言えばそれがプラスに働いている。

あと「ビガイルド」や「ロストイントランスレーション」なんか見てても思ったんですけど、この人ズームアウトで孤独感演出したり、カメラ寄せて人物に寄り添うような演出を好むような。

 

 

「スプラッシュ」

オープニングが結構凝っていて好きなんですけど、全体としてはトム・ハンクスにイライラさせられる。

ロン・ハワードだと「バックドラフト」とかは好きなんですけど、まあまあ当たり外れのある監督のような気がする。

人魚の特殊メイクとか水中の撮影とかは結構好きなんですが、なんか出来の悪い少年漫画の読み切りラブコメを読んでいるような何とも言えない気分に・・・。

 

「マギー」

ゾンビの皮をかぶった難病もの映画。絵ヅラが恐ろしいほどにインディーな作りになっていて、なんというかシーンの一つ一つが中短編における雰囲気醸成的で、シュワちゃんの映画とは思えない静かな映画でしたね。ウィッキーさんによればこれが長編デビューらしいので、妙に納得。ていうかアイデアもよく考えたらインディー系ではあるような。

しかし出番は基本的に娘(アビゲイル・ブレスリン)の方に比重が置かれていて(まあシュワちゃんは演技派というわけではないので、シュールな格闘や爆発がないと今回のような映画では画面が持たないので仕方ないのですが)がメインです。

そのくせシュワちゃんったら存在感は異様にあるもんだから、映画そものもよりも目を引いてしまう。要するに、これはアビゲイルによるアビゲイル・シュワのシュワちゃんのための映画なのだろう。

でも、95分でもちょっと長く感じるくらいだったかなぁ。まあ「マンディ」の後というのもある気はするんですが、オチも「でしょうね」という感じだし映画としては凡作といったところかしら。いや、決して悪い映画というわけではないしアビゲイルはいい演技してくれているし、シュワちゃん特異点として観る分には全然アリかと。

 

 

「サンシャイン2057」

ダニボ。よくわからないんですが、真田がかっこいい。

この人の演出って毎回くどい気がする。

 

 

「霧の中のハリネズミ

以前、講義の中で観たのですが最後まで通して観たことはなかったので改めて見直す。

これが40年以上前の、ということを抜きにしても、というかこういうアプローチのアニメーションが少ないからなのだろうけど、すごい奇妙な手触りである。

絵本をそのまま切り貼りしているような(ような、っていうか事実手法としてはそのとおりなんだけど)。一つの手法としてこういうのもアリだよねーと思わせてくれる貴重なアニメ。まあ、手法で言ってしまえばサウスパークと同じなんですけれど、こちらのほうが枚数が多い。

あとカメラワークが結構独特で、撮影が気になる。水と、途中で出てきた大木は三次元の実物を使ってい撮っているような気がするんですけど、どうなんだろう。あの大木の立体感はちょっとドローイングとは思えないんですが。

 

 

クレオパトラ

3億ドル超えの昼ドラ。しかしさすがは古きハリウッド。結果的に回収できなかったとはいえここまで実物作るとか控えめに言って頭おかしい。

衣装とかセットとか、とりあえずそれを堪能するだけでも十分楽しい。というか、本筋のところは割と本当に昼ドラ+政治的な話ではあるので、そういうのに興味ない人はちょっと4時間超えるしきついかも。でも海戦とかも実物作ったりしててよかとね。

エリザベステイラーもエロいし。まあ肌白すぎだとは思いますが。

あとハンターハンターのメルエムの最期のやりとりは確実にクレオパトラアントニウスのシーンから引っ張ってきてますね。構図も科白もほぼそのまんまでしたよ。まあ冨樫はいろんなとこから引用するので何も珍しくはないんですけど。

 

 

白いリボン

冒頭から何か不思議な空気が漂っているな、と思っていたんですけれど、これって長回しによるものなのかしら。や、長回しといっても一つ一つのカットが比較的長いというだけで、「ラ・ラ・ランド」を筆頭とした昨今のこれみよがしな長回しという感じではなくて、すごく自然にカメラが人物を捉えているんですよね。あと、決定的な場面でカットを割らないところとか、黒沢清的というか。冒頭の落馬シーンとかいきなり掴まれますよね、意識を。

この不思議な空気感、撮影のクリスティン・ベルガーさんの手腕によるところが大きいと思います。ゼロ年代映画ですが前編白黒なのは、おそらくは時代性を意識しているのでしょう。

それにしても嫌な味のする映画です。色味のなさも相まって「ウィッチ」を思い浮かべたりもしました。大人の汚さという意味でも。

しかしあの医師ひどすぎ・・・

 

わたしは鈴鬼くんの立ち位置が一番好きです

前々から気になっていたものの、なんとなく足を運ぶ気分にならなかった「若おかみは小学生!」を観てきました。他にもいくつか観たいのはあったんですけど、公開終了が迫っていたのと、劇場で見ないと二度と観ないパターンだろうな、ということで観てきましたのです。 

しかしこれ、どう観るかによって結構好き嫌い分かれそうですね。

まあ監督が監督だけに動きがジブリっぽい。というか、まさにジブリのそれで、躍動のダイナミズムがそこかしこで見れて楽しいです。動きのダイナミズムといえば「ソング・オブ・ザ・シー」の魔女マカが肥大していくところなんかまさにジブリ的(監督が言及するとおり)で、あの絵柄でジブリ的な躍動というのがまた異化作用もあって楽しかったんですが、こちらは本家本元であるからして、惜しげもなく披露してくれています。たとえば、うり坊の回想で峰子ちゃんが瓦に登って落っこちる一連のシークエンスとかモロにジブリ的躍動感だったし。場面は忘れましたが、おっこが頷くところの作画の細かさとかもいいですよね。初代TFの赤べこメガトロンと見比べるとその細かさたるや月と鼈。あっちはあっちで一周して好きなんですけど。あとメガネの感じとかもすごいジブリっぽいというか。お父さんが堀越二郎に見えて辛い・・・。

 

あくまで子供向けということから、生々しい部分は極力抑えようとしていたらしいのですが、事故のシーンはそのせいでむしろわかりづらいというか何が起こったの感が。というか、うり坊が助けたという超常現象と無傷で生還(画面上は)という超常なカットがあるのですが、そこはしかしキャラデザのおかげで受け入れられたりする。

おそらく、話の設定的(幽霊が出てきたり、という)にもここまで抽象的なキャラクターデザインに振り切ったのは、抽象度を高めることで設定の、言ってしまえば荒唐無稽さを違和感を払拭するためでもあったのだと思います。

曰く、怠惰なキャラクターデザインというものに近いようにも感じられますが、しかしそこはやはり設定との折り合いを決めているからこそ、このようなキャラデザになったのではないかと。

極端に言えば、サウスパークハッピーツリーフレンズの絵柄で極端なゴア・グロがあるからこそ面白いのと同じように、キャラクターデザインというのは本来何かしらの意図を持って(資本主義的な理由ばかりではなく)決められるわけで、その意味ではこの映画はその意図をしっかりと果たしていると思います。

 

が、設定に反して話自体はかなり地に足がついている。ともすれば、ほとんどメンタルヘルスの映画とも言える。

これを労働の話として捉えると見誤る、と思う。これはむしろ、おっこの再生の話ではなかろうか。

おっこにだけうり坊たちが見えるのは、ひとえにおっこが死に近い状態にあるからではあるまいか。

最終的にうり坊やロリが見えなくなるのは、おっこが一年の旅館生活を経て再び生命の息吹を取り戻し、彼岸から此岸に戻ってきたからこそ、住まう世界の位相が異なりだしたからこそ、死者であるうり坊たちが見えなくなったのでしょう。神楽とは招魂・鎮魂を目的としてもいるのですから、ラストにおいて完全におっこがユーレイたちを見ることができなくなったことは、とどのつまり陰陽道的な招魂によりおっこは活性・再生され、鎮魂によりうり坊たちの魂を癒したからこそ、でしょう。

おっこはCV山寺のキャラクターとの出会いまで、感情を押し殺し自分を非人間化していた。おっこが旅館にきて旅館の人たちに挨拶をするとき、彼女の両親の死の話になったときにエツ子さんも康さんもおばあちゃんも程度はあれ涙ぐんでいたりするのに、おっこは涙をうるませる描写すらない。本来であれば彼女こそが真っ先に泣いていいはずだのに。けれど彼女は自分を押し殺し、非人間化し気丈に振る舞う。その点でいえば、おっこちゃんは「ゼロ・ダーク・サーティ」のマヤであり、「女は二度決断する」のカティヤにも通ずる部分がある。しかし、おっこは子どもでありマヤのように適応する(してしまった)こともできず、カティヤのように自らの意思で昇華することもできない。だから、表面上はどれだけ取り繕おうとも、夢という形で「生きている両親」がいつも顔を出す。

けれどこの映画では、最後以外はただ人とのやり取りの中でのみ彼女は癒され命を取り戻していく。おっこを癒していく映画である。だからこそ、クライマックスでちょっと自己中心性というか「世界はおっこを中心に回っている」と思ってしまう人が出てもおかしくなはい、と思う。というか、これを労働の話だと見るとそれが強く出てしまうと思う。なぜなら、すでに書いてようにCV山寺の木瀬文太とおっことの一連のやり取りの中で、おっこは居心地の悪さを感じて秋野の旅館に移ろうとする文太を引き止める。もちろん、それは文太の息子の翔太がダダをこねたからでもあるし、翔太とのふれあいがおっこを癒しおっこに(過去のおっこが)癒される大事なシーンである。

が、それは文太の思いを蔑ろにしているとも言える。どれだけおっこがよしとしようとも、文太の気持ちがよしとしているとは限らないからだ。文太はおっこに許してもらいたいわけではなく、加害者である(と思い込んでいる)自身が被害者であるおっこと同じ空間にいておっこにもてなされるということ自体が重荷になっているはずだ。であれば、むしろ秋野の旅館に泊まらせることこそが女将としては正しい姿勢である。まあ、そうすると翔太が厄介なんだけれど、翔太は監督いわく「過去のおっこ」であるわけでして、翔太を蔑ろにしてしまうとむしろテーマが崩れてしまうのでかなり難しいバランスで、この映画を「おっこの癒しと再生」を描いている映画として観る視点を欠いてしまうと鼻についてしまうかもしれない。自分も、少し「それでいいのか」と思わないでもなかったけれど、そもそもからしてこれはおっこ(と愉快な仲間たち)のおっこ(と愉快な略)によるおっこのための話なので。

 

だからもう、ここで描かれる女将の仕事というのは、労働ではなくおっこのリハビリ。

この映画が労働を描いていないのは金銭のやり取りが描かれていないことからも明白です。買い物をするシーンでも会計の場面は出てこないし、客をもてなすシーンはあってもやっぱりお金の匂いというものは発生しない。それよりもむしろ、おっこの再生の物語として、人と人とのやり取りの中で生を取り戻していく話だと思う。

もしもこれを本当に労働として描いているのであれば、旅館側の独善的な部分がありすぎます。ただ、それも見方を変える=おっこのリハビリという視点から見ると得心は行くのです。納得するかどうかは別として。

旅館って基本的に「与える」場所だと思うので、では本当に文太は「与え」られたかったのか、ということを考えるともっと視野が広がりそうです。

いやまあ、良い映画でしたよ、ええ。

 

 ただまあ、それでもいくつか言いたいことがある。まず占いなんてアコギな商売をしている人を肯定的に描くのは、私はちょっと大人の描く大人として(また未来のおっことして)は疑問符が残るところでありますが、まあそこは見解の相違ということなのかも。幽霊がいる世界だしスピリチュアルもあるのだろうし(テキトー)

あと美味そうなのは美味そうなんだけれど、松茸ご飯の後に赤ワインで炊いたご飯という飯ものコンボはさすがにお腹が心配です。いや、美味そうなんですけどね。

 

キャラクターでいえば、真月ちゃんの頑張り屋描写や見栄っ張り描写(おっこが秋野旅館を訪ねてきたときの本を読むふりとかキュート)とかいいですよね。ホモデウス(だったような)の言語版を読ませたりするのはガチなのか見栄なのかわからなくて困りますが。

翔太におばさんと言われたときのグローリーの反応とか、ベタだけどホラン千秋の絶妙な演技でそれっぽく感じて笑えましたし。あかねくんのハウル感とか。

しかし、わたしは鈴鬼くんが一番この映画の登場キャラの中で好ましく感じました。

 鈴鬼くんだけは人間でも幽霊でもない完全に異なる存在である(うり坊が物にさわれず、ミヨですら念力のようなものでしか干渉できないのに対して鈴鬼くんは人には見られないのに食事すらできるという超軼絶塵さ)ため、かなり子供向けに戯画化されて描かれていますが、彼だけは常に観照的に振舞っている。そこが超かっこいい。

CVがジバニャンだったりするせいでそうは見えませんが、彼だけは剽軽でありながら飄々ともしていて、ともすれば物語・キャラデザ・演出にくどさを感じる人でも彼がいることで少しは緩和されるのではないだろうか。それこそ「御法度」における北野武の立ち位置に近い。 

 

 

あと音楽が鈴木慶一で笑っちゃいました。グローリーさんと買い物行く場面で事故を思い出して発作ぎみになるシーンでやけに音楽が怖いなぁと思ったんですが、クレジット観て納得。

いやでもあれはやりすぎでは(笑)

 

あとパンフには花の湯温泉ガイドマップとか旅館の見取り図とか露天風呂プリンの作り方とか挿入歌の歌詞とか載っていていい感じです。特に挿入歌のページは買い物シークエンスでのおっこちゃんの早着替えでの衣装が網羅されておりますゆえ、もう一度衣装を堪能したい人は買っていいかも。その代わり、本編そのものについてはやや物足りさなもありますが、まあ児童向けアニメーションであることを考えれば監督のインタビューがそれなりの文量載っていたり女将の視点からの話が書いてあったりするので大人が読んでも子供だましとは思わない体裁ではありますん。