dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

アラバマストーリー

アラバマ物語

7月のまとめにぶっこむつもりが文章量多くなったので単独ポスト。本当に考えなしですね、私・・・。

 

あらすじをちょろっと読んでから観たので、てっきり法廷ものかと思ってたら予想と全然違ってちょっと面食らいました。

でもこれ、黒人差別に対する問題意識はそこまでないように見える。人種差別的な問題というのは、むしろメインとなる「娘から父親に対するシンパシー」の一つのファクターでしかない気がするんですよね。

 

自伝小説の映画化ということで、例にもれず私は未読なんですけど、日本版のウィキを読んでいると大部分はそのままで、細かい部分でアレンジされている様子。

たとえば「アオカケスは撃ってもいいけど、マネシツグミは殺してはいけない」云々の部分は、原作ではモーディ嬢(ローズマリー・マーフィ)の言葉らしいのですが映画ではアティカス(グレゴリー・ペック)が子どもたちに発言したことになっている。

 (逆に、あくまで表面的な物語上はそこまで必要ではないディルはそのまま残していたりもする)

 

事程左様に、この映画は父権主義に寄り添っているように見える。しかし、バランスとしては父権主義というよりも一人の男=アティカス(グレゴリー・ペッグ)に対する眼差しではある、というのがなんともはや不思議な味わいをこの映画はもたらしているところかと。

 

まず一つには、この映画は(原作が自伝だからでしょうが)スカウト(メアリー・バダム)の回顧という形で進行するところ。ぶっちゃけ、原作を読んでみてからじゃないとスカウトがどのような価値観を有していたのか分からないので、映画化にあたって脚色されたものが原作者と映画の作り手との間でいかほどに乖離しているのか不明なんですが、でもやっぱり、白人女性(おそらく回顧している時点でスカウトは成人している)に父親の苦悩を慮らせている以上、ある程度は白人成人男性の価値観を忖度してしまったということなのでしょう。

いきなりメタ的な話ですけど、幼少のスカウトとそれを回顧するスカウトと作り手の視線という3層のレイヤーに分けて観ることができると思うのですね、これ。

結局は同じ神の視点である作り手の視線が全てのレイヤーを刺し貫いているので、アティカスに強烈なシンパシーをもたらしていることに変わりはないんですけど、その描き方がすんごい遠回りというか予防線を張っているというか、ともかくなんか面白いんですよね。

だって「スカウト(6歳の娘)」の視点から「スカウト(成人した娘)」の視線・ナラティブを通して「作り手(白人成人男性)」の欲求を描いているわけですからね。

この多層性、男根主義の免罪というか許容みたいな効果を生んでいるような気がするんです。

語り部のスカウトのレイヤーではそこまでですけど、やっぱりそのもう一段上のレイヤからメタに観ると、この映画で描かれているのって当時のアメリカの社会(今も続いているけど)が有していた男根主義の肯定・・・とはまではいかなくとも、何かこう「父親という存在にエールを送りたい」という意識の、無意識の発露のような(だってグレゴリー・ペックだもんね~)。

 

冒頭に書いたように、黒人差別の問題がこの映画の主題でないというのは、前半のほとんどにそのような要素が表立ってこないからなんどす。

台詞の端々には、アティカスが黒人であるトムの弁護を担当することになり、それによって町の住民との間に軋轢が生じ始めていることを描いてはいるんですけど、6歳のスカウトの視点から描かれるために、具体的な問題というよりは少女である彼女の「日常に不穏な影が差し始め、その中心に父親がいる」という極めて個人的な問題に凝華(この言葉をこういうような意味で使うことはないと思いますが)しているので。

 

この映画は自伝をベースにしているため、スカウトが見聞きしていないことは本質的に描けないという構造を内包している。だからレイプをしたとされる被告人の黒人であるトム(ブロック・ピーターズ)がまったくフィーチャーされず、法廷の場面(まあこの法廷の場面は結構長いんですけど)でしか登場しない。

繰り返しますが、この映画は結局のところ彼女が感じたものでしかなく、積極的に差別の問題を浮き彫りにしようとしているわけではない。少なくともわたしにはそう観える。

とはいえ、書くまでもないことですが、だからといって差別の問題を提起しないというわけではなくて、6歳当時の少女の感性から黒人差別に対する違和感を覚えていた、ということを成人した彼女が振り返る形で細述しているんでげしょうし、人生においてこの部分を取り上げたということは問題意識があったということですから。

 

が、しかし! 幼い少女の(ナラティブの)背後には、大人の男のエゴが暗躍していた! 

というのはすでに書いたわけですが、そういう傀儡(って書くと印象すごい悪いけど)としてのスカウトを排除したときに浮上してくるのは、「大人」とゆーか「白人男性」の視点からザ・男としての父親の威厳や苦悩を知らしめる話のように見受けられるんですよね。

てか、アティカス本人がスカウトに「誇りを保てなくなる」云々って言ってるし、あれは仕事上のことというよりは信念として、でしょうし。

しっかしまあ、そんなアティカス役にグレゴリー・ペックという配役となると、これはもうアメリカンな猪突猛進な正義が浮かび上がる。

彼に関しては「大いなる西部」(大傑作)で見せたようなイメージが強くあるわけでして、懊悩しつつも正義()に邁進する根っからの主人公(ヒーロー)気質な男優、というのがわたしの印象なのです。

正義か悪かで分断されるとき、彼はいつも正義側であり続ける。

そんな男が優男的に描かれつつも実は射撃の腕が一流で、法廷の内外で過ちたる事柄に対して徹底的に立ち向かい、その過ちの枠の中に自らが否応なしにカテゴライズされるにもかかわらず糾弾しつづけ、道を誤った者の思いを汲み(しかしその悪事はしっかり責めるという「罪を憎んで人を憎まず」の体現のような振る舞い)、しかしそれだけのパワーがありながら非暴力を貫く。いや、パワーがあるからこそ、でしょうか。強者の余裕というか。いや、アティカスのメンタルはそこまで余裕があるタイプではないと思うんですが、本人の好むと好まざるとにかかわらないレベルで、彼(=白人男性)はパワーを有しているので。

 

しかしこの正義の正論を振るうアティカスには「イヤミか貴様ッッ」と思わず叫びたくなるほどです。この映画のグレゴリー・ペックを観ている間、ずっとスーパーマンがチラついていました。それくらい、彼はもう「ザ・正義」。

社会問題を提議しつつ正論を突き付ける。しかし、どこか釈然としない。それは多分、事実や時代とかは別にして、黒人であるトムの権利を白人であるアティカスが代弁しなければならないという、社会の構造上の歪さが、この映画自体の構造と同じ(黒人=娘、アティカス=白人男性)だからだろう。「あなたはわたしのホワイトではない」というか。

そうなんす。本質的に黒人はパワーを得られず、パワーを持つ者の同士の争いであり弱者の入り込む余地がないんです。

それがスカウトの回顧の形を取っているというのも、つまり過去を変えることはできないという上述の構造と同じように「力なき弱者」の立ち位置に甘んじているところともダブる。

まあ「青カケスは撃ってもいいけど、マネシツグミは殺してはいけないよ、彼らは私達を歌で楽しませる以外何もしないのだから」という台詞を使った時点で、パワーを持つ者から持たざる者への優位性に無頓着であろうことはなんとなくわかる。

我ながら嫌なものの見方ですねぇ、これ。

ただ、あの時代にあそこまで正面切って言わせるのは驚いた。あそこのシーンはほとんどワンカットだったし。

 

父親の威厳を再認させる映画であれば、まだ「ジングル・オール・ザ・ウェイ」の方が子どもの視点に寄り添っていると思うのですよ。寄り添っているというか、寄り添おうとして空回りしちゃっている、というのを楽しむところなのだと思いますが、あの映画は。

 

あとは本筋とは関係ないところで色々と思ったこと。

1.タイヤ転がし楽しそうだけど危なくない? 娯楽のない田舎のじゃりン子が考えた感じがあって面白い。

2.ブーさんこれ「グーニーズ」だー!

3.5ドルで映画20回←何それうらやましい。

4.全部ハリウッドで作られたセットとはたまげるねぇ。

5.スカウトを演じるメアリー・バダムってジョン・バダム監督の実妹だったんですね・・・最近のBSプレミアムジョン・バダムの監督作を放送してますけど、こんなとこでもジョン・バダムに所縁のある作品を持ってきているのは謎。

会議で「ジョン・バダム特集やろう!」とでも言いだした人がいるんだろうか。

6.スカウトのドレス姿に対して、実はその姿をバカにしているジェムこそがもっとも彼女らしさを理解している場面にほっこり。だって学校指定のドレスがスカウトの性格(お転婆で活動的)と全くマッチしていないし本人もそう思っているのに「着させられている」という状況のミスマッチさを笑っているわけですからね。

ここはほっこりすると同時に学校というコミューンが有している監獄性みたいなものがそれとなく見えてくるシーンでもありますね。あるいは、女性は女性らしい服を着なければならないという抑圧。

7.トムの証言のあとにグレゴリーの髪が乱れてるのが最高。髪もしたたるいい男。

8.お前ロバート・デュバルだったんかい!

 

要約:結構面白い映画でした。

6月

「ピーター・ラビット」

公開当時の評判がよく分かった。吹き替えで観たんですけど千葉くんのピーターも小生意気(ってレベルじゃないけど)さが出ていてかなりはまり役ではなかろうか。繁の方の千葉さんも鶏のやかましいイメージにピッタリで笑ってしまいました。ああいうタイプの笑わせに来る感じはそんなに好きじゃないんだけど台詞と言い回しで普通に笑ってしまった。

ひたすらアクションアクションな上に(人間目線での)不条理系スラップスティックコメディで面白い。他者との折り合い云々とかそういう部分で語る余地もありそうですが、そういうのはどうでもいいくらい楽しい。

ワイルドバンチ歩きもあるしこれは確かに血が出ない(ブラッドベリ―で代替)だけでアクション映画ですわこれ。

マクレガーがドアノブに手をかけて吹っ飛ぶシーン、わざわざワンカットで見せてくるこだわりっぷりは勢いも相まって大爆笑してしまいました。奇声発してるし。ラストの方でも天丼するし、最近で一番笑った映画かもしれない。

これに腹を立てるというのもまあわからなくはないですけど、それはそれでちょっとエゴが大きいせいではないかとも思います。そういうの抜きにして純粋にアクションを楽しむ映画ですしおすし。

 

余談ですが鹿のくだりはイギリスにある「蛇に睨まれた蛙」的な諺らしいですね。

 

 

勝手にしやがれ

 大学の講義で中途半端に観て以来だったので改めて見直す。

なんというか所々で観られるジャンプカットやら手持ちカメラの長回しを白黒の映画で観ているとがすごく不思議に映る。それはまあ、当時としては映画の文法から逸脱したものだったからなのでしょうね。まあ、昔の映画をそんなに観ているわけではないのではっきりとしたことは書けませんが。

しかしポワカールのしょうもない小悪党ぷりは観ていて清々しさすらある。ああいう男いるよね~。ベッドでのピロートークの長さとか、本当普通に観てたら尺としておかしい気もするんですけど、あのポワカールのキモい(あれで篭絡される女性というのがわからない)ナンパ師みたいなワードセンスのおかげで聞いていられるという。

 

「トライアングル」

 ループものとしては何気に良作では、これ。

重要なのは夢と繋がっているところでしょうか。繋がってましたよね、確か・・・?

冒頭を少し睡魔と格闘しながら見てたのではっきり覚えてないんですけど。

夢と現の境目を曖昧に、というか「ファイナルデスティネーション」的なワンクッションとしての夢を置くことで、現実感を薄めてくれている。

記憶が正しければ、船の中には3パターンのジェスが存在していて、その三人でループを構成しているからトライアングルなのかなーと(バミューダ的な意味合いもあるかも)。一人目というか三人目のジェスを船から落としたジェスがパターンを変えようとしたものの、それ自体がループに組み込まれているという罠。

そもそもジェスは船に乗らない(というか離れる)こと、つまり船がループを構成しているためにそれがループに陥らないための条件だと考えていたわけですが、無線のくだりもそうですし、第一あんな超常的な風景が顕現している時点で(あの空を覆っていく雲のシーン良いですよね)船の外からすでにループは始まっていたといえる。

つまり、どう足掻いたところでループの中に取り込まれているという時点で、抜け出すルールなんてものはない。どうもリスポーン地点(事故ったところ)で記憶と肉体がリセット(というか再出現)されてるみたいだし。要するにゲームというより単なるシステムなんですよね。

シーシュポスの神話の話が出てくるのは、あの話は岩を延々と運ばされるというループを示しているのと同時に不条理についての話でもあったわけで(ああいう示唆的なことを明言しちゃうとちょっと不条理性が逆に薄れるから、本当にさらっと描くくらいがちょうどいいとは思いますが)、その不条理とはループにはまってしまったことではなくループに抗うことができない上記のような絶対的な不条理システムにジェスが組み込まれているというところにある。「異邦人」も「シーシュポスの神話」も一応は読んだけど、正直理解はしていないのでわかったようなことは書きませんが。

これって観客はゲームシステムをメタ的に捉えられているから、もしかすると「どうしてジェスはみんなを説得したりしないん?」と思うかもしれませんが、上記のように絶対的なシステムに隷属するしかない以上、そもそも論としてそういう行動は取れないわけです。ADVのゲームで出てくる選択肢以外の行動がとれないのと同じで。

というか、2パターン目のジェスが行動を変えようとして変わったと思ったらそれもループの一環だったと判明するわけで。そこで彼女は未来の彼女の言うことを鵜呑みにするしかない以上は仲間を殺す行動に走るのも仕方ないし、息子の死の記憶もおそらくは曖昧ながらも継承(強くてニューゲーム的に)しているだろうから息子に狂って息子のために仲間を殺すこともいとわない行動に出るのもおかしくはない、という概観的にシステムを俯瞰せずとも一応のパーソナルな理由もあるわけで。

 

船の存在やあの幽霊船然とした船も、夢がブリッジしてくれているおかげで違和感なく受け入れられる。

死体山積みなところとか、良いシーンもたくさんある良作なり。あとヘムズワースがいました、ソーじゃない方の。

 

 

「グレイヴ・エンカウンターズ1と2」

ファウンドフッテージモキュメンタリー。アルバトロスだと思ってなめてかかってたら中々面白かった。

怖いっていうよりはわちゃわちゃする感覚を笑って観ていたというのが正しいんですが、もしかすると吹き替えのせいかな。

女性の霊とファーストコンタクトした際に「テープに撮ったぞ」とかのたまう余裕とか、変な魔法攻撃くらったみたいに吹っ飛ぶのとか、笑っちゃうんですよね。

白石監督みたいな演出だなぁと言ってしまえばそれまでなんですけど。

主人公たちをあの精神病院の霊と立場を逆転させるというか追体験させるというか、そういう機能を果たしている側面はあるかも。

 2も別につまらなくはないけれど、記憶には残らないタイプ。

 

リプリー

マット・デイモンジュード・ロウの濃密な絡みが観れるのかと全裸待機してたら思わぬ方向に話がシフトしていってビビりました。

名前の使い分けによって状況をかいくぐっていくというのはミステリーとかサスペンスとかクライムものにはかなり疎いので新鮮でござんした。

何気にパルトローとシーモアホフマンも出ているという。しかし80~90年代までのシーモア・ホフマンは割と嫌なタイプの人間を演じていたんですねぇ。

あと明確に因果応報的な結末にならないのも新鮮でした。いや、ようやく出会えた人を自分で手をかけなければならないって時点でバッドエンドではあるんですが。

 

「アイスブレイカーズ 超巨大氷山崩落」

B級精神の横溢するタイトルからの実話ベースの話という触れ込みで観たんですけど、別に面白くはない。

ていうかタイトル詐欺も甚だしいのですが、冒頭からハプニングを起こしてくれるもんだから結構期待してたらディザスター映画ではなかったというオチ。

すごい間延びするっていうか、不必要と思われる展開ががが。

コミュニケーションは大切にね。

犬は可愛い。

 

「はじまりのうた」

ヘイリー・スタインフェルドって真っ当な美人というよりもややブサ可愛方面のキュートさなのではないかと思ったり。割と太ましい。だからカーリーにぴったりではあるんですけど。

なんか既視感があるというかどこかでこの映画と似た雰囲気を感じたなーと思ったらジョン・カーニー監督ですか。

全体的にオサレなCMみたいなカットが多くて「うーん」と思ったりもしつつ、しかしやはり音楽のもたらす力にほんわかぱっぱするのでありんす。

プレイリストを見せ合うところとか、音楽を使った胸キュン描写は本当に上手いですね、ジョン・カーニー。

あと音に対する音の描写というか、クラブ?の中にいるのにイヤホンから流れる音に合わせて踊る二人のシーンは「シング・ストリート」において自分を取り囲む劣悪な家庭環境が発するノイズ(音)をかき消すためにヘッドフォンで音楽を聴くのと同じで(ニュアンスは違うけれど)、一貫しているというかなんといういか。

せっかくの映画出演なのにディスられるアダム・レヴィ―ンに吹き出したり。

ジョン・カーニーの映画は路上音楽というところで通底しているものがあって、それは要するに産業としての音楽へのカウンターとしてありつつも、マーク・ラファロのことを考えるとスタンスは割と中庸なのかもしれない。しかしキーラ・ナイトレイのバンドこそが路上での録音など行っていて、それに対して彼女たちと相対(敵対ではなく)しているアダム・レヴィ―ンのアルバム名が「オン・ザ・ロード」というのがもうアダム・レヴィ―ンの不憫なことよ。ラストも含めて。

まあ誰に向けている歌か、というのを一瞬で判断するあたりの凄まじい恥ずかしさ(ナタリー・ポートマンディオールのCM見てるような)があったりするんですけど。

でもいい映画ですこれ。エンドロールまできっちり楽しませてくれるし。

しかしラファロにけんゆーさんって組み合わせ珍しいような。

 

「ボン・ボヤージュ 家族旅行は大暴走」

楽しい映画、という意味では「ピーター・ラビット」と同じくらい笑いました。

登場人物が軒並み問題を抱えている人ばかりで、行動という行動が悪手になってどんどん事態が悪化していくコメディ映画なんですけど、あの車の撮影って結構危ないはず。下手なアクション映画よりもカーアクションがあるという、なんかこうバスター・キートンとかあの辺に先祖返りしている感すらある。

マイケル・ベイのテンションで「パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト」風味というか。

いや本当に。ボウガンの矢が特に悪いことをしているわけではない人(やや語弊はありますが)の足に刺さったり、車内でゲロを吐く人がいたり、その辺を惜しげもなく見せてくるあたりは邦画では見られませんからね。そもそもあのカーチェイス撮るのも不可能でござんしょ。

フランス製の映画というとどうしてもアート寄りを想像しがちですが、こういうコメディ映画もコンスタントに撮れる裾野の広さがあるというのはうらやましい限りでございますな。

 

「ぼくたちの家族」

町田くんの世界」を劇場予告で観て「おや、これはどっちに転ぶんだろう」と期待と不安入り混じる感覚で二の足を踏んでいたのですが、「ぼくたちの家族」を観るとイケるような気がしてきました。どうしよう、観ようか観まいか迷う(6月11日現在)

序盤の色彩の暗さ(あれほとんど室内撮影のときって照明使ってないんじゃないですかね?)は「おいおいアマゾンズか」と思うくらい彩度が抑えられていたり、些細ながらカメラを揺らしていたり、やや遠目からのアングルだったり、その辺はむしろ露骨というかオーソドックスな観心地すら感じるのですが、細部に拘っているのは好印象。

中華料理屋での親父の振る舞いとそれを宥める妻夫木君の居心地の悪さは笑えるくらい身に覚えがありますし、母親の病状を察している二人に対して能天気で無思慮な振る舞いで料理やに入ってくる池松くんとか、あの辺の観てて居た堪れない描写の実在感は良い。

キャラクターが一面的でないのが世に蔓延るこの手の映画と違うところで、それがこの映画の魅力であるといっていいでせう。ある人物に対するある人物の好悪のスペクトラムな思いを、物語の展開の中で描いていっている。
たとえば池松くんが当初は黒川芽以に「妊娠3ヶ月なんだから来れるでしょ」というややキツい(正論と言えば正論なんですが)評価を下していて、彼女と妻夫木くんのやりとりの中で「ああ、そういうこと言われても仕方ない女かも」と思わせつつ(なんたって一人称が自分の名前で、「こんな体じゃいけないと思う→でももしものことがあればみゆきちゃんと行くから」という弁明。のちの展開を見るに偽りではなかったわけですが)、しかし「自分の家族」を守るということで考えれば全く責められることではないというバランス感覚。
実際、彼女はそういう義母に対して冷酷なわけではないという描写もあります。お金のところで急に敬語になったりするのとか、確実に性格ブスな一面はあるでしょうけどね!(誉め言葉)
しいて言えば、そこまで意固地に妻夫木君側の家族を批判して「私は自分の子にお金のことで苦労させたくない」と台詞として言明させるのであれば、ほんとに少しでいいのでお金で苦労した経験みたいなものを描いた方が説得力はあったのでは、と思わなくもない。というのも、彼女側の家族は1シーンしかなく、そこでは特に問題があるようには描かれていないからなんですよね。それを入れたら入れたで臭くなりそうではあるので難しいところではあるんですけど。

で、紆余曲折を経て彼女が病室に来て5人ではなく6人が一堂に会してからの「ぼくたちの家族」というタイトルが出てくるあたりの「グラビティ」的な演出で終わる締まりの良さもいい感じ。


このタイプの映画にありがちですが、物語的に大きな起伏があるわけではない(病気発覚、借金発覚と台詞上ではあるもののそれによって生活が一変するとかそういうわけではない)ので、そこをどう見せるかというというのが監督の腕の見せ所だと思うのですが、この映画で言えば間違いなく役者の力に大部分を依拠しているといっていいでしょう。
や、もちろん人物を描くにあたって池松くんはスマホなのに妻夫木くんはガラケー(このあたりのひきこもってたが故の時間の停滞感というか)だったり、その二人の通話シーンから親父の電話シーンに繋ぐ家族の描き方とか、その辺はしっかりしているんですけど、それもこれもやはり役者の力だと思うんですよね。
それくらい役者がすばらしい。

長塚京三の頼りない父親の顔面力や原田美枝子のすっとぼけた演技(叫ばせるのはやりすぎではと思いつつ、認知症のうちの祖母は嫌なことがあると奇声を発したりするのである意味でリアルに見えるのですが)は言わずもがな、何といっても妻夫木くんと池松くん。

特に妻夫木くん。母親の病気が発覚した直後あたりの、あの髭の絶妙に剃り残しがある疲労感ある顔だったり、「全力で笑ったところがイメージできないよぉ」と思える元ひきこもりという設定に迫真さを持たせる表情だったり。あの卒アルの陽キャとは思えない陰々滅滅とした人物になっていてちょっと驚きました。一瞬、山中崇の顔に見えるときもあったり、ウォーターボーイズからこうなるのかと思うと感慨深い。

また池松くんって決して演技の幅が広いわけではないと思うんですけど、毎度のことながらキャラクターの実在感を持たせる喋り方とか間の取り方とか上手いです。朝の占いに感化されて黄色の服着たり番号札観ていい感じの表情したり、新しい病院での判断を聞いた直後に手すりをとんとんやって嬉しそうに廊下を歩ていたいり、ああいう描写も割と好ましい。

あんなちょい役で市川実日子を持ってくる采配。あの市川実日子、個人的には市川実日子史上(そんなにこの人のこと知らないけど)で一番好きかも。「シン・ゴジラ」のよりも。
あとユースケ・サンタマリアの上司もいい人でね~。外回り扱いにしといてやるって気遣いを見せつつ、妻夫木君に気負わせないように「その代わりキャバクラに付き合えよ」という行き届いた気遣いをしてくれたりね!


細かいところだとインフォームドコンセントどうなってんのよ、と思ったりしたんですけど、再序盤の山々に囲まれた風景を見る感じ(あの似たような屋根が立ち並ぶ住宅街のサバービア的な地獄を想起してしまうのは私だけでしょうか)、割と田舎っぽい場所でありそうですし、ああいう病院の医者というのもいるのかなぁ。山梨県上野原市と神奈川の相模原、あとは原作者の地元で撮影したということですから、なんとなく納得。
とはいえ、医者に対する描き方も一面的ではない描き方をしたかったのかなぁと後半の展開を観るに思う。
まあ、だからというか、病気も含めて「~のための」描き方みたいに見える部分がなくもない(「500ページの夢の束」的な障害としての障害というか)んですけれど、良い映画です、これ。

本編とは直接関係ないですけど、問題は山積みなので「これからが本当の地獄だ…」と考えられなくもないので、ハッピーエンドとは言い切れないかもです。

 

「ワンダー 君は太陽

登場人物、全員善人。

いや、善人なんてものも悪人なんてものも実際はいないんじゃないかとも思いますけど。

しかし危ない、劇場で観てたら間違いなく泣いてた。まあ泣ける映画が良い映画とかってわけではないんですが、まあ泣いてたはず。ちょっと出木杉な気もしなくはないけれど、あれくらいやってくれなきゃね。

正直オギーくんの顔はむしろこう、猫っぽくて中途半端に可愛い気もするのですがどうでしょう。わたしだけでしょうか。

モンタージュでいじめられてたり、写真撮影の時にスッとよけられたり、何気ない描写が辛い。SW好きにしか通じない、暗号化された厭味とかもね。とはいえ、あの作風で描ける「程度」というのは多分あったのだろうなという意識を感じなくもないのだけれど。

姉ちゃんがせっかくマミーと良い感じになったところでオギーのことで呼び出されれおしゃかになってしまったりするあたりも、なんだかあまり他人事と思えない。

あとはまあ変身論というかコスプレ論みたいなものを展開してヘルメットのくだりについては色々と言いたいこともなくもないのですが、あまりうまく広げられる気がしない割に文字数多くなりそうなのでカット。

仲がいいとこっちが思い込んでいた相手が、実は本人がいない(と思い込んでいる)ところで悪口言うところね。あれ、私にも身に覚えがあるので他人事ではないのでげすけど、どうやって心理的に折り合いをつければいいのかわからなくて困るんですよね。まあ、この映画には向こうの視点があるのでアレですが。あの描き方だとちょっと言い訳がましく見えるんですけどね、メタ的に。

ゲームを通じての謝罪、というものを肯定的に描いているのも個人的には溜飲が下がるというか。面と向かって、というのがどうしても難しい場面ってあるはずだし、ワンクッション置くことでそれを可能にさせるのであれば、テクノロジー万々歳だと思うし。

 

原作の続編?だとジュリアンやシャーロットに焦点を当てているというのを聞いたのですが、「ワンダー~」の複数のキャラクターの視点ということも含めて、なんというか時代の流れを感じますね。

もちろん、現実としてはそれは極めて重要なことではあるんですけど、描かることで抜け落ちてしまうものもあるので、その辺はバランス感覚なのかな。

 

すごいどうでもいいことなんですけど、キノフィルムズってこういうタイプの映画の配給するの好きですよね。私が当たったキノフィルムズ配給映画の試写会が「凪待ち」「500ページの夢の束」そんでもって「ワンダー 君は太陽」ですからね。いや、サンプル3つしかないんで単なる経験則でしかないんですけど。

 

 

あとオーウェン・ウィルソンの顎ね。あの人の顎ってなんか独特で、あの人が喋って顎を動かしているのを観るとなんかすごく不思議な気持ちになる。独特なチャームがある気がする。

 

「Fire(PoZaR)」

デヴィッド・リンチの短編映画。映画っていうか、映像?

渋谷のGYREで開催されていた「デヴィッド・リンチ精神的辺境の帝国」展にて公開されていたものなんですけど、ほかにも展示があったり吹き抜けのオブジェがすごかったり、展示物は少ないながら見ごたえはありました。あと、小屋の中で映像を観るということを含めての作品であるので、動画だけ観ても同じ印象を受けるかというとちょっと違うと思いますです。

ところで白状しますとリンチ作品は一つも観たことなかったりする。

なので観たまんまの印象を書くしかないのですけれど、あの撮影ってどうやってたんでしょうか。なんか、背景が常に動いていて、それをそのまま撮影しているような感じだったんですけど。というかアニメーションのFPSが4Kみたいだったりしたんですが、あの辺はなんというかリンチというよりもアニメーションを担当したNORIKO MIYAKAWAさんの色が強いのかな。というかIMDB観るとツインピークスやインランドエンパイアのアシスタントエディターやってたりするので、アニメーターってよりは知己の編集者さんって感じかな。

リンチのドローイングを動かしているだけと言えばそれだけなのですけれど、しかしあの絵のおどろおどろしさは中々どうして目を引き付けられる。

あの鹿っぽくもカラスっぽくもある集団の動きや、黒い雨のようなものが降りだすと燃え出す家(?)と木など、なんとなく同展示の写真に収められたものと合わせてみると都市というかインダストリアルなものへの思いみたいなものを感じる。

この作品について、ちょっとしたサイトがあったので(英語だから完全に理解してないけど)一応参考までに→(https://letterboxd.com/film/fire-2015/

 

 

「張り込み」

 これすごい面白いんですけど。

冒頭の牢獄からの脱出シークエンスで一気に持っていかれた(なんか警備がちゃんとトラックの下を確認するのとか、「正気のを薬漬けにするのが医者のすることか」という発言とか、妙にリアリティがあったりする。この冒頭の脱獄シーンがスピーディな上にかなりシリアスムードなもんで(タイポグラフィーがほのかにブレードランナーっぽい)、このまま彼らを主人公に据えてシリアスな感じでいくのかと思ったんですが、全然そんなことはなかった。

すぐに彼らを追う刑事側に視点が移って、彼らが主役であることがわかるわけですが、冒頭のシーンに反して映画全体としてはどっちかというとコミカルなんですよね、この映画。

ジョン・バダム監督ってバディものが得意なんでしょうかね。いや、「ブルー・サンダー」しか彼の監督作は知らないので(有名どころは「ウォー・ゲーム」なのでしょうけど)何とも言えませんけど、あっちも割とそういう要素が強かった気がする。

 

これ、脚本が結構凝っているんですよね。実に自然に物語が有機的に絡み合っていくんですが、それが厭味ない笑いに繋がっていって本筋に絡んでいくという。

あとキャラクター造形が良いんですよね。クリス(リチャード・ドレイファス演)は彼女に振られたばかり(カーテン持ってかれてるのが笑える)で愛飢男状態なのに対して相棒のビル(エミリオ・エスぺデス演)はできた妻がいて、うまい具合に対比になっているし。

それがただ「キャラクター」というものにとどまるのではなく、そういうキャラクター性がちゃんと各々の行動原理だったり物語の進行に繋がっていくわけなんですよね。ビルは慎重でクビを恐れて踏みとどまる場面がある一方で、クリスはイケイケどんどんでどうどう行動に移していくタイプで、映画を牽引していってくれる。

あるいはいい感じに人好きのする厄介な張り込み仲間の同僚(フォレスト・ウィテカー!)チームとのやりとりなんかも、張り込みであるがゆえに単調で同じような場面が続くにもかかわらず退屈しない。ああいうユーモアやジョークを体制側であるはずの刑事の連中がやる、というのがまた良いんですよね、人間的で。トイレットペーパーはともかく冷蔵庫にうんこはやりすぎな気もしますが。

ちょっと「裏窓」感もあったりしますし、張り込みシーンは。

そしてマデリーン・ストーが可愛エロい。 エロさよりも可愛さが先に立つという、独特な味を出しているのがかなりポイント高い。しかしどこかで観たことある顔だなぁと思ったら「12モンキーズ」に出てたんですね。まあちょっとジュリアン・ムーアあたりの顔と似ている、というのもデジャブの要因だと思いますが。

 

あと魚の降ってくる中での殴り合いとか、丸太に溺死させられたりとか、ああいう面白いシーンが結構あったりするのもいいですよね。

なんというか、色々ひっくるめて割と「ダイ・ハード」的な面白みを感じたのですが、自分の感覚がおかしいのだろうか。

 

「張り込みプラス」

うえきの法則並みの続編タイトル。うえきの方が後なんだけど。しかしBSプレミアムはこういう憎いことをやってくれるから侮れない。

冒頭から大爆発で笑っちゃったんですけど、サービス精神が旺盛で非常によろしいことだと思います。

そこからのセルフオマージュもまあよござんす。

ただ、意外と話自体は結構違うんですよね。1作目は言うなればクリスがスタートラインに立って終わるわけですけど、2作目ではそのスタートが失敗してしまったところから始まる。というか、正確にはスタートしていなかった、という話なんですけど。

これって実は1作目で明言されていたクリスの女性関係が結婚に踏み切れない理由としての証左にもなっているんですよね。

で、しょっぱなからマリア破局してしまうわけですけれど、そのよりを戻すために2作目で何が描かれるのかと言えば疑似家族の形成なんですよね。

そうして疑似家族を体験し、その呪縛を経験したうえでマリアの元に戻ってくるという綺麗な着地をする。

細かい笑える部分も相変わらずあるので、綺麗な2作目としては「ターミネーター2」に匹敵するのでは。言いすぎか。

 

悪いことしましョ!(2000)」

前に冒頭部分だけちらりと観たことがあったなぁと観返しながら思い出す。

ハムナプトラ」の直後でブレンダン・フレイザーの全盛のときでしたか。なんかこの人ジム・キャリーと被るんですよね、出てる作品のタイプとか。

最近はあんま観ませんね、しかし。

この映画もなんだかいまいちパッとしない感じで、午後ローでながら見するくらいがむしろ正しい姿勢のような気もする。

全然キスしないところで笑って実はゲイってオチで二度笑いましたけど、それくらいですかね。

いや、別に悪い映画ではないですけどね。収まるところにピッタリ収まるというか、見事に紋切り型から逸脱しないというか。

 

「スノーデン」

さすがオリバー・ストーン

上官が実はデカい画面でのテレビ通話だった、という演出。欺けていたと思っていた相手が思っていた以上に巨大で厄介な相手だったという映像的演出に脱帽。ここでリンゼイのことも知っているということを示したり。

ルービックキューブで上手くデータを外部に持ち出してからのジョセフ・ゴードン・レビットの笑顔と影と強烈な光の演出。

最後の最後にスノーデンがスノーデンになる演出も憎い。 

ただこう、映画そのものが際立ちすぎて逆にテーマ性みたいなものが相対的に希釈されているような気もする。それは映画にとっては素晴らしいことなのだけれど、しかし作り手の本意からは離れてしまっているのでは。

いやね、まったくそんなものはこの映画の価値を損ねるようなものではまったくないんですけど。

 

デスノート(2017)」

一度書いたんですけど、間違って更新かけてしまって「デスノート」の部分だけ消えちゃったよ。もう一度書き直すの面倒なので一言で集約すると「糞ダサい」。

まあ、そのダサさを肴に盛り上がることができるという意味では「デビルマン」「ドラゴンボール エボリューション」と同じ系譜であるとは言える。

 

「テスト10」

B級映画としては中々楽しめる良作。

治験、というのも中々ない設定ではありますがこの手のジャンル映画の導入としてはかなり自然ですし、何気に序盤の会話が後の展開の伏線になっていたり(プラシーボ効果のくだり)、首ちょんぱシーンをしっかり見せてくれたりとサービス精神もある。

再生力のせいで銃弾が体内に残ったまま摘出できず死んでしまう、というのも中々面白いギミックではありますし。無限の住人とかで似たようなのがあった気もしますが。

まあ、特殊部隊のムーブとか全然プロっぽさがなかったりはするんですが、何気にジュリア・ロバーツの兄のエリック・ロバーツが出てたりする。

ラストのオチの雑さ(っていうかテキトーさ)とかも、いい具合にB級映画な佇まいなのもポイントが高い。

 

パディントン2

さすがモンティ・パイソンの国。ってこれもキノフィルムズ配給なんですね。

イギリスの風刺精神は流石。

それにしても、今見るとパディントンって明らかに移民のメタファーの上に、これちょっと発達っぽいところがありますね。其のうえ愛くるしい熊ですよ。属性持ちすぎですよもう。

牢屋のくだりは「ショーシャンク~」的であったり。ここの牢屋の色彩設計とデザインが結構秀逸で、特別暗いわけじゃないんですけど、どことなく閉塞感が漂っていて、そこに囚人たちが整列しながらぞろぞろと並んで歩いていく動きというのうが「(外圧によって)能動的に統御されている被抑圧者の動き」を体現していて、この動きと背景のセットによってすさまじいディストピア感が醸し出されている。

このディストピア感は絶対に意図しているでしょうね。パディントンの独房(?)のデザインなんかまんま「未来世紀ブラジル」の仕事部屋のようですらありますし(まあ、単なる逆輸入でしょうけど)、あるいはプリズンだけではなく台詞で示唆される競争社会の原理に対する批判や「モダンタイムス」パロなどなど。

ともかくゲイリー・ウィリアムソンが良い仕事してくれてます。

そしてカメオ出演するバンブルビーくん。

「ピーター・ラビット」もそうでしたけど、可愛さの皮を被ったブラックな作品でござんした。いやぁ面白い。

 

またトニー・スタークですか

そういえばMCUの吹き替えを劇場で観るのは初めてでした。

劇場で観たのは、ってだけでMCUの吹き替え自体は何回も観ているので既存の吹き替えキャストにはこれといって文句はなし。
ただ今回、ネッドの恋人であり元恋人になるベティの声はちょっとアニメ声すぎたかな、と。水瀬いのりでしたっけ。アニメではよく聞くような気もしますが、そもそもここ数年はあまりアニメ観てないからわからぬ。
新しいAIであるE.D.I.T.Hのボイスも早見沙織だし(彼女の声質って花澤香菜が声低く演技してるときと結構似てるのね)。早見沙織は一ヵ所ブレスが気になる(AIという設定なので)ところがあった以外は問題なく。こうしてみるとアニメメインの吹き替えが多いですね。
もともとアベンジャーズの吹き替えは割とアニメっぽい感じがあるので特に気にはしてなかったんですけど、正直なところ水瀬いのりはちょっと気になる

あと、置換された台詞のところでも違和感があったり。
一ヵ所特に気になったのは「新たなフェーズに進まなきゃなりません」って台詞。原語なら違和感ないんでしょうけど、日本語で「フェーズ」って単語をさも日常で使うような素っ気なさで言われると凄まじい違和感。いや、MCUが新しいフェーズに入ることのメタ的なセリフであることはわかるんで、仕方ないと言えば仕方ないんですけど。

あと地名表示のときに出てくる日本語のフォントがダサい。パワポのデフォルトのフォント使ってんのかいな、と。「シュガー・ラッシュ」のときも(あっちは字幕じゃないからもっとひどいんだけど)思ったけど、下手に元の言葉消すくらいなら残してくれていいと思うんですよね。
いやね、元の英語のフォントもパワポのデフォなのかもしれないけど、日本人が日本語と英語を見るときの違いは考慮しなきゃいかんでしょう。吹き替えなんて、日本人のために作られてるんだし。

言葉を聞くことと見ることに対して軽すぎるかな、と。

あと本当にエンドロールの歌はひどいです。「東京喰種」のOPはそんなに嫌いじゃないんですけど、音響の問題なのかインストに完全に声量負けてんじゃんすか。そもそも曲(歌詞は全く聞き取れなかったので)もスパイダーマンに合ってないし。


逆に吹き替えで良かったところは、完全に好みの問題ですけどジェイク・ギレンホールの吹き替えが高橋広樹だったことでしょうか。まあ、元からほとんどギレンホールのフィックスみたいなものではありましたけど、「スパイダーマン」でも高橋さんだったのは地味にうれしい。洋画吹き替えで彼の(ほぼ)フィックスと言えばポール・ウォーカーくらいでしたけど、残念ながら亡くなってしまっているので、もっと高橋広樹の吹き替えが増えろ増えろと思っていたり。
ミステリオ登場の当初はやや高いのが段々低くなっていったような気がしたんですけど、あれは演技とかそういうこととは別なのかな。

 

で、本編。
「ホームカミング」のレビューでもライミ版とアメイジングとの違いに触れたような気はするんですけど、トムホスパイディの場合は子どもであることが強調されるんですよね。
それと対比的に悪(あるいは善)としての「大人」が顔面力というか演技力のあるおっさん(顔)俳優によって描出される。それはジョン・ワッツが「コップ・カー」から描いてきていることでもあって、それこそがMCUスパイダーマン」がこれまでのスパイダーマンと違うところだった。というか、ジョン・ワッツ以外のスパイダーマンの敵対者はどいつもこいつも哀愁を帯びすぎている。

前作では先達たるヒーローのアイアンマンに憧れヒーローを目指す物語で、その帰着として「アベンジャーズ」というヒーローではなく「親愛なる隣人」という中庸的な立ち位置に収まった。

けれど、「インフィニティ・ウォー」で宇宙規模の危機に陥った世界の要請によって、アベンジャーズとしてヒーローになった(なってしまった)スパイディは、さらに「エンド・ゲーム」で先達のヒーローであるアイアンマンの喪失に直面する。

「ファー・フロム・ホーム」はそこからスタートするわけで、どうしたって「親愛なる隣人」であり続けることに揺らぎが生じる。先達のヒーローが抱えていた重責と、ティーンエージャーとしての自我との葛藤に。
特に今回は、ヒーローになりたがるガキではなくもっと卑近で恋に恋してそうな思春期の少年としての側面が強く出ているため、よりスパイダーマンとピーター・パーカーとのギャップが生じやすくなっているような気がする。

よく考えれば「ホームカミング」はピーター・パーカーの自我が発する欲望の延長線上にヒーロー=スパイディがあったわけで、それと比べると今回はむしろ欲望の方向性は逆であるすらと言えるのでは。だって恋ですからね。ヒーローの指向は別でしょう。これはむしろ、サムライミ版のスパイダーマン的であるといえる。

まあそんなわけで前作と同じようにポカして大人に叱られたり・・・ってな感じで進んでいくわけです。

で、敵対者としての大人に今回はジェイク・ギレンホールが配置されているわけですけど、ギレンホールの魅力を十分に引き出せていない気がするんですよね。マイケル・キートンみたいに見るからに怖い顔面っていうタイプではないので。

今回も「ホームカミング」よろしく彼のアップとか寄ったショットがあるんですけど、なんかちょっとギレンホールの撮り方としては正攻法すぎるというか。
そもそもミステリオというキャラクター自体が割と陳腐というか秘めている野心が型通りすぎてギレンホールのポテンシャルを引き出せていないところはある。いや、あんな野心のためにあそこまでする、というのは確かに狂気ではあるんですけれど、ギレンホールの狂気ってもっと超怪しくて静かなのにネチネチした確かに何かを湛えている底知れなさみたいなものにあると思うので、キャラクターが俳優に負けている気がする。
かといってギレンホールのポテンシャルを引き出そうとすると「スパイダーマン」映画としてのバランスを崩さざるを得なくなるだそうし、そういう意味で彼はかなり異物な俳優の一人であるわけで、今回は采配を少し違えたと思わなくもない。キートンがハマっていただけに、というのもあるのかもしれませんけど、やっぱりこの二人はベクトル違うし。
レンホールが演じるにはせこすぎるし、そのせこさが常軌を逸したものであるならまだしもそこまで逸脱していないのが残念なところ。

あ、ただ最後の虚ろな目をして死んでいる顔はギレンホールの本領が発揮されていたと思います。最後にああいう仕掛けを用意してたっていうところも、したたかさの演出としてはアリだと思いますし。ま、そのしたたかさがどうしてもギレンホールのポテンシャル未満に思えちゃうのですが。

それとは別の問題もある。
ミステリオという存在が提示した、新たな脅威に対してスパイダーマンもといピーター・パーカーはどうするのか、という部分に関しては有耶無耶なまま親愛なる隣人に立ち戻っていること。今回はティーンエージャーのピーター・パーカーが描かれまくるので、ラストのスイングはそれだけでも結構胸に来るものもあるにはあるんですけど、やっぱり本質的に「今回は上手くいったけど、次からはどうするの?」という疑問が残る。その答えを、明確に提示したわけでは今回なく、うまい具合に美味しいとこだけ(スターク継承)つまんですり抜けたというか。

が、こっちから疑義を呈す前にエンドクレジットの後に正体がバレるというオチがあったので織り込み済みなのでしょうね。おかげで「ああ、次回作に引っ張るのね」というユニバース映画の煩悶としたものが残るわけですけど。

でもまあ、それを言ってしまえば「ホームカミング」でもそうだった気はするし、そういうあれこれとか関係なく我武者羅に(決して無分別や無思慮というわけではなく)頑張るというのが「スパイダーマン」なのかもしれない。
頑張ること。それ自体がある種、MCUスパイディというかピーター・パーカの本分なのでせう。

うーん、しかし、いつの間にMJのこと好きになったんだよー「ホームカミング」ではそこまで好意を寄せてる描写なかったじゃーんという気もしなくもなく、そのへんはもやっとした。デンゼイヤは可愛いので、それこそMJがからかいで「見た目だけ?」と言ったことがまるで図星かのように思われる隙が無きにしも非ず。

あとはそう、アイアンマンの継承という意味合いはわかるんですけど、ハッピーに「お前はアイアンマンじゃない」「誰もアイアンマンになれない」って言わせたあとにAC/DC流してトニーと同じことをさせるのはなんか秒速で矛盾しているような。まあツェッペリンとか言っちゃうトニーとのズレも表してくれていたりするのでセーフな気もしますが。
それを「アイアンマン」の監督であるジョン・ファブローの面前でやるというのが、リスペクトなのか喧嘩売ってんのかわからなくて面白い(?)。いや普通にリスペクトっつーかオマージュでしょうけど。


映像は所々でCG感が目立つところはあるものの、スパイダーウェブを使ったアクションがふんだんにあるので観ていて楽しくなる場面は前作より多め。
廃墟?でのVSミステリオ戦はどことなく「ドクター・ストレンジ」なトリップ感もあって楽しいですし。


最後の最後、あの役にJKシモンズを使ってくるというあたりの楽屋落ちな感じは嫌いじゃないけど、なんかこう、トビー・マグワイヤのスパイディが好きな人からすると結構モヤモヤしそうではある。

 

あとスタークさんはもうちょっとこう、手心というか真心を近親者とかアベンジャーズメンバー以外にも向けてあげてください。

ていうか死んでもなおヴィランのモチベーションにされるスタークがかわいそう。もちろんメタ的な意味で。

【ハートフル】この世のすべてはあなたを追い詰めるためにある【ボッコ】

けれど救いはないわけではないのかもしれない。というバランス。

白石監督(和彌の方ね)の新作「凪待ち」の試写会に行ってきました。

ネタバレを気にするようなタイプではありませんが、一応公開前の作品につきネタバレ食らいたくない人は読まんといてくらはい。

 

 

白石監督の映画って割と話題になる作品が多い気がするんですが、私は「日本で一番悪い奴ら」しか観たことないっていう。「孤狼の血」も結局見逃しちゃったし。

でもまあ「日本で~」も面白かったしほかの作品も評価は高いしシネコンウォーカーで松久敦さんも推してたし楽しめるだろう、ってことで心置きなく観賞できましたよ。

しかし今年公開(予定)作品が3本もある上によく考えたら去年も3本撮ってるんですよね。しかもバジェットの差がかなりありそうで、なんというか自由闊達に映画作りしている感じがある。

 

本編の上映前に監督本人からのティーチインがあったので、それについて箇条書きで覚書。意訳あり。

・一か月石巻と女川町でのロケ

・いつもは加害者を描いていたが、今回は被害者を描いた。被害者を描くのは苦しかった。ただ、そうやって描くことで問題を浮き彫りにすることができた気がする。

・自分の中で「家族とは?」といった疑問があった。今までも、アウトローを描くと疑似家族を描いていたようなものだったけど、ちゃんと家族としての家族を描きたかった。自分の家族にもちょっと問題みたいなものがあって、弟が失踪したこととかあってそれを振り返ることができるようになったからとかなんとか。

・今まで転落した人は描いていたが、そこから這い上がるひとを描きたかった。

・それで用意した脚本が香取くんに合うんじゃないかと

・競輪は香取君がガチ勢で、ほかの映画のときにも競輪ネタを監督に押すくらいだったので、今回使ってみた。

香取君加藤さんは多分ギャンブル依存症(監督曰く)

・衣装合わせのときからアイドルオーラ消してきていた。

・いつものような暴力を抑えたかったが、ちょいちょい脚本にない部分とかにも暴力を盛り込んでしまった。でも香取君はちゃんと受けてくれた。

・今回は全員良い人にしようとした

・現地の話を取り入れた(フィリピン女性の再婚相手のところとか)

・過去は直接描かず台詞などで匂わせる程度にして、そういう重みは役者の人間力に担わせた。

・3.11の被災地にしたのは、やっぱり思うところがあったから。

といった具合でした。

あんな暴力的な映画を作ってる割に声とかは割と小さかったり、こじんまりしていてちょっとギャップがありましたね。

 

以下あらすじ

毎日ふらふらと無為に過ごしていた郁男は、恋人の亜弓とその娘・美波と共に彼女の故郷、石巻で再出発しようとする。

少しずつ平穏を取り戻しつつあるかのように見えた暮らしだったが、小さな綻びが積み重なり、やがて取り返しのつかないことが起きてしまう――。

ある夜、亜弓から激しくののしられた郁男は、亜弓を車から下ろしてしまう。そのあと、亜弓は何者かに殺害された。

恋人を殺された挙句、同僚からも疑われる郁男。次々と襲い掛かる絶望的な状況から、郁男は次第に自暴自棄になっていく――。

 

なんとなくここ1,2年の邦画の傑作の中に家族の様相(機能不全あるいは手前だったり)を描く映画が多かったですけど、この映画もそういう映画なんですよね。しかし是枝監督と白石監督でリリー・フランキーの扱い方の差にちょっと笑ってしまうんですが。

ところで、こうして公式のあらすじを読み返してみたら、亜弓(西田尚美 演)さんが死ぬことわかってたんですね。

いや、確かに不穏な臭いはチラつかせていましたし、ある意味で亜弓の「美波が変質者に殺されたりしたらどうするの」的なセリフとそれを真面目に取り合わない郁男(香取慎吾 演)のやり取りが呼び水となっていたのだなぁと今は思う。

 

役者に関しては金髪少年含め脇も手堅くメインキャストもみんなよかったです。

 

まずファーストカットですよね。香取君がチャリンコを漕いでいるところから始まるんですけど、これがもう(まあ偶然でしょうが)「岬の兄妹」ばりに足を映すんですよ。

小汚い服を身にまとった足でね~。そのまま競輪場に賭博しにいくわけなんですけれども、競輪場に入っていくときにカメラがほぼ真横になるくらいに斜めになっていくんですよ。随所で同じように(ショットは違うけど)カメラを斜めにする演出があるんですが、それはほぼすべてが郁男の賭博行為の前兆のように使われているんですね。不穏なBGMと共に。この、何か一線を越えてしまうような演出の仕方は、個人的に「こどもつかい」の異界表現にも似たそれを感じる。

 

でね、この競輪場が川崎なんですよ。川崎ですよ、川崎。川崎から石巻に引っ越すわけですよ。なんですかこれは。

はっきり言って、この川崎のパートは思い切りカットすることもできなくもないんですよ。いや、実はここでのナベさんを描くことでこそ後半の展開とか対比として機能したりするわけなんでカットできない理由はあるんですけど、別に東京にしても作劇上の問題はない。じゃあなぜ川崎なのかというと、もちろんそれは川崎であることで郁男の瘋癲ぷりにかなりの説得力を与えることができるから。

川崎の治安の悪さは有名ですが、川崎に務めている知人から色々と話を聞くとそりゃもうすごいです。生活保護関連のこともそうですしスーツを着た知的障碍の人が横断歩道で倒れていたり精神病院の横にやくざの事務所があったりとかそれはもう治安の悪さや濁った空気感は「デビルマン クライベイビー」やブレードランナーのプレミアムパーティの開催地であることなどを引き合いに出すまでもなく周知のとおりです(あくまで川崎区ですが)。まあ、だからこそ電脳九龍城みたいな娯楽施設ができたりもするわけですが。

で、そこからの石巻ですよ。3.11の被災地ですよ。川崎からの石巻。もうこの時点で救安易な救済がないことはわかりますよね。石巻の海も、赤色だったりもやがかっていたり、津波によって新しい海が云々という台詞があったり、整備されていたり、色々な表情を見せてくれるんですよね。

 

それでまあ、郁男のギャンブル友達であるナベさんと川崎競輪場でギャンブルをしつつ、ハロワに行ったり元の職場の後輩に因縁つけられたり、その帰りに酒飲んだり、本当に社会的に後ろ指をさされがちな人間の一日のサイクルを実践するわけです、この二人。

ここでのナベさんと郁男のやりとりは、実は石巻において立場の逆転という対比がなされる。たとえばナベさんが郁男に対して「どうして俺なんかにやさしくしてくれるの?」と言ったり、郁男が餞別と言わんばかりにロードバイクをナベさんにあげたりするわけです。このセリフ、石巻において今度は郁男がリリー・フランキーに対して同じようなことを言ったり、同じく無償に助けてもらったりする。

そういう風に人の情(善性みたいなもの)を強調するわけです。と、書きつつ、実はリリーとナベさんに関してのハートフルなエモーションというのは完全に郁男を追い込むための布石であったりするんですけど。

そういうわかりやすいハートフルの裏側にある暗いものによってリリーやナベさんが郁男を追い詰めるのに対して、反社会の人が最後の最後に(亜弓の葬式の時点であの人が来ていたので、実は最初から彼らだけは一貫しているんですね)義理を通すという反転があるんですよね。

いや、まあね、結局ノミ屋の彼らは反社だし一度はルール破って郁男をぼこぼこにしているのでまったくもって擁護のしようがなく、家に金を渡しにきたといってもそれは至極当然のことでありまして、そんな劇場版ジャイアンみたいなことをしたからといって赦していいわけではないわけです。皆さん騙されてはいけませんぞ。

ただ、救いであったはずの繋がりが一瞬にして反転し絶望に転化してしまうのと同じように(そして正反対に)、最低最悪の連中がやはり繋がり(みなまで言うのもあれですが、勝美の繋がり方ですよね)によって一縷の望みになったりするわけです。

人との繋がりを、白石監督は本作においてほとんどが郁男を追い詰めるためにしか機能させていないのですが、ただだからといって一面的であるかというとそういうわけではなくて、既述のような人たちもそうですし亜弓の元DV夫で美波の実父である村上竜次(音尾琢真 演)の描き方にしても屑っぽさもありつつ改心したように赤ん坊を眺めていたり。そういう一筋縄でいかない描かれ方をしているわけです。

亜弓にしても美波にしても、あの事件に至る過程やその後の関係性に軋轢が生じそうになったりするし。

印刷所の人間くらいでしょうかね、ほとんど良い面がない屑として描かれているのは(

ゲロの吐かせかたが迫真すぎてちょっと笑うくらいなんですけど)。それを言えばこぶつきの女性のヒモで金をくすねるような男なわけで郁男も郁男で屑と受け取れるわけですが、でも監督は郁男を屑としては描いていないでしょう。ギャンブルにしたってきっかけは郁男にはないし、亜弓の事件にしてもそれによって美波から糾弾される郁男の事情を観客はメタ的に把握しているわけで。

それゆえに、本人に落ち度がほとんどないがゆえにその追い込まれが理不尽なんですけれど。

 

だからこそ、亜弓の娘である美波や父である勝美と3人が並んで画面に収まるあのショット(香取君の泣き方とか恒松さんが服の袖掴むのとかね)にほんわかぱっぱするわけなんですよね。

 

そこからラストのエンドロールに合わせて、婚姻届けを沈ませた、どぶぞこを攫うような濁った海の映像が流れる。そういう安易な救いを提示しない終わり方で、郁男カワイソス。

どうでもいいけど、あの船のカギはどう見ても結婚指輪ですよね。そうですよね。亜弓はもういないけど。

 

 

そうそう。場面転換で気になったことがあった。場面転換の仕方が、強引というか一連のシークエンスの結果を端折ったような感じなんですよね。郁男がやーさんに囲まれた次のカットで何事もなかったかのように別のところにいたり、美波と亜弓が喧嘩しちゃったあとで亜弓が郁男の隣の椅子に座ると次の場面に移ってたりとか。本当なら、もっと描けるような気がするんですよね。

この辺は何かすごい感覚的なものなんですけど、どうだったのかなと。いくつか考えたことはあるんですけど、上手くまとまらないので書くのはよしときます。

 

 

 いやしかしですね、香取くん追い込むことに注力したせいでリリー・フランキーサイコパス()であることが露見したところで一気にホラーになりますがな。

亜弓を殺しておきながら何であんなことができるんだよ、という数々の恐怖がですね。もう本当にホラーの領域になってしまっています。抑えきれてねーじゃん白石監督!いつもの感じ出ちゃってんじゃん!

郁男が「俺なんか死んだ方がいいんだよ」という悲痛なナラティブとナベさんの事件(バット持ってたからもしやとは思ったけど)の直後に爆発しちゃうシーンの自暴自棄な感じとかにも私はちょっとウルっときたんですけどね、しかしナラティブを郁男から引き出し聞き受けたのがリリー・フランキーであるということを考えるとね、もう郁男のナラティブが云々とかそういう問題じゃなくて亜弓を殺しておいて平然とそんなことができるリリーのサイコっぷりが気になってしょうがなくなるわけですよ。

ちょっとこの辺は本当に本編のバランスを危うくさせかねない気がしますけど、大丈夫でしょうか。

 

 

 

白石監督はもうちょっとリリー・フランキーを統御しないといつか映画を食われてしまいますぞ。

 

死こそが勝利である

たまたま時間が合ったというだけの理由でよく考えもせず「パドマーワト 女神の誕生」を観る。

観るまですっかり失念していました。インド映画は上映時間が長いということを。「ロボット」というSFコメディでさえ(?)177分という長尺なわけで、そう考えると「マッキー」のオリジナル版が145分というのが全然短く感じてくるレベルなのでありまして。

例外もあるとはいえ基本的にわたくしの集中力は2時間が限界なので、3時間分の尺を想定したドラマの構成になっているとやはり途中で「長いな・・・」と感じてきてしまうというのは否めない。
とはいえ、全国で公開館数が70に満たない規模な上にその尺の長さも相まってスケジュールも取りづらい中で近所のシネコンでたまたまとはいえ観れたというのは幸運だったのかも。


絶世の美貌を持つパドマーワティを演じるのはディーピカー・パードゥコーン。「トリプルX:再起動」に出ていたらしいのですが、正直あれは映画自体が記憶に残らない(ディーゼルがスケボーみたいなので坂下ってる絵面しか覚えてない)タイプの映画だったので、彼女の存在すらほぼ思いだせないくらいで・・・。
個人的には彼女もさることながらアラーウッディーンの嫁となるめ、めふ、メフルーニサ(?)を演じるアディティ・ラオ・ハイダリさんもかなりの美貌だと思う。スカヨハとアリシア・ヴィキャンデルの柔和なパーツだけを持ってきたような顔立ちで。声もちょっとハスキーなところもスカヨハっぽい。


すでに「長い・・・」とネガティブっぽいワードを置いておいてなんですが、全体的には楽しめました。いや長いんだけど。

ただまあ、どうしてもこういうインドで大河(?)な映画というと「バーフバリ」を想起してしまいまして、あっちがもう外連味溢れるシーン尽くして、ダンスシーンも恐ろしくハイテンションで下手なミュージカル映画よりも楽しませてくれる多幸感でいっぱいになるタイプだったのに対して、「パドマーワト」は話自体のテンポは悪くないのですがこと空間を切り取るということに関しては、せっかくいろんな場面で壮大で荘厳な画を見せてくれているのに、似たようなカメラアングルでの撮り方が多く視覚的マンネリに陥っている部分や、ダンスのシーンをもうちょっと派手にけばけばしくやってくれていいのになーと思ったりするところがあって、それが「バーフバリ」がまったく飽きることなく興味を誘引してくれたのに比べると一歩譲ってしまうところかなぁ、と。

といっても、ダンスシーンでは一つ飛びぬけて好きな場面があるので、正直それだけでもわたくしとしては十二分なのではあります。
ランヴィール・シン演じるアラーウッディーンが臣下に囲まれて「ヒャッハー! あの子に首ったけだぜヒャッハー!」なダンスシーン(これ→https://youtu.be/8lXii6ZGqhk)なんですが、古来の伝記をベースにしているだけあって映画全体が叙事的なルックになっている一方で、ダンスシーンというのは特定のキャラクターの心情の表現としてのリリックであるわけで、叙事からの抒情というギャップとそこで表現される心情の発露がここまで動きで爆発していると、もう悪役であるとか関係なく観ていて「あ~この人すごい楽しそうで良いな~!」という気持ちになってくるわけです。このダンスシーンの結末の落差も相まってここら辺のシークエンスは笑えて楽しいです。

パドマーワティのグーマルに合わせて踊るシーン(https://youtu.be/6cKErCWrb44)も、照明や火の使い方や歌声とか豪奢な衣装・セットとか踊り子のシンクロ具合とか、すごい楽しいものでしたけれど、ただこれは愛の表現ではあるものの、ラタンが上階から見下ろしていることからもわかるように女性から男性へのアピールという階層構造(というか一種の権力構造)を内包しているため、アラーウッディーンのひたすら欲望というか欲動が全面に押し出され感情が純化されたダンスシーンに比べると素直に楽しめないんですよね。アラーウッディーンのダンスの方はひたすら彼を画面の中心に置いていたのに対して、パドマーワティの方は所々でラタンのカット入ってるし。映画の構造上ここは仕方ないところではあるんですけど。
ていうか、この映画が描き出そうとしているものが、男尊女卑の世界からの女性の解放ではあるので。解放というにはあまりにも壮絶なんですけど、ここでの能動性(自らの意思・好意に基づく愛情表現)と受動性(しきたりという束縛)がラストの能動性(侵犯をよしとせず死を選ぶこと)と受動性(侵略によって服従か死か選ばざるをえなくなったこと)との対置とも取れるし。
まあ、だからパドマーワティが本格的に動き出すまでが長いから、少し鈍重に感じてしまう部分もある。けれどその鈍重さというものは、パドマーワティら女性たちに括られた足かせなのでしょう。それはアラーウッディーンによる女性=トロフィーという価値観だけでなく、ラージプートの、ラタンの嫁となることすらも。
どちらの文化も、彼女を束縛するものでしかない。アラーウッディーンは言わずもがな、ラージプートの義を重んじる因習すら、パドマーワティ自身の問題であるにもかかわらず彼女の意思を許さないのだから。
再三に渡る彼女の訴えも聞かず、敵が狡猾であることも知っているのに不意打ち食らって死んじゃって、バカな男どもの尻ぬぐいをさせられるのはいつも女性ですよ。

その悲哀と、しかしそれでもなお決然と自らがくべた火炎の中に身を投じる紅い激流――その中の滴には身重もいれば幼い子もいる――の先頭に立つ傑物としての最期に、わたしは涙を滲ませてしまった。

彼女に残された最後のなけなしの、最悪の、それでも確かな自由を選び取る強さと美しさに。

 

そうそう。悲哀でいえば、個人的にマリクくんの忠犬ぶりの中に時折垣間見せる主従以上の何かをアラーウッディーンに求めているような、けれどどうにもならないあの胸をかきむしりたくなる絶妙なバランスの関係性もかなりきました。
あれって一目ぼれだったのかなあ。だからあんなにあっさりおじを殺せたのかなあと思うと泣ける。

 

が、細かいところで気になるところもちらほら。パドマーワティの登場で弓を引くところがあるんですけど、ディーピカーさんにもうちょっと力ませた方が良かったのではないかなーと。
あとは、これは書いても詮無いことなんですが、叙事詩をそのままなぞっているのかどうか定かではありませんが、ともかくベースがエピックであるが故に「え!?」というような展開があって、本当ならギャグとして機能していそうな部分も至って真面目に描かれる(パドマーワティとラタンの出会いとかまさにそう。演出の問題でもあるのかもしれませんが)ため、論理を飛躍してくるところがあるのでそこらへんは拒否反応が出る人もいそう。
これは「パドマーワト」に限らないんですけど、インド映画ってなんかモーションブラーというかスローモーションを使ってFPSというか被写体の動きに奇妙な動きを与えることが多い気がするのですが、あれって何かCGとの兼ね合いとかなのでしょうか。

それと壮絶な本編な割にちょいちょい笑えるバランスがあって、「お前何回刺させるんだよ・・・」な親殺しもといおじ殺しなシーンだったり、チェータンが殺されるくだりだったり、生首が3回も登場するし(どんな天丼だ)、ベッドシーンで歌うマリクくんとか、熱湯コマーシャルも真っ青な本当に一瞬だけのパドマーワティ開陳とか、意図的な笑いもシュールな笑いも結構あります。

 

全盛期のハリウッド映画の放っていた雰囲気を煌びやかな衣装とセット(上映時間も)で現出させられるのは今やボリウッド映画くらいしかなさそうなので、そういう意味ではやっぱり観れて良かったどす。

MAYちゃん

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

浸りすぎ。「語る」に落ちた映画である。

伝えたいことはわかるしそこに共感する部分もないわけではないのですが、どうも押しつけがましいというか「バンブルビー」にも似た厭味ったらしさが。

3.11の当時の「絆」とか「がんばろう」といったたぐいの無理やり前を向かせようとする煽動じみていて。「さあ、みんなそれぞれ辛い思いをしているのだから共感しあって互いに理解しあいましょう」と。

はっきりって余計なお世話なんですよね。

この映画はオスカーという少年のナラティブ(そのものと、それによる開放・救済)と他者との共感というものがあるわけですが、母子の共感・悲しみの共有がクライマックスに持ってこられていることからも明らかなように、問題はこの映画で描かれるナラティブが共感という着地点を絶対的前提としていることにある。

ナラティブというのはメンタルケアの場面において重要なことではあるのですが、一方でそれを強要するような曝露療法的なものは実のところトラウマ体験をしたものへの負担が大きいということも証明されていたりするわけで。

そもそもナラティブと共感というのは必ずしも一緒くたにできるものではないでしょう。

ナラティブというのは、語ることそのものに意味があり、その先に何を求めるかというのはそれぞれによって異なるでしょう。赦しかもしれないし罰(まあこれも赦しに与するかもですが)かもしれないし、それこそ共感かもしれない。ただ、誰かに語るだけで救われるという人もあるでしょう。自分語りというのは、そういうことですから。

聴き手という他者を希求しながらも、徹底して自己の心理的な葛藤の解決を目的としている、ただでさえ本来的・本質的にエゴイスティックな作用を内在する「ナラティブ」を、オスカーのための「共感・共有」に絶対化したことで、さらにエゴイズムを肥大化させ「共感・共有」という他者との相互理解が必要な目的との間で決定的な断絶を生んでしまっているのではないでしょうか。この映画は。

 

オスカーやリンダに共感を示さない人もいるにはいて、彼らを門前払いするブラック(苗字)さんもいるのですが、そういう人たちは監督から邪険にされているのか掘り下げられることはない。回想でちょろっと触れられる程度だったり、オスカーからパパラッチされる人すらいたりする始末。描かれるだけまだマシなのかもしれませんが。

このことからもわかるように、前述のような「共感・共有」というどうしようもなく他者の存在を受容しなければならない命題に対して、「共感しようZE!マジ9.11辛かったし!みんな大事な人を失って傷ついてっしょ!ね!」と押しつけがましく行動してくる自分本位≒他者への無関心を作り手が気づかなかったことにこの映画の敗北はある。

それこそ、病的なまでのACのコマーシャルが流れていた「3.11」当時の日本の空気そのもの。ここ2,3年でようやくそれが顧慮されるようなメディアが表に出てきているわけですが、要するに「こっちの許可も取らずに何勝手に共感しようとしてきてんだ」という話である。

大体ね、子供という免罪符(アスペルガー云々というのもその援用にしか思えない)を使って他者を振り回してるようにしか見えないんですよ、これ。嫌がってる相手の写真を撮るとかね。

一応、おじいちゃんに謝意を示す(ここらへんは素の子供っぽい感じが出てて好きなんですが)演出があったりはするのだけれど、でもそれはおじいちゃんに対するものというよりはバツが悪いからということじゃないんですか、ええ?

無能を自覚しているがゆえに他者に迷惑をかけまいと引きこもる自分のような人間からすると、無自覚なオスカーの行動がほかの人に比べて余計に腹立たしいというのもあるんですけど。

 

まあ、オスカーくんが幸せならそれでいいんじゃないでしょうか。この映画はすべてオスカーくんのためにあるので。

 

サンドラ・ブロックがオフィスの窓越しにツインタワーを見やるとき、タワーが歪んで見えるあの演出とか好きなシーンもあるんですけどね。

 

それにしても、この映画の日本公開が3.11から一年も経っていない時期というのがなんとも言えない。

 

 

俺たちに明日はない

観たことあると勝手に思っていたのですが、見直すつもりで観たら全く記憶になかったことに愕然とする。なんとも人の記憶というものは曖昧なものであることか。いや、私の記憶か。

ウィキには「銃に撃たれた人間が死ぬ姿をカット処理なしで撮影したこと」をはじめとして先駆け的な表現が多かったということなのですが、ラストの「死のバレエ」は今見てもすさまじいものがある。

ボニーとクライド二人の顔面アップの怒涛の連続カットバックからの一斉掃射による死にざま。確かにこれは、それまで描かれたドラマの終局としてまさに儚くも美しいと形容されるべきラストでしょう。

無慈悲な「THE END」がもたらす二人と観客の断絶も、エンドロールを長々と流さねばならない(それゆえに感傷や余韻に浸ってしまう)今の映画では難しいでしょうし。

拳銃という男根のメタファーに始まるこの映画が、その肥大化した姿としての機関銃の掃射によって終わるというのは因果応報的であるものの、しかしやはり悲しいものである。

インポテンツ(ていうか元の脚本ではバイセクシャルだったのでその名残らしいのですが)が暗喩されるクライドの、その代用物として虚飾の拳銃、さらにはそれが機関銃へと肥大していく居た堪れなさ。

クライドは自分の不能さ(あるいは世界から見た性的倒錯)を補うために見栄を張らなければならなかったのだろう。そうしなければボニーを繋ぎとめられないのだと、「男らしさ」という呪いに緊縛されて。ボニーが煽った(ボニーが拳銃を撫でる艶めかしさたるや)クライドの拳銃は、しかし当初は人に向けて発射されることはない。

さもありなん。所詮は自分の不能さを取り繕うためのものでしかなく、クライドは虎の威を借りるなんとやらでしかない。だから、ボニーと接触したときのような装ったスマートさはすぐに化けの皮が剝がれる。

ウェスタンのような強さ()を彼は持っていない。だからせいぜいこけおどしに空に発砲する程度だった。

わざわざ銀行が破産していたことをその銀行の管理者の口からボニーに言わせる情けなさこそが、おそらくは彼の本質なのでせう。はっきりとコミカルに描かれているし。
本質的にはクライドはロビン・フッドですらない。ただ臆病なだけなのではなかろうか。それが結果的にそう受け取られただけで。
それがモスの合流によってどんどん鍍金が剝がれていく。あそこまでモスに対して憤るのは(帽子でたたくシーンはちょっと笑ってしまう)、捕まることへの恐れもあったでしょうが、私にはむしろ自分の不能・無能さをボニーにさらされてしまうことへの虚栄心の反射のように映った。 

ボニーと出会わなければ、ああはならなかったはず。たしか、モスを最初に引き入れようとしたのもボニーだった気がするのですが、それを考えるとこれは一種のファムファタールでもあるといえるのかも。

 

グラサンのことやヘイズコードなど時代背景なども考えると色々と画期的なことをやっているということなんですが、そういうのを抜きにしても面白い。

 

 

カプリコン1」

名前は知ってたけど優先順位は高くない、ので今まで観ていなかったのですがなにこれおもしろい。

面白いんだけど、国内外の政治にまつわるあんな事件やこんな事件を思い返すとまったくもってフィクションではないというのが恐ろしいところである。

ただあのラストのくどすぎるスローモーションは笑ってしまうのですが、しかしあの後にどうなったのかということを考えると、それまでの政府の隠蔽の強引ぶりから察するに「追悼式典に悪戯目的でブルーベイカーのコスプレをした不届きものが闖入してきた」とでもなんとでも言ってしまえそうなところがなんとも。

 

あとジェリー・ゴールドスミスの音楽ね。

 

「デイジー・ミラー」

堅物男が身軽な女に執着したまま終わるという。

ドストレートにいきたまへ

 

「太陽はひとりぼっち」

 倦怠感。何をしていてもどこか空虚な感覚。それがモニカ・ヴェッティによって演じられる女性の姿で(正直あの美的感覚はそんなにわからないんだけど)、それとは逆にアラン・ドロンの稚拙さのようなものが最終的に交わりつつも、しかしやはり煮え切らない。

正直なところ俗っぽいアラン・ドロンや終始やる気のない演技であるモニカ・ヴェッティなんかよりもはるかに――異様に街並みとか風景といったものが印象的なのですよね。キノコ型の給水塔みたいなものもそうだし、やけに街を歩いているシーンがあるし、何よりラスト数分の映像。核兵器云々も含めて、人間の営みを鬱屈とした感覚でとらえるとこうなるのかなぁ、と。

冒頭のタイポグラフィーといい風景・情景の挿入の仕方といい、エヴァ参照元の一つがこれなんじゃないの、と思ったり。

 

「サイレントボイス 愛を虹にのせて」

志は高貴かもしれませんが、 映画としてはどうか、という問いが(いうまでもありませんが、これ映画なので)。カットのつなぎが不自然なところもあったりするし。

極めてポリティカルなネタではありますが、それを誘引するためのサスペンスがあるわけではなく、基本的にはエモーショナルな場面のみで繋げていく映画ですが、ポリティカルな題材でそれを扱うのはむしろ危険な気がするんですけど。そこにエルマー・バーンスタインの勇壮なスコアがかかるという猪突猛進ぶり。

描かれるべきディテールが描かれないために妄想じみたファンタジーとしてしか見れないのが痛い。
チャックやその周りの人の動向は描かれるものの、具体的にどうやって核兵器の撤廃に至ったのかが描かれない。表面的には米ソのトップが会談するシーンはあるんだけど、そこで政治的な交渉が描かれるわけではないし。結果だけ提示されても納得はできまい。

ほかにも、素人でも考えられる問題は山積み。どうやって既存の核兵器を処理するのかとか。89年の時点でアメリカが保有していた核ミサイル(あくまでミサイルなので弾頭自体はもっと多い)の数は1815でソ連は2794もあったというのに。07年にはそれぞれ982、760と、87年のINF全廃条約の発効などもあってかなり減少してはいましたけれど。まあ、INF全廃条約も弾頭そのものは廃棄対象外で弾頭数は減らなかったし、解除されたのも10%に満たないという体たらくではあったけど。

ただ、60年代から核軍縮の機運自体はあったし、INF全廃条約とSTARTⅠの交渉開始が81年82年だったこともあるから、その辺の動向を受けて極めて楽観的にこの映画を作ったという解釈をすれば、その希望的観測(というかほとんど願望)に寄りかかる気持ちはわかる。
題材としては、悲しいことに30年たった今でも古びていないだけに。

というか今はもっと各地の内戦とか、わかりやすい二項対立じゃない紛争こそがメインになっている分、悪化しているとすらいえるんだけれど。
 

現実的に考えるとジェフリーの役どころはむしろ大統領が担うべきであると思うんですが、登場から最後まで大統領が良い人として描かれているあたり、年代的にもレーガンに対する当てつけみたいなところもあるんだろうか。イラン・コントラ事件とか発覚した時期だろうし。あて推量でしかありませんが。
まあそこはグレゴリー・ペックですから、ある種の独善を含んでいるというか無邪気な「アメリカの正義」の体現として見ることもできなくはない。というよりは、「フォックス・キャッチャー」におけるマーク・ラファロ的というか。悍ましいのは、監督はそういうつもりで描いてはいないのだろうな、というところ。
ソ連の書記長を演じたバシェクの体形とかもちょっとゴルバチョフっぽいし、やっぱり意識してたんだろうか。


チャックももうちょっと丁寧に扱ってあげればいいのにと思わないでもない。いや、個人的にはチャックのあの恐怖はわかるすぎるくらいにわかるのだけれど、それは「はだしのゲン」を読んだりメディアに煽られた恐怖ゆえなので、直に核を見ただけでああなるのかどうか(爆発の瞬間を見せたとかではなく)。父親がパイロットだし、わからなくもないのかな。
あるいは、その程度のことですら恐怖を感じるくらいに感受性が高かったからこそのあの行動、ともとれはしますが。

ていうか、そもそまサイロを見学できるもんなんですかね? さすが自由の国アメリカ、グラスノスチごときで粋がるソ連などとは大違いです。

チャックに対してみんな結構辛辣というか、無責任すぎるでしょ。アメージンググレースにしたって、あれって見方によっちゃチャックに全部責任を押し付けてるだけとも言えますよ。ていうか、チャックの名前出してバスケを引退したら絶対ファンからカミソリレターもらうでしょ、チャック。

どうでもいいけどアメージングを暗殺するのにわざわざセスナ(だっけ?)爆発させるのは笑った。あそこの勢いは、「なんでそんな金かけて殺すの」的な倒錯っぷりと勢いがサウスパークじみていて。別に暗殺するにしたって、自動車事故なりなんなりできるでしょうに。空で爆殺は確かに確実ですけども。

 

でもまあ、最初から最後までやさしい世界の話ではあるので、そういうディティールとか無視できる人は( ;∀;)イイハナシダナーと楽しめるのではないでしょうか。

私個人としてはイイハナシカナー?ですが。

 

 「ブラジルから来た少年

 なんか思ったより怖かった。まさかあんなホラーな落ちになるとは。

前日にシリーズ人体を観ていたこともあって、まあなんというか、今見返すと科学考証として首をひねる部分もあるんでしょうけど。

でもこういうSFはいいですね。たぶんあのクローンには残虐性の遺伝子のスイッチをオンにするDNAのパーツがあったんでしょうなと。

何気にゴアだし。しかし本当にヒトラーって信長並みに弄り倒されてますね、本当。

 

武士の家計簿

 森田芳光監督の作品は「家族ゲーム」と「黒い家」しか観たことない程度なんですけど、「家族ゲーム」はすごい面白かったのは覚えている。

「黒い家」にしても、ほかの映画とはちょっと毛色の異なるものではあったから印象には残っていたんですけど、それにしても色々なジャンルを撮るんですなぁ。

まあでもユーモアというか笑いを入れてくるのは通底しているんですよね。会話のテンポとか掛け合いの妙によって。

仲間由紀恵をこんなに真面目に観たのははじめてかもしれない。いや、キャリアスタートがいろんな意味でネタに溢れているという極めて個人的な色眼鏡なせいなのですが。

 

「人生はシネマティック」

 そんなにコメディ要素ないような、と思ったらセットが崩れてくるシーンで吹いてしまった。いやトラジディであることはわかるんですけど、あのテンポは笑いを生じさせるものとしか。なんだっけ、猫が世界から消えたなら、みたいなタイトルの映画を観たときの主人公の恩師?みたいな人が振り返ったら死んでたときの笑いと同じ感覚の。

そこの笑い以外はほんとこてこてのラブロマンスなんですけど、結構観れる。それは多分、主人公の女性が脚本化だから。脚本家チームの執筆風景やそこに横やりや注文がつけられる様はさながら「ナイトクルージング」の高揚感や「カメラを止めるな!」的な現場あるあるな楽しさがプラスされているからかな。

 

 

「恐怖の影」

DVD未発売にてVHS画質で観たんですが、エロい。すさまじくエロい。画質が画質だけに、ソフトフォーカスだと余計に茫漠とした印象になるんですが、それがまたちょっと幻想的な雰囲気を醸し出していてエロスを漂わせる。異国、というよりは淫夢的な異界情緒に近い気がする。ちょっとホラーテイストなのも怪奇っぽさを狙っているのかもしれない。

撮影がいいですよね、これ。人形の切り取り方とか覗き方(画質と画面の小ささでよくわからなかったりもしたんだけど)とか。あと何気に暴漢の正体がわからないように(いや、展開的にもろバレなんだけど)してる工夫とか。

ちょっと調べたら監督がウィリアム・A・フレイカーで、ポランスキースピルバーグなどとも組んで撮影監督として長年キャリアを積んでた人なんだそうな。でも本作では撮影監督はラズロ・コヴァックスっちゅー「イージーライダー」なんかを撮ってた人が担当しているんですね。

 

それにしてもエロい。多分、多重人格モノ(っていうかイマジナリーフレンドとのスペクトルなんでしょうが)でしかも近親相姦(まあ、本番はありませんが)モノっていうのは中々ないんじゃなかろうか。あの手つきは肉親に触れるそれじゃあないですよー。しかもオチがアレっていう。

これ、オチが「え、そこ!?」っていう、なんかこうシャマラン映画を観ていたときの「あ、それマジだったの?!」といった感慨に近い。そっかー。貧乳だったのはそのためかーと思ったり。あとはまあ、隣接する部屋でパピーと恋人が盛ってるときに自慰行為を始めるのですが、その手つきというか姿勢みたいなものもよくよく観察すると「それっぽい」あたり、実は伏線になっていたのではないかと深読みしてみたり。

 

オチの着地点を考えるに、これはミステリー(っていうか、サスペンス?)とかそいうことじゃなくて、もうほとんど作り手の性的倒錯をフルスロットルにしただけなんじゃないかと思うんですけど。

ソンドラ・ロックの目つき、佇まい、腕の細さ、病的とさえ思われる白さや童話じみた金髪、そのすべてがこの異界情緒あふれるエロティシズムに直結していて、もう辛抱たまらんといった感じ。そらパピーでも篭絡されてしまいますよ。いや、されてないんだけど。

ママンとグランマがあの事実を知らないわけがないので、そう考えるとあれは抑圧によるものだったりするのだろうけれど、そっちをことさらフィーチャーしないであくまでマーガレットの性に視線を注ぎ続けるあたりが変態じみていて大変よろしい。

 

そのソンドラ・ロックさんなんですが、去年の11月に亡くなっていたんですね。

彼女のことはほとんどよく知らないので哀悼なんて浮薄なことはできませんが、マーガレットを演じてくれたことに敬意を表したいと思います。

R.I.P

 

 「パニッシャー(2004)」

今のマーベルじゃいろんな意味で無理そうな映画だった。

なんというか、一つ一つのシークエンスが凄まじく間延びしているかと思いきや復讐シーンは結構テンポ良かったりするんですけど、なんか笑えるシーンが多い。

これ、ドラマシリーズとかでやってくれたらすごいいいんだけどね。いや、ネットフリックスとかじゃなくて、この毛色のままで。

あのマークは不覚にもカッコイイと思ってしまったよ。

 

「ワン・フロム・ザ・ハート」

これ結構好きですかも。一応、ミュージカル映画なんでしょうけど、中盤の街中でのミュージカルを除くとそこまで大掛かりなミュージカルシーンがないのがもったいない。

全編スタジオ撮影ってことなんで書割も多用しているんですけど、それがまたいい。あの箱庭感はブンドドの感覚に似ている。

編集やカメラワークがかなり凝っていて観ていて楽しいんだけど、どうやってるんだろうと気になる。

何気にハリー・ディーン・スタントンも出ているし、ミュージカル映画の中では結構好きな方です。

 

終電車

トリュフォーに関しては「大人は判ってくれない」を講義でちょっと観たくらいなので、こういう映画を作っていたとも知らず。

あの終わり方は好き。

 

「愛と青春の旅立ち」

 リチャード・ギアが若い。

(ディス)コミュニケーションの話ではあるわけですが、「海猿」がプロットをほとんどそのまま使っているような感じで。

軍曹とメイヨ―の殴り合いはもうまさに河川敷で殴り合る親友(と書いてライバルと読む)の青春である。

でもこれ、ポーラもリネットもどっちも女性の描き方としては流石にきついものがある。むしろ、リネットこそが抑圧されている女性の叫びとしてのリアリティを持っている。

 

「インサイダー」

さすがマイケル・マン。「コラテラル」「ヒート」を観ていたのでこういう映画を撮る人だとは思わず。

ワイガンドが台所で手を洗うところを家の外から(そして外には「部外者」が佇んでいる)のあのショット、まるで家(家庭)に閉じ込められているような強烈さ。

あるいはローウェルの休暇先の色がダークすぎてまったく休暇のそれではないという。笑えるくらい。

ほかにもワイガンドが壁の画を見つめているとそれが家の庭の風景に変容していくあのおどろおどろしさ。屋内から屋外の幻惑的な錯覚を見ようとするワイガンドの孤独感を、罵倒によって外界と接続させるローウェルの手腕。

ラストのローウェルのカットと流れ出す音楽のカッコよさといい、160分近い映画でしかも派手なアクションがあるわけでもないのにこんなに引き付けられるとは。

撮影といい証明といい、エッジがすごい(ボキャ貧)。

 

 

「ビッグリボウスキ」

 そういえば観てなかった映画の一つ。ていうかコーエン兄弟だったのね。

フセインとかベトナム戦争の後遺症とか、あの辺は(今も続いているけれど)当時のトピックとしてやっぱりあったのだろうか。

今こそデュードのような生き方を目指すべきなのではないかと思うんだけれど、こういう馬鹿っぽいクライムコメディでも脚本がしっかりしているところはコーエン兄弟らしいというか。

柳に風、というわけでは決してなく、むしろ物事には動じまくるのですが、そこに大きなお世話を焼いてくるウォルターとの絡みやドニ―の

_人人人人人人_
> 突然の死 <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y ̄

とか。

ジョン・タトゥーロの使いどころも含めて笑いどころが多い。

フィリップ・シーモア・ホフマンを観ると泣きそうになってしまう自分がいる。

 

「セルフレス/覚醒した記憶」

これターセム・シン監督だったんですか。まあ「ザ・セル」すっ飛ばして「白雪姫と鏡の女王」しか観たことないんですけど、内容は覚えてない反面シーン単位での洒脱な衣装やセットは思いだせる、ある意味で映像メディアにとっては幸福なことなんでしょうけど。

ネタ自体は古今東西のSFですでに使われきっているような内容なんですけど、あまりウェットになりすぎないバランスなのは好印象。

ライアン・レイノルズはもはや「デッド・プール」以前のシリアスな役どころを観ると笑ってしまうのですが(「ライフ」は半分ギャグみたいなものなので・・・)、でも演技が悪いってわけじゃないんですよね。知った風なこと書けませんけど。

どことなく「ボーン」シリーズな趣もある。

 

 「ハミングバード

わしはこんなステイサムみとうはなかった!

まどろっこしいったらありゃしないよもう!

 

「モンスタートーナメント 世界最強怪物決定戦」

プロレスラー使うなら普通にプロレスさせた方がよかったのでは・・・?

あーでも目からビームとかは(今後の可能性としてプロレス+ARとかで再現できそうですが)映画じゃないと観れないし、何気にメイクは凝っているし、楽しもうと思えば普通に楽しめる。

ウィッチビッチとかいう小学生レベルのネーミングセンスには苦笑しましたが。

 

「バカルー・バンザイの8次元ギャラクシー」

もっとコミカルな方面に突き進んでいるのかと思ったら真面目にやっていてびっくりした。

だって万歳ですよ、万歳。年代的にも、もっとこう「ゴースト・バスターズ」的な感じかとおもったんですが、むしろ「インデペンデンス・デイ」な感じ。つまり本人たちは至って真面目なんだけれど、観客としてはなんか笑えてくるというバランス。

いや、セットとか小道具は結構凝っているので観ていて楽しいんですけど。

ラストのみんな集合のエンディングがBGMも相まって一番楽しい。

 

帰ってきたヒトラー

これって結構な当事者性が求められるようなタイプの映画ではありますが、どの国も同じ問題を抱えているんだなぁと。

でも、ある意味では強大なアイコンとしての悪がドイツにはあるぶん、顧みやすいということはあるんでしょうな。

日本の場合はもっと曖昧で認識しづらい空気みたいなものにあるから(ヒトラーがそれによって呑み込まれていた、という部分も確実にあるでしょうが)、余計に難しいところなのかもしれない。

 

ゾンビランド

2が今年やるということことで観てみたんですけど、この手の映画にしてはキャストが豪華すぎる。ビル・マーレイも含めてですけど、「アクアマン」でメラの役をやってたアンバー・ハードが割とちょい役で出ていたり「フリークス学園」のマイク・ホワイトもちょい役で出ていたりするし。

ビル・マーレイの扱いやジェネレーションギャップの小ネタ、一々ルールを文字で見せてくれるのも気が利いていて面白い。劇中のアクションに合わせて文字も色々な動きを見せてくれるのもいいですね。何気に物理的に存在しているかのように影をつけていたり無駄に凝っている、ああいう細かい編集で笑わせてくる。カイル・クーパーが手掛けた「パニック・ルーム」みたいで楽しい。

ただR15な割にそこまでグロい描写がなかったのは謎。

予告編で美味しいところを見せすぎているような気もしますが、それにしても最後以外はほとんどゾンビは出てこないのは結構大胆な作り。
ほとんどメイン4人がダラダラ過ごしているだけのシーンでありますからね。

人見知りへっぽこ童貞が障害を乗り越えてガールフレンド(?)をゲットするという実に分かりやすい話をロードムービー的に描き、人見知り出不精童貞くんを強制的に外に引きずり出し尚且つアクション的に活躍させる舞台設定としてゾンビがいるようなものとしか思えないので、ほとんどスパイス的な扱いである気がする。

ピエロのくだりの安易さとかハレルソンの息子のくだりとか、凄まじいまでのお手軽さで笑えてくるのですが、そういうスナック感覚で観るのには向いている気がする。

遊園地のアトラクションを使ってゾンビ退治するシーン(ていうかこれがやりたかっただけだろ!)はもうちょっとカメラワークとか色々ブラッシュアップできそうな気もしますけど、あのアイデア自体は新鮮ではあった。

近所のシネコンでかかるなら2も観に行くかも。

 

ドニー・ダーコ

これも観たかった映画だったんですけど、長い間放置していてようやく観賞。

なるほど、カルト映画の空気感は確かに湛えている。25歳でこれを撮るってのも凄まじいものがあるんですけど、なんとなく若さゆえのダウナーなアッパー感が。

評判の悪い2は未見なんですが、IMDBを観ると監督は全くのノータッチかと思いきやCharactersとしてクレジットされているっぽいですな。

リチャード・ケリー監督はめっちゃ寡作なんで、監督作はほかに4つしかないんですね。日本版ウィキが情報少ないだけってわけではなく、2009年の「運命のボタン」以降は監督も脚本もしてないと。午後ローで「運命のボタン」は観ましたけど、あれもあれで変な映画ではありましたね。オチも含めて星新一ショートショート的な話だったような。そういやサウスパークのシーズン13で似たような、というかほとんど同じ話があったのを思い出す。時期的に元ネタ同じだったりするんだろうか。

あれもあれで哲学的な問題提起ではあった。

本人としてほかのドキュメンタリー?とかには出ているっぽく「Donnie Darko: Deus Ex Machina - The Philosophy of Donnie Darko 」っつー2016年のものには出てるらしい。ただ、IMDBにもこれといったレビューがないあたり、本国でも割と「あの人は今」的な扱いなのかもしれない。

 

本編に関して言えば、最後の方までは「SFっていうより精神障害の人が視ている世界じゃんすか」と思っていたのですよね。関係妄想や幻視幻聴として捉えれば単なるスキゾフレニックなだけと言えなくもないし。が、最後まで観るとこれはむしろ「イザナミだ」な内容だったのかなーと。

一方でこれはナウでヤングなユースフルボーイにありがちな、世界への不信というものとしても観ることができる。

ドニ―の行動はすべて尾崎豊の歌みたいなもので、大人による欺瞞を暴こうとしているようにも見えるし。ドリュー・バリモアくらいなものでしょうかね、この映画で大人側にいない大人は。文学、っていうところも多分そうだし。

同時にいわゆるセカイ系でもある。女の子を救うために自分を犠牲にするタイムループもの。悲しいけど。

改変前の名残みたいなものがそれぞれのキャラクターにもあるような描写があったりするし、飛行機がどこにいったのかわからないみたいな発言もあったし、繋がっているっぽいんですよね、前と後の世界が。

ラストカットのあれは「すれ違」っていることを示しているんでしょうかね。

 

直前に観た「ミスターノーバディ」と似ている部分がある。

竜巻みたいなのの超常感とかすごい良い。

 

怪獣王

わーい祭りだ祭りだー。

ゴジラ キング・オブ・ザ・モンスターズ」観てきもうした。


ぶっちゃけ脚本はアレだし人間ドラマは取ってつけたような感じです(とはいえ直接的に怪獣が絡んでくると結構いいんですけど)。

あとモンスターバースのサリー・ホーキンスは結構好きだったので割とおざなりに死んでしまったのは残念です。
ギドラを実質的に復活させたエマの死にざまを明確に描かない(というかまあ、体内放射?の間近にいたのでそれを描こうとしたらターミネーター2のサラの悪夢的な死にざまになってしまうので難しかったのでしょうけれど)し、オキシジェン・デストロイヤーの「とりあえず名前だけ付けてみました」「あったよ!オキシジェン・デストロイヤーが!」な軽い扱いというかなんというか。ここもゴジラにしっかりとオキシジェン・デストロイヤーを受けている絵が欲しかったところではあります。

あとはまあ、これはギャレゴジのときからそうでしたけど芹沢博士の何もしなさっぷりは健在で、ひたすら神妙な顔でそれっぽくかっこよさげなセリフを吐き出す自動機械です。ギャレゴジのときから基本的にヒューマンドラマに絡んでこない立場にいたので仕方ないとはいえ、もう少しどうにかならなかったのかと。
とはいえ、今回人間側で一番おいしい役どころであり、何気にゴジラ映画の中で(私の記憶が正しければ、オリジナルの芹沢博士でさえ行っていない)前人未到の偉業を成し遂げていたりする。

そんなわけで人間側のドラマは切って張ったようなものだし「怪獣は地球のセーフティ云々」というのも少し半笑いで観てしまうのもいなめない(もっとも、それは怪獣というものを矮小な人間の尺度では規定できない、というメタというか怪獣大好き―な自分としてはある意味首を縦に振るものではある)

 

が、しかし!

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    /   ,i   ,二ニ⊃( ●). (●)\
   /    ノ    il゙フ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
      ,イ「ト、  ,!,!|     |r┬-|     |
     / iトヾヽ_/ィ"\      `ー'´     /

 

 

だって怪獣が最高だから。

核の扱いが云々とかギャレゴジのときも言われてましたけど、じゃあミレニアムシリーズとか平成シリーズとかどうだったんだ、って話になるわけで。

大体、初代ゴジラのように核の恐怖が云々という闇を背負っているゴジラなんてそうそうないわけで、それにこだわりすぎるのもどうかと思うわけです。


ゴジラの登場は今回3回ほどあるんですけど、どれもこれも外連味のあるカットで陶然とします。ギャレゴジも相当なものでしたが、今回はその量が尋常じゃない。

ギャレゴジの、波が引いていってからのゴジラがバーン!と同じような感じで南極でギドラが登場するシーンでは冷気が引いていくセルフオマージュやマディソンの背後で風向きが変わったことを示唆してからのゴジラばーん!など、もう最高でございます。

モスラは活躍シーンこそあまりないものの誕生シーンの神々しさたるや過去最高でしょう。これ、IMAXで観ないとその羽の巨大感などを体験するには足りないですマジで。

ラドンラドンであの炎をまとっているような見た目や火山から目覚めるシーンもいい(適当)。ただ、今回はモスラに「あの役割」を奪われてかしずくことになってしまうので、その辺はラドンファンは大目にみるしかないですが(笑)。
ほかの怪獣に関しては「スプリット」におけるほかの人格が云々というアレに近いので、今回はメイン4体に注力しています。これはまあ采配としては妥当なところでしょうし、ラストの落としどころ(あのカットからのタイトルドーンもいい)に繋がるという意味で設定だけの数になっていないという意味では納得できますし。

ギドラに関しても過去最高にチャーミングでございます。一番末っ子(?)と思われる左の首を小突くさまはほとんど3馬鹿大将のソレですし、その末っ子がモスラの糸で行動不能になっているほかの2本の首を助けようとする様子なんかもう萌え死ぬかと思いましたですよ。
しかも首が生え変わるという再生力もあったり、ゴジラに負けてしまうとはいえあれはバフがかかっていますから、そういう意味では負けたとはいえ格を保ったといえましょう。


また脚本があーだとか人間ドラマがこーだとか書きましたが、書いてきた通り怪獣周りの演出は本当に良い。ドハティ監督は「X-men2」の脚本も担当していましたが、この「X-men2」は能力を使った面白い描写が結構際立っていて、その辺の面白さや外連味はすごい上手いんでしょうね。どこまでが彼の采配かわかりませんが。

それにモナークとは異なる対立組織が登場したことで、人間側のやり取りも以前に比べるとだいぶ観れるようになりましたし、兵器どかどか出てきますし、その辺はブライアン・クランストが死んでしまってからの人間パートが退屈だったギャレゴジからカバーしてきている部分かと思いますし。

また怪獣が絡むと~と書いたのは、息子を殺したゴジラが娘を救うという両義性(人間から見ての)による神性の表現(それをやや狂喜がかった表情で見上げるマディソンの顔が最高)だったり、というところで人間側と怪獣が直接絡んだ部分では上手くかみ合っている、とは言えると思います。
惜しみなくゴジラのテーマをぶち込んでくるサービス精神、エンドロールにモスラを流すあたりやチャン・ツィーの祖母の双子の研究者を明らかに小美人に見立てていたりとか、その辺のリスペクトというかパロディもかなり盛り込まれています。

クレジットで怪獣の名前の横に「Himself」と記載する怪獣シンパっぷりや中島春雄さんへのリスペクトもあり、エンドロールもぜひ最後まで観てほしいところ。バース系映画特有の次回作への伏線映像もありますし。BLUE OYSTER CULTのGODZILLAはさすがに馬鹿すぎますが(誉め言葉)。


そんなわけでゴジラプロレス映画としてはおそらく過去最高と思われる映画でございました。

しかしゴジラを善寄りに描いてしまって、次のVSコングをどうするのか気になるところであります。ポストクレジットのくだりを観るとギドラ乱入なのかなーと思いますがそれはそれでどうなのか。

個人的には今回のギドラは宇宙生物だったので(専念竜王ェ・・・)、AVP2的にゴジラに寄生して人類アボーンさせるのをコングが阻止するのかと思いましたが、そうでもなさそうな様子。