dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

oz三連

この間、BSプレミアム小津安二郎のデジタルリマスターが3日連続でやっていて、どれもまともに観たことがなかったので録画して見てて思ったのは、エロいんですよね。

以前、「秋刀魚の味」についてはちょろっと書いたのですが↓

三連単:二発目 - dadalizerの映画雑文

基本的にはどの作品でもそんな感じがする。

「早春」ではすごく表現主義的というか露骨にライティングなんかで寂寥感みたいなものを表現しているシーンがあって、むしろそういうことをするんだなぁ、という印象を受けたり。ちなみに杉山くんの転勤が決まって一人で酒を飲んでるシーンだったかと思います。やっぱり白黒だと影がすごく強く見えるので、背後の壁に掛かっている絵だったかなんかだったかの影がすごく侘しいんですよね。

あと、以前は画面の奥行きについて書いたんですが、これって要するに視覚的なレイヤーが存在しているってことなんですよね。

あと岸恵子がキュート。あの八重歯とか、ワンナイトスタンドでスキスキオーラぶちかましてくるウザさとかね。

 

実はまだ3本のうち2本しか見てないのでまた追記するかもですが、このともすれば退屈にも受け取れそうな日常風景が、しかしどうしてここまで引き付けるのかと考えると、そこには関係性のエロスがあるのではないかと思うのです。結局、岸恵子津島恵子が本人のポテンシャル以上に可愛くキュートに見える(そしてその女優たちと対置させられる男優たちが滑稽で愛おしく見えるのも)関係性が醸成するエロスなのだ。

「早春」において、岸恵子池部良は、不倫と言ってもそこには淡島千景を巻き込んだ昼ドラ的なドロドロ愛憎というものはなく、危うい橋を渡るようなフックはない。つまり、関係性によって規定されうるロールモデル(ステレオタイプと言ってもいいかも)・役割期待を絶妙に外してくるところに関係性萌えのエロスがあるのではないか。

「お茶漬けの味」にしても、佐分利信津島恵子の叔父と姪という関係性からあわや逸脱してしまうのではないかと思わせるシーンがある。もちろん、表面的にはいたって清潔な関係性ではあるのですが、やりとりの妙だったり、という部分からどうにもそう見えてしまうのですな。

秋刀魚の味」でも思ったのだけれど、岩下志麻笠智衆という実の親子という関係をまっとうしつつも、そこはかとない男女の関係を予感させる。

そのくせ話のオチはかなり予定調和的というか、家族の再興に帰着するあたり、かなり妙な作りになっているのではないかと思うのです。

で、書いていて思ったのだけれど、この点においてわたしは小路啓之との共通性を見出してしまっていたりする。まあ自分でもどうかと思うのですが、小路啓之の作品はどれも「愛」や「関係性」についてめちゃくちゃ遠回りにぐねぐねこねくり回したあげくに至極まっとうなところに行き着く漫画であると思っていて、そこが自分が小津を楽しめるところなのかな、と思ったりする。まあ、小路啓之の場合は表現メディアが漫画であるという部分でかなりカリカチュアされていたりするんですが。イハーブなんか、実の父親を男として見ている娘が出てきたりしますし。ただ、小津の場合はそこまで禁忌的に描くことはしないので、その端正さ・上品さはむしろ対極にあると思うんですけれどね。

 

やっぱり思ったのは小津って日常系の鬼なのではないか、ということですよね。どれもこれも話が驚く程に卑近なのですな。もっとも、当時の、ということではあるので社会の構造が変化した今見て全面的に同意できるかどうかは定かではありますんが。

 

追記

「東京暮色」観ました。

前2つと違って、こちらはあまり関係性エロスは感じなかったかしら。エロスの代わりに、切なさのようなものがががが。

とりあえず小津作品で共通していることとしては独特な音楽使いというのはあると思う。すごい感覚的な部分なんですけど、なんというか音楽と画面の位相のズレ、みたいなものを感じるんですよね。劇中で流れている音ともBGMとも思えるような。

なんてことを考えているうちに、半年前に学習院大学の研究発表会で博士課程の学生が映画音楽研究で小津の劇伴について発表していたのを思い出したんですな。

ciniiとかにはなかったんですが、A3変面印刷の資料2枚が手元にあって、その資料には「小津調を特色づけている楽曲的要素としては、(中略)一定不変の軽快なリズムとテンポ、旋律の単純な繰り返し、明るい長調で書かれていながら一抹のペーソスが含まれていること(を挙げることができる)」という前川道博の「古きものの美しい復権・小津二郎を読む」からの引用があったり、「(サイレント映の音楽のように)シーンの持続時間を埋める為にひたすら反復しているように感じられる」(正清)とか「このような音楽は結局、無声映画の伴奏音楽であり(中略)、心のこもっていない甘ったるい音楽の膜がゆるやかに場面を覆っていくという皮肉さは異化効果だと言うこともできるだろう」(リチー)だったりと、まあそのネームバリューからうかがい知れるように小津の音楽については研究されているっぽい。

 

個人的にはこの資料の中で引用されている吉田喜重の「似たような映像が「反復」しながら少しずつ「ずれ」ていく(映画である)」という記述と長谷正人の「観客は同じようなショットの「反復とずれ」によって、ある「時間」が経過している間に(中略)とりかえしのつかない出来事が起きてしまったことを強く感じるのである」という記述がまさに自分の思っていることを見事に言語化してくれている気がする。

しかしこれまで観てきた小津映画で直接的な結果をここまで劇中で描くことはなかったのでちょっと驚いた。ていうか有馬稲子可愛すぎ。ウィッキーさんによると元々は岸恵子がやるつもりだったらしいけど、有馬さんまかなりいいと思う。本作の劇中では笑うってことがなかったので、有馬さんのほかの演技を見てみたくなったでござんす。