dadalizerの映画雑文

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ガンの超男

前回メガロポリスを観たときに一番感動したのは実のところ本編よりもIMAX規格で流れる神ことジョン・ウィリアムスのスーパーマンのテーマがかかった予告編だった。

元々見るつもりではあったが、やことジョン・ウィリアムスのスコアにより強烈に誘引され公開日に観ようと思うほどにモチベを爆上げされたのだった。

とはいえ私自身はスーパーマンにもアメコミにも大して詳しくなく、MCU以後に興味を持ったにわか(とはいえすでに10数年になるわけだが)である。

しかしスーパーマンは本国の人ならずとも誰もが知っている巨大なアイコンであるわけですから、私のようなトーシロがフランクに語っても許されるでしょう。

 

にしても、いつものと言っていいのか分からないが、「スーパーマン」であるにも関わらずジェームズ・ガンの映画であった。ブライアン・シンガーザック・スナイダーも方向性は違えどある種「スーパーマン」という概念の重力に引っ張られてしまったきらいがあるのだが、しかしジェームズ・ガンは良くも悪くも(とあえて書くが)「スーパーマン」を自分の映画として仕立てることに成功しているように思える。少なくとも誰が観てもこの「スーパーマン」はジェームズ・ガンの「スーパーマン」であることは否定しないだろう。

簡易に述べてしまえばガンのスーパーマンは「スーパー」ではなく「マン(カインド=人間)」であることに着眼している。しかしそのどちらをも前提にしているからこそ、本作ではスーパーマンクラーク・ケントという二重性についてのアイデンティティに苦悩することはない。

どういうことか。つまり、MCU以後、「スーパーヒーロー」は自明のものとなった。もちろんそれはエンタメ産業においてという枕詞はつくが、しかし昔であればたとえ映画の中であっても荒唐無稽なものとして一歩引いた眼で受容されていたはず。しかし今は老若男女が「スーパーヒーロ」だからということで見下したりすることはなく、むしろそれ自体が惹句となってさえいるような肯定性を持っている。

そもそも、そうでなければ冒頭に3世紀前~3分前に起こった出来事の説明をテロップでさっと済まそうとは作り手も考えなかっただろう。

 

だから、「スーパー」と「マン」はかつてであれば対立して考えられた概念(≒分裂した自我)であったものが、今は「マン」であることの上に「スーパー」を仮構することが可能になったのだろう。横並びではなく、人間であることを所与とし、その上にこそ「スーパー」なものが乗っかるのだと。その意味で、この「スーパーマン」はこれまでのアメコミを筆頭とした映画がなければ描くのに困難だっただろう。

そうでなければ”スーパーマン”がルーサーと対峙した際に自信が人間であることを叫び人間を賛歌をすることなどできただろうか。

そして、それができるから一触即発(ていうか侵攻開始されてるけど)の場面でスーパーマンが現れなくとも、そこに人間の持つ善性が顕現する。それを真っ先に担うのがうさん臭いしちょっと人間的にアレな感じのするグリーンランタンであるのも効いてくる。つまり「完璧な超人」であるスーパーマンでなくとも真に正しいことはなし得るのだ。

そもそもからして、ガンはチームを描くことの巧みさが評価されてきた監督でもあった。「GotG」も「スーサイド・スクワッド」も「ピースメイカー」もそうだった。

もはやスーパーマンは独りではない。なぜなら彼は人間であり、それを認めスーパーマンの完全性を否定することでこそ本作「スーパーマン」は成立しているのだから。

というか、完全性を突き詰めた結果として隘路にはまるしかないという悲劇を「ウォッチメン」という傑作(もちろんコミックの方)が描いてしまった以上、不完全性を肯定することから始める以外に現代に「スーパーマン」を成り立たせるのは難しい。

9.11以後に作られた「スーパーマン リターンズ」が仮にも成立させることができたのは、神ことジョン・ウィリアムスの作曲したテーマ曲をそのまま持ってきたからだ(というのはもちろん引用)。

かといってザックの「マン・オブ・スティール」のような自省すらも今のアメリカを見ると自己欺瞞とすら思えない。

だからガンはスーパーマンを絶対者の立場から、他者の存在によって相対化させた。そうしなければアメリカを背負うスーパーマンが紛争地域に足を踏み入れることなど描けないだろう。たとえルーサーが現実のアメリカと同じことをしていたとしても、それがエクスキューズにしかならなかったはず。

けれど、そんなアメリカ(アメコミ)だからこそ善と悪を描くことができるのだろう。

ハッキリ言ってこの映画が傑作だとは思わない。GotGの方が好き(Vol.2は…一歩下がるけど。というかVol.2の持ってる冗長さが本作にもあると思う)だ。

それでも、アレンジを使ったとはいえジョン・ウィリアムスの作った曲をそのままつかな分かったことの意味、あの曲の持つ絶対性を相対化したこの「スーパーマン」はほかのスーパーマンとは違うものにはなっただろう。

 

ガンの映画に都度都度あらわれるモチーフも健在。随所に笑いやイースターエッグ的なものを仕込んでみたり(シャッターがのろのろ開くというのは、似たネタがR&Mの宇宙船スロープがゆっくり展開した方がいいに通じるが、向こうでは鉄板なのだろうか)、猿にトロールをさせていたりしたり、いつもより笑えるポイントは多かった気がする。

ファミリーラブも相変わらずあるが、GotGほどのくどさはないのはバランシングを心得てきた感じが。一方で「血縁の親って糞じゃね?」みたいなことをこの映画でも繰り返していて笑う。ガンは実の親に親でも殺されたのだろうか。

ほかにもポップな音楽に合わせて疑似長回しでのバトルや、アクションシーンでなくともカットを割らずにダイナミックにカメラを動かしたりするのもサービス精神というかやりたいことが横溢している感じだった。

アクションはやや冗長だったが、コラテラルダメージをゼロにしてやろうという気概は良かった。