dadalizerの映画雑文

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銀河の守護キャラパート3

というわけで「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーvol.3」を観た。ここでVOLUME:3にするならなぜ前作をリミックスと改題したのか、などと5年以上も前の話題を今更蒸し返すことはしないが、「だから言わんこっちゃない」とだけは言っておこう。

それにしても、MCU全体どころかGotG三部作だけでも足掛け9年である。コロナやら監督交代騒動とか色々あったとはいえ、やはり一つの区切りを迎えたということを考えると感慨深いものがある。GotG1作目のころまでは、程度の差はあれ「MCU」という大きな流れの一つのパーツとしてではなく、あくまで「ガーディアンズオブギャラクシー」という一つの作品シリーズとしてしっかり作りこまれていたというのもあって、「リミックス」には邦題以外にもまあ色々と言いたいこともないわけではないのだけれど、なんだかんだでしっかりクオリティを維持したまま締めてくれたと思う。

 

前作では個人的にくどくて冗長だったギャグ描写も今回は普通に笑えたし、二時間半というランニングタイムであることに観終わった後に気づくくらいには短く感じたくらい楽しめた。まあ、その笑わせどころについては一か所だけ、かなり際どいというか考えようによってはアウトになりかねないのではという部分もあって、オルゴコープ潜入の際に入口ゲートのところでマンティスがエンパシーの能力を使ってゲートキーパーをドラックスに惚れさせるという描写があるのだけれど、これはややもするとゲイを茶化しているようにも取れる。もちろん、このギャグの枢要部分は「いや自分に惚れさせるんじゃないんかい」というところなので、考えすぎだと言うきらいもあるだろうが、ガンの露悪趣味を考えるとそういう含みがあってもおかしくはないのかな、と。あるいは単に無頓着なのかもしれないが、あれをあのままフラットに受け止めるにはセクシャルマイノリティーに対して今の社会はヘテロ優位すぎるのである。

しかしここを除けばあとはもう楽しい二時間半を堪能したといっていい。ガジェットのデザインやノーウェア(あれ今にして思うと完全にマイティマックスやんけ)を筆頭とした惑星サイズの建造物から吹き抜けになってる(なった)ボウイ号といった宇宙船の分離機能をはじめ、外装・内装を含めたデザイン全般のセンスはMCUのみならずライトなSF作品群の中でもGotGならではで、単純に目が楽しい。

アクションもやや天丼ぎみではあるぐるぐるカメラワークもメンバーを中心に据えるパターン(これは何回か繰り返させるのだがメンバーの組み合わせを変えることで異なるアクションや個々の身体性のコンビネーションとして楽しめる)と、メンバーを円陣状に配置しその円周を回るようにして敵をリンチしていくフルボッコシーン、「キングスマン」の教会戦闘シーンのブラッシュアップともいえるような、(疑似的な)一直線上を各メンバーのアクションの連続で繋いでいくのなどは、最近のMCU作品にありがちなへなちょこCGバトルに比べると格段に見ごたえがある。カウンターアースのフォールアウトを想起させる獣人サバービアも、「擬人化」問題を考えると見た目以上のグロテスクさを湛えているし。

 

ところでこの「VOLUME:3」は、この手のビッグバジェットの大作の中ではちょっと過剰ともいえる、あるテーマに関する描写が頻出する。言うまでもなくそれはアニマルライツ、動物倫理の問題だ。そして、本作の実質的な主人公であるロケットがその当事者であるということもあって、ぶっちゃけ人間(人型宇宙人)周りよりもはるかにエモーショナルに描かれている。まあ、それこそが「擬人化」という営為のグロテスクさに他ならないのであり、「擬人化」の持つ共感性の拡張と人間の倫理・論理に引き付けることの傲慢さの二律背反を図らずも……いや、どうなんだろう。露悪趣味が結果的に突き付けたのか、ガンが意図してたのかはわからないけれど、どうあれそういった両義性を提出していることは事実としてあるだろう。

「擬人化」については後述するとして、アニマルライツ、動物倫理についてはどうか。ガンのことはよく知らないのだけれど、「ピースメーカー」でもイーグリィとか出てるし、ロケットは言うまでもなくそもそもグルートが割と動物よりとも取れるし、動物自体はまあ好きなのかもしれないけれど、ここまで踏み込んでくるというのは予想していなかった。彼のフィルモグラフィーで自分が観たことのある一番古いのは「スーパー!」だけれど、あれにはそういうのがあっただろうか。

動物が好きかどうかという問題と、動物の倫理について考えなければいけないという問題は別であるということは、動物倫理について考察を重ねてきた学者の筆頭たるピーター・シンガーの論を援用するならば「動物に対する道徳的配慮といった事柄は動物好きだからという理由によってではなく、万人に通底する正義の問題である」ということと言える。

 それは例えば、人種的マイノリティに対しての好悪にかかわらず、人種差別の問題それ自体は「全ての人は人種差別をしてはならない」という正義の問題であり、動物をどう扱うかという問題も好むか好まざるかを問わず動物の問題に対して全ての人は義務を負っている、というわけだ。もちろん、動物が好きなればこそ、その問題に真剣に取り組めるといったモチベーションのレベルでの議論は可能ではあるだろうけれど。

ただ、本作に「動物の虐待は良くないよね」という一般論を超えた何かを見出すことは可能なのかどうか。動物倫理の問題はフェミニズムとも関りが強いし(周縁化されてきたモノたちという意味レベルでも、エコフェミニズムヴィーガニズムなどなど)、深堀しようと思えばそれはもう底なし沼のような哲学的問題を浮き彫りにしてくるが、そこまで突っ込んだ問題提起をしているようには見えないし、同じくスペースオペラである「銀河ヒッチハイクガイド」における動物実験についての責任における(藤子不二雄的ともいえる)アクロバットな逆転などはないと思う。

一口に動物といっても、ではその範囲をどこまでに限定するのかといった問題も功利主義の立場をとるのか有感覚(Senticence)主義を取るのか、その場合にしても最近の研究では植物にも「痛み」と同じようなシステムを備えていることが分かってきているし(だから痛みを感じるということに即繋がるわけではないが)、いずれにせよジェームズ・ガンはそこまでの哲学的問いを展開しようとはしていないだろう。分かりやすく、共感しやすい動物を明確なラインとして引いている。今回メインとなる動物はすべて哺乳類だし、コスモに至っては人間と一緒に進化してきた犬である。

かといって人間中心主義のラディカルな否定でもなし(そんな価値観はガンにはないだろうし、ディズニー傘下でそれが全面展開できるとも思えないが)。そもそも、その人間中心主義の「人間」の範疇が「健常」な「男性」であり「白人」であり…という歴史的認識があったことを念頭に入れなければならないだろう。そこにおいて、ロケットと同じ実験を施されたライラ、フロア、ティーフの表象が明らかに身体欠損=障碍者のメタファーであり、動物と障碍者という周縁化された存在の統合を「擬人化」という手法で映像的に繋ぐことを実現し観客のエモーションを揺さぶることに成功している。一方で、そもそもその「擬人化」が人間中心主義的であるという問題を前提として含んでいる、ということはあるだろう。

この「擬人化」というのは、あらゆるものを人間の側に引き寄せる・人間の理解可能な「内部」に押し込もうとする営みであり、「それ自体」の理解とは似て非なるもの(であると思う)。一概に否定したいわけではないが、こと本作の提示した問題においては、そこをスルーしてなあなあにすることはこれまで積み上げてきた動物倫理の議論を無視して力技で突破することでしかない。実際、擬人化にはそれだけの力がある。人間の(人型)の子どもと動物の命を等価に扱い、それを観客に違和感なく(少なくとも自分には)納得させるのはもちろんジェームズ・ガンの演出力の賜物であるが、その手法としての擬人化がそもそも強力なツールである、ということだ。

といって、自分がその諸問題を書き連ねるには聞きかじりの知識しかないのでここら辺に留めるしかないのだけれど、ぶち上げた問題が問題だけに気になるところではある。

 

一つだけ仕方ないとはいえちょっと気になったのは、ロケット復活して「Freakin Guardians of the galaxy」と口にする部分の字幕が「クソったれガーディアンズオブギャラクシー」だったのだが、もちろんFuckinの代わりにネイティブがよく使う(らしい)のでそのまま訳しても全く問題ないとは思うのだけれど、Freakの意味を考えると、「クソったれ」だけだと若干片手落ちな気もしなくもない。いや、対案出せと言われると無理だけど。

 

まあそういう難癖とかは抜きにして抜群に楽しい映画だったし、さりげなくMCUの積み重ねの上で観るとキャラクター描写の一つ一つにジーンとくるものもありますしね。ネビュラの身体変形とかまんまアイアンマンだし。