dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

最高傑作としてのプレデター

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観てきた。「プレデター:バッドランド」

どうでもいいがこの文章を書き始めて書き終わるまでに結果的に2回も観てしまった。字幕と吹き替え(4DX)で。

個人的なスタンスを先に述べておくと、私自身はプレデターシリーズにそこまでの思い入れはない。もちろんこのシリーズは人並みに好きだし一般ピーポーに比べれば「プレデターフランチャイズ(というか20世紀FOXのフランチャイズ)に対しての知識はあるほうだとは思う。さすがにコミックやノベルを追ったりとかはしてないし、アニメの方はまだ未見だったりするのだが(ディズニーに金払うことに少し抵抗があるので)。

それでも、積極的にとは言わずとも午後ローなんかでやってれば観ちゃうし、それは事故的に「プレデター」を初めて観た時の衝撃があるからというのもあるだろう。以前もどこかで似たようなことを書いたが、「プレデター」の一作目、まだプレデターというキャラが確立する前のタブラ・ラサな状態で観たときの衝撃は「劇場に行って観る」という能動的ではない、受動的に浴びたからこそだと思っているので、ある意味で私はもっとも「プレデター」を原初的に怖がって観ることができた僥倖な人間だと思っている。

その後に「プレデター2」の存在を知った時の驚き等々、まあそういう思い入れも色々とあるわけだけれど、とはいえ常に「プレデター」のフランチャイズに思いを馳せていたわけではない。Galoobやらマテルやらが出していたゲテモノデザイン玩具について知ったのもすでにそれらがアンティークになりつつある時期だったし。

要するに、プレデターはそれなりに好きだけど熱中しているわけではないという程度の浅いファンということだ。

どうしてこんなもってまわった書き方をしているのかといえば、「プレデター:バッドランド」がプレデターシリーズの……誹りを恐れずにもっと誇大に書くならばここ数年で観た映画の中でも傑出した映画であると主張したいからで、過剰なファン心理からくる痛い擁護ではないということを先に示しておいた方がフェアだと思ったからだ。

 

すでに書いたように私は「プレデターフランチャイズについてはそこまで熱があるわけではない。どっちかといえば「エイリアン」の方が(少なくともデザイン的には)好きなのだけれど、ただあれに関しては「エイリアン」フランチャイズというよりもオリジネーターであるリドリー・スコット、その続編/ナンバリングである「2」のジェームズ・キャメロン、製作現場の地獄っぷりが語り草になった「3」のデヴィット・フィンチャーといった作家の名前の方が先行することで、かえってコンテンツとしての「エイリアン」をストレートに語るのは難しいと感じていた。そこにきて「プロメテウス」からの「エイリアン:コヴェナント」に至っていよいよリドスコという偉大な作家の映画という風潮が出ていたのが10年代後半だったのではないか。

ちなみにナンバリングの中だとやや格落ち感のある「4」のジャン・ピエール・ジュネだが、私はエイリアンシリーズでは「4」が一番好きだ。

「エイリアン」がフランチャイズとして明確に打ち出されたのは20年代に入ってから「ロムルス」(未見)、「アース」(未見)によるところが大きいのではないだろうか。いやもちろん90年代から10年代までの間にも「プレデター」同様にゲームやコミックや玩具など別のメディアによって世界観の拡張はなされていたのだけれど。しかしそれを以て「エイリアン」が映画史の中で一線級の輝きを放つホラーSFとしての語られ方が変質したわけではなかった。と思う。

だもんで、「エイリアン」に比べれば「プレデター」は軽い気持ちで観られるという点で「カジュアルに好きでいられる」フランチャイズだったりするのだ、自分にとっては。

それが決定的になったのは駄目な方のポール・(W・S)アンダーソンによる「エイリアンVSプレデター」のバカバカしさの極大化とそれに伴うパブリッシングの増量のおかげだろう。こんなこと書いてるが私はミラジョボの夫の方のポール・アンダーソンの方が好きなんだけど。

ともあれ、この「AVP」によってキャラクターとしてのプレデターが確立し(エイリアンはその完全性を剥ぎ取られたわけだが…まあ「エイリアン2」の時点でね)、以降は「エイリアンVSプレデター2」(これは嫌いではないがかなり駄作の部類に入ると思う。プレデリアンとかいう美味しいネタも大して生かせてないし)「プレデターズ」「ザ・プレデター」「プレデター:ザ・プレイ」「プレデター:最凶頂上決戦」(未見)と続く。それぞれの監督について「エイリアン」シリーズと並べるとどうだろう。正直パッとしないでしょう。ジョン・マクティアナンはともかくとして。シェーン・ブラックもまあ嫌いではないけれど。

そうそう。シュワルツェネッガー映画という側面もこのフランチャイズがカジュアルに語ることのできる点でもあるだろう。しかもシュワルツェネッガー映画であるにも関わらずキャラとして負けてないというのがプレデターの凄さだ。

 

そういうわけで、コズミックホラーとして一流の映画作家によって生みおとされた「エイリアン」に対し、どこまでいってもどことなくB級な佇まいが付きまとう「プレデター」という風に並べることができるだろう。

けれど、そうであるからこそ「プレデター」は「エイリアン」のように霊長類としての人間の実存を脅かす大文字の恐怖ではなく、同調可能な卑近な存在として立ち現れ人間の人間性を逆照射してくるのだろうし、愛嬌のあるキャラクターとして愛でることもできるのだろう。

少なくともダン・トラクテンバーグの描く「プレデター」に関しては。

私が無知なことを棚上げにするが、ぶっちゃけ前作まではあまり知名度のない監督だったのではないだろうか。私はほとんど海外ドラマを観ていないので、劇場公開長編は「プレデターフランチャイズを除けば「10クローバーフィールド」だけだったので本作を観るまでは判断に困るところもあった(「ザ・プレイ」は好きだったけど)のだが、ドラマの方に目を向けると「ブラック・ミラー」「ザ・ボーイズ」の監督をやっているわけで、腕は確かだったわけだ。

 

で、長々と前置きを書いてきたが、そのトラクテンバーグの新作(直近の新作3本が全部「プレデターフランチャイズ!)である「プレデター:バッドランド」それ自体は傑作である。冒頭にも書いたけど。

 

まず最初に書いておくと、今回のプレデターはシリーズ中でも屈指のキャラ萌え映画である。

これまでのシリーズ中でもキャラの立っているプレデターはいたが(個人的にはAVPジェスチャーで伝えようとしつつ、戦士として認めれば人間との共闘も辞さないスカーくんが好き)、今回は最初からめっちゃ喋る。もちろん架空の言語ではある(もっとも、言語学者のブリットン・ワトキンスがヤウージャの生理構造から発音可能な音を意図的に設計しているのでそこのリアリティは折り紙付きである)が、その饒舌多弁ぷりは今までの寡黙な狩人のイメージを初手でぶっ壊してくる。そういう意味ではこの時点でコアな原理主義者はふるいにかけられていると言ってもいいかもしれない。

しかしすでに書いたとおり私にとってプレデターは「カジュアルに好きでいられる」対象であるので、今回のプレデター”ヤウージャ”の”デク”にはしょっぱなからハートキャッチされたのだ。

そもそも今回のプレデターが総じて好意的に受け止められているのは、私のようなスタンスのファンが多いからではないだろうか。

で、好印象の理由の一つには「こいつ歴代で最弱だろ」と思わせる雑魚っぷりがある。今回のプレデターはとにかく弱い、弱すぎる。シリーズ最弱なんじゃないだろうか。イニシエーションを通過していない未成人である「AVP」の連中も割とやられてたが、デクはそこに加えて情けなさもある。実力的な弱さだけピックアップしてみてもアバンですでに2敗しているのを観れば明らかだろう。

自分から強襲した兄に一敗、不意打ちとはいえ父に一敗、降り立った(墜落?)した星の植物からはギリギリ逃れたのでノーカンとしても(とはいえプレデターが背後を二度も取られちゃダメだろ~)、タイトルバック後の狩猟もティアがいなければヴァルチャー(翼竜みたいなやつ)にやられてましたし。

加えて墜落までの疑似ワンカットは、ともかくハラハラ感した感覚を(意図的なので当然だが)演出しているせいで今までのプレデターのような不言実行なプロフェッショナル感は皆無。

そもそも父親にとりつくしまもなく殺されかけたのも弱いから、という徹底した印象付けがなされている。

無慈悲ではあるわけだがそこはプレデターという「力こそパワー!」な頭脳派脳筋種族であるわけで、むしろデクとクウェイ(デクの兄)こそが異端なのだろう。これは深読みだが、口ぶりからすると何となくクウェイはデクのやさしさをミメーシス的に反復しているのではないかという気がする。

少なくともクウェイはデクとは違って父親に認められていたわけで、だからこそ彼を殺すように促し、それを実行せずあまつさえデクを庇って反抗する彼を良しとしなかったのだから。

過去にデクに助けられたという発言から、クウェイもまたデクのミームに感染したのだ(MGR並の感想)。

 

デクに話を戻すと、散々弱い弱いと書いておきながらアレですが戦闘センスやスキル自体は高いんですよね。デクは戦闘で負けることはあっても狩猟(ハンティング)で負けることはない(ヴァルチャー戦は油断していたということで一つ)ですし。ボーンバイソンとルーナバグはハントできてますしね。まあバイソン倒して勝ち名乗り咆哮なんてして油断してるから直後にバグに食われそうになってりしてるんで、やっぱりダサいんですけど(そこがいい)。

それに劇中ではノされて気絶して気づいたら捕まってたり寝かされてたりというのが頻繁にあるわけで、純粋な勝敗で言えばやはり負け越しているので弱いというイメージ自体は覆らない。

しかも弱い上に言い訳がましい。どう考えてもティアが有用で有能な「バディ」であるのに「アンタはあくまで道具だからね!道具だからこの狩りはあくまで私のソロプレイってことなんだからね!(超絶意訳)」とか言っちゃうんですよデク。かわいすぎか。

そのくせちょっとキレやすくもあるんですよね。キレやすいっていうか、つんけんしてるというか。まあ端的に言ってツンデレですね。

なのにつんけんしながらもいざカリスクの巣に着くと「俺がヤウージャ(族)のデクになる瞬間を目撃するんだぞお前!最初の目撃者だとおめー!喜べ!(超絶意訳)」とか言っちゃうんですよね。それもう完全にティアを道具として見てないですよね?人格認めてますよね?いや最初から分かってたけど、こいつツンデレすぎるだろ。

 

というキャラとしての萌えポイントがあるのは認めたうえで、またそのような「弱さ」がデクの魅力の一つであることも認めたうえで、けれど映画を観始めた段階ではそのポンコツっぷりを愛おしく思いながらも、どこか半笑いで眺めていたのもまた事実だった。日本の芸人メインのバラエティ番組でありがちな、運動ができないのを笑ったりへたっぴな創作物を笑ったりするああいうノリに同調する視線、といえば伝わるだろうか。

それは冷酷ながらも誇り高い(これも後付だが)プレデターというキャラクターのイメージを逆用した落差からくるものも影響しており、作り手もそれに観客が乗っかることは意図しているだろう。

とはいえ、弱いからこそ成長を描くことができるというのも道理である。その点において今回のプレデターは明確に(そもそも”デク”視点なので)物語におけるヒーローとして描かれているのは、貴種流離譚の大筋をなぞっていることからもわかる。

なんだかんだいって、私がまず感動した理由の一つもそこにある。最初こそデクに対する視線は嘲弄の混じった、私の感覚からしてもっとも侮蔑的な表現を使うなら「量産型の深夜アニメのキャラが(そのヘボさや極まったクズっぷりゆえに)面白く見れる」というのに近かった。

だが、見終わったときに感じたものはそのような半笑い混じりとは全く異なる、心からの感動だった。デクというキャラクターの本質(やさしさ)は変わることなく、ただそれが他者とのやりとりの中で表出の仕方が変わっただけだ。

にもかかわらず私の居住まいを正してくれたのは、ほかならぬ監督の演出手腕が卓抜していたからであり、その中身に語るべき多くの価値が詰まっていたからに他ならない。

 

この映画が傑作である所以は「プレデター」の構造をひっくり返したことだけが理由ではない。そのようなジャンル転覆だけに価値を見出すこと自体は否定しないけれど、それ自体というよりも、その「脱構築プレデター」な構造を使ってラディカルな(は言い過ぎにしても)視点を持ち込んでいるところに光るものがあったからだ。

その一つには「プレデター」の至上価値である絶対強者、ウィナー・テイクス・オールな競争原理への疑義がある。

それはいってしまえば「マッドマックス:怒りのデスロード」がケアの物語でありフェミニズムの映画であることと相似している。

 

プレデター:バッドランド」がケアの映画であるということはどういうことか。

私は「ケア」という言葉…というよりはその用いられ方や受容のされ方(特に日本の創作・表現において)については少し警戒をしてもいるのだけれど、それは「そのままの君でいいんだよ」という微温的まなざし、もっと言ってしまえば母胎回帰的/慰撫(イブ)的なイメージへと短絡しがちな点にもあるだろう。

しかしケアそれ自体の重要性は私自身よく理解している(それが実行できるかどうかは別として)。だからこそ、この「プレデター:バッドランド」をケアの物語として読むことに躊躇いはない。なぜなら本作はケアの話でありながら、そのような生ぬるいまなざしの交錯はないからだ。

すでにキービジュアルから現れているように、本作の劇中のほとんどが(少なくとも前半)デクとティアはほとんどの時間で背中合わせである。

限りなく近い距離にありながら、二人の視線は絶対に交わらない。だからこそ相互にカバーしあえるし、二人の視界は開かれ(物理的にも心理的にも)、第三者=バドを受け入れることもできたのだといえる。デクの身体とテッサの度量がなければバドと一緒になることはできなかっただろう。

 

そして視線の交錯の不在は、恋愛へと陥る危険性をも遠ざける。そもそも予め両者の性別が男性でも女性でもない無性性を付与されている以上、そのような短絡的な関係性を取り結ぶ可能性は最初から脱臼させられている。

誤解のないように書いておくが、私は恋愛それ自体が悪いとは微塵も思ってないというか、むしろ娯楽として観る分には抵抗がない。あれですね、変な深夜アニメばっか観てるからでしょうね。あと邦画のアイドルとか2.5次元系とかはアレですけど。

ところで、翻ってテッサには一種のエロティシズムを惹起する、ボディラインが強調される服装をしているというのは興味深いところではある。あれだけ機械的・(相対化された)文明的・怜悧なイメージをもたらす彼女にエロティックな服装を纏わせているのは、ある意味では後述する極めて母性(崇拝)的なそれは、ハラウェイが『サイボーグ・フェミニズム』で家父長的で資本主義的な制約を免れジェンダー差によって生来的にある被抑圧を超える発想をサイバネティックスに見出したのとは逆に、母性によるより厳格なパターナリズムの強化が垣間見える。

だがそれは後述するとして、ティアとデクの描写について話を戻すと、視線の交錯がないとは書いたけれど、もちろん全くないというわけではない。しかし二人が同一のカットで顔面アップで見つめ合う(距離感になる)ことはほぼない。初手でヴァルチャーから救出されるカットですらデクの一人称視点であり、二人の視線の交錯を観客が意識することはほとんどない。

そして最後はバド(動物)と横に並んで来たるべき母性を迎え撃とうとその背中を観客に晒すのだ。

これはヘテロなロマンティックラブイデオロギーによる関係性の強化や生殖ではない、オルタナティブな関係性を取り結び障害へ立ち向かうことを示唆している。

これをファミリーと括ることは可能だろうし、実際にバドがデクにマーキングした行為をティアは「家族になりたいのよ」と言っている。しかしこれはハリウッド大作のお作法でしかないのだから、我々がそれをより広範な概念として読み替える余白は十分すぎるほどあるだろう。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズを通過した今ならばなおの事。『ワイルドスピード』は知らん。

 

で、私がデクとティアの関係性にこのような注目をするのは、二人はある意味でどちらも弱者の表象として読み取れるからであり、そのようなマイノリティの在り方の幅を(その関係性も含め)押し広げているように思えるからだ。

二人の弱者性とは、デクのそれは精神的な弱さとして、ティアの方は身体的不具者としてだ。無論、「弱い」といってもそれを否定的に捉えるつもりは毛頭ない。

そもそもデクの精神的な弱さにしても、それはヤウージャ的価値観(マジョリティ)において「弱さ」として捉えられているだけで、それはデクの他者を思いやる「やさしさ」の表裏…というより単なるパラフレーズでしかない。そして、それは強者としての立場にあるクウェイからも当初から肯定されている。私の嫌悪する「優しさと言う強さ」みたいなJPOPあるいは一部のジャンプ的(作品名が特定されそうだが)な、マジョリティによるセトラーコロニアリズム的な思想と違い、「弱さ」を「弱さ」のまま肯定する。

けれど、その「弱さ」を単に「そのままの君でいいんだよ」と無条件に肯定することなく、ティアとの関係性においてそのnaiveさを克服する。

 

さらにそこにバドという「獣」を加えて、フリークス性を強調することも私はやぶさかではない。そう捉えた場合にこのフリークスな一団が好ましいのは、それがティム・バートンの描くような悲哀をハナから持ち合わせいない根明なところだ。私はバートンの描くフリークスは好きだけれど、正直なところそういう手合いは現実と向き合っているとこっちの身がひたすら削られるので、こういう一緒にいて楽しそうな連中の方が良いというのも偽らざる気持ちなのだ。

 

そもそもからして、プレデター(シリーズ)には様々な人種的アレゴリーが盛り込まれているわけで。ドレッドヘアーは黒人のエスニシティを想起させるし、多様な種族(部族)がはっきりと描かれているのはインディアン(ネイティブアメリカン)のそれを連想させる。「ザ・プレイ」は映画そのものがそのライトモチーフ的作品と言えるだろう。

本作にしても役者がニュージーランド出身であり(ロケ地も同様)、言語(ヤウージャ語)・にもマオリ族のフィジカリティがある。

当然のことながらそこにはエキゾチズムの危険性があるのだけれど、そこはダン・トラクテンバーグである。「プレデター:ザ・プレイ」を観ればそんなことは織り込み済みであることは論を待たない。

 

そして、本作の幅が広いのはそれらのモチーフを使い二項対立(というか意趣返し)を描いているところにもある。その二項対立の図式は本作中に留まらず「エイリアン」と「プレデター」のフランチャイズ=世界観を利用している。

いうまでもなく、その大きな概念としては文明と自然であり、その中には散々描いてきたマイノリティに向けたまなざしも包含しており、それを既存のシリーズで用いられたものを反転して使っている。リビジョニズムに頼ることなく、だ。


最も分かりやすい例だと「エイリアン2」。

「エイリアン2」では「文明(テクノロジー)」の利器たるパワーローダーをリプリーが纏ってクイーンという(超)自然を打倒する(もっとも、リドスコ的にはエイリアンこそある意味で最も文明的なものではあるのだろうが)というクライマックスの戦闘シーンがある。
今回はそれが反転させられ、テッサ(先述したように彼女は極めて機械的内面を持ちながら女性性(≒母性)を強調する意匠をさせられている)がパワーローダーめいた機械に乗り込みカリスク(〈超〉自然)というデクたちサイドの怪物と戦うことになる。

シガニー・ウィーバーという戦う女性の強烈なイメージを今なおキャメロンが転用し続け思想的支柱として描いている(「アバター2」)のとは異なり、トラクテンバーグはそのイメージを逆用する。


また、そのモチーフの転用はティアが半身のない状態で登場することからも読み取れる。
確かに絵的に面白くなるし、実際にそのおかげでめちゃくちゃ面白くてフレッシュな絵がたくさんあったので要不要で言えば必要なのだが、しかし彼女が下半身を分断されていることには物語的な必然性は乏しい。
しかし、既述のようにティアを身体障碍の表象として捉え、そこを起点にラディカルな問いを投げ込むのであれば「下半身が繋がっている必然性はあるのか?」ともいえる。

人体の生命活動において、下半身がないことは致命的ではあるだろうが、たとえば生まれつきそういう人はいる。そういう人にとっては、むしろ「なぜ君たちは足を必要とするんだい?」と問いかける権利を持つ。
なぜそのようなことを考えるのかといえば、ジェームズ・キャメロンの存在がある。「エイリアン2」の繋がり(と、本作の撮影に当たってトラクテンバーグとやりとりをしているからだが)でという点だけでなく、というかトラクテンバーグは仮想敵としてキャメロン(的な価値観)を想定しているからではないか、という疑いがあるからだ。

なぜならキャメロンが「アバター」において示してしまった五体満足の「無謬性」あるいは「完全性」の持つマジョリティの傲慢を、トラクテンバーグはひっくり返しているのだ。

アバター」において主人公のジェイクは両足不随によって絶望に打ちひしがれた状態であり、その治療費目当てでアバターのプロジェクトに参加するのだが、彼はアバター(拡張された別身体)に接続することで両足の自由を取り戻し、あまつさえ新しく人生の目的を発見する(北村の指摘)わけだけれど、ここにはナチュラルな身体障碍へのネガティブな偏見が潜んでいる。まあ2009年の映画なのでキャメロンだけが、というわけではないにしても、先述したようにキャメロンが傲慢("I'm the king of the world, oh oh oooooh!")な性格を少なからず持っていることは確かだろう。

だがトラクテンバーグはそうは描かない。キャメロン的なビジュアルイメージを援用しながら、徹底してそれを裏返す。

下半身不随どころか下半身のないティアがジェイクのように打ちひしがれているだろうか?先天的に下半身がないのならばともかく、ティアもジェイクも後天的に下半身を「喪失」したにもかかわらず、ティアはポジティブなどころかヴァルチャーを仕留める気概すらもっている。

そうはいってもティアが人間であったら、やはり下半身がないということに対して(その状態で生存していることに)一定のエクスキューズを要するだろう。
なぜならハンディキャップを持った人を、そうでない人と同じように違和感なく受け入れるほどにはこの社会は成熟していないからだ。
だからこそ人を模しながら人ではない、しかし人以上の感受性(「完全な」人体)を持つ「健常者」には不可能なアクロバットを披露する。いやもちろん単なる人間と比較することの無茶は承知で書いてますが。

だからといってティアも楽天一辺倒なわけでもない。移動に不便なことは承知しているし、だからこそあざとく「あーあ、じゃあ私一人で行っちゃうからね~(意訳)」みたいな連れてってアピールも欠かさない。

彼女の表象を以てエンパワメントの文脈に紐付けることも不可能ではないだろう。

相棒を背中に担いで戦うのは「エイリアン4」でもやっており、そこにも半身不随というハンディキャップがあるのでこの座組自体は実のところ初めてではないのだけれども。

 

また二項図式の並置でいえば、デクと兄の絆、その裏返しとしてのテッサとティアの行動にも表れている。どちらも兄・姉が弟・妹を自己犠牲によって救うのだが、それぞれの関係性の違いもまた妙味がある。
デクもティアもある意味で家族を失っているし。デクはある意味でっていうかそのまんまの意味でなんだけど。しかも家族によって家族を失わされたという点で悲壮感はダンチですが…それにしてもクウェイは戦士として死ぬ(武器を取る)のではなく、兄としてデクを救う(リモコンを取った)ことを選んだという、その絵的な説得力は流石としか言いようがない。序盤でこんな激熱シーン持ってくる手腕よ。

 

とはいえ、この感動を誘う「自己犠牲」というのもなかなかの曲者であるわけです。自己犠牲とは究極の献身であるため、それを現実で見ることはそうない。だから創作において描かけるのだし、それをもって感情を揺さぶられるのは当然でせう。
だからこそ安易な自己犠牲はプロパガンダに利用されうるという危険性や、「自己犠牲」の美徳が積極的に説かれがちでもある。だが、「自己犠牲」とは文字通り「犠牲」を出すことであるわけで、それが(たとえフィクションであれ)積極的に描かれることの是非は問われてもいいだろう。
しかし本作では冒頭でのクウェイの自己犠牲こそあれ、ティアもデクもそのような素振りは見せない。少なくとも自己犠牲のレベルまでの献身は(まあ実際微妙なとこだが)ない。
だから、そのような究極の献身行為としてのケアではなく、つんけんしたりするけれど助け合う。それを割とコミカルに描いている。カリスク戦での「テメーのことはテメーでやれや!(意訳)」とティアを無視して銃を拾うのとか(どうでもいいけどここの戦闘シーンの鎖の使い方は「AVP」のクイーン戦を想起させる)。

癒しや慰撫ではなく、かといって献身の極北としての「自己犠牲」でもなく、障ガイを乗り越えるために「手を取り合う」という基本的には誰もが可能な相互ケアを狩猟(サバイバル)の中で、それぞれのコミューンにおける異端/フリークスとして彼らはサバイブする。
そこには無性の利他だけではなく、ティアにもデクにも利己性がある。そこに何よりも感動するのだ。何もケアラーが(あるいはケアレシピエント)が聖人である必要はないのだと。
このエールにどうして鼓舞されずにいられようか。と、至極個人的な感慨を抱くのだった。

 

とまあ、事程左様に、この映画はある意味で意趣返しの映画でもある。

シリーズを跨いだ演出だけでなく本作だけでいっても、父への復讐方法、テッサのバスターの取り付け位置も逆、クライマックスのデクの武装もこれまでの「文明化」されたものとちがいすべて現地調達のオーガニック由来(肩のバスター含め!)という「文明的」なものへの意趣返しとしての「自然由来」な武装
全てが反転意趣返しなのである。


加えて、重要なモチーフとして都度都度言及してきたが、プレデター連中やウェイランド・ユタニの思想的パターナリズムやそこから導出されるマニフェスト・ディスティニーの信念、それを支える象徴としての「母」の概念も見逃せない。
たとえばテッサに指示を出すのは「マザー」だし、ラストカットのアレも「母上」である。
本作において相互のケアによってパターナリズムを超克したが、それを下支えする(あるいは結託する)無限の母性(マターナリズム)はラストに至ってようやく姿を見せただけで未だ顕在である。

正直なところ、この映画に続編があるとして(まあ十中八九作るだろうが)本作で提示した問題が解決されるとはどだい思えないが、しかしその問題提起そのものに私はワクテカが止まらない。というか、本作だけでも十分傑作であることには変わらないので、たとえ次作が駄作だったとして(「AVP2」の悲劇よ)も本作の評価は変わりますまい。

 

またこの映画の映像面での特徴…というか近年のアクション映画には多かれ少なかれその要素は入っているのだけれど、実にゲーム的であるといえる。

たとえば先にも言及した冒頭のデク墜落シーンの疑似ワンカット。

本作は全体に渡ってテレビゲーム的な感覚があるのだが、この冒頭のハラハラ感というのもいわゆるハクスラ的なそれに近似しているというか、ゲームにおける”カットシーン”からそのままシームレスにゲーム本編に突入していくような没入感を(逆輸入的に)援用しているように見える。

他にもアンドロイドの纏うカラーイメージの表象は「デトロイト ビカムヒューマン」的だし、クライマックスのバトルフィールドは「メタルギアソリッド」(のPW~TPPあたり)ぽいし。まあ、それらひっくるめて逆輸入的とはいえるだろうけど。

 

こねくり回した論を展開したけれど、普通に観ていても馬鹿らしくて楽しいビジュアルで満ちているので安心。

カリスクをおびき寄せるために火をつけて爆発炎上させただけなのに、まるでニチアサ特撮のヒーローが斃した怪人の爆発を背後に残心きめたみたいなスローカットとか爆笑もんですよ。

背後で爆炎が上がる中で決めポーズとか「東映特撮かよ」と思わず吹き出すような馬鹿馬鹿しい絵面もあったり、ともかく馬鹿馬鹿しい、しかし外連味のあるバッキバキのシーン(剣を投げて真っ二つにしながら腑分けしていくシーンとか)も盛りだくさん。

あとすでにキャメロンのところで言及しているけれど、過去作のオマージュもたっぷり。しかもプレデターだけじゃなくてエイリアンの。AVPから両者見つめ合ってからの大口開いて咆哮合戦も定番化してきていて非常によろしい。

半周まわってキャメロンはなんとなく何言ってもいい風潮はある(実際、発言とかターミネーターフランチャイズに対するスタンスとか隙は多いし、ビグローの方が良い映画作るとか言われがちだし、まあ自分もそう思うことはある。ていうか今回に関してもトラクテンバーグに対して朝令暮改な発言してるし。結果的に上手く行ったけども。

だが、そういう人間性はともかくとして、なんだかんだ言って世界観を含めたイメージのビジュアライズという点では優れたものがあるのは認めざるをえないだろう。そうでなければトラクテンバーグは引用しようとは思わないし、そもそも映像化に耐えうるものにならない。

何気に伏線の張り方も巧み。ホーンバイソンがカリスクのエサで、バドがそれを狙っていたことも後の伏線だし、冒頭の移動に使っていた牽引ビームの効果を提示していたので、その直後にクウェイがデクを逃すために船中に入れるのに使ったときも「なにそれ?」という疑問を抱くことなくすんなり頭に入ってきましたし

 

いやまあ、よく考えたらおかしなとこはあります。車から落とされた後に母船に戻るわけだけど、その距離感がおかしい。あっという間に帰還してるし。

でもまそんなことはこの映画にとって何の瑕疵にもならないので。

 

ちなみに吹替え版はタイトルがちゃんと日本語になってます。気が利いててイイネ。

 

まさか「プレデター」で1万字超えるとは思わなかったけれど、なんだかんだ一言でまとめることができる。

大傑作。