「GONIN」
以前観た記憶があったのだが、内容をほとんど覚えていなかった。というか理解できていなかったのだなと改めて。
今見るとスローの演出とか気になる点もあるにはあるのだが、ぶっちゃけそんなの気にならないほど面白い。たけしが武映画みたいなたけしをやりながらも、自身の映画では盤外に立つことが多いのとは逆に(ってわけでもないか)能動的に動いていくのが面白い。
なんにせよ皆が皆死ぬというのが面白いのだが、どいつもこいつも情念に殉じて死ぬものだから湿度が高い。現に画面上も雨が降ったり滴る音がしていたりと湿気がむわむわしているのだけれど、やはりもっくんと佐藤浩市のホモソーシャル・ホモセクシャルな関係性とその出会いのエッジの効きすぎた(からのデレぐあいがクソ可愛いのだが)描写がかつてないもので萌える。
竹中直人の過剰演技もこのイっちゃったキャラにはぴったりだし。たけしもたけしで舎弟との歪なホモセクシャルな関係性に執着していて(ていうかDVぽいのだが)、舎弟も舎弟で幼女の死体の前で誘い受けのセリフ吐き散らして襲わせてんの面白すぎませんか。とはいえ描写自体はかなりえぐいし、長回しの見せ方も上手い。ジミーが拷問されてる前方でナミィが強姦されてるところのカメラワークは「X-MEN ファーストジェネレーション」のマグニートの拷問危惧カットシーンに似た怖気を感じましたよ。
最後までチョコたっぷりで、ラストシーンのあれはちょっと武映画ぽいギャグで普通に笑っちゃった。いや悲しいシーンではあるのだけれど、それはつまり喜劇でもあるということなので。
「GONIN2」
1ほどの完成度や淫靡さがなく、せっかくのウーマンスモチーフも(ていうかテルマ&ルイーズみたいなのがやりたかったのかもだが)上手く機能していたのかわからない。1のホモセクシャルなエロい関係性が官能的・有機的に描かれていたのに対し、こっちは登場人物の行動原理がいまいち理解できない。
事故的に居合わせた5人が成り行きでヤクザと争うことになること自体に問題があるというよりも、石井隆が女性を描くことができていないのでは。その代わりに導入されるレイプによるトラウマ(これも大仰に提示した割には特に意味ないし)だったり夫の不倫現場にヒスってしまったり、若さに妄執してセーラー服でテレクラやってたり、それらがキャラクターを構成する成分になっていないように思えてしょうがない。
大竹しのぶのはっちゃけは観ていて面白いけれど、それって大竹しのぶの面白さであって彼女の演じた登場人物や映画それ自体の面白さとは別の位相でしょうし。すぐ死ぬし。
まあ、「あたしもう生きていけない!」が桃井かおりすぎて盛大に吹いてしまったんで何も言えないんですが。
被ったらタガが外れる効果でもあるのかと思うマスクとかそうなんですが、とにかくテンション高くして叫んだり踊ったりしてるだけで登場人物の人となりが分かるわけではない。
袈裟切りされて血止まるわけないだろとか、なんで泳げてるんだよとか、そもそも何で泳いでんだよとか、なんかもう全体的にやけくそ感が漂う。
緒形拳にしても生命力強すぎか。
勢い100割の映画のため、少しでも疑念を抱いた瞬間にこの映画には乗れなくなってしまう。で、私は乗れなくなった。
とはいえ、余貴美子だけはこの映画において映画そのもののテンションに乗せられることなく、かといって雑な演技をするでもなくクールな役どころを貫いていて良き。
まあ最初のグラサンとかやっぱダサいというか、もうちょっとどうにかならなかったのかとは思うが。
昭和のミリしらコンテンツが一つ。2013年に大幅な設定変更がなされたときに話題になってたな~くらいの印象でしかなかったのだが、このアニメ映画は一応オリジナル設定の原作の一話をアニメにしたものということらしいが、詳しいことはよく知らない。
原作履修済みなことが了解されているファンムービーとしての趣は大きいが、一応はメロドラマがあるのでそれを追うことはできるのだが、まあいかんせんぎりぎり昭和というかなんとか平成という感じではあるのでロミジュリを臆面もなくなったりSEがキラキラしてたりとちょいちょい恥ずかしくなる場面もあるにはあるのだが、しかしこれは耽美系の作風であることを考えるとありなのか。
そもそもの設定からして女性の扱いが完全にモノ化してるんだけれど、本作では絶妙にBLな風味なボードとソープのカップリングのおかげで上手く(いや上手くはないのか)回避できている気が…いやそっちに興味のない人にはフックにならないか。
モブに山寺とか島香裕とかいるのが面白い。
「ポルターガイスト」
これトビー・フーパー監督だったんですな。今見ると、というか今見てもSFXのクオリティが高くてまったく違和感がないのが凄まじくその物量もふんだんで面白いのだけれど、しかしそうであるがゆえに博覧会的なドヤ顔が見えるというか。
スピルバーグ製作かつフーパー監督ってバランスのせいなのか、比較的ホームドラマな空気感が漂う割に(それ自体が助走といえばそうなのだが)、結構えぐい描写がある。鏡の前で自分の顔の肉をそいでいく幻視シーンとか普通にグロいですし。
一件落着したと思いきや…の後が長いのだが、全体としてのランニングタイムは120分切ってるという妙なバランス。
名匠アルドリッチの最後の作品、ということになるのだろうか。
最初から最後までどんよりした映画で、レスリングという興行の清濁の濁を特に描いているような映画だった…。アルドリッチといえば私のような見識の狭い輩からすると「何がジェーンに起こったか?」の印象が強いわけで、あれも映画産業の一つの闇の側面を描いたものと言えるだろうか。
なんというか、ウーマンスにならなかったウーマンスというか、あるいは「ロッキー」のダークサイドというか。ああいう役(エディ)にバート・ヤングを当てているということからもそれは狙っているだろう。
多分、自分が「ロッキー」シリーズに乗れないのはそういう「理想化された(男の)夢」の陰としてのこの映画のような世界を先に知っていたからだろう。
にしても男が一人挟まるだけでこうも瓦解するのかと。いやもちろんセクシズムとマチヅモが興行内部に蔓延っているがゆえの挫折ということなので、あくまでその世界の中で成功を望む時点で予め男根主義的世界の穿孔という可能性は摘まれているんですが。
文字通りの泥試合に至るまでの即落ち2コマからのアイリスとハリーのDV関係の提示。
とにかくいたたまれない。
八百長上等だし、その八百長すら反故にするのも当然のように描かれるし。マフィアの存在が脱臭されているのか女子レスリングにはそういうものがないのかそれはわからないけれど、ハリー程度の小物でもそういった手が通用する程度のある意味ではしょぼい世界でもあるということも言える。
最後の試合に至ってレフェリーが巻き添え(確信犯)でダメージ食らった瞬間に吹き出してしまったのだが、その直後に沸く観客のショットの連続を見せつけられて一瞬でスンとなってしまった。
これで笑うことはこの観客たちと同じような底意地の悪い笑いに同調することなのだと。
だからラストの勝ち誇ったシーン(これもロッキーを意識しているだろう)も、それまで散々ダーティな裏側(それこそ枕営業的なものも含め)を描いたうえであえてエモーショナルに仕立てているので、それはむしろ悪意によるものに他ならない。
「ゼイリブ」も真っ青な最後の試合の長さというのも、一貫した爽快感のなさも含めて影を切り取ろうとしているのだろう。
そういえば観ていなかったな、ということで見る。
夫婦の不和から親権を争う法廷ものの様相を呈していくわけだが、話自体に特段の目新しさはない。むしろ今の観点からするとジョアンナが描かれてなさすぎるとかテッドがDV気質ではとか言われかねない。ていうかまあ直接的に手を出してないだけで料理失敗(ていうかフライパンで火傷)してキッチン蹴ったり待ち合わせた店のグラスを割って出ていくとか、彼の方がいわゆる”ヒステリック”な人間に見えるわけで当時からしてもアレだったのではないだろうか。
しかし、そこはメリル・ストリープ。相対的にダスティン・ホフマンよりも出番が少ないが演技でその内奥を滲ませてジョアンナが単に身勝手で無責任な母/妻ではないことが分かる(もちろん法廷上の情報もだが)。
ダスティン・ホフマンにしても、そういったものに当たる嫌な夫/父であるだけでないことは(いうまでもなく物語の都合上不都合になるので)たっぷり演技で見せてくれる。
これはまあ、あまり還元してしまうのもそれはそれで問題になりかねないのだが、息子の母親への執着の描かれ方からすればテッドがいかに家庭を顧みていなかったか(家事育児のできなさ含め)が分かるわけで、であればこそランニングタイムの大半を費やして彼が息子と向き合う時間が描かれるということは相対的にジョアンナの方が親としては(少なくとも映画冒頭までは)正しかったということの証左にほかならない。
法廷での舌戦の意地の悪さも含め、どちらも単なる善悪(あるいは男女)の二元論に落とし込まない着地の仕方もスマート。
細かい部分で言うと、私は特にクロースアップされていないときの「手(元)の動き」というのが気になるたちで、この映画においてはダスティン・ホフマンがテッドというキャラクターのある種の落ち着かなさ・座りの悪さ(が帰納的にものに当たる気質に繋がっているように思える)が現れている。
息子とアイスを食べるシーンにせよ、ジョアンナとの待ち合わせの際にグラスを一々動かしたり、上司とのディナーの際も同様で口に運んだグラスを一度皿の上に乗せかけてしまったりのがたまらない。
という変なフェティッシュにも刺さる映画だった。