dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

始まりの始まり

センター試験の日に「キッズリターン」を放送するというのも中々に悪魔的なことをするなぁBS11は。

しかしこんなにも良い映画だったか、この映画。遠い昔、遥か彼方の記憶の隅にこの映画の記憶はあったのですが、改めて見るとなんだかすごい映画だなぁと。単純に「良い映画」と言うと語弊がある気がするのは、多分そのまんま単純に「良い映画」ではないからだろう、と。

ここ数日は体調がずっとすぐれなくて、昨日ようやく持ち直したと思ったら今日また体が怠いという体たらくだったので、昨日リアタイで観れたのは良かったかもしれない。 

 

大方の人が青春映画の傑作としてこの映画を挙げている。まあ、それはわかる。しかし、これはなんというかある種の軛に落とし込んでいるように思えてしまう。それは北野映画に独特の間(人物がいなくなったあとも1~2秒ほどカットを維持し続けたり)や青春を語るにはあまりに青い画面にもあるわけですが、そういう手法としてではなく、もっと根本の部分に青春映画とは別の何かがあるように思えてならない。

まず、冒頭の舞台袖から謎の(この時点では)漫才コンビの漫才をカットを割らずにひたすら撮り続けたかと思えば、まったく別のシーンに移る。この時点ではこの漫才コンビが一体どこのどいつでどういう意図で配置されているのかわからない。それでも否応なく映画は進んでいき、マサルとシンジの「日常」をカメラが収め始める。

イタズラ(とするにはあまりに過剰なものも含めて)やカツアゲ、タバコに酒とPTAが卒倒しそうな素行を、ヤンキー映画・漫画のようにカッコよく描かない。さりとて、特段批判的に描くわけでもない。ただ「この二人はこういうやつだから」という以外の意味はない。マサルとシンジ以外の人物たちもそんな感じで描かれているように見えるのですが、それが青春映画の持つ叙情性を排他してる要因でもあるのではないかと。

笑える部分とかも一々指摘してもいいのですが、それよりはもっと構造的な楽しみ方をするべき映画なのではないかと思います。いや、笑いの部分もカットの間とかくだらなすぎる人形とかカツアゲ(カツアゲされるのがクドカンというのも今振り返ると面白い)とかジャブとか橋田先生が車のタイヤ蹴ったりとか一々笑えるわけですが。切られた左腕をシンジの背中によっかかることで暗に示していたりとか、そういう細かくもあざとくな演出は見事ですし。まあそういうのは観て感じるのが一番だとは思うので。

ほとんどの人物が二人組なのとか、あれはやっぱり漫才コンビとしてのビートたけしを投影しているのかなーと思ったり。実際に冴えない二人(いじめられてた方)が漫才やっていたり、不良トリオをわざわざ二人に分割して残った一人を漫才コンビに憧憬させたり、ヒロシくんにまで相方をつけさせたりするわけで。なんにせよ二人組ということに意識的であることは間違いないでせう。

たとえば、人物をペアにして配置することで同じ環境にいる人間に異なる二面性を持たせている。ボクシングジムの会長とシゲさんのアメとムチ(ってほどアメはないけど)だったり、ハヤシとイーグルというダメな先達と良か「った」先達とか、不良であるマサルとシンジの別々の道に行ってまた同じ地点に戻ってくるのとか。

あとは広義での「親」を見つける話でもありますね、そういえば。

ただ、それをことさら露骨に描くのではなく「だって、ヒトってそういうもんだろ」という姿勢があまり他の監督には見られないクールさなのかな、と。ニヒルなのともまた違って、少なくともたけしの映画には何らかの情みたいなものはある、と思う。そうじゃなきゃそもそもこんな映画撮らないでしょうし。

愛のある傍観者、というスタンスというか。映画というフィクションとしての事実を本当にそのまま撮っているような無機質な距離感。だけど、眺めることはとても大好き。その大好きという部分が情感というか。シンジたちの物語の裏でひっそりと描かれる津田寛治が演じるカズオの末路なんかは、まさにそんな感じではないでしょうか。かといって、そういった不条理さだけではなく漫才コンビの二人のような素直さが引き起こすラッキーもこの世界にはあって、あるいはまた一度落ちても再起しようとする人間もいる。そういった「色々あったな・・・(byマイ伝stsk)」な人・世界の「色々」をこの映画の中で表現しようとしているのではないだろうか。

 

そうそう、音楽も印象的でしたね。 

タイトルが出てくるまでの久石譲のスピーディな音楽(全体的にこの作品における久石譲の音楽はローギアなハイテンションとでも言いたくなる)と流れていくコンクリの映像と相まって最高なのですが、宮崎駿作品における久石譲の仕事とも違っていて新鮮でしたが、エンドクレジットの最後までそれが続くので耳心地も良い。

あと森本レオ森本レオっぽさのない演技とか、ちょっとびっくりしました。どこにでもいそうな、普通に嫌な感じだけど決して悪人というわけではなくむしろ誰にでもある人に対して怠惰な部分のある人間というのを、森本レオがやるというのはイメージがなかったので。

 

 北野映画は全体的にドライですが、まあ火というのは乾いた空間でこそよく燃えるわけでして。

奇妙な三人組

なんか時折見せる「狂(おか)しい」感じがジャック・ニコルソンぽいなーなんて思っていたら、なんと本当にジャック・ニコルソンだった。今と体型違うし「シャイニング」の七年前とはいえ、あちらほど狂気を放ってはいなかったから気がつかなかったです。「チャイナタウン」はすぐにわかったんですけど・・・言い換えればそれだけ幅広い演技ができるということなのでしょう。

ちょっと映画本編とは関係ないですけど、ニコルソンのウィキを眺めていたらアニメーション方面の才能もあったらしく、完全に後追いの世代とはいえ彼の底なしっぷりに怖くなってくる。「ありがとう、トニ・エルドマン」のリメイクを狙っているというのも、ニコルソンのイメージからはあまり想像できないことだったので、そのへんも含めてこのハゲデブのおっさんの底がいよいよわからなくなってくる。

で、そんなニコルソンがメインを務める、たまたま観た「さらば冬のかもめ」は個人的にオールタイムベストにくい込む映画だったりする。「大いなる西部」との出会いもそんな感じでしたが、こういうことがあるからBSはこまめにチェックせざるを得ない。

 

個人的には隠れた名作という感じだったのですが、ウィキの充実ぶりやそこに載っていたリンクレイターの続編構想(来年に公開予定の「Last Flag Flying」がソレらしい)などからまったく隠れていない名作だったことを知る。ただね、ウィキの冒頭の「~アメリカン・ニューシネマの佳作である」の「佳作」の部分を誰が書いたかわかりませんが、明らかな恣意をそこに書くなバカタレ。まあこれはおそらく全体の大意としてではあるんだと思いますが、「アメリカン・ニューシネマ」というのもオチを考えるとちょっと違うような気も。全体的な雰囲気はわかりますが・・・だから最後の部分が個人的には気に入らないのかもしれない。気に入らないというより、道理に合わないというか。

 

ノーフォーク基地に勤務する海軍下士官のバダスキーとマルホールに罪を犯した新兵をポーツマス海軍刑務所に護送する任務が下る。その内容とは基地の募金箱から金を盗もうとした男、メドウズを護送することだった。盗んだ額は僅かに40ドルだったが、募金箱がたまたま司令官夫人が設置した物であった為に懲役8年を言い渡されていた。どうでもいいことですが護送に使うのが普通の公共交通機関なのが意外、ていうか時代なのかどうかとか思ったり。

設定としてはこれがほとんどすべてで、映画で描かれることはこの刑務所までの道程でしかないわけですが、その道程のすべてが胸にキュンキュン来るわけです。

当初は楽に金がもらえてついでに遊ぶこともできて楽勝楽勝とバダスキーもといバッドアスだったものの、実のところメドウズは金を盗む前に捕まっていたり盗み癖がついてしまっていること(現代では万引きグセというのは病として見られていたりもするわけですが)や、向こう8年は陰湿な海軍の連中にいびられまくるであろう彼の境遇の不憫さ(その規則自体が疑うべきものであるのに縛られていることなど)にほだされて、刑務所までの数日に京楽を教えてやろうとするわけです。

その場その場の思いつきで行動するお酒大好きパパなバッドアス、規則正しく面倒事を避けようとするストッパー・お母さんなミュール、そして何も知らないダメダメな童貞ムスコなメドウズの一種の、というよりまさしく家族の物語であるわけです。そういう意味ではファミリームービーでもありますな。

お話としては本当に上で述べただけのことで、実のところは本編を見ろとしか言いようがないくらい役者のアンサンブル・ディテールだけでできている映画な気がします。

 

だから、できる限りそういうディテールを書き連ねていく以外に語るすべをわたしは知らない。

たとえば、チーズバーガーを注文するところで、チーズを溶かしてくれと注文したけれどメドウズのチーズが溶けていなくて、けれどメドウズは「これでいいよ」と言うのに対してバッドアスがウェイターを呼んで「チーズを溶かしてくれ」と言ったり(これは後の目玉焼きの半熟のくだりにつながっていくのですが、ここでのちょっとした笑いとかも本当にキュンキュンします)、せめて牢屋に入る前に酒を飲ませてやろうと見知ったバーに行くと店員が変わっていて「未成年に酒を飲ませるのは法律違反(メドウズは未成年)」と宣ってあやうく銃撃沙汰になりそうになったり、そのあとに酒を買ってホテルで三人でダラダラ飲んだりするくだりは、もう本当にダメなおっさん・大学生の縮図です。余談ですが、酒に関して滅茶苦茶横暴な態度を取っていたのパートの横暴っぷりで「この人ニコルソンぽいぞ」と思ったのですが、実はその前から薄々顔が似ているなとは思っていて、けれどチーズバーガーのくだりでやたら丁寧な振る舞いだったから「やっぱり違うか」と思い直したりしたので、ニコルソンに対する自分の評価が図らずも表出した気がします。

それでまあ、このホテルでの三人のただ酒を飲んでいるだけのシーンとかも本当に最高で、色々とあるのですが、ちょっと打ち解けたかもとメドウズが思ったのかバッドアスに話しかけるときに人差し指で彼の肩をツンツンとつつく(萌えポイント)控えめでおずおずとした指ツンが最高に可愛い。全体的にメドウズの童貞臭のする(ていうか実際にこの時点では童貞なんですけど)所作がたまらんです。

折りたたみのベッドのどれに誰が寝るかという至極どうでもいい部分でやたらこだわるミュールと、面倒くさそうにするバッドアス。そしてすでに一番広いベッドのうえで寝てしまっているメドウズ。この直後の、バッドアスが開いた折りたたみベッドが190度くらいに展開していたりするのが滅茶苦茶笑えます。

そんなチェリーボーイに快楽(酒・女)を手ほどきするバッドアスと冷静なツッコミ役として二人を見守るミュールの関係性萌えという部分でも、もうキュンキュンします。

 

ホテルを後にして電車で目的地に向かう途中、メドウズの母校である中学校を見かけて降りることにしたり、そこでの彼の実家を巡る一連のやりとりや寒そうにする演技のディティールが最高です。

トイレでの乱闘やらダーツでの賭け事(勝ったお金をしっかり三等分するところがバッドアスのさりげないメドウズへの優しさ・仲間意識だったりして泣ける)やら、唐突な日蓮宗のパートなど、シーンごとに一々面白くて困ります。日蓮宗のところで簾越しに立ちすくむ三人の絵ヅラや、幸せについて歌っている歌だけに好印象を持ち嬉しそうに日蓮宗の歌を口ずさむメドウズに対して、それが胡散臭いものであるとわかっているがゆえに面倒くさそうにしているバッドアスの、かみ合わない表情の見合わせるところとか最高です。

南無妙法蓮華経を口ずさむメドウズは終盤まで見れるわけですが、セックスしたいがために南無妙法蓮華経を唱えるバカバカしさとかたまらんです。

そんな童貞な彼をバッドアスたちは売春宿に連れて行ったり、その売春宿で娼婦を選ぶメドウズを薄ら笑いで生暖かく見守るミョールだったり、手コキ数秒で発射するメドウズだったり、時間制じゃなくて回数性だったがためにまた料金を支払わなくちゃいけなくなったり、童貞特有の初エッチの相手に恋心が芽生えてしまうくだりだったり、雪が降っていて寒いのにわざわざ外でソーセージ焼いたり、ともかくもうこの卑近な日常性がとても愛おしくたまらなく愛らしいです。もちろん、そこにはメドウズのタイムリミットがあるがゆえではあるのですが・・・問題はその部分にあるのではないかと思う。

オチがどっちに転ぶかなーというあたりで期待しつつ観ていたんですが、最後が煮え切らないまま終わってしまったのがモヤモヤ。最後以外が大好きすぎるがゆえにモヤモヤしてしまっているのですが。 

つまり、この映画における唯一の不満点として、ラストのある展開があるわけです。

この映画は「欺瞞的な正しさよりも馬鹿馬鹿しい楽しさ」を促しているのに、ラストがその「正しさ」にも「楽しさ」にも振り切らない。そもそも「正しさ」という部分はその旅路=過程において唾棄している以上、「楽しさ」もとい反規則に振り切るほかないと思うのですが、そちらにも行かない。

煩悶としつつも、メドウズは刑務所に入れられ(あおりのショットが物悲しい)、バッドアスとミュールもメドウズの殴ったことで上官に説教を食らう。そうして不満を口にしながら二人は寒空の下を歩いて行って日常へと戻っていく。

うーん、歯がゆい。これは明らかに意図していたものであるわけですが、創作の世界に没頭する理由が「何か奇妙なものや逸脱したものを見たい」という部分が非常に強い自分にとってはもっとも収まるべきところに収まってしまってモヤモヤするのでしょう。かといって、二人がメドウズを逃がすというのはあまりに出来すぎている(それでも個人的にはそのほうが二人が規則から完全に逸脱するという点で爽快感は得られると思うのですが)ので、たしかに創作物としてありきたりではあるかもしれない。

終わりなき日常への回帰という閉塞感は、この三人が好きになればなるほどに受け入れがたいわけですが、それはこの映画の持つ達観した姿勢にあるわけで、それを受け入れられない自分が幼稚なだけとも言えます。

長回しが印象的で、下手にカットを割らないおかげで、時間が引き伸ばされているようにも感じて(「さよなら、人類」ではこの手法がある種の苦行ではあったのですが)この映画に浸っていられるのもすごい幸せだったんですが、このラストはあまりにも苦い。

この「さらば冬のかもめ」という映画は、ほかの多くのアメリカン・ニューシネマの映画を観たあとにこそ観るべき映画だったのかもしれない。イーストウッドの「許されざるもの」が多くの西部劇映画にとってのカウンターであったように。

 

ベイの爆発で岸恵子が吹っ飛ぶ

川端康成の「雪国」の最初の映画化である57年の「雪国」を観て、作品の内容に反してかなり落ち着いた雰囲気になっているなーとか岸恵子に萌えたりとか色々と感想はあったんですが、「雪国」を観たのその直後に「最後の騎士王」の特典メイキングを見たばっかりに大半の印象が吹っ飛んでしまった。

 

とはいえ豊田四郎の「雪国」はかなり好印象な映画ではあった。

登場人物が一面的でなく面倒くさいのがとても面白く、特に岸恵子の人間の女性的な面倒くささ(女性は男性に比べ精神的な繋がりを重視する、という生物の一部分)が溢れていて観ていて愛らしくもウザったいのですが、声音のせいでもあるのだろう。声とあざとい演技の相乗効果でウザったくも可愛い(「ウザ可愛い」という、ウザさが可愛いというのではなくウザさと可愛さが並列して現出している重層性)のである。

その重層性というのは、おそらくはその人生のがんじがらめな部分から来ている。池部良への愛欲と、それゆえに生じる伏した許嫁への罪悪感。「青い山脈」で特徴的な声で印象に残っていたので、すぐに池部良だとわかったのですが、こっちもこっちで男のプライドというか「女に言わせないと負け」とでも表現したい面倒くささとか、ともかくこの映画は人間のディテールを楽しめる。八千草薫の不平不満を募らせた演技もよござんすよ。この人も泥沼に片足を突っ込んでいて、最終的には沼に浸かってしまうわけですが。

「色は色、旦那は旦那」という至言が劇中の人物から岸恵子に向けられるわけですが、そんな簡単に割り切れるなら苦労しねーんだよ!というのがこの作品の構造そのものにあるわけで。

一種の、というか普通に男女の恋模様を描いた映画でもあるわけですが(特に前半)、昨今の義務的に作られている恋愛映画とは違って距離感を保っているのがクールで良かったです。「ここのカット今だったら絶対にバストのアップだろうなー」という部分もやや引き気味のカットで撮っていたり、それこそ本当にキスの瞬間に寄っていったりするくらいで、そういったベタつかない演出のおかげであくまで「人間の面倒さ」という構造を覆う表皮としての「恋愛」に留めているのがカッチョイイ。

あと細かいところで事後のシーンで岸恵子の着物の右肩の部分だけが少しはだけていたりとか、そういうエロさへのディテールも凝っているので観ていて面白い。

イタコっぽいあの人とか、出てくる人がみんな印象的でしたな。

まあごちゃごちゃ言わずに岸恵子に萌えるためだけに観るのもアリですが、こういう女が苦手な人もいる(というか自分もそういう部分がないわけではない。笑えるからいいのですが)ので、そのへんはあしからず。

 

 

で、問題の「最後の騎士王」の特典メイキング。

いやーなんていうかね、マイケル・ベイの破壊へのこだわりは異常ですね。前からわかってはいましたが、このメイキングでちょっとよりその異常性が浮き彫りになったきが。

まずね、ダークサイドムーンで廃墟と化したシカゴの町並みを再現するためにデトロイトでロケをする、というメイキングのチャプターがあったのですが、そのためにわざわざシカゴに走っている電車の車両をデトロイトにまで持ってきて線路を作って・・・ってアホか。運輸省と数ヶ月かけ合ってようやく運べたとかさ、普通はそういう面倒な部分はCGで済ませるでしょうに、ベイはわざわざ実物を持ってくるのだ。

なぜか。壊したいから。

あとね、冒頭の中世のシーンて6分しかないんですけど、そのシーンのためにどれだけお金をかけているという。ここもほとんどCG使ってないんですよ。

それどころか、本来ならCGで合成するところを予算に余裕があるからとエキストラを数百人単位で投入するという。そればかりか戦闘の地形を整えるために重機を使って窪みを作ったり、もう色々とやばい。巨大な転がる火の鉄球もあれCGじゃなくて実際に作ってるというのがやばい。

そりゃ金かかるわ。エキストラ分の衣装も用意しないといけないわけだし、衣装とか小道具とかセットもかなり凝っていてさらにバジェットを想起させるという。

そのくせ見せ方が上手くないというのが輪をかけてやばい。先ほどのシカゴのシーンで子どもが墜落した宇宙船に登るシーンがあるわけですが、この登るシーンのために実際に部分的にセットを作ってCGでさらに巨大化させたと言っているのですが、見せ方が下手なせいでその巨大感があまりわからないという始末。

ストーンヘンジを壊せないから代わりに作ったり、名所をで破壊の撮影をしたいけど実際には破壊できないから、傷をつけないために18トンのコンクリートの柱を作ったり、ちょっとこのメイキングはハリウッドのパワーを見れるという意味でかなり面白い。

そういう技術的な面では下手くそなのに、「壊す」ということに関しては無駄にこだわりを見せているがために規模が大きくなっていく。

破壊のために創造するマイケル・ベイという人間は、映画を監督して完成させることよりも単にその過程で物をぶっ壊すことが好きなだけなんじゃないかと、割と本気で思ってしまった。

頭おかしいでしょ、この人。ぶっちゃけメイキングのほうが面白いんですが、メイキングを見たあとで本編を見るとその無駄っぷりとかが楽しめていいかもしれない。

そうそう、ようやく吹き替えの方をちょろっとだけ見たんですけど、イザベラも含めて子供たちの声が浮きすぎてませんかね。デブの明らかにデブっぽくない声とか。演技が云々とかは置いておいて(ガキどもはすぐにフェードアウトするから)も、イザベラの声はヘタとか上手いとかではなく浮いてる。まあまだ冒頭をちょろっと見ただけなので見ていくうちに慣れるかもですが。

あと何回見てもビンタ一発D堕ちるオプティマスに吹き出してしまう。

ゼメキッソスと逆の立場

前から気になっていた「コンタクト」をようやく見た。

「メッセージ」のときも「インターステラー」のときも名前に上がっていて、見よう見ようと思ってはいたのですが2018年になってようやく見れたどす。

試写会の前日に突然嘔吐してしまってからこっち、あまり体調がよろしくないので記事を書くのも割と面倒というかしんどかったりするのですが。それでも「コンタクト」は色々とおもしろい映画だったのでつとつと書いて行こうと思いまする。

 

カール・セーガンの同名小説を原作とした映画なのですが、通例通り未読。ていうかもう原作に触れたことがあるときだけ書くようにしたほうがいいですな、こうなると。

セーガンの名前くらいは知っていましたし、大まかなあらすじも聞きかじってはいたのですが思っていたのとまったく違う映画だった、と。

いやーこれ「メッセージ」とも「インターステラー」ともまったく(後者に関してはまったくというわけでもないけれど)違う話でしょう。「未知存在とのファーストコンタクト」というガワは同一ですけれど。

あれらは極めて真面目にSFしていて上手く虚実を交えて巧みな嘘=劇中の理論で騙してくれていたのに対し、こちらはそういったプロセスを省き、そしてファンタジックかつチープに描いてみせている。チープというとやや聞こえが悪いのでB級感といったほうが適切かも(結局一緒か)。

ゼメキスは結構映像表現としてのテクノロジーを、イノベーターとまではいかずとも早い段階で積極的に取り入れているようには思っていましたが、この映画でもバリバリCGを多用しています。「フォレスト~」の木の葉のシーンが当時の北野映画一本分の予算であるくらいには金を掛けていたわけで、それを考えるとSF映画でCGを使うというのは当然の采配とも言える。もちろん、今の目で見ると荒削りではある。それでも「リターナー」よりも5年早いと考えると許容範囲でしょうか。

 

ただまあ、ゼメキスが単純につまらない映画を作るわけもなく。映像の繋ぎ方・見せ方は工夫が凝らされていて、人の顔から空に向けられて戻ると時間が経過していたり、パパの薬を二階に取りに行くシーンなんかはどうやって撮影したのかわからんのですが、鏡をうまく使った見せ方をしていて、当時の質感の映像でこういうギミックが見れるとビックリする。まあ「ジュラシック・パーク」の後なので、よく考えれば何も不思議なことではないのですが。個人的には冒頭の地球からどんどん距離が離れていくにつれて音声の語っていることが過去になっていく演出は滅茶苦茶良かったんですな。26光年先に届く情報と地球上で現在流れている情報のラグが説明なしに音と映像だけで伝わってくるこの演出はやっぱりいいですよねー。

あとエリーのワームホール通過シーンとか、「ドクターストレンジ」のあのトリップじみたシーンの部分的な引用元なんじゃないかと思うようだったりしますし。異星人の招待によってたどり着いた異星の正体が「ソラリスっぺぇべ」というのがあったりしますが、思い返してみるとイーガンの祈りの海だとか「真心を君に」とか「楽園追放」だとか結構印象的に使われているような気がしますがSFと海・海辺ってなんか繋がる論拠があったりするんだろうか。一つ目はともかく後ろ二つは孫引きという可能性もありますが。それにしても我ながら知識の偏りがアレすぎて困る。

 

個人的なタイムラインが「メッセージ」と「インターステラー」を見たあとということもあって、内容がまったく違うという意味でもこの「コンタクト」が言わんとしていることは中々興味深い。

雑ソウ記の方でわたしが前に書いた記事にも通じるのですが、科学の立場と宗教との差異が描かれているのが上の2作と違っておもしろい。まだスピリチュアルが今以上に説得力を持って受け止められていた時期だからこそ、というのもあるでしょう。原作が発表された年代はニューエイジが活気づいていた時期でもある(劇中でも登場人物がニューエイジの甘言がどうのこうのという部分がありましたし)のでしょうが、宗教と科学のテーマは今でも語り得る切り口ではあるわけで。自分自身は、どっちがどっちって議論は「鶏が先か卵が先か」だと思っているから決まりきったことは言えないけれど。一応、卵の形成に関わるタンパク質がメスの卵巣で作られるという研究結果から、科学的というか物理的には鶏が先らしいです。

オッカムの剃刀の反転とか「おぉ」となりましたし、科学者を宗教と相対化させるというのはありがちなテーマといえばありがちですがやはり面白いものではあります。

 

 

だけどねぇ、脚本がいかんせん雑。カール・セーガンの著書などを考えると本作もおそらくは原作に比較的忠実に(少なくとも伝えんとしている部分は)なっているはず。原作未読につきどこまでが原作のせいなのかはともかく、映画「コンタクト」はSFに重要なディールが欠けているんですよ。

最初に波長を拾うまでのシーンはまだいいとして、その後のディティールの適当さときたら。解析できなかった異星人のメッセージを伏線があったとはいえ突然登場したハッデンが、そのプロセスを描かずに解析していたんですよ。そこは普通、主人公たちがやるべきとこじゃろうて(この部分はテーマにも深く関係しているので後述)。「○年後」の一文だけで事態を大きく進行させる手法を使って気づいたら宇宙船完成してるし。あの宗教家はどうやって侵入したんだ、とか。ともかくプロセスを省いて結果だけを提示しているのでSFとして楽しむのは結構キツイです。唯一プロセスが描かれるのはエリーのワームホールシーンだけですからね。というか、ここすら省いたらもはやSF的見所が皆無になってしまう。しかしわたしはテーマを考えるとここすら省いてしまうぐらいのほうがむしろいいんじゃないかと思ったりしますが、まあでもエリーに感情移入させる作りである以上は「個人の体験に依拠している」という科学における不確かさを観客に体感させるためには必要か。そこから科学と宗教(似非科学含む)についての思考をスタートさせねばいけないわけだし。

盲目設定のウィリアム・ヒクナーの持て余した感じとか。彼のの演技自体は素晴らしいのですが、軽い扱われ方しかしないのがもったいない。そのギャップに笑えるけど。

 

た・だ・し、最後まで見れば、上記の文句は話の構造上ある程度は仕方ないのかもしれない。結果だけしか描かれないのは、科学というものへの大衆のスタンスそれにほかならないからだ。わたしたちの多くは科学の、それによってもたらされる恩恵のプロセスを知らない。今この瞬間、この文字を打つためにコンピュータの内部でどういったプロセスが行われているのか事細かに記述できるだろうか?普通に使っているスマホは?車は?電車は?

つまり、本作の主役であり科学者でもあるエリーは、その実として一般人たる我々の投影でしかない。なぜなら、エリーはこと異星人のメッセージの解析においてほとんど何もせずハッデンに解析の結果を渡されるだけだからだ。このハッデンという存在が極めてファンタジーなわけですが、テーマを考えるとこれも意図的なものなのかもしれない。科学を知らずに使っているわたしたちには、科学がなんでもできるファンタジックなものに映り、それを解する科学者は魔法使いに等しい。異星人のメッセージを解読できなかったエリーにとって、ハッデンはまさに魔法使いなのだろう(本編が終了しても彼の自作自演だったのかどうかは明らかにされないが)。

そして、そんなエリーに科学と人の幸福についてマコノヒー演じる神父損ないのパーマーが問いかける (どうでもいいことですがインターステラーのマコノヒーを思い出そうとするとジョンタトゥーロが邪魔してくる)。これは宗教から科学への問答にほかならない。

だから、過程をバッサリ省いているのはテーマ上仕方ないのかもしれない。SF的でありながらSF映画としての面白みがあまりないと文句を言うのは、勘違いしたこっちがないものねだりをしているだけにすぎないとも言える。だとしても衣装とかセットとかはもうちょっとどうにかなったんじゃないかと思うけど。

その割に実際にCNNのリポータ使ったりラリー・キング・ライブも使ったりするし、必要以上にクリントンが顔を出してくるし。「ちがう、そうじゃない」といった方向のリアリティがこれ見よがしな上に合成甘い部分があって気になるんですが、「フォレスト~」のケネディなどからあるからゼメキスは気に入ってるのかもしれない。

あと劇中に登場する日本人に爆笑。いくら20年前とはいえクリシェがすぎるだろうと。律儀にジャパニーズOJIGIするし、日本特撮っぽい妙ちきりんな服装してるし。

 

 

それともう1作品「鷲は舞いおりた」も見ました。「大脱走」「荒野の七人」のスタージェス監督のナチ映画(違う)。

ダーティ・ダズン要素もありつつ立場的に逆「ハイドリヒを撃て」(というか「ハイドリヒを撃て」が逆「鷲は舞いおりた」ですが)でした。

そういうわけで「ハイドリヒを撃て」と合わせて見ると「コンタクト」的な二元論な割り切りができなくなって面白いかもです。

しかしナチスの制服ってやっぱりかっこいいなぁ。

 

 

 

 

試写の会

というわけで豊洲に試写会に行ってきました。

日本では宮崎吾朗が声優監修にあたった「西遊記 ヒーローイズバック」ですが、まあ試写会でもなければ見に行かない映画ではありましたので、良かったといえば良かったのだろうか。

 

えー本編の感想の前にせっかくなので本編が始まる前のゲスト登壇について触れておきますか。「クボ」でもありましたが、今回の「西遊記~」の登壇ゲストは本作の主役であるリュウアの声優を務めた羽村仁成くんと馬鹿よあなたはの三人でした。わたくしとしてはこの三人よりも司会進行を勤めていた中国人の女性(名前忘れた)のカタコト日本語紹介とかが一番面白・可愛い感じでしたが。

日本のドラマとか最近はとんと見なくなっていたので羽村くんのことは全く知らず、今回初めて知ったわけですが、あまり人前で話すのは得意ではなさそうで年相応の可愛げがありました。芦田プロや心くんにはないものですが、彼らがどれだけ立ち振る舞いのしっかりした子どもだったのかということを改めて思い知った気がします。それでもしっかりと声は張ろうとしていて、なんというか父性な目で見ていましたです。馬鹿よあなたはの二人に関しては、まあこの二人が採用された理由はまったく不明だったのですが、うまく羽村くんをサポートしつつ捌いていました。全体的に滑ってはいましたが、あれは客層の問題もありそうですな(そもそも映画見に来てるのであってお笑いを見に来ている層とは一致しないでしょうから)。新ネタ(といっても既存フォーマットの台詞コンバートっぽい感じでしたが)も披露してくれていましたが、やや滑りといったところでした。やっぱりテレビの編集って偉大なのだなぁと、どうでもいいことを思った次第です。

 

さて、本編はどうだったのか。

なんとも言い難い、というのが正直なところ。

まずストーリーの部分が奇妙。製作陣は孫悟空の成長譚として描こうとしているのはプロダクションノートや部分部分の演出からも明らかなのですが、それに反して物語の進行のさせかたは感情をリニアに繋いではいないように思える。場面場面を取り出せば確かにエモーショナルではあるのですが、それが全体としての流れにはなっておらず、そこが奇妙に感じるというのはある。途中の日本版挿入歌が流れるシーンなんかが顕著なのですが、シーンの繋ぎが「え、そこで暗転すんの?」「え、そこを省くの?」「お前ずっといなかったのになんでここにいるんだよ?」という部分があって、感情がおいてけぼりを喰らう。まあ、初代TFもそんな感じなので慣れっこではありますが。

だから、理路整然としたものを求めるのであれば、これはダメだと思う。「これがこうなって、これがこうなるから、これがこうなる」というようなものではないから。

大暮維人のように描きたい場面が先にあって、それに付随するように物語を肉付けしていっているのではないかなーと。

ただこれに関しては、もしかすると西遊記の原作が本国ではもっと深く広く知られているがために端折っているという可能性も無きにしも非ず。というのも、プロダクションノートで平然と登場する「九世の輪廻転生」という言葉は、おそらく大半の日本人にはなじみのないものだろうから。まあワンカット入れればそれで説明になるのではないかと思わなくもないところもあったりするのだけれど、人の死を直接的に描かないようにしていた制約かなぁ。

あと世界観に疑問符が。斉天大聖が封印されてから500年後が舞台なわけですが、お風呂場にあるようなアヒルのおもちゃみたいなものが転がっていたりとか、まあギャグ演出としては理解できますが、いいのかそれは。別にキッチリカッチリした世界観を求めているわけではないので、いいんですけど。

 

そんなわけで、精緻なストーリーを期待して観に行くと文句たれパンダさんになります。そもそも、西遊記のタイトルを関していながら三蔵法師沙悟浄は出てきませんからね。もっとも、「西遊記」は邦題だけで原題は「MONKEY KING: HERO IS BACK」なので西遊記ではないのでセーフといえばセーフとも言えるんでしょうが。

 

だがしかし、つまらないのかと言われるとそんなことはない。

基本的にキャラクターは動きっぱなし・テンポが速い・アクションは良いので観ていて飽きるということはないし。肝心の悟空の成長云々というエモーション重視の場面はすごいクリシェ的で退屈ではあったりギャグシークエンスが長かったりという部分はあったりするのですが、それでも上映時間が88分と短いこともあってそこまで苦になりません。

敵キャラ(おそらくは「グレート・ウォール」にたくさん出てきたアレ)の中にメスがいて、それが中盤でベティ・ブープのような人間に化けるのですがボンキュッボンな上に無駄に乳が揺れているなどのHENTAI趣味が現れていたり猪八戒への鼻フックを鼻の内側から描いていたり(「シンプソンズ」でもバーガーの咀嚼を口の内部から描いてましたが、あんな感じ)と、変に凝っている部分も散見できて面白かったです。

シンプソンズっぽいといえば、物語の構造も似ているなーと思っています。というのも、シンプソンズは本筋とは全く関係ないギャグを畳み掛けることが多い(それが後の展開に繋がることはありますが、ほとんど単発で処理)のですが、このギャグを「象徴的なシーン」に置き換えれば「西遊記~」になるからです。

 

で、既述のとおりやっぱりアクションシーンはいいと思います。冒頭のはちょっとわかりづらいというか、絵コンテもうちょっと上手い人にやらせたほうがいいんじゃないかと思ったりはしましたが、全体的に旧来のセルアニメジャパニメーションを3DCGに再解釈したらこんな感じだろう(効果線がモロに出てたり)という気がします。それはディズニーピクサーを筆頭とする欧米のCGアニメのソレとは違うものであるので、同じ3DCGアニメでも結構な差異はありますし「中国だし劣化コピーじゃね」と侮ってかかるのはちょっと違うかなと。「モンスターホテル」なんかは割と旧来のアニメ的な描写はありましたけど、あれはトゥーンアニメっぽさだし。

 ただまあ、そのアクションシーンというのもぶっちゃけ、特定分野のーー主にジャパニメーション(特にドラゴンボールを筆頭にジャンプ漫画的なもの)とゲーム(ラストの崖のところとかは「ワンダと巨像」っぽいなーとか「モンハン」ぽいなーとか)ーー引用と孫引きで構成されている、よく言えばリスペクト(?)されたパロディと言えるのでしょうが、おそらくは意識的にパロディにしているというわけではないのでしょう。だって画面からは大真面目にやってることが伝わって来るんだもの。これをまあ「東洋美学」と言えばプロダクションノートの下記のとおりになるわけですな。

「大鬧天宮」の部分では、アクションをより誇張的で極端でメリハリのあるものにするため、大げさな遠近法を利用し、二次元漫画のように仕立て上げている。悟空が桃を投げるシーンなどは特にそうである。カメラ前に振りかぶってきた手は、突然巨大になったかのような感覚をもたらす。広角的に見える手は巨大すぎて3次元遠近法には適合しないが、人々のイメージ映像には合致しており、アクションをよりかっこよくヒーローらしく表現することができ、「伝説の孫悟空」という誇張的なストーリーを表すのにも向いている。このようなショットはディズニーやハリウッドなど西洋のアニメでは殆ど用いられておらず、そこからは東洋美学と欧米美学の差異も見えてくる。特にアクション映画は顕著であり、ツイ・ハークジョン・ウーなど実写映画の監督たちも実際の撮影において「東洋の暴力的美学」を運用している。「東洋暴力的美学」とは、つまり「侠」のことであり、それは往々にして誇張的且つ超常的である。アクションがより力強く、天に昇ったかと思えば地に潜り、近くにいたかと思えば遠くに行っているようなイメージで、その力強さをうまく用いることによって、視覚的なインパクトが出せる。特に悟空の場合、このような意匠が彼をより自由で奔放にし、通常のショットでは困難なアツい戦いを実現させている。ショットで動的要素を導入したほか、武術のモーションについても、ブルース・リー作品、ユエン・ウーピン作品、映画『マトリックス』などを参考に、悟空のイメージによりふわさしい個性的な型を作りあげた。例えば、五行山の洞穴でのアクションシーンにおいて、鎖で手を封じられた悟空のアクションをより力強く精彩に表現するために、我々はある詩的な振り付けを設計した。その動きは「トーマス旋回」を変形させたもので、動力学に適合できない部分もあるが、とても綺麗で格好よく、悟空の「サル」らしい個性を引き出している。

確かにモロマトリックスな部分があって「今時マトリックスかよ!」とか「そもそもマトリックスのアクションがジャパニメーション的な表現をライブアクヨンに置換した(それゆえにエポックメイキングだった)ものでは?」とか思ったわけですが、セルアニメ⇒実写ときてCGアニメに回帰するというのは先祖返りのようで面白くもある。如意棒使って斬撃飛ばしたときはちょっと笑いましたが、この斬撃飛ばしからの風景をえぐるという描写もジャンプ的(BLEACHの最後の月牙・ナルトのスサノオ(こっちはアニメのほうではなくゲームの方に似てるかな))だったり、あまりにてらいなくやるもんなんで驚きました。

 

なんだかおかしな映画ですが、CGアニメの別の方向性(といってもゲームに指向性が似ている気もします)を見れますしアクションは結構良いので、年始で暇な人は見てもいいかも。

 

 

英製マイケル・ベイ

というほど支離滅裂だったりごちゃごちゃしているわけではないんですが、露悪的サービス精神とか「派手にいこうZE!」なノリが結構似ているような気がするのはわたしだけでしょうか。アメリカという国を批判するような内容を盛り込んでいたり(ペイン&ゲインでは自覚的であったことが浮き彫りになりましたが)

直前に観た「ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります」の記憶が吹っ飛ぶような(は過言だすが)痛快アクションでした。マシュー・ボーンの「キングスマン ゴールデンサークル」

 元々「キングスマン」は2015年映画で一番好きなスパイ映画(スペクター、ローグネイション、コードネームアンクルなどスパイ映画が豊富だった中で)で、ジャンルに絞らなくてもかなり好きな映画ではあったんですが、「キックアス」を見直してから今回の「ゴールデンサークル」を観ると素直に楽しみきれなかったりした。素直に楽しめなかったというよりは「別にいいんだけど、それでいいのか?」という意識的に無視して映画に身を任せれば気にならないようなレベルでありながら、唾棄したいわけでもないんだけど気になるというか。臭気を残すゼメキスとでも言えばいいのでしょうか。

とはいえ、この「素直に楽しめない自分」は難儀なやつなので所詮はマイノリティなレポートもといレビューではあるでしょう。熱狂具合を見ると。

 

その気になる部分はともかく、やはり映画としては抜群に面白い。 

まず冒頭のカーアクション。およそ3年越しの観客からしたら「誰だっけお前」とツッコミたくなるような敵のリベンジから始まり、そこから一気に車内戦闘+カーチェイスへと持っていく。この冒頭の掴みは「ベイビードライバー」のように音楽に合わせており、公式で推しているハッシュタグの「秒でアがる」というのに嘘偽りはない。

まあ、車内アクションは結構忙しなく、このシーンはカット割るわアクションカッティングでアングル変えて繋ぐわで分かりにくい部分がないといったら嘘になるけれど。分かりにくいといっても分からないというわけではなく、ましてベイのように訳わかめになるということでもない(TFなんて1カットの中で何がなんだか分らなくなるし)ので、下手に見やすくするというよりはテンション優先にしたのでは。車内戦闘であれば「アトミックブロンド」「デッドプール」の方がスマートで見やすくはありますが、冒頭の掴みとしてテンションを上げるには変に凝ってもらうよりは良いかもです。そういうウェルメイドな映画ではないですし。

ただ、マリカーも真っ青な超長い俯瞰のドリフトシーンが見れたので細かいことは目を瞑ることにしました。なぜかよくわからないのですが、あのドリフトシーンがやけに好きなのです。

「アトミック~」と書いておきながらアレですが、「キングスマン」に関してはそのアクションの方向性はむしろザックスナイダーの方に近い。近いといっても、ザックは「コミックの絵をライブアクションに置き換える」という指向であるのに対しマシューは「ライブアクションをコミカライズする」といったアプローチであるのでさらに分化しているわけで、この辺は個人の好みによるところが大きいでしょう。

日本で「キングスマン」が特に受けているのは、そういったアクションを含めた作風が全体的に「コミカル」であるからなのではないでしょうか。

 

まーぶっちゃけお話自体は前作とほとんどやってることは同じというか、敵キャラが違うだけで流れはまんまなのですが、新たなガジェットや組織というだけでわたしは脳汁が出ましたです。

今回の新ガジェットで言えば鞄を展開して盾にするのとか、あとは粘膜に発信機を付けるという、あのシーンをやりたいがための指サック(意味深)も潔くて笑えます。

今回の敵組織はサブタイトルにもある「ゴールデン・サークル」なわけですが、これはもちろん南北戦争時の秘密結社の名前から取られているわけですが、南部奴隷支持派の組織でkkkの前身であったという説もあることから、トランプの当選によりにわかに息を吹き返し始めたkkkに対応させていたりするのでしょう。というのは深読みかもしれませんが、今作のアメリカ政府の描き方や麻薬の扱い方などを見るとやはりアメリカに対する嫌味のようなものは受け取ってしまう。

まさかアナルファックから始まった恋が続編で純愛にハッテンしているとは思いませんでしたが、キャラを使い捨てていないという部分で好感を持つべきなのか殿下の股下のユルさに笑うべきなのか、サウスにおけるカナダ的な扱いなのかとか、殿下のハッパシーンとか見てると考えてしまう。

そういった露悪的な笑いどころはたくさんあるんですが、なんといってもアクションでしょう。アクションに継ぐアクションで(お話を犠牲にして)テンポよく進んでいきますし洒落たトランジッションでシーンを繋いだりと随所に工夫が見られて、やっぱり観ていて楽しい。

白眉はやはりラスト(敵の本拠に攻め入るというところを含めるかどうかはありますが)の緩急のついた一連のワンカットアクションでしょう。「アシュラ」のカーチェイスを見ていても思ったことですが、これって撮影とかどうなっているのかわからないくらいシームレスでビビります。ミンチのオチに持っていくために位置関係も考慮しながらアクションを見せなきゃいけないわけで、それだけでもかなり大変なことだと思うのですが、「バババッピタッバババ」と擬音で表現したくなるジェットコースターアクションはともかく楽しい。

これだけで「あー楽しかった」と満足して帰ることができる。

 

というわけではない。

前述のとおりいろいろなところに「それでいいのか」と思う部分があります。

まず脚本。曲りなりにもスパイ組織なのだから、車内に残ってる敵の部品(しかもかなり大きい)くらいは処理するとかないんでせうか。「最後のジェダイ」でファンがぷんすかしてた理由がわかった。ていうか、それ以上に「スパイ組織」なんだから尚更間抜けに見えちゃうんですよねぇ。

あと前作と同じ「味方の中に敵がいる」というのも、もうちょっとひねりを加えて欲しいところですし、その獅子身中の虫の扱い方が雑(そもそも、どうやって彼が敵だったのか気づいた理由ってはっきり明示されてましたっけ・・・?もしかすると自分が見落としただけかもしれませんが)。

これに関連して、全体的に主要キャラクター以外(主要キャラでさえ)の扱いが雑。なだけならまだしも、切り捨て方があまりに無頓着すぎる。

だから「仲間の犠牲」なんていう重要なイベントを考えなしに2回も1作品の中で披露できちゃうんだよ(しかも2回目のほうはなくても全く問題ないという)。エグジーくん、ロキシーと親友と愛犬が殺された直後は「許すマジ」みたいな顔してましたけど、その後のシーンでは割と余裕かましてましたよね。愛犬にいたっては同じ犬種ならそれでいいのかよっていうね。犬の扱いに関しては「ジョン・ウィック」を見習って欲しいですな。

ともかく「キックアス」の時点で「敵を殺す」ということへの無頓着さが出ていたりはしましたが、まさか「味方の死」まで体のいい踏み台にするとは思わなんだ。いやほんと、話の流れとしてはキャラクターのエモーションが沸き立つはずなのに、肝心のそのキャラクターのエモーションの描写がなさすぎて形骸化してるんですわ。

あのですね「人がゴミのようだ」という描き方はありますよ。北野映画なんてまさにそれですし、それゆえの楽しさもあります。しかしマシュー・ヴォーンの作品は大概がそのあたりちぐはぐになってしまっているせいで気持ち悪いんですよね。

この辺はマイケル・ベイのほうが上手ですな。というか、ベイは結構たけし寄りだと思いますし、エロとかキスとかの演出はもはや悪意でやっている節がありますから、無頓着なヴォーンとは違う。

あと散々射殺しておいてメインの敵を殺すときだけは「紳士に反するが」ってちょっと。美味しい場面のときだけダブスタ発動はいかんでしょうよ。「マーリンを殺したから」っていうのを根拠にしていますけど、その前に散々殺してるよね君。それともあれですか、実はあそこで倒した敵は全員生きてるんですか。

ていうかマーリン死ぬ必要まったくなかったよね? 思わせぶりに実戦投入してその展開って、あれですか。次回作に向けて少しでも制作費を削るためにメインキャスト殺しておこうって算段か。という邪推をしたくもなる。

 その割には、やっぱり物語上必要のないコリン・ファースを再登場させてチャニング・テイタムは本当に顔見せだけという有様。アメリカに対するあてつけだとしても、それはさすがに・・・ていうか本当にあてつけだった引きますけど。

いや本当、コリン・ファースじゃなくてテイタムとタッグ組ませれば良かったでしょうよ。

 

そもそもそういう部分に無頓着なのでしょう。

 「ファーストジェネレーション」はそういうのあまり気にならなかったんですが(見返してないからもしかすると、ということはありえますが)、あれはある程度の流れが決まっていたり原作のパワーが監督をある程度抑えたから優れた演出が際立ったのかなぁ。

 

そんなわけで「滅茶苦茶おもしろいのに結構モヤモヤする」映画でした。

 

 

あと録画してた「めめめのくらげ」「ファントム」という映画を見ました。

「めめめ~」は西村喜廣の仕事とCGらへんは評価してあげていいと思う。それ以外はほんとうになんていうか、いたたまれなくなるんで。窪田くんとか染谷くんとか、なんで君らこんな映画のこんな役で出てるん?って思わず画面にツッコミ入れたくなりました。

「ファントム」はなんというか、自主制作ならかなり見ごたえある映画といった感じ。

 

 

○○で見た

という経験が多々ある。

遠すぎた橋」を観て「この映画ってかなりサンプリングされてんじゃないの」と思わず笑ってしまった。

パッと見ただけでわかったのはエヴァが丸々同じアングルでビークルを並べてたりとか、ほかにも明らかにこれ引用元だろうと思うようなシーンがあったり。まあ、「遠すぎた橋」がオリジナルなのかさらにそのオリジナルがあるのかまではわかりませんが。

ほかにも既視感があったのは「プライベート・ライアン」の市街戦だったり、あるいは舞台は違えどmgs4やpwなんかでも似たような感じだったり、市民の協力を得るという部分では「ハイドリヒを撃て」なんかにも通じる部分があると思う。

まあ同じ戦争を舞台にしていればそりゃかぶる部分はあるんでしょうが。

 

で、こうやって最近(といっても20~30年だけど)の戦争映画を見てみると、どうも戦争というものに対して個人というものの比重が大きくなっているような気がする。

思えば、9.11以降の戦争の在り方もかなり変わってきている。大国同士のパワーゲームはもはや現代ではほとんどありえない。多分、現象としての戦争はもはや現役世代にとって現実的じゃないのだろうと思う。

むしろ、争いは思想に基づいた個人個人の恒久的で散発的なもの=テロといったものへと変貌を遂げているのではないか。こちらのほうがタチが悪いといえばタチが悪い。

そんな中で、もはや映画監督たちは戦争における個人というものを無視できなくなっているのではなかろうか。戦争というものを再定義、とまではいかずとも捉え直してみるという趨勢があるのではないか。

「ハクソーリッジ」にしたって「この世界の片隅に」にしたって前述した映画にしたってそうだ。ただ、スピルバーグとかイーストウッドはなんというか、このリリカルに押し込めきれない奇妙な感じがあるんだけれど。