「二十四時間の情事」を観ていて思ったのは、戦争というものは実のところ極めて個人的な体験でしか語りえないのではないか、ということである。
冒頭の10分ほどがほとんど原爆関連の資料映像らしきものが延々と映し出され(合間に情事のカットが挟まれたりはするし、その肌がケロイドっぽいというか、まあそういう表現であったりする)、その忌まわしい記憶の忘却について副音声的に男女が語らう声が流れる。ちなみに、原題は「HIROSHIMA MON AMOUR」ってことで(直訳すると「広島、私の愛」だろうか)、公開された時代と合わせて考えれば、まあ言わずもがななわけで。
この男女は直接的にせよ間接的にせよ戦争によって家族あるいは愛する人を亡くしてしまっていて、それに関する過去の話が掘り下げられていく。
細かい演出とか意図はある程度わかるのだけれど、なんというか、戦争・男・女というものが交わることなく平行線のままそれぞれにフォークソングを歌っているだけのようにしか思えないんですよね。だからというわけではないんだけれど、率直に言って退屈な映画ではあると思う。
ただ、この映画を観ていて思ったことに、どれだけ「戦争」を体験した人間であろうと、それを「戦争」という事象として語ることは不可能なのではないかということだ。むしろ、体験しているからこそ、というべきだろうか。
戦争経験者として20世紀を生きたクリエイターたちは、その「戦争」というものの影を絶えず描いてきたと自分的に大林宣彦の論を解釈しているのですが、それほどに大きな出来事だったわけだ。それ自体は否定のしようもないし否定するつもりもない。のですが、それゆに「戦争」というものをそのまま客観的に捉えることが極めて難しくなっており、それがこの映画のちぐはぐさに通底しているのではないかと思う。
そもそも、何かを客観的に捉えることがそれこそ数学の分野なわけで(それですら絶対的な立場というものがない)、それこそ黒沢清のホラー的に「戦争」を語るべきなのではないだろうか。
戦争を知らない世代の人間が戦争を撮る余地が、実はここにあるのだろうとこの映画を観ていて思った。
これまで「戦争」を描いてきた映画は、叙情的であったわけだ。しかし、それでは戦争の悲惨さを伝えることはできてもそれそのものを理解することには繋がらないはずだ。
「あこがれは理解から最も遠いい感情だよ」とヨンさまも申しておられましたが、つまりはそういうことなわけですな。
あと忘却に関してはカズオ・イシグロの話がかなり的を射ていると思いますですな。
あと「スコット・ピルグリムVS邪悪な元カレ軍団」も観ました。
エドガー・ライトでは一番好きな映画。
コミックのライブアクション映画化という方向性では、ザックのような方向性やマシューのような方向性など色々あるわけですが、こちらはてらいがなくそのままの表現していて笑うしかない。コメディだから許されているんだけど。
話的には過去に向き合い他者を理解し、先に進むといった感じ。
テンポよし、笑いよしで観ていて純粋に楽しい映画。あとアクションが上手いっていうか、明らかに演者にやらせているのがまるわかりなへっぴり腰なアクションからシームレスでガチアクションに移行しているアレってどうやって撮影してるんだろうか。
まあ「バードマン」観た今、そんでもって「ベイビードライバー」で同じようなことをしていたのでデジタル撮影でどうとでもなるのかもしれないけれど。