dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

「アメリカン・ユートピア」の試写会

私は基本的にジャンル問わず応募できて都合がつく日程の場合は応募するのですが、当選してから「これ何の映画だっけ?」となることがままある。

なので、割と予備知識が必要そうなものにバッティングしてしまい困ることもあったようななかったような気もするのですが、今回もそういう感じなんじゃないかと、少し戦々恐々としていました。観るまでは。だってトーキングヘッズもデイビッドバーンも演劇も、何ならライブだってまともに知らないのに、ライブ映画を観て何か感じとることができるのだろえか、と。

 

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杞憂に過ぎた。この「アメリカン・ユートピア」は間違いなく今年ベスト級の映画。この映画に対して、私の懸念などは(それが己の無知に起因しているとはいえ)この映画の持つ舌鋒鋭い切れ味と躍動を体感した今となっては、そんな不安を抱くこと自体が非礼もいいところだった。

そう思えるほど、この映画はすんばらしかった。 

シネクイントで観るのは初めてだったのですが、箱のサイズ自体は大きくなくてスクリーンもシネコンとは比べるべくもないのだけれど、しかし今回の試写会上映に際して音響セッティングには爆音上映でおなじみの樋口さんが関わっているらしく、彼が関わったおかげで間違いなく普通の上映で観るよりも映画を「体感」することができた。紋切型な表現ではあるけれど、それは確かだからだ仕方ない。

少なくとも音響の具合(純粋な音の大きさだけではなく)はIMAXのそれで感じるように、丹田と心臓を物理的に揺さぶられる素晴らしいものでした。映画が放つビートによって自分の心臓が打ち震えさせるこの感じは、普通に観るだけでは、まして家で配信で観るようなもったいない観賞形式では味わうことはできますまい。

何年か前のトークイベントで廣瀬さんも言っていた気がするけれど、樋口さんは音によって映画の放つ「何か」を伝えようとしている。爆音上映に取り組むのもそのためである。

無学かつ寡聞な私はそれが何かはわからないけれど、少なくともこの映画を此度の試写会で観れたことは僥倖だった。それは間違いない。

 

この映画、というかこのライブは「運動」そのものと言える。パフォーマーの身体(と一体化・解放された楽器)の動作、それらの連動、その身体動作およびその連なりによって奏でられる音楽そのもの、観客の歓声まで含めて、これは「運動」の快楽の映画。

無論、ただ単にライブを切り取っただけではもちろんない。なぜならスパイク・リーが監督しているのだから。彼がただライブを漫然と撮るはずもない。私はこの手の映画を観たことはないので断言することはできないけれど、ライブはライブであるがゆえに、それを収めた映像を映画と言い張ったところでドキュメンタリー映画や劇映画のように時系列を弄ることはできない。(もっとも、後述するけれどスパイク・リーはある一点において現実との時系列を反転させ、それをもって彼の映画が持つ凄まじい切れ味を披露してくれるわけなのだけれど)。逆説的な見方かもしれないけれど、それはちょうど、保坂和志が小説を書くにあたって回想を悪手と認識していることにも通じる気がする。

しかし、だからこそ「ライブ」なのであって。だからこそ、この「運動」(だけと言ってもいいのではないか)によって駆動するライブを映画化することによる運動の相乗効果が立ち現れてきているように思える。

つまり、このライブ映画においてはカットを割ることは必然、ほぼそのすべてがアクションカッティングになるということ。なぜならライブのパフォーマンスは「いま、ここ」の時間しか存在することを許されず、そのすべてが動作(アクション)たりえるから。流れる時間をそのまま繋がざるを得ない以上、それは避けようのないことなのだろう。けれど、だからこそライブという、運動する時間を阻害することなく、むしろその時間をいくつかのカメラによって、幾人ものパフォーマーの身体によって多重化させ、それが音楽というインターフェースとなり、オーディエンスごと巻き取り繋がっていく。

そういう運動の快楽がこの映画の主たる部分であると思うのだけれど、曲の合間に紡がれる、しかし決して単なるつなぎではないデイヴィット・バーンの語りはそれ自体が運動を呼び掛けるものであり(それは投票を呼び掛けるものであったり、疑義を呈することから人間を問い直し考えさせる呼びかけだったりする)、その呼びかけそれ自体が運動でもある。だから、ひとえに運動といっても多様な形態があり、そこには政治的な「運動」としての意味合いがすでにからして含まれているのだと、観終わった今になってわかる。

そして、だからこそ終盤の「Hell You Talmbout」に、そのパフォーマンスの最中にインサートされる、ライブとは異なる「時間」に、しかし同時にライブの時間と並行されながら現出するその「時間」のエッジに、私はやられてしまった。気づけば泣いてしまっていました。

その時間とは、観ればわかるのだけれど、すなわち停止してしまった時間たちに他ならない。Liveという進行し続ける一直線の時間の中に、別なる時間を並置させること、その異化・相対化効果によってスパイク・リーはその無言のうちに鋭利な舌鋒を饒舌に披露して見せる。これは「ブラック・クランズマン」におけるラストシーンと同様の、現実と地続きにあることを示している。

そしてここにこそ連綿と一直線に進んできた時間の逆転が存在する。それはジョージ・フロイドの名前だ。

「Hell You Talmbout」の曲中に出てくる人たちの名前は、このライブの「時間」においては過去においてレイシズムの犠牲となった人たちの名前だが、ジョージ・フロイドの「時間=死」だけはライブの「時間」よりも未来における出来事としてある。

その時間の倒錯、赤い文字で示される数多の「時間」たち。その強烈な主張、スパイク・リーの湛えた怒りがもたらす政治的主張としての運動とデイヴィッド・バーンたちの織りなす(しかし湯浅学のいうように統率が取れているとかそういうのではなく、各々はむしろバラバラであり、なればこそ多様さの賛歌たりうるのだ)運動のハモりが観客に、少なくとも私には突き刺さった。

 

そしてまたエンドクレジットにいたるまで運動し続けるこの映画の心地よさに、その人間賛歌にどうして勇気づけられずにいられるだろうか。

んが、パフォーマーの中にアジア人がいない、というのはもしかすると気になる人もいるかもしれない。それはこの映画の広報戦略としての「多様性のアピール」に先回りさせされていることの弊害であるかもしれない。けれど案ずることはない。しっかりとスパイク・リーは客席にカメラを向けている。その時間は微々たるものだけれど、しかしその数少ない微々たる時間の大半をアジア人の観客の顔が占めていることを考えるならばその意図を類推することも難しくない。

キャストが舞台から降り、壇下で、観客と同じ場所に降りたった後に幕が閉じる。それはすなわちパフォーマーと観客の彼我を取り払うということ。だから、パフォーマーの中にアジア人がいなくとも、彼らの(というか私たちの)存在が忘却されているということではない。もちろん、パフォーマーの中にアジア人がいないことに気づいてスパイク・リーが苦肉の策としてそうした可能性だって否定はできないけれど。

しかし観客もひっくるめての運動たるこの映画を観た後で、そのように矮小化することはやはりナンセンスだと思う。

 

とにもかくにも傑作なこの映画、ぜひIMAXなり爆音上映なりを大手のシネコンでもやって欲しいものである。