dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

☆☆☆☆☆

やってることがGTAで手配度5にして逃げるというプレイングそのまんまなんですが。

久々に観た映画がなぜか「アンビュランス」という、アカデミー賞でもないんでもないどころかシネフィルには嫌われがちなベイ映画なのは自分でも謎。まあ自分のような人間にはこれくらいの大雑把さがお似合いなのだが、「ドライブ・マイ・カー」が三時間あると聞いて及び腰になっていたくせに「アンビュランス」も2時間半あるという罠。
というかベイ映画は基本それくらいのランニングタイムになるわけで、久々に劇場で時間を確認してしまいましたよ。途中で睡魔とも格闘してましたし。
なんて書くと「やっぱり駄作か」などと思われる(やっぱり、というあたりが個人的なベイに対する世評の表しなのだが)かもしれないのだが、実を言うと結構楽しんでいたり。

基本的に車を撮るのが上手いマイケル・ベイ(スピルバーグのお墨付き)なので、やっぱりカーチェイスのシーンはかっこいい。うだうだ文句を言っていた「最後の騎士王」にしても改めて観なおすと車のシーンは普通にかっこいいのだ。そう、普通に。

が、そこはやっぱりマイケル・ベイなので、なんかもう色々と過剰というか、これはもはや一種のパラノイアに苛まれているのではないかと思えてしまう。
冒頭から主人公二人のエモい少年時代の映像をバシバシカットカットで繋ぐ異様に速いカット割りは全編を通して続いてくわけですが、この超スピードカットにちょっと噴き出した。前よりは切りまくってなかろうか。

情緒不安定なキャラクター、情緒不安定な話の展開、情緒不安定なカメラワークなどなど、なんかもう映画的ASDというかADHDというか、マイケル・ベイという監督はアンストッパブルなのである。ただひたすらに過剰さを求めており、それはフェティッシュを越えて彼の作品群を通じてマンネリズムと化しているにもかかわらず、ひたすらに止まらない動的さを備えたこの映画は時折何かしらの逸脱を垣間見せる。しかし、それが何かと言われると正直よくわからない。

面白いとか上手いとかそういうのではなく、やばい。この映画に比べればトランスフォーマーシリーズがいかに整えられた舗道を駆け抜けていたことか(悪路だけど)。
トランスフォーマーというと、TFシリーズを見慣れた身からすると「今回爆発少ないな」と思ってしまうくらい、クラッシュシーンは結構あれどベイ映画にしては爆発が薄い。目立ったのはでかいのが一つあるくらいで、これに関してもまあバカバカしくはあるのだけれど「リベンジ」の超規模に比べるとまだ優しいほうで、その代わりに導入されたのがドローン撮影による無意味なスーパーカメラコントロール撮影。あの無駄にダイナミックなカメラワークが一体何を意味しているのか。多分意味などないのだろう。欲望自体は「ダークオブザムーン」「ロストエイジ」における高層ビル上層の表層をやたらと舐めるようにぐりぐり動かすカメラワークからも漏れていたが、今回はそれがハイスピードになっているのである。

バカバカしさも折り紙付き。ジェイク・ジレンホールが彼のキャリア史上でもっともバカに見える、という点においても、あの目の奥底に何かヤバ気な狂気を湛えた彼すらも「おばか」に見せてしまうマイケル・ベイの作劇は一見の価値があるかもしれない。臓器が破裂したのに止血したので大丈夫とか、いやもう色々とバカバカしくて笑っちゃう場面もたくさんあって、とって付けたような冒頭とラストのエモくて退屈なシーンは、おそらくマイケル・ベイにとってもどうでもいいのではないか。だからこそあえて運動を遅延させるスローモーションを使うのではないか。まあ、手癖で流しているというか。

かように、一事が万事、そういった映画としての上手さなどといったものを度外視しているように見える。「撮りたいから撮る」という選択。もちろん、こう見せたいからこのアングルで、というのはあるだろうけれど、マイケル・ベイが選択したカメラアングルやその他もろもろのプロセスは映画そのものの出来栄えに貢献しているかというと、まあ観ての通りである。
しかし、「撮りたいから撮る」という選択は、牽強付会かもしれないがジョン・カーペンターが「ゼイリブ」においてやりきったあの無駄に長い格闘シーンのそれと同じだ。
曰く、
Q.どうしてゼイリブの格闘場面は10分もあるのか?
A.長い喧嘩を撮りたかったし、それをできる肉体を持った役者がいたから。
「やりたかったし、できたから」シンプル・イズ・ザ・ベスト。単なる欲望の発露。思うに、この「アンビュランス」というのは、そのランニングタイムのほぼすべてにおいてこれと同じことが起こっているのではないだろうか。

だからこそ「何か異様なものを見せられている」という感覚に陥るのではないだろうか。そんなもん二時間半も見せつけられたら披露するはそりゃ。
超好意的に解釈するのならば、マイケル・ベイというのは運動の快楽の作家なのかもしれない。いや、快・不快すらどうでもいいのかもしれない。そこにあるのはひたすらな欲望。運動を指向する、あるいは停止を恐怖する欲望。そう思えば、すべてが動的な運動によって構成される機械生命体を主軸に据えた映画であった「トランスフォーマー」シリーズが、少なくとも一定以上の親和性がベイとあったのは間違いないだろうし、私はそこにフェティッシュを見出している人間なので、実はあのシリーズにも復帰してもらいたかったりするのだが、一般観客からもシネフィルからもトランスフォーマーファンからも望まれていないことは知っている。

いつものようにセルフパロディというかオマージュみたいなのは随所にあって、個人的には救急車を緑色に塗装したのはTFのラチェットのカラーリングを意識したのかなーとか(まあこれは逆説的かもだが。車種違うし)思ったり。


まあアカデミー賞作品が席巻している中でこの映画を観に行く人がどれだけいるのか分かりませんが、もし観るのなら体力は温存していくがよし。