Q.なぜいまさらこの作品を・・・?
A.今日見たから
というわけで、一般人は知らないだろうけど趣味で映画を観る人ならば普通は知っているであろう映画監督ラース・フォン・トリアーの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見たでごんす。
当方、これが初トリアーでございます。映画の情報に触れていると割と頻繁にこの名前を見かけるのですが、気が向いた本日になってようやく観賞と相成りました。まあなんとなく気が向いたから、という感覚で観るもんじゃなかったです。
まああれですな、シン・ゴジラのキャッチコピーで使われていた「現実対虚構」というフレーズがそのままぴったし当てはまる映画でした。ていうかシンゴの方はそれっぽいキャッチコピーなだけで、別段本編はそういった題材をテーマにしているわけではないという気もしますが。
似たような映画として吉田大八監督作品に通じる部分があるなーと。つまり、現実に対するカウンターとしての空想・夢想・虚構=映画という構図。ただ、トリアーの方が現実シーンでドキュメンタリー風に撮りつつ空想の場面ではデジタルカメラをばしばし使って色んなアングルから撮りまわす(空想だから何でもアリ)という手法とテーマの一致という意味ではより技巧的であると言えるかも。
本作の主演を務めるビョークは世界的に有名なシンガーソングライターというか音楽家らしいのですが、恥ずかしながら自分は本作を見るまで知りませんでした。でもまあ確かにこの人の歌声がなかったら成り立たんでしょうな、この映画。そりゃー「こんな歌うまい人なら歌で食っていけるでしょ。目が見えない音楽家なんて日本にもいたでしょ、佐村河内とか」とかいう野暮な突っ込みをすることもできるでしょうけれど。
伊藤氏が絶賛していた理由もよくわかる。ただ、わたしは本作が素晴らしい映画でありその理由も重々承知しつつも個人的なイデアから乗り切ることができなかった。というとかなり語弊があるのですが、ビョークが演じるセルマにどうしてもエゴを見出してしまうのである。
才能のない私は思うのです。夢を見ることの力とは、つまりはどこまでもエゴの持つ力であり、夢を持つことができることすら一つの才能であり、それゆえに才能なき私は惨めであるのだと痛感させられるから。
「病気が遺伝することを知っていながら、どうしてあの子を産んだ」
「抱きたかったから」
これがエゴでなくてなんなのか。そしてそのエゴゆえに彼女は悲劇に巻き込まれていくわけですが、エゴの力がなければあのラストには至らなかったのもまた事実でしょう。ある意味で究極のマスターベーションとも言えるような気がします。
ただ、やっぱり、最後の最後に現実で歌いだすラスト。あそこで勇気をもらえないわけはないのです。だってあそこは、夢想が現実に歯牙を食い込ませる場面なのですから。どうしようもない現実に対抗しうる夢としての映画。
それがこの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」なんじゃないかしら、と。
うーん、あとなんかでドグマ95って単語を目にした気がするんですが、地獄愛だったかしら?